八木幹夫「永遠なんて」、池井昌樹「柄杓」(「歴程」554 、2008年09月30日発行)
八木幹夫「永遠なんて」は「おさなご」の春を描いている。全行。
「おさなご」のなかでことばが不定形であるように、八木のなかでもことばは不定形である。八木のことばは、幼子に誘われるまま、その瞬間瞬間、形をとっている。そのリズムがとてもいい。特に、
このリズムが、なんともいえず気持ちがいい。
「つくしんぼ」が最後にもう一度出てくるところも、とてもいい。
と八木は書いているが、目に浮かぶのは、幼子のやわらかな小指がつくしんぼうになっている姿だ。比喩と現実が入れ替わる。「つくしんぼ」の比喩として「やわらかな小指」があるのではなく、「やわらかな小指」の比喩として「つくしんぼ」があり、その比喩が成立する瞬間、世界が完全に一体化する。
が、光に満ちてあらわれてくる。
*
池井昌樹「柄杓」は、中盤にとても美しい行がある。
「ことことと……」という日常、そのなつかしい風景を起点にして、「こちら」と「あちら」が瞬間的に一体化する。「こちら」と「あちら」はかけはなれているのではなく、「こちら」と「おく」にかわる。「あちら」は同じ家の中にある。戸一枚向こうにある。その世界は「めをとじて」精神を解放すると、くっきりと見えてくる。肉眼では見えないのに「ひしゃくでみずをうけている」その姿がくっきりと見えてくる。
放心するとき、池井の肉眼は精神の目になる。肉体の耳も精神の耳になる。そこでは、あらゆる世界がしずかに溶け合う。
「あちら」がくるのか、「ことら」がゆくのか。
同じことなのだ。
八木幹夫「永遠なんて」は「おさなご」の春を描いている。全行。
春の丘を風のように走りたくて
何度も転ぶ
おさなごよ
言葉もほんのカタコト
しゃべるかどうかだというのに
世界はすべてきみのものだ
つくしんぼ
よもぎ
光る川
次々と
山の方から湧いてくる
白い雲
言葉はまだ
きみの中では
不定形のままだけれどは
つくしんぼはまるで
やわらかな小指
「おさなご」のなかでことばが不定形であるように、八木のなかでもことばは不定形である。八木のことばは、幼子に誘われるまま、その瞬間瞬間、形をとっている。そのリズムがとてもいい。特に、
つくしんぼ
よもぎ
光る川
このリズムが、なんともいえず気持ちがいい。
「つくしんぼ」が最後にもう一度出てくるところも、とてもいい。
つくしんぼはまるで
やわらかな小指
と八木は書いているが、目に浮かぶのは、幼子のやわらかな小指がつくしんぼうになっている姿だ。比喩と現実が入れ替わる。「つくしんぼ」の比喩として「やわらかな小指」があるのではなく、「やわらかな小指」の比喩として「つくしんぼ」があり、その比喩が成立する瞬間、世界が完全に一体化する。
世界はすべてきみのものだ
が、光に満ちてあらわれてくる。
*
池井昌樹「柄杓」は、中盤にとても美しい行がある。
ひさかたぶりに
あちらがたずねてくるので
こちらはあさからおおさわぎだ
このあついのに
ねくたいなんかむすばされ
むすびなおされたりもして
ことこととなをきざむおと
もっとおくでもことことと
だれかがにたきをするおとが
はたとやみ
めをとじて
ひしゃくのみずをうけている
「ことことと……」という日常、そのなつかしい風景を起点にして、「こちら」と「あちら」が瞬間的に一体化する。「こちら」と「あちら」はかけはなれているのではなく、「こちら」と「おく」にかわる。「あちら」は同じ家の中にある。戸一枚向こうにある。その世界は「めをとじて」精神を解放すると、くっきりと見えてくる。肉眼では見えないのに「ひしゃくでみずをうけている」その姿がくっきりと見えてくる。
放心するとき、池井の肉眼は精神の目になる。肉体の耳も精神の耳になる。そこでは、あらゆる世界がしずかに溶け合う。
「あちら」がくるのか、「ことら」がゆくのか。
同じことなのだ。
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