詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

田中庸介『スウィートな群青の夢』

2008-10-30 11:21:36 | 詩集
田中庸介『スウィートな群青の夢』(未知谷、2008年10月27日)

 田中庸介の詩は、とてもおいしい。おいしいので、どんどんむさぼりたくなる。そのむさぼりたい気持ちをぐっと我慢して、つまり、詩集の三分の一くらいのところまで読み進んで、私はいったんページを閉じた。ふーっ、と一息ついて、この文章を書きはじめている。

 田中のことばは、なぜ、おいしんだろう。私はいつでもひとつのことばにつかまってしまう。「正直」。とても正直なのだ。
 私はとても見栄っ張りである。見栄っ張りであることを気づかれたくないので、先回りして見栄っ張りであると書いてしまって、自分で逃げ出すくらいの見栄っ張りである。見栄というのは「わざと」ということである。「わざと」書いてしまうのである。「わざと」何かをしてしまうのである。ほんとうはする必要がないことをしてしまう。ようするに「嘘つき」である。
 一方、田中には、そういう「嘘」がない。田中の詩の仲間の高岡淳四にも「嘘」がない。「正直」である。たぶん、ふたりは同じような年齢なのだが、突然あらわれた(と、私には感じられる)、時代を超越した「正直」に、私はほんとうにびっくりしてしまう。

 「おいしい」と書きはじめたので、食べ物の詩を引用する。「うどん」。思い出しただけで、うどんを食べにドライブインへ行きたくなるが(車がないので行けないのだが)、全部引用してしまうと、きっとうどんをつくって食べたくなってしまうので、ところどころ、部分的に。

うどんの国にはうどん屋が林立している。
あらゆる国道はうどんでできている。
ぬるぬるすべる海辺の国道をカーステレオのボリューム一杯に鳴らし
うどん車で爆走する。

 「うどんが食べたい」と思った瞬間から、「頭」が「うどん」でいっぱいになる。「うどんの国にはうどん屋が林立している。」田中さん、そんなことはありません。だいたい「うどんの国」なんて、ありません。カレーも、そばも、おむすびもあります。「あらゆる国道はうどんでできている。」田中さん、冗談を言ってはいけません。「国道」がうどんでできていたら、私道はカレーで、路地はおむすびですか? 「うどん車で爆走する。」田中さん、嘘書いちゃ、こまります。「うどん車」なんて、どこがつくっているんですか? トヨタ? 日産? え? 外車なの? それとも不法改造? と、いちいち文句がいいたくなります。ね、そんなに「頭」のなかを「うどん」でいっぱいにして、大丈夫?「ぬるぬるすべる海辺の国道」。わ、危ない。「カーステレオのボリューム一杯に鳴らし」。でも、聞こえるのは「うどんが食べたい」という自分の声だけでしょ?
 田中さん、そんなに正直にならないで。もうちょっと、まわりも見てね。運転するときは、気をつけてね。でも、私の声なんか、絶対に届かない。

行きずりのうどん客がつどう国道沿いのドライブインには
うどんカウンターから真っ白な湯気があがり
満席のうどんファミリーが小鉢にうどんを取り分けている。

 もう、うどんしか見ていない。いいなあ。この食欲。この欲望。そして、うどんを食べるときの「テーブルマナー」(?)にまで言及してしまう正直さ。そうなんだよなあ。家族連れで食べるときは(子供に食べさせるときには)ちゃんと小鉢に取り分けて、熱さをさましてやらないとなあ……。自分の食欲ではないけれど、そういう他人の食欲にまでこころを配ってしまう正直さ。いいなあ。

アメリカ人、ユー・ドン(U-don)と言うよ
ユー・ドンじゃない、うどんです

 いいなあ、このこだわり。この正直。自分がおいしくうどんを食べるだけじゃだめなんですね。田中は、うどんは「正式」に食べなければならないと感じている。ちゃんと「うどん」と発音してから食べないとだめなんですね。
 正直もここまでくると、笑うしかないなあ。
 でも、ここまで正直になると、まずいうどんなんて、なくなるだろうなあ。食べ物をおいしくするのは、空腹ではなく、正直なんだなあ、と思う。

納豆うどんはメニューにない。
しかしテイクアウトして後から混ぜる手がある。
どんぶりに残ったおろし汁をすすりこみ
とんがらしにむせて水を飲む。
このうどん屋は日曜はやっていない。
台風4号が近づいてくる。

 「おろしうどん」(というのかな? だいこんおろしが入っているんだね。)をすすりながら、「納豆うどん」を考える。いいなあ。好きだなあ。よし、田中が食べられなかった「納豆うどん」を先にくってやるぞ、と変な対抗心まででてきてしまう。正直な人間は、読者を正直にさせる。

 「昆布飴の夏」の3連目(起承転結の「転」の部分)。

岩のあいだをくぐっていくと
南の海が見わたせていた。五月の海はきれいに晴れて、
正面に小さな島が浮かんでいた。草つきの崖から
あたたかい風が上ってきて、ただとても気持ちがよい。

 田中の正直さは、「ただ気持ちがよい」ということを、そのまま「ただ気持ちがよい」と書くところにある。無防備である。無防備に「気持ちがよい」と体現できる。そのままことばにできる。
 そこには、生きている人間に対する、深い深い信頼がある。私が感じるのは、その「信頼」の揺るぎなさである。だから、「うどん」の感想で書いたみたいな「ちゃちゃ」をいれたくなってしまう。そんな「ちゃちゃ」くらいでは、田中の人間存在そのものに対する信頼はちっとも揺るがないことはわかっている。わかっているからこそ、それを確かめたくて、「ちゃちゃ」をいれてしまう。「ちゃちゃ」をいれながら、その瞬間、私は田中と友だちなんだと錯覚する。(私は、田中とは面識がない。)そんな錯覚に誘ってくれるくらい、田中の正直は、私を安心させてくれる。




スウィートな群青の夢
田中 庸介
未知谷

このアイテムの詳細を見る
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

リッツォス「証言A(1963)」(10)中井久夫訳

2008-10-30 00:06:55 | リッツォス(中井久夫訳)
ほとんど手品師   リッツォス(中井久夫訳)

彼は遠くからランプの光を弱くする。椅子を動かす。
触らずに。彼は疲れる。帽子を脱いで、それで自分を扇ぐ。
次に秘密を打ち明けるしぐさで耳の脇からトランプを三枚出す。
痛み止めの緑の錠剤をコップの水に溶かす。銀の匙で混ぜる。
水と匙を飲む。彼は透明になる。
彼の胸の中に金魚が一尾泳いでいる。見える。
そして消耗してソファに倚りかかって眼を閉じる。
「私の頭の中に鳥が一羽いる」と彼はいう。「私は取り出せない」。
巨大な二枚の羽の影が部屋一杯に広がる。



 どの詩でもそうだが、リッツォスの詩は不親切な詩ということができるかもしれない。背景が説明されないからだ。この詩でも「彼」がどういう人間であるか、何を考えているかは、何も説明されない。
 こういうとき、どうすればいいのか。どう読めばいいのか。
 私は「意味」を放棄する。「意味」を求めない。そして、ただ、そこに描かれているままの情景を思い描く。
 痛み止めの薬を飲み、胸に金魚を泳がせ、頭にの中には鳥がいる--という人間を思い浮かべる。不思議なことに、私には、その人間が見える。そして、あ、これはリッツォス自身なのではないか、と思う。自画像なのだ。
 「頭の中の鳥」は、リッツォスが描こうとしている詩である。翼をもったことばである。それが取り出せずに苦労している。苦悩している。詩にならないのだ。「痛み止め」「緑の錠剤」「コップ」「匙」「金魚」いろいろなものが存在する。ほんとうは、「頭の中の鳥」こそを存在させたいのだが、それは頭の中に存在しつづける。--その悲しみを、その苦悩を、リッツォスはそのままことばにする。
 そのとき、

巨大な二枚の羽の影が部屋一杯に広がる。

 ああ、これは確かに「手品」である。書くということは、一種の「手品」かもしれない。そこに、存在の影があらわれるからだ。
 リッツォスはどこかで、ことばの力を信じている。ことばは存在を出現させる力をもっていると信じている。--そういう「自画像」として描かれた詩である。私は、そんなふうに読んだ。


関与と観察
中井 久夫
みすず書房

このアイテムの詳細を見る
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする