詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

安水稔和『久遠(くどう)

2008-10-29 09:25:02 | 詩集
安水稔和『久遠(くどう)』(編集工房ノア、2008年10月01日発行)

 安水稔和が追いつづけている菅江真澄。「あとがき」に6冊目の「追跡詩集」である、と書いてある。その巻頭の詩が私は好きだ。「三厩で」。全行。

宿に入り寝入る。
裏の崖が騒がしい。
夜半
豪雨。
木が折れる
床が傾く。
崖が動く
石が鳴る。
水が噴き出す
ここはどこ。
揺れる体
歪む夢。
目覚めると
嘘のように雨が止み。
目覚めるとまた
嘘のように雨が降る。
さあ どこへ
さあ どこまで。

 「ここはどこ。」これは不思議な一行である。「ここ」は「三厩」に決まっている。ほかの場所ではない。
 いや、そうではない。「ここはどこ。」は夢のなかのことばなのだから、「ここ」は「三厩」ではない。「三厩」以外の場所である。なぜなら、そこが「三厩」であるなら、「ここはどこ。」ということばは成立しないからである。
 ほんとうだろうか。私の書いたことは、正しいことを言っているだろうか。
 あいまいで、わけのわからない「融合」がある。そして、それはつきつめていっても、どうしようもないものかもしれない。
 というのも、この作品自体、安水の体験を語っているか、菅江の体験を安水が想像力のなかで追体験しているのか、明確に区別できないからである。ふたりの存在がはっきり区別できない状態になってしまっている。そんなところまで、安水は菅江を追ってきたのである。区別できないというより、区別することに「意味」はなくなっている、といった方がいいかもしれない。
 区別しない方が、安水の世界で遊ぶことができる。つまり、私も(読者)も菅江になることができる。安水は、読者に「菅江になってください」と誘っているのである。
 区別しない。この姿勢は、次の4行につよくあらわれている。

目覚めると
嘘のように雨が止み。
目覚めるとまた
嘘のように雨が降る。

 どっちなの? 雨が止むのか、雨が降るのか。どちらでもいいのだ。どちらを選んでも、ひとは(読者は)「雨」と出会う。ひとは(読者は)、必ず何かと出会う。そして、その出会いのなかで何か感じる。「何か」そのものを特定することも大切だろうが、そういうものを特定しないことも大切である。同じ「何か」(ここでは「雨」という存在)に出会うことが重要なのである。
 でも、そんなことでいいの?
 いいのである。
 どれだけ「追跡」しても、安水は絶対に菅江そのものにはなれない。また、菅江そのものではないからこそ、「追跡」ということもできるのだ。ここには永遠にたどりつけない何か矛盾したものがある。その矛盾が(いつでも矛盾だけが)、詩なのである。

さあ どこへ
さあ どこまで。

 わからない。わからないからこそ、それを追いつづけることができる。わからないことの「しあわせ」がここにある。そういう「しあわせ」をしっかり持っているというのは、とても気持ちがいい。



 この詩集は短い詩篇で構成されている。その短さもとても気持ちがいい。だれかを「追跡」するとき、普通は、どうしても、それを追う意識が長くなる。長々しくなる。どれだけ対象に近づいたかを、どうしても語ってしまうからである。私と対象の距離を埋めようとして、ことばが次々につながってくるからである。そして、まがり、うねり、強引になる。
 安水は、そういう強引さを避けている。
 あれ、菅江と重なったの? 重ならないの? それがよくわからない。わかるのは、安水のことばが、菅江と出会った瞬間にだけ、ぱっと出てきて、消えていくということである。その「ぱっ」の清潔な感じがとてもいい。





安水稔和全詩集
安水 稔和
沖積舎

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リッツォス「証言A(1963)」(9)中井久夫訳

2008-10-29 00:50:25 | リッツォス(中井久夫訳)
一心に集中の時   リッツォス(中井久夫訳)

若い衆が浜で砂を移していた。荷馬車に荷を積んでいた。
陽は暑く、汗が滴った。正午を廻った時、皆、衣服を脱いだ。
自分の馬に乗って海に乗り入れた。
燃える陽と彼等の体毛と。金色と黒。
一人が体を撫でて掌が股に来た時叫び声を上げた。
他の連中が駆け寄った。担ぎ上げて、砂に寝かせた。
訳が分からない面持でぼうっと見ていた。
とうとう一人が敬虔に掌を動かした。
彼を囲む円陣を作って立つ皆は十字を切った。
馬は濡れて金色。鼻を鳴らした。馬たちの鼻面は遠く水平線の方角を指していた。



 この詩も最終行に深い余韻がある。
 前半の肉体労働、なかほどの海での解放。そして、事故。突然の死。--つらい労働から解放されて、若い肉体が、若さゆえに無軌道に動く。ほとんど無意識。ほとんど欲望のままに。
 馬の体に(と、私は読んだ)触る。人間(男でも、女でもいい)の体、その強い欲望がうごめく股に触れるように、馬の股に掌を伸ばす。驚いて、馬が若者をけり上げる。そして、唐突な死。
 この詩は、具体的には何も説明しない。「意味」を拒んで、ただ若者たちの動きを描写している。「心理」というものが、まったく説明されていない。ただ肉体の動きがそこにあるだけである。
 仲間が死んだということに対する「悲しみ」も描かれてはいない。「こころ」を描写しようとはしていない。
 この詩人の態度(若者たちの態度)と、馬がとてもよく響きあっている。
 馬は人間の「こころ」など気にしない。(馬は利口だから、ほんとうは気にしているのかもしれないが。)人間の心情とは無関係に、一個の自然になっている。非情な自然、そのものになっている。
 この非情さが、詩を清潔にしている。若者がおこなった無意味ないたずらが遠くへ遠ざけられ、ただそこに「死」がぽつんと浮かび上がる。人間の「こころ」に配慮しない馬は、人間の「死」にはもっと配慮しない。
 一方に金色に輝く「いのち」があり、他方に突然の「死」がある。それは隣り合わせになっている。無関係である。だから、清潔なのである。



樹をみつめて
中井 久夫
みすず書房

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