詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

井坂洋子「風の音」

2008-10-11 01:17:24 | 詩(雑誌・同人誌)
井坂洋子「風の音」(「現代詩手帖」2008年10月号)

 井坂洋子の「風の音」書き出しは不思議である。

大木の枝が
坂道に傾(なだ)れ込む空気を鷲掴みにして放つ
たびに 激しく揺れている
足もとから風が舞いあがってきて
コンクリートの建物の 直角に伸びる影に
ふっと紛れる

 不思議、と思わず書いてしまうのは、井坂の描写が美しいからである。目に見えるようだからである。そして、ほんとうは、目に見えないからである。
 たぶん、こういう書き方は誤解を招く。
 実は、私は、この詩のことをどう書いていいのかわからない。
 風景が見える。見えるのに、それが風景であるかどうか、わからない。
 私の視線は「大木の枝」を見る。「坂道」を見る。「傾れ込む空気」を見る。透明だから、見えないのに、見えたつもりになる。そして、見えないものを見るために、視線はいったん「枝」にもどり、「枝」が見えない空気を「鷲掴み」にするのを見る。みえない「空気」を「鷲掴み」にして、そのあと「放つ」のを見る。
 その、呼吸を見る。

 私は見ているのではない。私はなにも見ていない。見えたと錯覚するように、視線を動かされている。見えているのは「枝」ではない。「空気」ではない。二つが交渉する「呼吸」である。
 そんなものは「肉眼」には見えない。見えないはずなのに「見えた」と錯覚するのは、井坂のことばが、私の視線を、不思議な「呼吸」でひっぱるからである。その「呼吸」はかわっているが、不自然ではない。どこか、「肉体」を含んでいる。
 それを特に感じるのが、

たびに 激しく揺れている

 という1行である。
 冒頭の「たびに」はもちろん、前の行につながっている。

坂道に傾れ込む空気を鷲掴みにして放つたびに 
激しく揺れている

 という改行の仕方の方が文法的に自然である。ところが、文法的に「自然」な改行、意味にしたがった改行だと、「呼吸」が消える。ほかの読者はどうかわからないが、「たびに」が前の行の最後にぶら下がっていると、私のことばのなかから「呼吸」が消える。そして、その結果、大木も枝も坂も空気も消える。
 3行目の冒頭の「たびに」という飛躍した「呼吸」がすべてを統一している。すべてを動かしている。その動力になっている。前の2行が、よりくっきり動きだすのである。
 この「呼吸」は「意味」ではない。そういうものを、私は「肉体」と呼んでいる。
 この「呼吸」の瞬間、「意味」が消え、井坂洋子という「肉体」が浮かび上がってくる。私は井坂洋子を写真でしか知らないけれど、その知らないはずの人間が、ふいに私のそばで「呼吸」しているのを感じる。そして、その「呼吸」に誘われて、私は動いて行ってしまう。動かされてしまう。
 動きだすと、もう止まらない。

 1行あいて、2連目がはじまる。

自動ドアが開閉するたび
侵入しようと身構える風も
階段の深々とした絨毯まではとどかない
踊り場の大きな花瓶に
造花のような精巧な容姿を悔やむ白い花が
高いメシベを垂らしてうなだれる
にょっきりと伸びる首をもつ麗人の
細い手首に巻かれた男物の時計の
表面が湖のようにひかる
光(ライト)は幾つ重なりあっても光量が一定で
木の床はのっぺりと捌けている
奥の部屋からはときおり拍手が聞こえ
長いドレスの裾を擦る音が
部屋の前でとまる
慇懃な声が交わされ 扉が開いて
花嫁が押しだされる

 なぜ「風」(空気?)が「花嫁」に変わってしまうのか。その「意味」はわからない。「意味」はわからないが、ことばが動いて行き、その動きにあわせて、そのときどきの「肉体」が向こうからあらわれてくる。ドアになり、絨毯になり、花瓶になり、メシベになりながら。
 そのリズムが、私には、やはり「呼吸」として感じられる。向こう側から何をひっぱりだしてくるか。向こう側の何と視線が切り結ぶのか。それは「呼吸」なのだ。
 いや、「呼吸」が向こう側を呼び出すのではなく、向こう側に呼び出されて、「呼吸」をととのえるとき、そこに「人間」として井坂があらわれてしまうのかもしれない。
 よくわからないが、そこにたしかに「呼吸」があり、「呼吸」があるところに、ひとりの人間の「肉体」がある。その、不思議な体温を感じる。




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