詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

渡辺玄英『けるけるとケータイが鳴く』

2008-10-17 11:52:14 | 詩集
渡辺玄英『けるけるとケータイが鳴く』(思潮社、2008年09月30日発行)

 「風俗」や「時代」を描いている詩--と、一般にいわれているような気がする。インターネットで飛び交っていることばや「ケータイ」(携帯電話)、「コンビニ」(コンビニエンスストア)ということばが登場するから、そんなふうに呼ばれるのだと思う。
 そして、「風俗」とか「時代」の「表層」を滑っていく詩--とも呼ばれていると思う。
 しかし、私は「風俗」にも「時代」にもあまり関心がない人間なのか、渡辺の詩を、そのことばを読んでも「風俗」というものを感じない。「風俗」の定義が私と普通のひととでは違っているのかもしれないが、渡辺が書いていることを「風俗」とは思いたくない。

 渡辺の詩を読んでいていちばん驚くのは「ぼく」への関心が非常に強いということだ。いたるところに「ぼく」が出てくる。「ぼく」ぬきでは、世界が存在しない--そう信じていて、必死になって「ぼく」「ぼく」「ぼく」と叫びつづけている。
 「けるけるとケータイが鳴く」という表題作はいくつもある。そのうちの「毎日新聞ばーじょん」(52ページ)。その前半。

手をふって別れた
それからホームに突き落とした
どこにも行くところがなくて
空も飛べなくて
くるしむことも
くるうこともできないぼくらは
からだの重心がおかしくなっている
ゆらゆらとフルえる心臓がヘンな生き物に
なって(いる(いない(かもしれない
けるけるとボクにでんぱが届く
どこまでがぼくなのか(わからないね
ぼくから(ぼくが(ずれつづけて
どこにもない街の知らない駅の改作をとおった

 「なって(いる(いない(かもしれない」--という行に、私は「ぼく」への強い強い関心を感じる。「なっている」でいいじゃないか。急いで否定し、仮定する。そんなふうに「ぼく」を増やしていかなくてもいいじゃないか。「ぼく」を増やさないと、「時代」についていけないのかもしれない。もしそうなら「時代」についけいけなくてもいい。「時代」に乗っからなくてもいいじゃないか、と私は思ってしまう。
 そんなふうに「ぼく」に夢中になるのではなく、誰かを心底好きになってみたら?と思う。「ぼく」についていくのではなく、「ぼく」以外の誰かに真剣についていく。それはとても危険なことである。「他人」についていけば「ぼく」は「ぼく」ではなくなってしまう。「ぼく」と言おうとしても「ぼく」なんていなくなってしまう。「ずれ」てしまうのではなく、ほんとうに消えるのだ。

くるしむことも
くるうこともできないぼくらは

 もし、苦しむことも、狂うこともできないのだとしたら、そこには「ぼく」が不在だからではなく、そこには「ぼくら」がいっぱいいすぎるからだ。「くるしむぼく」を一方で「わらい」、一方で「仮定」に変える。どこまでもどこまでも「ぼく」を増やしていく。
 私はなんだか、とても面倒に感じる。
 こんなふうに「ぼく」を増やしつづけることが。

 たぶん渡辺は「こまめ」な性格なのだろう。私はほんとうにずぼらで、「私」がひとりいるだけでも面倒くさい。「私」を増やすなんて、面倒くさくてできない。「私」に対して気配りするなんて、あほらしくて、できない。

なって(いる(いない(かもしれない

などと、「私」だけで考えたくない。「なっている」が間違っていたって気にしない。誰かが「なっていないよ」と指摘するなら、そのとき考え直す。自分で考え、自分で自分を三つに増やすなんて、ほんとうに面倒だと思う。

 私はたぶんとても保守的な人間なのだろう。たとえば携帯電話は私も持ってはいるし、あると便利なことはわかるが、ある意味でとても面倒なものだとも思う。家の固定電話だけなら、「私」は実に簡単な存在だ。会社から解放されて、家でくつろいでいる。好きなことをしている。会社から電話がかかってきたって、「ああ、面倒くさい」という声を出して応対しても、それで大丈夫だ。会社からプライベートな家に電話をかかってくるなんて、「面倒」なことが起きているに決まっているのだから、「面倒くさい」という声で応対したって、別にかまわないのだ。「携帯電話」だと、たぶん「ああ、面倒くさい」という声を出してはいけないのだと思う。「携帯電話」むけの「声」というものがあるのだと思う。「私」をいつも余分に準備していなければならないのだと思う。こういうことを軽々とできるひとは、ほんとうに、こまめなのだと思う。

 私がきょう書いたことは詩の感想ではなくなってしまったかもしれない。でも、これが、私の感じたことだ。それ以上に私を増やしたくない。ふえつづける「ぼく」を読みつづけるのが、途中でとても面倒になってしまった。どうぞ、かってに「ぼく」を増やして行ってくださいね、「ぼく」がどこまで増えるかということに、私は関心がありません、と言いたくなってしまったのである。
 「ぼく」を増やしながら世界と向き合うことが最先端の風俗なら、私はそこから落ちこぼれたままでいたい、と思ったのだ。「私」をとりつくろうことほど、面倒なことはない。とりつくろわなくても「私」なんだから、もう十分。

 渡辺と知り合いでなくてよかった。知り合いだとしたら、面倒くさくてしようがないかもしれないなあ、とさえ思ってしまった。




けるけるとケータイが鳴く
渡辺 玄英
思潮社

このアイテムの詳細を見る
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

斎藤健一「生物」、みえのふみあき「西海にて」

2008-10-17 00:48:23 | 詩(雑誌・同人誌)
斎藤健一「生物」、みえのふみあき「西海にて」(「乾河」53、2008年10月01日発行)

 斎藤健一「生物」は文体が非常に気持ちがいい。短いことばが積み重なり、積み重なったところで、その短いことばのなかに存在したいのちが、ぐい、と動く。そして世界を異質なものにする。そのリズムがいい。
 全行。

月がのぼる。まるい海である。光。北北西。あかるくかがやく闇。テトラポッド。鰤はぴちぴち跳ねる。大きく口をあき潮くさい息を吐き出す。西洋の袖ボタンに似た石が捨てられている。さかさまに彼らはよこたわる。両眼は幕を張りぬれるのだ。暗い水。浪。泡。荒れ痛む皮膚の色だ。

 世界をゆさぶり動かす起点としての「大きく口をあき潮くさい息を吐き出す。」この一文の強さ。「潮くさい息」。そのなまなましさ。鰤と人間が重なり合う。いのちが重なり合う。
 「両眼は幕を張りぬれるのだ。」の「のだ」がいい。断定がいい。「ぬれる」で終わっても「意味」はかわらない。しかし「のだ」があのるとないのでは、いのちのかかわりかたが違う。ぐい、と接近し、一体になる。
 とても印象に残る。



 みえのふみあき「西海にて」。「Occurrence18」。みえのは、斎藤のように対象の内部へは入っていかない。

ぼくが休む空虚はどこにもない
樹には樹の充実がある
真鍮は真鍮の
おまえはおまえの
実態に満たされている
ぼくは駆け足で遁走する
歩道橋の階段を踏みはずして
郵便局の金庫の扉を通過する
素粒子のように

 みえのは「通過する」。しかも「素粒子のように」。
 こうした視線の悲しみが休める「空虚」はたしかにないかもしれない。あるのは、ただ、ことばだけである。悲しみを通過させてくれることば。悲しみは通過してどこかへ行ってしまう。ことばだけが残される。それを見る悲しみ。この運動は循環する。けっして終わることがない。終わることができない。




少女キキ―詩集 (1963年)
みえの ふみあき
思潮社

このアイテムの詳細を見る
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする