安水稔和『久遠(くどう)』(編集工房ノア、2008年10月01日発行)
安水稔和が追いつづけている菅江真澄。「あとがき」に6冊目の「追跡詩集」である、と書いてある。その巻頭の詩が私は好きだ。「三厩で」。全行。
「ここはどこ。」これは不思議な一行である。「ここ」は「三厩」に決まっている。ほかの場所ではない。
いや、そうではない。「ここはどこ。」は夢のなかのことばなのだから、「ここ」は「三厩」ではない。「三厩」以外の場所である。なぜなら、そこが「三厩」であるなら、「ここはどこ。」ということばは成立しないからである。
ほんとうだろうか。私の書いたことは、正しいことを言っているだろうか。
あいまいで、わけのわからない「融合」がある。そして、それはつきつめていっても、どうしようもないものかもしれない。
というのも、この作品自体、安水の体験を語っているか、菅江の体験を安水が想像力のなかで追体験しているのか、明確に区別できないからである。ふたりの存在がはっきり区別できない状態になってしまっている。そんなところまで、安水は菅江を追ってきたのである。区別できないというより、区別することに「意味」はなくなっている、といった方がいいかもしれない。
区別しない方が、安水の世界で遊ぶことができる。つまり、私も(読者)も菅江になることができる。安水は、読者に「菅江になってください」と誘っているのである。
区別しない。この姿勢は、次の4行につよくあらわれている。
どっちなの? 雨が止むのか、雨が降るのか。どちらでもいいのだ。どちらを選んでも、ひとは(読者は)「雨」と出会う。ひとは(読者は)、必ず何かと出会う。そして、その出会いのなかで何か感じる。「何か」そのものを特定することも大切だろうが、そういうものを特定しないことも大切である。同じ「何か」(ここでは「雨」という存在)に出会うことが重要なのである。
でも、そんなことでいいの?
いいのである。
どれだけ「追跡」しても、安水は絶対に菅江そのものにはなれない。また、菅江そのものではないからこそ、「追跡」ということもできるのだ。ここには永遠にたどりつけない何か矛盾したものがある。その矛盾が(いつでも矛盾だけが)、詩なのである。
わからない。わからないからこそ、それを追いつづけることができる。わからないことの「しあわせ」がここにある。そういう「しあわせ」をしっかり持っているというのは、とても気持ちがいい。
*
この詩集は短い詩篇で構成されている。その短さもとても気持ちがいい。だれかを「追跡」するとき、普通は、どうしても、それを追う意識が長くなる。長々しくなる。どれだけ対象に近づいたかを、どうしても語ってしまうからである。私と対象の距離を埋めようとして、ことばが次々につながってくるからである。そして、まがり、うねり、強引になる。
安水は、そういう強引さを避けている。
あれ、菅江と重なったの? 重ならないの? それがよくわからない。わかるのは、安水のことばが、菅江と出会った瞬間にだけ、ぱっと出てきて、消えていくということである。その「ぱっ」の清潔な感じがとてもいい。
安水稔和が追いつづけている菅江真澄。「あとがき」に6冊目の「追跡詩集」である、と書いてある。その巻頭の詩が私は好きだ。「三厩で」。全行。
宿に入り寝入る。
裏の崖が騒がしい。
夜半
豪雨。
木が折れる
床が傾く。
崖が動く
石が鳴る。
水が噴き出す
ここはどこ。
揺れる体
歪む夢。
目覚めると
嘘のように雨が止み。
目覚めるとまた
嘘のように雨が降る。
さあ どこへ
さあ どこまで。
「ここはどこ。」これは不思議な一行である。「ここ」は「三厩」に決まっている。ほかの場所ではない。
いや、そうではない。「ここはどこ。」は夢のなかのことばなのだから、「ここ」は「三厩」ではない。「三厩」以外の場所である。なぜなら、そこが「三厩」であるなら、「ここはどこ。」ということばは成立しないからである。
ほんとうだろうか。私の書いたことは、正しいことを言っているだろうか。
あいまいで、わけのわからない「融合」がある。そして、それはつきつめていっても、どうしようもないものかもしれない。
というのも、この作品自体、安水の体験を語っているか、菅江の体験を安水が想像力のなかで追体験しているのか、明確に区別できないからである。ふたりの存在がはっきり区別できない状態になってしまっている。そんなところまで、安水は菅江を追ってきたのである。区別できないというより、区別することに「意味」はなくなっている、といった方がいいかもしれない。
区別しない方が、安水の世界で遊ぶことができる。つまり、私も(読者)も菅江になることができる。安水は、読者に「菅江になってください」と誘っているのである。
区別しない。この姿勢は、次の4行につよくあらわれている。
目覚めると
嘘のように雨が止み。
目覚めるとまた
嘘のように雨が降る。
どっちなの? 雨が止むのか、雨が降るのか。どちらでもいいのだ。どちらを選んでも、ひとは(読者は)「雨」と出会う。ひとは(読者は)、必ず何かと出会う。そして、その出会いのなかで何か感じる。「何か」そのものを特定することも大切だろうが、そういうものを特定しないことも大切である。同じ「何か」(ここでは「雨」という存在)に出会うことが重要なのである。
でも、そんなことでいいの?
いいのである。
どれだけ「追跡」しても、安水は絶対に菅江そのものにはなれない。また、菅江そのものではないからこそ、「追跡」ということもできるのだ。ここには永遠にたどりつけない何か矛盾したものがある。その矛盾が(いつでも矛盾だけが)、詩なのである。
さあ どこへ
さあ どこまで。
わからない。わからないからこそ、それを追いつづけることができる。わからないことの「しあわせ」がここにある。そういう「しあわせ」をしっかり持っているというのは、とても気持ちがいい。
*
この詩集は短い詩篇で構成されている。その短さもとても気持ちがいい。だれかを「追跡」するとき、普通は、どうしても、それを追う意識が長くなる。長々しくなる。どれだけ対象に近づいたかを、どうしても語ってしまうからである。私と対象の距離を埋めようとして、ことばが次々につながってくるからである。そして、まがり、うねり、強引になる。
安水は、そういう強引さを避けている。
あれ、菅江と重なったの? 重ならないの? それがよくわからない。わかるのは、安水のことばが、菅江と出会った瞬間にだけ、ぱっと出てきて、消えていくということである。その「ぱっ」の清潔な感じがとてもいい。
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