田中庸介『スウィートな群青の夢』(未知谷、2008年10月27日)
田中庸介の詩は、とてもおいしい。おいしいので、どんどんむさぼりたくなる。そのむさぼりたい気持ちをぐっと我慢して、つまり、詩集の三分の一くらいのところまで読み進んで、私はいったんページを閉じた。ふーっ、と一息ついて、この文章を書きはじめている。
田中のことばは、なぜ、おいしんだろう。私はいつでもひとつのことばにつかまってしまう。「正直」。とても正直なのだ。
私はとても見栄っ張りである。見栄っ張りであることを気づかれたくないので、先回りして見栄っ張りであると書いてしまって、自分で逃げ出すくらいの見栄っ張りである。見栄というのは「わざと」ということである。「わざと」書いてしまうのである。「わざと」何かをしてしまうのである。ほんとうはする必要がないことをしてしまう。ようするに「嘘つき」である。
一方、田中には、そういう「嘘」がない。田中の詩の仲間の高岡淳四にも「嘘」がない。「正直」である。たぶん、ふたりは同じような年齢なのだが、突然あらわれた(と、私には感じられる)、時代を超越した「正直」に、私はほんとうにびっくりしてしまう。
「おいしい」と書きはじめたので、食べ物の詩を引用する。「うどん」。思い出しただけで、うどんを食べにドライブインへ行きたくなるが(車がないので行けないのだが)、全部引用してしまうと、きっとうどんをつくって食べたくなってしまうので、ところどころ、部分的に。
「うどんが食べたい」と思った瞬間から、「頭」が「うどん」でいっぱいになる。「うどんの国にはうどん屋が林立している。」田中さん、そんなことはありません。だいたい「うどんの国」なんて、ありません。カレーも、そばも、おむすびもあります。「あらゆる国道はうどんでできている。」田中さん、冗談を言ってはいけません。「国道」がうどんでできていたら、私道はカレーで、路地はおむすびですか? 「うどん車で爆走する。」田中さん、嘘書いちゃ、こまります。「うどん車」なんて、どこがつくっているんですか? トヨタ? 日産? え? 外車なの? それとも不法改造? と、いちいち文句がいいたくなります。ね、そんなに「頭」のなかを「うどん」でいっぱいにして、大丈夫?「ぬるぬるすべる海辺の国道」。わ、危ない。「カーステレオのボリューム一杯に鳴らし」。でも、聞こえるのは「うどんが食べたい」という自分の声だけでしょ?
田中さん、そんなに正直にならないで。もうちょっと、まわりも見てね。運転するときは、気をつけてね。でも、私の声なんか、絶対に届かない。
もう、うどんしか見ていない。いいなあ。この食欲。この欲望。そして、うどんを食べるときの「テーブルマナー」(?)にまで言及してしまう正直さ。そうなんだよなあ。家族連れで食べるときは(子供に食べさせるときには)ちゃんと小鉢に取り分けて、熱さをさましてやらないとなあ……。自分の食欲ではないけれど、そういう他人の食欲にまでこころを配ってしまう正直さ。いいなあ。
いいなあ、このこだわり。この正直。自分がおいしくうどんを食べるだけじゃだめなんですね。田中は、うどんは「正式」に食べなければならないと感じている。ちゃんと「うどん」と発音してから食べないとだめなんですね。
正直もここまでくると、笑うしかないなあ。
でも、ここまで正直になると、まずいうどんなんて、なくなるだろうなあ。食べ物をおいしくするのは、空腹ではなく、正直なんだなあ、と思う。
「おろしうどん」(というのかな? だいこんおろしが入っているんだね。)をすすりながら、「納豆うどん」を考える。いいなあ。好きだなあ。よし、田中が食べられなかった「納豆うどん」を先にくってやるぞ、と変な対抗心まででてきてしまう。正直な人間は、読者を正直にさせる。
「昆布飴の夏」の3連目(起承転結の「転」の部分)。
田中の正直さは、「ただ気持ちがよい」ということを、そのまま「ただ気持ちがよい」と書くところにある。無防備である。無防備に「気持ちがよい」と体現できる。そのままことばにできる。
そこには、生きている人間に対する、深い深い信頼がある。私が感じるのは、その「信頼」の揺るぎなさである。だから、「うどん」の感想で書いたみたいな「ちゃちゃ」をいれたくなってしまう。そんな「ちゃちゃ」くらいでは、田中の人間存在そのものに対する信頼はちっとも揺るがないことはわかっている。わかっているからこそ、それを確かめたくて、「ちゃちゃ」をいれてしまう。「ちゃちゃ」をいれながら、その瞬間、私は田中と友だちなんだと錯覚する。(私は、田中とは面識がない。)そんな錯覚に誘ってくれるくらい、田中の正直は、私を安心させてくれる。
田中庸介の詩は、とてもおいしい。おいしいので、どんどんむさぼりたくなる。そのむさぼりたい気持ちをぐっと我慢して、つまり、詩集の三分の一くらいのところまで読み進んで、私はいったんページを閉じた。ふーっ、と一息ついて、この文章を書きはじめている。
田中のことばは、なぜ、おいしんだろう。私はいつでもひとつのことばにつかまってしまう。「正直」。とても正直なのだ。
私はとても見栄っ張りである。見栄っ張りであることを気づかれたくないので、先回りして見栄っ張りであると書いてしまって、自分で逃げ出すくらいの見栄っ張りである。見栄というのは「わざと」ということである。「わざと」書いてしまうのである。「わざと」何かをしてしまうのである。ほんとうはする必要がないことをしてしまう。ようするに「嘘つき」である。
一方、田中には、そういう「嘘」がない。田中の詩の仲間の高岡淳四にも「嘘」がない。「正直」である。たぶん、ふたりは同じような年齢なのだが、突然あらわれた(と、私には感じられる)、時代を超越した「正直」に、私はほんとうにびっくりしてしまう。
「おいしい」と書きはじめたので、食べ物の詩を引用する。「うどん」。思い出しただけで、うどんを食べにドライブインへ行きたくなるが(車がないので行けないのだが)、全部引用してしまうと、きっとうどんをつくって食べたくなってしまうので、ところどころ、部分的に。
うどんの国にはうどん屋が林立している。
あらゆる国道はうどんでできている。
ぬるぬるすべる海辺の国道をカーステレオのボリューム一杯に鳴らし
うどん車で爆走する。
「うどんが食べたい」と思った瞬間から、「頭」が「うどん」でいっぱいになる。「うどんの国にはうどん屋が林立している。」田中さん、そんなことはありません。だいたい「うどんの国」なんて、ありません。カレーも、そばも、おむすびもあります。「あらゆる国道はうどんでできている。」田中さん、冗談を言ってはいけません。「国道」がうどんでできていたら、私道はカレーで、路地はおむすびですか? 「うどん車で爆走する。」田中さん、嘘書いちゃ、こまります。「うどん車」なんて、どこがつくっているんですか? トヨタ? 日産? え? 外車なの? それとも不法改造? と、いちいち文句がいいたくなります。ね、そんなに「頭」のなかを「うどん」でいっぱいにして、大丈夫?「ぬるぬるすべる海辺の国道」。わ、危ない。「カーステレオのボリューム一杯に鳴らし」。でも、聞こえるのは「うどんが食べたい」という自分の声だけでしょ?
田中さん、そんなに正直にならないで。もうちょっと、まわりも見てね。運転するときは、気をつけてね。でも、私の声なんか、絶対に届かない。
行きずりのうどん客がつどう国道沿いのドライブインには
うどんカウンターから真っ白な湯気があがり
満席のうどんファミリーが小鉢にうどんを取り分けている。
もう、うどんしか見ていない。いいなあ。この食欲。この欲望。そして、うどんを食べるときの「テーブルマナー」(?)にまで言及してしまう正直さ。そうなんだよなあ。家族連れで食べるときは(子供に食べさせるときには)ちゃんと小鉢に取り分けて、熱さをさましてやらないとなあ……。自分の食欲ではないけれど、そういう他人の食欲にまでこころを配ってしまう正直さ。いいなあ。
アメリカ人、ユー・ドン(U-don)と言うよ
ユー・ドンじゃない、うどんです
いいなあ、このこだわり。この正直。自分がおいしくうどんを食べるだけじゃだめなんですね。田中は、うどんは「正式」に食べなければならないと感じている。ちゃんと「うどん」と発音してから食べないとだめなんですね。
正直もここまでくると、笑うしかないなあ。
でも、ここまで正直になると、まずいうどんなんて、なくなるだろうなあ。食べ物をおいしくするのは、空腹ではなく、正直なんだなあ、と思う。
納豆うどんはメニューにない。
しかしテイクアウトして後から混ぜる手がある。
どんぶりに残ったおろし汁をすすりこみ
とんがらしにむせて水を飲む。
このうどん屋は日曜はやっていない。
台風4号が近づいてくる。
「おろしうどん」(というのかな? だいこんおろしが入っているんだね。)をすすりながら、「納豆うどん」を考える。いいなあ。好きだなあ。よし、田中が食べられなかった「納豆うどん」を先にくってやるぞ、と変な対抗心まででてきてしまう。正直な人間は、読者を正直にさせる。
「昆布飴の夏」の3連目(起承転結の「転」の部分)。
岩のあいだをくぐっていくと
南の海が見わたせていた。五月の海はきれいに晴れて、
正面に小さな島が浮かんでいた。草つきの崖から
あたたかい風が上ってきて、ただとても気持ちがよい。
田中の正直さは、「ただ気持ちがよい」ということを、そのまま「ただ気持ちがよい」と書くところにある。無防備である。無防備に「気持ちがよい」と体現できる。そのままことばにできる。
そこには、生きている人間に対する、深い深い信頼がある。私が感じるのは、その「信頼」の揺るぎなさである。だから、「うどん」の感想で書いたみたいな「ちゃちゃ」をいれたくなってしまう。そんな「ちゃちゃ」くらいでは、田中の人間存在そのものに対する信頼はちっとも揺るがないことはわかっている。わかっているからこそ、それを確かめたくて、「ちゃちゃ」をいれてしまう。「ちゃちゃ」をいれながら、その瞬間、私は田中と友だちなんだと錯覚する。(私は、田中とは面識がない。)そんな錯覚に誘ってくれるくらい、田中の正直は、私を安心させてくれる。
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