詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

「巨匠ピカソ 魂のポートレート」

2008-10-26 01:18:46 | その他(音楽、小説etc)
「巨匠ピカソ 魂のポートレート」(サントリー美術館、2008年10月04日-12月14日)

 私は10月24日と25日、2回見た。私はピカソが大好きだ。ピカソ狂いといえるかもしれない。それがこの展覧会と新国立美術館の「巨匠ピカソ 愛と創造の軌跡」を見て、ピカソ中毒になってしまった。見たはずなのに、また見たくなるのだ。私がいちばん好きなのは晩年のピカソ、エロチックな落書きを描きつづけるピカソだが、今回はそうした作品はほとんどない。そのかわりに時代とともにかわるピカソが丹念に紹介されている。



 私はいつでも美術館へ行ったら、ここは私の家、これは私が持っているもの、という感じで絵を見る。そして、ピカソの場合は、不思議なことに、あ、ここが美術館でよかった、と思ってしまうのだ。
 たとえば「魂のポートレート」の2点の作品。「ピエロに扮するパウロ」と「牧神パンの笛」。どちらもピカソの作品としては「おとなしい」。何が描かれているか、その対象がはっきりわかる。
 しかし、この絵が、たとえば自分の家にあったらどんな気持ちになるだろう。ちょっとこまる。これは絵ではない。たとえばフェルメールの「青いターバンの少女(真珠の耳飾りの少女」なら、家において一人で見ていてもうれしいけれど、ピカソの、この「おとなしい」はずの2枚は、やっぱり困る。たとえ私が大邸宅をもっていたと仮定しても、飾る場所がない。
 「ピエロに扮するパウロ」はかわいい少年が真っ白な服を着ている。ピエロの衣装だ。手にマスクをもっている。かわいい少年だ。--と思いたいけれど、私は不安になる。パウロの背後で赤茶色、青緑、灰色と水色のまじった色が、整然と三分割されている。三分割を隠すように廊下の手すり(向こう側は階段?)だろうか、茶色も少しはあるのだが、目につくのは三分割である。この絵を見ていると、ふっとパウロが消える瞬間がある。それが怖いのである。不安になるのである。ピカソはほんとうにパウロを描いたのか。そうではなく色彩の三分割を描いたのではないのか、と思ってしまうのだ。三つの色が隣り合って並んだとき、その組み合わせがとても美しく見える。あ、青緑はここまで深い色になると赤とぴったりあうのだ、とか、水色に灰色をまぜるとこんなふうに青緑の深い色と響きあうのだ、とか--パウロを離れて、こころが色の組み合わせだけを見ている。
 このとき、パウロが着ている「白」とはなんなのだろう。パウロとはなんなのだろう。ほんとうに愛らしいパウロを描きたいのなら、背景はもっと違ったものになるのではないのか。たとえば、「魂のポートレート」の「自画像」(1901年)のように、単一の色をつかうのではないだろうか。
 ピカソは、どうも、「この絵を見てくれ」とは言っていないのだ。「この絵は傑作だろう」とは言っていないのだ。「ほかの絵も見てくれ」と言っているのだ。この色とこの色はこんなふうに美しく響きあう。それは、この絵だけを見ていてはわからない。ほかの絵も見てくれ。自分の絵だけではなく、ほかのひとの絵も見てくれ、と言っているように感じる。
 ピカソがつたえたいのは「動き」なのだ。ピカソ自身のなかにある動き、美術の歴史のなかにある動き。先人が何を築き、何を発展させたか。そこにやり残していることは何か。それに対してピカソはどんなことをやっているのか。それを見てもらいたいのかもしれない。
 こんなふうに主張する絵は、1枚を自分の家に(自分の部屋に)飾って見るものではない。美術館で、多くの絵のなかにおいて、そこで見るべきものなのだ。え? なぜ? なぜ、こんなふうに背景を三分割する? その色はどこから来ている? それを美術館をさまよい歩きながら探さなければならないのだ。
 私が2日つづけてサントリーへ通ったのは、2日目に、その色を探すためだった。三分割をほかの絵のなかに探すためだった。けっきょく、こたえはわからなかったが、そんなふうにこれはどこから来ている? この色はなに? なぜ、こんなタッチで? と思いながら他の作品をさまようと、ピカソが突然動きだすのである。ほら、これを見て。この作品もよく見ていけよ、と高笑いしながら、隠れん坊のこどものようにあっちこっちへと動く。
 これは楽しい。ほんとうに楽しい。でも、そんな絵は、やっぱり手もとにはおいておけないね。

 色彩の三分割、と言っていいのかどうかはわからないけれど、「牧神パンの笛」の二人の青年(青年と少年?)も不思議だ。二人の上には真昼の太陽がある。その光が二人の肉体をたのもしく育てている。
 ところが、その背後の海と空、その色を変えた青の空間は太陽とは無縁である。二人がいる場所(どこかの屋上?)の壁はやっぱり太陽の光をあびているのに、ギリシャの海と空は太陽と無縁である。それは、海と空にも太陽の輝きをまき散らしてしまえば二人の青年がちっぽけになるから、ということかもしれない。でも、やはり不思議な気持ちになるのである。空と海の青の、たどりつけないようなさびしさ、静かさ、それはいったいなんなのだろう、と思ってしまうのだ。
 そしてこの青は、いわゆる青の時代の青「自画像」の背景や肉体の影の青とも違う。
 いろいろ作品をさまよって記憶のなかで色を並べてみるが、やっぱり、空と海の青は見つからない。強いて言えば「口髭の男」の青かなあ。でも、「口髭の男」の青そのものは色自身としては「青の時代」の青だろうなあ。髭と眼の茶色との対比で、私が錯覚しただけだろう。二人の青年の背後の壁から太陽の輝きをとったら「口髭の男」の茶色になるかなあ、という印象が、青そのものをも変えて見せるのかもしれない。
 「色」は同じ絵の具をつかっても、ある作品のなかでは違った色になるのだ。抱え込む音楽、においが違うのだ、ということなのかもしれない。つねに動き回る。ピカソそのもののように。




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