井坂洋子『続・井坂洋子詩集』(思潮社、2008年09月23日発行)
詩とは何か。簡単に言うと、私は、詩とは散文から乖離したものと考えている。どんなことばも散文を基本としている。つまり、言いたいこと、「意味」を相手に伝えるのが言語の絶対条件であり、ひとに言いたいことを伝えるには、それなりの決まりがある。その決まりの基本が散文である。「事実」があり、「事実」には「事実」にふさわしいことばがあり、そのことばにはことばを動かす順序が決まっている。そういう「決まり」から乖離しているのが詩である。ただし、この「乖離」が詩になるためにはひとつの条件がある。「乖離」の「距離」が常に一定であることである。そして、詩とは、その「乖離」の「距離」のことである。(この定義は、実は散文芸術にもつかえる。「事実」というものがある。その「事実」からどれだけの「距離」を維持して対象を描くか。その「距離」が一定のとき、その散文は芸術に、つまり小説や、評論や、哲学になる。)
--この「距離」を、散文にも、詩にもあてはめるために、文体と言い換えると、すっきりするかもしれない。
あらゆる言語芸術は「文体」であり、文体とは対象との「距離」である。「距離」が一定であるとき、そこに自然と「文体」があらわれる。
井坂の「文体」、つまり「詩」は、対象に「淫しない」という態度にある。これは対象に分け入らない(卑近なことばで言えば、対象のなかに闖入しない、男根を挿入しない)という意味ではない。女性だって、その意識の男根を対象のなかに挿入する人間がいる。それはそれでいいのだ。井坂の場合は、対象に触れ、同時に対象から離れる。対象を十分に知った上で、対象から離れる。「淫しない」というのは、そういう意味である。離れる前に、実際は意識の男根を対象に挿入しているかもしれない。しかし、書くときは、かならず対象から離れる。姦淫したまま対象を描くということがない。その「距離」の具合に、井坂のことばの特徴がある。
「返歌 永訣の朝」という作品がある。『箱入豹』の冒頭の作品である。タイトルからわかるように、この詩は宮沢賢治の「永訣の朝」を踏まえている。宮沢賢治のことばのなかを歩き回って、つまり意識の男根でかきまわし、宮沢賢治を好き放題(?)にあじわい尽くして、宮沢賢治から離れる。
宮沢賢治に淫して、宮沢賢治の乱れるままに、意識の男根の快楽を楽しむという詩もあるだろうけれど、井坂はそういうことはしない。離れる。離れてしまって、宮沢賢治が、されるがままの快楽から落ち着くのを待っている。そして、まるで後技の余韻さえも消し去って、離れ、どんなに淫しても宮沢賢治は宮沢賢治、井坂洋子は井坂洋子である、とはいう「さびしさ」からことばを動かす。
井坂洋子のことばには、淫する快楽の、そのはての「さびしさ」がある。そして、その「さびしさ」が一定の「距離」を持っている。その「さびしさ」のなかに、肉の苦悩がある。
その特徴的なことばは「覚えている」である。
ひとはあらゆるものに淫する。どっぷりとひたる。そのとき、ひとはすべてを忘れる。淫していることさえ、忘れる。忘れるから淫することができる。そして、自分ではなくなる。エクスタシー。自分の外に出てゆく。自分ではなくなる。
ところが、井坂は、そういう淫したことを「覚えている」。そこに「さびしさ」がある。悲しみがある。この悲しみは人間存在への愛しみでもある。人間は淫しながら、そのまま自分の外へと完全に脱出できるとはかぎらない。人間は自分にもどってしまう。外へ出たことは「幻」。そして、そういうことを人間は「覚えている」。意識のことではない。肉体が覚えているのだ。
私の書いていることは、抽象的すぎるかもしれない。
だが、こう考えてもらいたい。井坂の書いたこの6行。その行から「覚えている」をとってしまったらどうなるか。「覚えている」という行がなかったら、井坂は、この詩を書くことができない。そのことばがないと成立しない。そういうことばを私は「キイワード」と呼ぶのだが、井坂のこの作品のキイワードは「覚えている」である。
「覚えている」は2連目にも出てくる。
「覚えていた」「覚えている」。
このことばの特徴は何か。「覚えていた」「覚えている」といわれるもの、つまり「対象」はいまは目の前には存在しないということである。私は、いま、ここに存在する。しかし、私が、いま、ここに存在するとき、同時に、いま、ここに存在し得ないものがある。そこに存在するのは、「距離」である。「距離」だけが存在する。私と、いま、ここにない対象その隔たりだけが存在する。それを知ることは「さびしい」。それを思い出すことは「さびしい」。それを「覚えている」と実感することは「さびしい」。
井坂の詩は、どれも「さびしい」。不思議に「さびしい」。それは単に対象の不在だけを明らかにするからではなく、いま、ここに、私という肉体があることを実感させる「さびしさ」である。肉体の実感があり、対象の不在がある。その瞬間にあらわれてくる「距離」。それが「さびしい」
宮沢賢治の「永訣の朝」あら、いつでも、ここにある、と言えるかもしれない。文庫本もあれば全集もある。宮沢賢治のことばは消えることはない。それでも、それは、いま、ここにはないのだ。「読んだ」という記憶、その「覚えている」のなかに、ある。
宮沢賢治から離れて(覚えている、をしっかり自覚して)ことばを動かす。その「距離」。そのときの「距離」。テキストを前にして、それを読みながらことばを動かすのではないのだ。「覚えている」と言えることだけを手がかりにして、肉体ごと動いていくのである。だから、美しく、「さびしい」。
このただならぬ美しさの前に、私はことばを失う。何を書いていいかわからなくなる。いいなあ、としか言えない。
たぶん、この美しさがただならないものであることは井坂自身自覚している。だから、詩は、そういうものに淫しないように、きちんと「距離」を提示して閉じられる。この冷静沈着(?)なありようが、また、なんとも言えず「さびしい」。美しい。
うーん、嘆かせてよ。
詩とは何か。簡単に言うと、私は、詩とは散文から乖離したものと考えている。どんなことばも散文を基本としている。つまり、言いたいこと、「意味」を相手に伝えるのが言語の絶対条件であり、ひとに言いたいことを伝えるには、それなりの決まりがある。その決まりの基本が散文である。「事実」があり、「事実」には「事実」にふさわしいことばがあり、そのことばにはことばを動かす順序が決まっている。そういう「決まり」から乖離しているのが詩である。ただし、この「乖離」が詩になるためにはひとつの条件がある。「乖離」の「距離」が常に一定であることである。そして、詩とは、その「乖離」の「距離」のことである。(この定義は、実は散文芸術にもつかえる。「事実」というものがある。その「事実」からどれだけの「距離」を維持して対象を描くか。その「距離」が一定のとき、その散文は芸術に、つまり小説や、評論や、哲学になる。)
--この「距離」を、散文にも、詩にもあてはめるために、文体と言い換えると、すっきりするかもしれない。
あらゆる言語芸術は「文体」であり、文体とは対象との「距離」である。「距離」が一定であるとき、そこに自然と「文体」があらわれる。
井坂の「文体」、つまり「詩」は、対象に「淫しない」という態度にある。これは対象に分け入らない(卑近なことばで言えば、対象のなかに闖入しない、男根を挿入しない)という意味ではない。女性だって、その意識の男根を対象のなかに挿入する人間がいる。それはそれでいいのだ。井坂の場合は、対象に触れ、同時に対象から離れる。対象を十分に知った上で、対象から離れる。「淫しない」というのは、そういう意味である。離れる前に、実際は意識の男根を対象に挿入しているかもしれない。しかし、書くときは、かならず対象から離れる。姦淫したまま対象を描くということがない。その「距離」の具合に、井坂のことばの特徴がある。
「返歌 永訣の朝」という作品がある。『箱入豹』の冒頭の作品である。タイトルからわかるように、この詩は宮沢賢治の「永訣の朝」を踏まえている。宮沢賢治のことばのなかを歩き回って、つまり意識の男根でかきまわし、宮沢賢治を好き放題(?)にあじわい尽くして、宮沢賢治から離れる。
宮沢賢治に淫して、宮沢賢治の乱れるままに、意識の男根の快楽を楽しむという詩もあるだろうけれど、井坂はそういうことはしない。離れる。離れてしまって、宮沢賢治が、されるがままの快楽から落ち着くのを待っている。そして、まるで後技の余韻さえも消し去って、離れ、どんなに淫しても宮沢賢治は宮沢賢治、井坂洋子は井坂洋子である、とはいう「さびしさ」からことばを動かす。
井坂洋子のことばには、淫する快楽の、そのはての「さびしさ」がある。そして、その「さびしさ」が一定の「距離」を持っている。その「さびしさ」のなかに、肉の苦悩がある。
その特徴的なことばは「覚えている」である。
その朝
わたしは修羅についた
林の近くの家
ひと口みぞれを飲んだ
ゆきを頼んだ
これは覚えている
ひとはあらゆるものに淫する。どっぷりとひたる。そのとき、ひとはすべてを忘れる。淫していることさえ、忘れる。忘れるから淫することができる。そして、自分ではなくなる。エクスタシー。自分の外に出てゆく。自分ではなくなる。
ところが、井坂は、そういう淫したことを「覚えている」。そこに「さびしさ」がある。悲しみがある。この悲しみは人間存在への愛しみでもある。人間は淫しながら、そのまま自分の外へと完全に脱出できるとはかぎらない。人間は自分にもどってしまう。外へ出たことは「幻」。そして、そういうことを人間は「覚えている」。意識のことではない。肉体が覚えているのだ。
私の書いていることは、抽象的すぎるかもしれない。
だが、こう考えてもらいたい。井坂の書いたこの6行。その行から「覚えている」をとってしまったらどうなるか。「覚えている」という行がなかったら、井坂は、この詩を書くことができない。そのことばがないと成立しない。そういうことばを私は「キイワード」と呼ぶのだが、井坂のこの作品のキイワードは「覚えている」である。
「覚えている」は2連目にも出てくる。
なぜ来たのか
したしいものに会いに
これも覚えている
朝が私を招き入れたのだ
朝のぬけがらがたくさんあって
思いを深く耕した跡
じらじらと乱(らん)を踏みつけるように
人々が
枕もとにいた
「覚えていた」「覚えている」。
このことばの特徴は何か。「覚えていた」「覚えている」といわれるもの、つまり「対象」はいまは目の前には存在しないということである。私は、いま、ここに存在する。しかし、私が、いま、ここに存在するとき、同時に、いま、ここに存在し得ないものがある。そこに存在するのは、「距離」である。「距離」だけが存在する。私と、いま、ここにない対象その隔たりだけが存在する。それを知ることは「さびしい」。それを思い出すことは「さびしい」。それを「覚えている」と実感することは「さびしい」。
井坂の詩は、どれも「さびしい」。不思議に「さびしい」。それは単に対象の不在だけを明らかにするからではなく、いま、ここに、私という肉体があることを実感させる「さびしさ」である。肉体の実感があり、対象の不在がある。その瞬間にあらわれてくる「距離」。それが「さびしい」
宮沢賢治の「永訣の朝」あら、いつでも、ここにある、と言えるかもしれない。文庫本もあれば全集もある。宮沢賢治のことばは消えることはない。それでも、それは、いま、ここにはないのだ。「読んだ」という記憶、その「覚えている」のなかに、ある。
宮沢賢治から離れて(覚えている、をしっかり自覚して)ことばを動かす。その「距離」。そのときの「距離」。テキストを前にして、それを読みながらことばを動かすのではないのだ。「覚えている」と言えることだけを手がかりにして、肉体ごと動いていくのである。だから、美しく、「さびしい」。
顔を両手で覆って
なげく
所作
透んだ林の底から湧き起こってくる
白い鳥の声
このただならぬ美しさの前に、私はことばを失う。何を書いていいかわからなくなる。いいなあ、としか言えない。
たぶん、この美しさがただならないものであることは井坂自身自覚している。だから、詩は、そういうものに淫しないように、きちんと「距離」を提示して閉じられる。この冷静沈着(?)なありようが、また、なんとも言えず「さびしい」。美しい。
睡りはいつしか
わたしに重みを垂れ
穂を垂れて実る一本の祝儀
睡りのなかで示唆を受けた
(しろい山々のしろい山
は
わたしの墓石
しろいだけの形)
みぞれによって土潤い
潤いすぎて
みだらになる
こころの容体がわるくなる
だから けんじゃよ
嘆いてはいけない
うーん、嘆かせてよ。
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