詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

新延拳『永遠の蛇口』

2008-10-02 10:26:48 | 詩集
新延拳『永遠の蛇口』(書肆山田、2008年09月20日発行)

 「青葉の風と一緒に」という作品。その3連目。

浅葱色の朝
夜明け前にはだいぶ涼しくなって
澄んだ水が夢から滲み出してきた
年輪は樹の外へは決して出て行けないのに
五月の心地よいあなたの眠りが覚めてしまわないうちに
その夢の中へ入り込むことはできないか
開け放たれた窓のカーテンを動かす
青葉の風と一緒に

 とても美しい。「年輪は樹の外へは決して出て行けないのに」が特に美しい。事実を肉眼ではなくいったん意識のなかで濾過し、そうすることで「意味」を抒情に変える。その自然な動きがいい。
 少し補足すると、新延はここでは「切り株」を見ているわけではない。「年輪」はだれもが知っている存在だけれど、実は、それを見る機会はかぎられている。木が立っているとき、木が生きているとき、私たちはそれを見ることはできない。それがあるということを意識のなかで知っていて、意識が肉眼では見えないものを見ているのだ。新延は、そういものを絶えずみつめながらことばを動かしている。現実と向き合っている。
 そういう現実と意識の交渉の中に、新延は詩を見いだしている。その瞬間が、とても美しい。

 肉眼だけではなく、また意識だけではなく、それが交渉する。だから、ちょっと奇妙なところもある。「五月」「青葉」の季節。それなのに、「夜明け前にはだいぶ涼しくなって」というのは、私の暮らしの感覚からすると、とても奇妙である。肉体ではなく、意識が先走りして、ことばがかってに動いてしまったのだろう。



 「夕刊の頃」には、奇妙なブレがない。突然変異というと新延に叱られるかもしれないが、まるで別種のいきもののように、詩集のなかで独立して輝いている。
 その全行。

あの人のあれをこれして
そうそう
それそれ
固有名詞が出てこない会話

夕刊が配達される頃は
みなやさしい声を出すね

みどりのサラダに塩をふる
淋しさをふる
胡椒をふる
せつなさをふる
ゆで卵のからがひとつつるんと剥けたくらいで
消えてしまうほど鬱かな
夜は一気には来ない

雨がふっている
窓の隅の蜘蛛の巣がかすかに揺れていて
こういうのを淋しいというのだろうね



 「あの人のあれをこれして」。「あれ」とか「これ」とか指示代名詞で指し示すだけでわかりあえるものがある。ことばを超えて、肉体が、暮らしが理解しし合う何かである。それはそのままでもかまわない。そのままの方がいいかもしれない。でも、ときどきは、それをはっきりさせてやりたい。
 「こういうのを淋しいというのだろうね」の「こういうの」は、国語の試験なら、前の行の「窓の隅の蜘蛛の巣がかすかに揺れて」いる様子だが、それではちょっと違うだろう。蜘蛛の巣が揺れているのが「淋しい」のではない。蜘蛛の巣が揺れていると気がつくこころ、それが淋しいのだ。
 最初に取り上げた「年輪」と「こころ」は似ているかもしれない。それが存在することはだれもが知っている。けれど、生きているときは、それは見えない。その見えないものが実は存在しているのだと意識して、その動きをことばに託してみる。ことばが動いたときだけ、「こころ」は見える。
 でも、その「見える」はことばを発した人にだけの「見える」かもしれない。だから、たずねる。念を押す。「だろうね」。「ね」。

 最初に取り上げた詩を援用すれば、「ね」からは「淋しさ」が滲み出してくる。

 途中の「みどりのサラダに塩をふる/淋しさをふる/胡椒をふる/せつなさをふる」の4行もいいなあ。実際に、物理として「ふる」ことのできるもの。目には見えないけれど存在するものが交互に出てくる。現実と意識がぴったり重なり、融合する。「ふる」という動詞のなかで、見分けがつかなくなる。いや、見分けが付くのだけれど、見分けがつくということをとおして、塩と淋しさ、胡椒とせつなさが入れ替わる。そして、いったん入れ替わると、塩とせつなさ、胡椒と淋しさも入れ替わる。完全に融合し、溶け合い、とけあいながら、ことばにする一瞬のなかでのみ、具体的ものにかわる。
 そして、そこにつかわれている共通の動詞「ふる」に引き寄せられて「雨」が書かれるとき、それはやはり「淋しさ」「せつなさ」と互いに入れ替わるのである。瞬間瞬間に、それぞれの存在としてあらわれてくる。

 美しいなあ。






雲を飼う
新延 拳
思潮社

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黒沢清監督「トウキョウソナタ」(★★★+★)

2008-10-02 01:16:43 | 映画
監督・脚本 黒沢清 出演 香川照之、小泉今日子、小柳友、役所広司 

 これは、これまでの黒沢清のどの映画よりもこわい映画である。
 何か所か、非常にこわいシーンがある。ひとつは街の風景。ビルが林立する。その手前に高速道路が立体で走っている。画面の上の方の道路は混雑していて車がゆっくりゆっくり、左から右へ進んでいる。下の道路はすいていて右から左へ速度をあげて車が走り去る。同じ場所、というと変だけれど、地理的には同じ位置にある道路が上りと下りでまったく違っている。そして、その差異を、上り線を走っている車も下り線を走っている車もまったく知らない。他人のことは何も知らない。そういう人間がひしめいている。
 もうひとつ。香川照之の家。すぐそばを電車が走っている。電車が通りすぎるとき、家のなかに電車の光が侵入してくる。防ぎようがない。電車に乗っているひとのことなど、香川家のひとは知らない。そして、そういう知らない人が直接侵入してくるのではなく、人間の形をとらずに、毎日、何回も何回も侵入してくる。そのことに、一家は慣れている。電車が通りすぎても、その光が家のなかに侵入してきても、何の反応も示さない。
 冒頭の嵐のシーン。小泉今日子が家の中へ侵入してきた雨にあわてて、窓を閉め、床を拭くのと対照的である。(このシーンのあと、小泉は、ふたたび窓を開け、外の風景をみつめ、それから嵐が家の中へ侵入してくるのを許すのだが、これはこの映画のひとつのテーマである。何かが侵入してくるのを許す、というのがこの映画の重要なテーマであり、それを冒頭できちんと紹介している。)
 彼らに何ができるか。
 最初、彼らは、向こう側へ侵入せずに、ただひたすら自分たちの「家」の関係を持続する。父は父の役を、母は母の役を、子供は子供の役を、「関係」として維持する。いろんなものが、それぞれの個人のなかへと侵入してくるが、彼らはそれを家族の「関係」のなかには持ち込まず、家族の「関係」の外においたまま、その侵入を他の家族に知られないようにふるまい続ける。自分の中に侵入してきたものを「秘密」として守っている。そしてその結果、「関係」がどんどん形骸化して行く。形骸化していっているのに全員が気づきながら、何もできない。
 小泉今日子が息子に向かって「私がお母さんの役をやらなかったら、家族はどうなるの?」と語りかけるシーンがあるが、このシーンが、この家族を象徴的に語っている。それぞれが「役」を演じることで「家」、「家族」の「関係」が成り立っているのだ。そういうことを、全員が知っている。知っていて、同時に、それ以上のことが何もできない。
 黒沢の映画のなかでもっとこわい映画である、という理由はそこにある。知っていて、何もできない。何かが自分たちの中へ侵入し、壊していくのを見ているだけ。

 やがて、関係は形骸化を通り越して、破壊してしまう。その破壊は、関係だけではなく、それぞれの個人をも破壊する。つまり、もう「秘密」を守ることができなくなる。「秘密」をなくしてしまった結果、もう父でも、母でも、子供でもなくなる。
 ところが、そこから映画はがらりとかわる。たぶん、そんなふうにしないと映画が成り立たないのかもしれないが、映画から恐怖がすーっと消えてしまう。それが、なんと言えばいいのだろうか。つまらない。
 それぞれの人間が「秘密」をなくしたとき、彼らは「役」を演じられなくなる。そして、人間になってしまう。たった一人になって、そこから自分で立ち上がるしかなくなる。そして、家族が再生しはじめる。
 予測はついたことではあるけれど、なんだか、とてもつまらない。恐怖に破壊され、再生不能になって、社会に放り出される。そういう形では、やはり映画は存在し得ないのだろうか。
 *
 この映画には一種の「オチ」みたいなものがついている。好意的に言えば「伏線」がきちんと幸福につながるように脚本がつくられている。
 この不思議な物語を支えているのは、侵入してくるものなのだ。
 香川照之には「現金入りの封筒」、小泉今日子には「強盗」、息子には「ピアノ」が侵入してくる。それは彼らを破壊する。それまでの自分とはまったく違った存在にしてしまう。そして、何が侵入してきたか、父と母はあいかわらず「秘密」にしているが、「秘密」があることによって、こんどは逆に相手を許し、受け入れるようになる。自分に「秘密」があるように、相手にも「秘密」がある。それは言う必要のないものである。
 息子だけが例外である。息子のなかには「ピアノ」が、音楽が侵入してくる。その存在を父は最初拒絶する。しかし、最後は受け入れる。家族に受け入れられた「侵入者」を頼りに、息子がまず再生する。ピアノによって、自分をつくりだしてゆく。それによって、家族が再生する。
 映画は、その瞬間、突然メルヘンになってしまう。
 なんと言えばいいのだろうか。この瞬間、私は何か裏切られたような感じがしたのである。芸術にとって、人間の再生こそが最大のテーマである。この映画もきちんとそれを描いている。だが、それでいいのかな?とふと思ったのである。奇妙な印象が胸の奥に残ったのである。
 少年がラストシーンでピアノを弾く。そのとき、窓のカーテンが揺れている。冒頭の、小泉今日子と嵐のシーンにもカーテンが揺れていたが、その揺れとは対照的に、実におだやかで優しい揺れである。揺らぎである。思わず息を飲む美しさである。少年の演奏するピアノにひかれて人が集まってくる。少年は受験でピアノを弾いているのだが、教官たちも採点をすることを忘れて聞きほれている。とても美しい。ああ、こんなふうに再生できてよかったなあ、と思う。
 思うけれど、やはり、違和感が残る。
 私はあまのじゃくなのかもしれないが、この幸福なラストシーンよりも、最初に紹介したこわいこわいシーンの方が好きなのである。香川照之と小泉今日子の再生した父・母の姿よりも、絶望している前半の演技の方にひかれるのである。そこには何のよろこびもないけれど、不思議な強さ、こんなふうにして人間は絶望できるのだという力を感じ、胸が震えるのである。
 その、前半と、後半のつなぎ目が、私にはなんだか納得が行かないのである。香川照之、小泉今日子の演技はすばらしい。その演技がなければ、★3個の映画になる。


(付記)
 ひとの幸福を願わないわけではないけれど、この映画は、やっぱり、変。
 たとえば、「木靴の樹」はハッピーエンドではないけど、不思議に納得してしまうものがある。納得というと変かもしれないけれど、思わず「ミネク、幸せになれよ」と祈ってしまう。映画なのに、つまり、架空の話であり、ミネクは実在の少年ではないということをはっきり知りながら、私は真剣に祈ってしまった。映画なのに、祈ってしまうなんて、はじめての体験だった。思わず泣いてしまった。
 そして、祈ることによって、その映画が不幸で終わるにもかかわらず、私自身が救われたような感じを覚えたのである。
 そういう映画が、私は、とても好きなのだ。
 「木靴の樹」はハッピーエンドではないけれど、とても好き。「トウキョウソナタ」はハッピーエンドだけれど好きになれない。



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