奪われざるもの リッツォス(中井久夫訳)
奴等は来た。廃墟を見ていた。周囲の地積も。何かを目測しているらしかった。舌を出して光と風を見た。気に入ったのだ。
我々からまた奪う気だ。暑かったが、こちらはシャツにボタンを掛けた。靴を点検した。我々の一人が遠くを指さした。他の者は廻れ右をした。
他の者が逃げた時、その男はそっとしゃがんで、土くれを一握り取ってポケットに入れ、何食わぬ態で立ち去った。
外国人が見回すと、足許に深い穴があった。彼らは歩いて、時計を見て、去った。
穴の中には剣一振り、壺一つ、白骨一本。
「剣」以下--ギリシャ国家
*
リッツォスの詩は映画的である。ギリシャ語を知らない私は原文をもちろん知らない。中井久夫の訳でしかリッツォスを知らないのだが、とても映画的である。別のことばで言い換えると、映像が動く。なめらかに、接続して、というのではない。かならず切断されて、切断が動きをうながすのである。
中井は句点「。」を多用することで、動きを強調する。「。」をカメラの切り替えと思って読み直すと、この作品が「映画」そのものであることがわかる。
1行目を「カメラ」に置き直してみる。括弧内が「カメラ」である。
奴等は来た。
(遠くから歩いてくる、あるいは車でやってくる姿をロングでとらえる。カメラのなかで、人間が、あるいは車が動く。近づいてくる。--ロング)
廃墟を見ていた。
(カメラは切り替わる。切断をはさんで、廃墟の全景。人物はスクリーンのなかにはない。--ロング)
周囲の地積も。
(カメラは移動する。ロングのまま移動する。カメラの移動が視線の動きである。人物は映らない。映さない。--ロング)
何かを目測しているらしかった。
(カメラは廃墟、地積を映したまま、ロングに移動する。カメラは切り替えず、同じカメラで、人物を背後、あるいは斜め後ろから映す。廃墟と人物の背中を映しながら、カメラはしだいに人物に近づいていく。--ロング、ミドル、アップへという移動がある。)
舌を出して
(人物に近づいたカメラが横顔を映し出す。口が動く。舌が動く。この間、カメラは人物に近づきはするが、その顔の全体は映さない。あくまで口元だけを映す--クローズアップ)
光と風を見た。
(カメラは顔から廃墟、風景全体へと切り替わる。ただしこの切り替えは、切断を含まない。カメラそのものがぐぐっと視線を変えるのである。--ロング)
気に入ったのだ。
(風景の全体。輝く光と風が見えるような美しい風景。--ロング。)
カメラが切り替わらずに、同じカメラが移動しながら視線の動きと重なる時(長回しでカメラが動く時)、そこに想像が加わる。「目測しているらしかった」「気に入ったのだ」という「思い」が加わる。
人間の思いは、その場でとどまっても存在するだろうけれど、思いが思いになるためには、ある動きが必要なのだ。そういう人間の思考そのものを架空の「カメラ」借りて、ことばに移しかえる。
その映像、映像のことばは何を伝えるか。どんな「意味」があるか。それを問いかけることはナンセンスである。「意味」はない。ただ「映像」の確かさだけがある。「映像」のリアリティーだけが大切なのである。
奴等は来た。廃墟を見ていた。周囲の地積も。何かを目測しているらしかった。舌を出して光と風を見た。気に入ったのだ。
我々からまた奪う気だ。暑かったが、こちらはシャツにボタンを掛けた。靴を点検した。我々の一人が遠くを指さした。他の者は廻れ右をした。
他の者が逃げた時、その男はそっとしゃがんで、土くれを一握り取ってポケットに入れ、何食わぬ態で立ち去った。
外国人が見回すと、足許に深い穴があった。彼らは歩いて、時計を見て、去った。
穴の中には剣一振り、壺一つ、白骨一本。
「剣」以下--ギリシャ国家
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リッツォスの詩は映画的である。ギリシャ語を知らない私は原文をもちろん知らない。中井久夫の訳でしかリッツォスを知らないのだが、とても映画的である。別のことばで言い換えると、映像が動く。なめらかに、接続して、というのではない。かならず切断されて、切断が動きをうながすのである。
中井は句点「。」を多用することで、動きを強調する。「。」をカメラの切り替えと思って読み直すと、この作品が「映画」そのものであることがわかる。
1行目を「カメラ」に置き直してみる。括弧内が「カメラ」である。
奴等は来た。
(遠くから歩いてくる、あるいは車でやってくる姿をロングでとらえる。カメラのなかで、人間が、あるいは車が動く。近づいてくる。--ロング)
廃墟を見ていた。
(カメラは切り替わる。切断をはさんで、廃墟の全景。人物はスクリーンのなかにはない。--ロング)
周囲の地積も。
(カメラは移動する。ロングのまま移動する。カメラの移動が視線の動きである。人物は映らない。映さない。--ロング)
何かを目測しているらしかった。
(カメラは廃墟、地積を映したまま、ロングに移動する。カメラは切り替えず、同じカメラで、人物を背後、あるいは斜め後ろから映す。廃墟と人物の背中を映しながら、カメラはしだいに人物に近づいていく。--ロング、ミドル、アップへという移動がある。)
舌を出して
(人物に近づいたカメラが横顔を映し出す。口が動く。舌が動く。この間、カメラは人物に近づきはするが、その顔の全体は映さない。あくまで口元だけを映す--クローズアップ)
光と風を見た。
(カメラは顔から廃墟、風景全体へと切り替わる。ただしこの切り替えは、切断を含まない。カメラそのものがぐぐっと視線を変えるのである。--ロング)
気に入ったのだ。
(風景の全体。輝く光と風が見えるような美しい風景。--ロング。)
カメラが切り替わらずに、同じカメラが移動しながら視線の動きと重なる時(長回しでカメラが動く時)、そこに想像が加わる。「目測しているらしかった」「気に入ったのだ」という「思い」が加わる。
人間の思いは、その場でとどまっても存在するだろうけれど、思いが思いになるためには、ある動きが必要なのだ。そういう人間の思考そのものを架空の「カメラ」借りて、ことばに移しかえる。
その映像、映像のことばは何を伝えるか。どんな「意味」があるか。それを問いかけることはナンセンスである。「意味」はない。ただ「映像」の確かさだけがある。「映像」のリアリティーだけが大切なのである。
括弧―リッツォス詩集ヤニス リッツォスみすず書房このアイテムの詳細を見る |