新延拳『永遠の蛇口』(書肆山田、2008年09月20日発行)
「青葉の風と一緒に」という作品。その3連目。
とても美しい。「年輪は樹の外へは決して出て行けないのに」が特に美しい。事実を肉眼ではなくいったん意識のなかで濾過し、そうすることで「意味」を抒情に変える。その自然な動きがいい。
少し補足すると、新延はここでは「切り株」を見ているわけではない。「年輪」はだれもが知っている存在だけれど、実は、それを見る機会はかぎられている。木が立っているとき、木が生きているとき、私たちはそれを見ることはできない。それがあるということを意識のなかで知っていて、意識が肉眼では見えないものを見ているのだ。新延は、そういものを絶えずみつめながらことばを動かしている。現実と向き合っている。
そういう現実と意識の交渉の中に、新延は詩を見いだしている。その瞬間が、とても美しい。
肉眼だけではなく、また意識だけではなく、それが交渉する。だから、ちょっと奇妙なところもある。「五月」「青葉」の季節。それなのに、「夜明け前にはだいぶ涼しくなって」というのは、私の暮らしの感覚からすると、とても奇妙である。肉体ではなく、意識が先走りして、ことばがかってに動いてしまったのだろう。
*
「夕刊の頃」には、奇妙なブレがない。突然変異というと新延に叱られるかもしれないが、まるで別種のいきもののように、詩集のなかで独立して輝いている。
その全行。
「あの人のあれをこれして」。「あれ」とか「これ」とか指示代名詞で指し示すだけでわかりあえるものがある。ことばを超えて、肉体が、暮らしが理解しし合う何かである。それはそのままでもかまわない。そのままの方がいいかもしれない。でも、ときどきは、それをはっきりさせてやりたい。
「こういうのを淋しいというのだろうね」の「こういうの」は、国語の試験なら、前の行の「窓の隅の蜘蛛の巣がかすかに揺れて」いる様子だが、それではちょっと違うだろう。蜘蛛の巣が揺れているのが「淋しい」のではない。蜘蛛の巣が揺れていると気がつくこころ、それが淋しいのだ。
最初に取り上げた「年輪」と「こころ」は似ているかもしれない。それが存在することはだれもが知っている。けれど、生きているときは、それは見えない。その見えないものが実は存在しているのだと意識して、その動きをことばに託してみる。ことばが動いたときだけ、「こころ」は見える。
でも、その「見える」はことばを発した人にだけの「見える」かもしれない。だから、たずねる。念を押す。「だろうね」。「ね」。
最初に取り上げた詩を援用すれば、「ね」からは「淋しさ」が滲み出してくる。
途中の「みどりのサラダに塩をふる/淋しさをふる/胡椒をふる/せつなさをふる」の4行もいいなあ。実際に、物理として「ふる」ことのできるもの。目には見えないけれど存在するものが交互に出てくる。現実と意識がぴったり重なり、融合する。「ふる」という動詞のなかで、見分けがつかなくなる。いや、見分けが付くのだけれど、見分けがつくということをとおして、塩と淋しさ、胡椒とせつなさが入れ替わる。そして、いったん入れ替わると、塩とせつなさ、胡椒と淋しさも入れ替わる。完全に融合し、溶け合い、とけあいながら、ことばにする一瞬のなかでのみ、具体的ものにかわる。
そして、そこにつかわれている共通の動詞「ふる」に引き寄せられて「雨」が書かれるとき、それはやはり「淋しさ」「せつなさ」と互いに入れ替わるのである。瞬間瞬間に、それぞれの存在としてあらわれてくる。
美しいなあ。
「青葉の風と一緒に」という作品。その3連目。
浅葱色の朝
夜明け前にはだいぶ涼しくなって
澄んだ水が夢から滲み出してきた
年輪は樹の外へは決して出て行けないのに
五月の心地よいあなたの眠りが覚めてしまわないうちに
その夢の中へ入り込むことはできないか
開け放たれた窓のカーテンを動かす
青葉の風と一緒に
とても美しい。「年輪は樹の外へは決して出て行けないのに」が特に美しい。事実を肉眼ではなくいったん意識のなかで濾過し、そうすることで「意味」を抒情に変える。その自然な動きがいい。
少し補足すると、新延はここでは「切り株」を見ているわけではない。「年輪」はだれもが知っている存在だけれど、実は、それを見る機会はかぎられている。木が立っているとき、木が生きているとき、私たちはそれを見ることはできない。それがあるということを意識のなかで知っていて、意識が肉眼では見えないものを見ているのだ。新延は、そういものを絶えずみつめながらことばを動かしている。現実と向き合っている。
そういう現実と意識の交渉の中に、新延は詩を見いだしている。その瞬間が、とても美しい。
肉眼だけではなく、また意識だけではなく、それが交渉する。だから、ちょっと奇妙なところもある。「五月」「青葉」の季節。それなのに、「夜明け前にはだいぶ涼しくなって」というのは、私の暮らしの感覚からすると、とても奇妙である。肉体ではなく、意識が先走りして、ことばがかってに動いてしまったのだろう。
*
「夕刊の頃」には、奇妙なブレがない。突然変異というと新延に叱られるかもしれないが、まるで別種のいきもののように、詩集のなかで独立して輝いている。
その全行。
あの人のあれをこれして
そうそう
それそれ
固有名詞が出てこない会話
夕刊が配達される頃は
みなやさしい声を出すね
みどりのサラダに塩をふる
淋しさをふる
胡椒をふる
せつなさをふる
ゆで卵のからがひとつつるんと剥けたくらいで
消えてしまうほど鬱かな
夜は一気には来ない
雨がふっている
窓の隅の蜘蛛の巣がかすかに揺れていて
こういうのを淋しいというのだろうね
ね
「あの人のあれをこれして」。「あれ」とか「これ」とか指示代名詞で指し示すだけでわかりあえるものがある。ことばを超えて、肉体が、暮らしが理解しし合う何かである。それはそのままでもかまわない。そのままの方がいいかもしれない。でも、ときどきは、それをはっきりさせてやりたい。
「こういうのを淋しいというのだろうね」の「こういうの」は、国語の試験なら、前の行の「窓の隅の蜘蛛の巣がかすかに揺れて」いる様子だが、それではちょっと違うだろう。蜘蛛の巣が揺れているのが「淋しい」のではない。蜘蛛の巣が揺れていると気がつくこころ、それが淋しいのだ。
最初に取り上げた「年輪」と「こころ」は似ているかもしれない。それが存在することはだれもが知っている。けれど、生きているときは、それは見えない。その見えないものが実は存在しているのだと意識して、その動きをことばに託してみる。ことばが動いたときだけ、「こころ」は見える。
でも、その「見える」はことばを発した人にだけの「見える」かもしれない。だから、たずねる。念を押す。「だろうね」。「ね」。
最初に取り上げた詩を援用すれば、「ね」からは「淋しさ」が滲み出してくる。
途中の「みどりのサラダに塩をふる/淋しさをふる/胡椒をふる/せつなさをふる」の4行もいいなあ。実際に、物理として「ふる」ことのできるもの。目には見えないけれど存在するものが交互に出てくる。現実と意識がぴったり重なり、融合する。「ふる」という動詞のなかで、見分けがつかなくなる。いや、見分けが付くのだけれど、見分けがつくということをとおして、塩と淋しさ、胡椒とせつなさが入れ替わる。そして、いったん入れ替わると、塩とせつなさ、胡椒と淋しさも入れ替わる。完全に融合し、溶け合い、とけあいながら、ことばにする一瞬のなかでのみ、具体的ものにかわる。
そして、そこにつかわれている共通の動詞「ふる」に引き寄せられて「雨」が書かれるとき、それはやはり「淋しさ」「せつなさ」と互いに入れ替わるのである。瞬間瞬間に、それぞれの存在としてあらわれてくる。
美しいなあ。
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