野村喜和夫『言葉たちは芝居をつづけよ、つまり移動を移動を』(書肆山田、2008年10月10日発行)
野村喜和夫の詩を読むと、野村は詩を知らないんじゃないか、と思うことがある。詩を知らないといっても、もちろん私よりもはるかに多くのことを知っている。たくさん詩を読んでいるし、たくさん詩を書いている。そして、高い評価を得ている。それにもかかわらず、野村は詩を知らないんじゃないか、といいたくなる。それはたとえていえば、長嶋茂雄をつかまえて、長嶋は野球を知らない、というのに似ている。もちろん長嶋は素人とは比較にならないくらい野球を知っている。野球選手としての実績もあれば、監督としての実績もあり、評価も高い。それにもかかわらず、長嶋は野球を知らない、という批評(評価?)が流通するのは、長嶋の野球がセオリーを超越しているからである。セオリーを無視しているからである。別のことばで言えば、「カン」によって動いていると思わせるところがあるからである。野村の作品にも、そんな「におい」がある。知っていて書いているんじゃない。「カン」で書いているのではないか、という感じがする。その「カン」は詩の歴史、詩のセオリーを超越したところから、突然降ってくる。そして、野村はそれにしたがって動いている。そういう感じがする。
もちろん、これはいい意味で書いている。
どんな芸術でも「カン」がなければ芸術にならない。あることがらが芸術になるためには、常識を超越した力が必要である。超越したものがなければ、それは「実用品」に終わってしまう。日常ではつかえない何かがあるから、それは芸術になるのだ。
長嶋の野球がある意味ではばかげている。しかし、ひとを魅了する。ばかげているからである。非日常だからである。つまり、芸術だからである。野球はもちろん芸術ではなく、スポーツである。ダカラ、長嶋は馬鹿だと批判される。
*
今回の詩集は「新作」というよりも、古い作品の拾遺集である。新しいのは「序 言葉たちは移動をつづけよ、つまり芝居を、芝居を」だけである。その「序」の冒頭。
1行目がいきなり3字下がってはじまる。なぜ? 理由はわからない。2行目は7字下がっている。なぜ? 3行目は5字下がり、4行目は字下げがない。なぜ? しかし、次のように書き換えてみると、不思議な気持ちになる。
行の先頭をそろえると、野村のオリジナルを読んだときの、ことばのリズムがすっかり違ってしまう。字下げ、その空白(沈黙はまた別のものだろう)こそが「序」の詩なのである。空白(余白ということばをつかいたくもなるけれど、何か違う)がことばのエッジ(?)をきわだたせる。その「きわだち」のなかに、詩がある。そして、そういう「きわだち」と「きわだち」を誘い出す空白の関係は、ことばを超越した何かである。どれだけほかの詩を読んでみても、詩の歴史をたどってみても、何字下げればことばのエッジがきわだつかということなど、わかりはしない。「きわだち」を呼び寄せるのは「カン」なのである。(空白をつかわない詩でも、「カン」によって、野村は「きわだち」を引き寄せている。そういう印象が、私にはある。)
「空白」と、ことばの「きわだち」。そのやりとりのなかで、何がおこなわれているか。ことばの「意味」の否定がおこなわれているのだと、私は思う。
ことばが動いていけば、それが詩である--野村の信じている詩の定義は、そういう簡単なものであると思う。
私も、実は、そう思っている。
「移動」こそが詩である、と。
そして「移動」とは「否定」なのである。「意味」を否定しつづけることがことばを動かしていく。
1行目の「移動」を野村は「芝居」と言い換えることで「否定」する。「移動」を、まるで、そんなことばなど存在しなかったかのように消し去ってしまう。「完全否定」してしまう。
「移動」するといっても、「正しい」もののなかへ「移動」するのではなく、虚構=芝居のなかへ動いていく。芝居というのはあることがらを踏まえ、それをなぞり、そうすることでなぞる本人(ことば)を嘘にしてしまう。芝居を真実にするには演じるものが嘘に徹しないと、芝居のなかに真実が誕生しない。一種の矛盾。矛盾の動き、矛盾した「移動」がここにある。「芝居」のなかにはほんとうは「否定」はふたつある。役者が誰かを演じるとき、そこではまず「演じられた人間」が否定されている。彼自身が登場しないことが芝居の条件である。そして、演じるものもまた登場しない。あくまで「演じられたもの」が登場する。そういう「否定」と「否定」の拮抗関係のなかで、何かが動きだす。その何かを、たとえば「詩」と呼んでみたりする。
いきなり、「移動」「否定」の本質を語ってしまったために、野村のことばは立ち往生する。3行目は苦しい。ことばを放り出して、それが「空白」によって否定されるのを待っているようである。しかし、逆にスポットライトをあびてしまって、芝居をぶち壊してしまう「間」、存在してはならない「間」が突然浮かび上がったような印象もある。
しかし、そういう「間」そのものをも利用して、野村は、ことばを、その「意味」を「否定」する。「移動」の向きを、「前方」(意味は、たいてい「前」にある。人間は「前」を目指すものだからである)から「うしろ」へ転換してしまう。さらに「後退」(後退の文字のなかには「うしろ」が含まれている)するのではなく、「出発」する。ことばの「意味」を一気に無秩序にする。無関係にする。普通は結びついていない「うしろ」と「出発」を結びつけ、「後退」ということばの誕生を封じ込めてしまう。
ことばの常識(流通することば)を否定しつづける。否定して、移動しつづける。
野村は今回の詩集の「序」で、彼がこれまでやってきたことを、「私はこういう詩人です」と提示してみせているのだ。私は野村の作品の熱心な読者ではないのでよくわからないが、たぶん、熱心な読者なら、この拾遺集の作品が別のどの作品にどんな形で昇華・結晶したのかわかるかもしれない。
そういう「道筋」(?)を提示することで、野村は、過去を全部「否定」のなかに封じ込め、新しい出発をしようとしているのかもしれない。「うしろ向きに/出発」する姿を芝居としてみせておいて、ほんとうは、まったく別次元への飛翔を準備しているのかもしれない。めお飛翔のための「空白」として、この詩集が提示されているのかもしれない。
この詩集はこの詩集でおもしろいけれど、私は、次の野村の詩集がとてもおもいしろいに違いないと確信した。
野村喜和夫の詩を読むと、野村は詩を知らないんじゃないか、と思うことがある。詩を知らないといっても、もちろん私よりもはるかに多くのことを知っている。たくさん詩を読んでいるし、たくさん詩を書いている。そして、高い評価を得ている。それにもかかわらず、野村は詩を知らないんじゃないか、といいたくなる。それはたとえていえば、長嶋茂雄をつかまえて、長嶋は野球を知らない、というのに似ている。もちろん長嶋は素人とは比較にならないくらい野球を知っている。野球選手としての実績もあれば、監督としての実績もあり、評価も高い。それにもかかわらず、長嶋は野球を知らない、という批評(評価?)が流通するのは、長嶋の野球がセオリーを超越しているからである。セオリーを無視しているからである。別のことばで言えば、「カン」によって動いていると思わせるところがあるからである。野村の作品にも、そんな「におい」がある。知っていて書いているんじゃない。「カン」で書いているのではないか、という感じがする。その「カン」は詩の歴史、詩のセオリーを超越したところから、突然降ってくる。そして、野村はそれにしたがって動いている。そういう感じがする。
もちろん、これはいい意味で書いている。
どんな芸術でも「カン」がなければ芸術にならない。あることがらが芸術になるためには、常識を超越した力が必要である。超越したものがなければ、それは「実用品」に終わってしまう。日常ではつかえない何かがあるから、それは芸術になるのだ。
長嶋の野球がある意味ではばかげている。しかし、ひとを魅了する。ばかげているからである。非日常だからである。つまり、芸術だからである。野球はもちろん芸術ではなく、スポーツである。ダカラ、長嶋は馬鹿だと批判される。
*
今回の詩集は「新作」というよりも、古い作品の拾遺集である。新しいのは「序 言葉たちは移動をつづけよ、つまり芝居を、芝居を」だけである。その「序」の冒頭。
言葉たちは移動をつづけよ
つまり芝居を
芝居を
うしろ向きに
出発する
幽鬼ノヨウニ薄イ俺ダカラ
1行目がいきなり3字下がってはじまる。なぜ? 理由はわからない。2行目は7字下がっている。なぜ? 3行目は5字下がり、4行目は字下げがない。なぜ? しかし、次のように書き換えてみると、不思議な気持ちになる。
言葉たちは移動をつづけよ
つまり芝居を
芝居を
うしろ向きに
出発する
幽鬼ノヨウニ薄イ俺ダカラ
行の先頭をそろえると、野村のオリジナルを読んだときの、ことばのリズムがすっかり違ってしまう。字下げ、その空白(沈黙はまた別のものだろう)こそが「序」の詩なのである。空白(余白ということばをつかいたくもなるけれど、何か違う)がことばのエッジ(?)をきわだたせる。その「きわだち」のなかに、詩がある。そして、そういう「きわだち」と「きわだち」を誘い出す空白の関係は、ことばを超越した何かである。どれだけほかの詩を読んでみても、詩の歴史をたどってみても、何字下げればことばのエッジがきわだつかということなど、わかりはしない。「きわだち」を呼び寄せるのは「カン」なのである。(空白をつかわない詩でも、「カン」によって、野村は「きわだち」を引き寄せている。そういう印象が、私にはある。)
「空白」と、ことばの「きわだち」。そのやりとりのなかで、何がおこなわれているか。ことばの「意味」の否定がおこなわれているのだと、私は思う。
ことばが動いていけば、それが詩である--野村の信じている詩の定義は、そういう簡単なものであると思う。
私も、実は、そう思っている。
「移動」こそが詩である、と。
そして「移動」とは「否定」なのである。「意味」を否定しつづけることがことばを動かしていく。
1行目の「移動」を野村は「芝居」と言い換えることで「否定」する。「移動」を、まるで、そんなことばなど存在しなかったかのように消し去ってしまう。「完全否定」してしまう。
「移動」するといっても、「正しい」もののなかへ「移動」するのではなく、虚構=芝居のなかへ動いていく。芝居というのはあることがらを踏まえ、それをなぞり、そうすることでなぞる本人(ことば)を嘘にしてしまう。芝居を真実にするには演じるものが嘘に徹しないと、芝居のなかに真実が誕生しない。一種の矛盾。矛盾の動き、矛盾した「移動」がここにある。「芝居」のなかにはほんとうは「否定」はふたつある。役者が誰かを演じるとき、そこではまず「演じられた人間」が否定されている。彼自身が登場しないことが芝居の条件である。そして、演じるものもまた登場しない。あくまで「演じられたもの」が登場する。そういう「否定」と「否定」の拮抗関係のなかで、何かが動きだす。その何かを、たとえば「詩」と呼んでみたりする。
いきなり、「移動」「否定」の本質を語ってしまったために、野村のことばは立ち往生する。3行目は苦しい。ことばを放り出して、それが「空白」によって否定されるのを待っているようである。しかし、逆にスポットライトをあびてしまって、芝居をぶち壊してしまう「間」、存在してはならない「間」が突然浮かび上がったような印象もある。
しかし、そういう「間」そのものをも利用して、野村は、ことばを、その「意味」を「否定」する。「移動」の向きを、「前方」(意味は、たいてい「前」にある。人間は「前」を目指すものだからである)から「うしろ」へ転換してしまう。さらに「後退」(後退の文字のなかには「うしろ」が含まれている)するのではなく、「出発」する。ことばの「意味」を一気に無秩序にする。無関係にする。普通は結びついていない「うしろ」と「出発」を結びつけ、「後退」ということばの誕生を封じ込めてしまう。
ことばの常識(流通することば)を否定しつづける。否定して、移動しつづける。
野村は今回の詩集の「序」で、彼がこれまでやってきたことを、「私はこういう詩人です」と提示してみせているのだ。私は野村の作品の熱心な読者ではないのでよくわからないが、たぶん、熱心な読者なら、この拾遺集の作品が別のどの作品にどんな形で昇華・結晶したのかわかるかもしれない。
そういう「道筋」(?)を提示することで、野村は、過去を全部「否定」のなかに封じ込め、新しい出発をしようとしているのかもしれない。「うしろ向きに/出発」する姿を芝居としてみせておいて、ほんとうは、まったく別次元への飛翔を準備しているのかもしれない。めお飛翔のための「空白」として、この詩集が提示されているのかもしれない。
この詩集はこの詩集でおもしろいけれど、私は、次の野村の詩集がとてもおもいしろいに違いないと確信した。
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