詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

小林稔『砂の襞』

2008-10-23 09:35:28 | 詩集
小林稔『砂の襞』(思潮社、2008年09月25日発行)

 小林稔は自己をみつめる。それはだれもがすることではあるけれど、なぜか、感想を書こうとした瞬間に、そういうことばが浮かび上がってきた。とても基本的なこと、根本的なことが、ふと、思い浮かぶのである。
 「明るい鏡」の書き出し。

鏡に写る素肌の男の鳩尾に ゆっくりとナイフを落としていく
刃を男の胸にとどかせるためには
その腕を 手前に引かなければならぬ

 鏡があり、そこに映っているのは「実像」ではあっても「実物」ではない。あくまで「像」である。「像」には「像」に先だつ「実物」があって、「像」を破壊するためには、「像」そのものではなく、「実物」を破壊しなければならない。いわば、ここには向きの逆な動き、矛盾した(?)動きというものがある。その矛盾を小林はしっかりとみつめようとしている。
 自己洞察とは、いわば、自己を対象化すること。対象化とは自己を自己から切り離すこと。自己から切り離された自己は自己ではない--という矛盾をくぐり抜けないかぎり、自己洞察はできない。
 そういうことを、小林はしっかりと理解している。

 こういう姿勢、生き方に間違いはない。それは人間ならだれもがしなければならないことである。
 しかし、詩は、そうではないのである。
 そうではない、と書いてしまうと、ちょっと違ってしまうのだけれど、とりあえず、そうではない、と書いておく。

 自分をみつめる。自分を点検する。自己から切り離し、客観化する。それだけでは詩にならない、と言った方がいいのかもしれない。
 客観化しようとしてもできないもの、自己から切り離そうとしても切り離せない何かがあって、それが「客観」というような冷静な秩序を突き破って、突然姿をあらわしてしまう。そういうものが詩である。
 詩は、制御できないのだ。

五十年以上もの時間を奪いあった私が
この男であると信じてよいか
痛みを分かちもったといえるか
否、私を見つめているのは永遠の他者

 ここには何一つ嘘は書かれていないと思う。正しいことが書かれていると思う。そして、ふしぎなことに、それが「正しい」がゆえに、私には詩には感じられないのだ。自分の考えを(思考を)、「否、」と一瞬にして否定できる強い何か--それが小林のことばの運動の基本だけれど、それが強すぎて、詩になりきれない、という感じがする。

 鏡をとおして(媒介にして)自己を客観視する。そのときに見える「他者」ではなく、ほかの「他者」がいる、と私は思うのだ。
 自分を壊してしまう「他者」というものが、自分の「肉体」の内部に「いのち」になる瞬間を待っている。その誕生は制御できない。その制御できないものがあらわれたときこそが、詩、なのだと私は思う。
 小林は、「論理的」であるがゆえに、その「他者」の暴走を抑制してしまっているような気がする。



 後半に、紀行詩(?)が集められている。異国で体験したことが、とてもていねいに描写されている。良質な観光案内のようだ。あ、小林の行った国へ行ってみたいなあ、と思う。そういう意味では、とてもいい詩なのかもしれない。
 新しく出会ったものをきちんと受け止め反応する感受性は、青春の美しさに輝いている。そういう意味では、たぶん、とてもいい詩なのだと思う。
 でも、私は、そういうものとは違ったものを読みたい。
 異国の風景ではなく、異国へいったときに、それまでの制御をはなれて、小林の内部から暴れ出してくる「いのち」を読みたい、と感じてしまう。「理性」あるいは「客観」を離れて、これなに? わからないよ、というような部分をことばにしてもいいのではないだろうか。
 そんなことを、ふと思った。

 同時に、私は荒川洋治の『水駅』をふいに思い出した。あ、あれはいい詩集だったなあと、あらためて思った。荒川は「紀行詩」(?)の形をかりながら、異国を描写してはいない。異国に(つまり、他者の世界)に触れたときに、荒川の内部から、荒川を突き破ってあらわれる荒川自身を描いていた。それは荒川の知らない荒川であるがゆえに、本物の荒川なのだ。荒川を突き破ってでてきたものを、これはなんだろうと、ふしぎな気持ちで見ている荒川--そのふしぎさのなかに、抒情があった、と思う。--記憶を頼りに、書いているのだが……。


砂の襞
小林 稔
思潮社

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リッツォス「証言A(1963)」(4)中井久夫訳

2008-10-23 00:21:49 | リッツォス(中井久夫訳)
リッツォス「証言A(1963)」(4)中井久夫訳

一夜   リッツォス(中井久夫訳)

その邸宅は何年も戸を閉めたままだった。
徐々に壊れて行った。手すり、鍵、バルコニー。
ついにある夜突如二階全部に明かりがついた。
八つの窓が全部開け放たれ、バルコニーの二つのドアが開いた。
ドアにカーテンはなかった。

通りかかる人は僅かだったが、立ち止まって見上げた。
沈黙。人気が無い。明かりのついた四角な空間。ただ、
壁に立て掛けた骨董品の鏡は、
黒い木彫りの重厚な枠縁を付けて、
腐って真中が凹んだ床板を映している、途方もない深さに。



 リッツォスの詩は簡潔である。簡潔に感じるのは、そこに「説明」がないからである。「その邸宅は何年も戸を閉めたままだった。」そう書き出されれるが、「その」が説明されない。「その」というのは指示を含む。「その」という限りは、先行することばが必要である。しかし、リッツォスはそれを書かない。「説明」を省略し、いきなり始める。この作品は、そうした特徴を端的にあらわしている。
 「奪われざるもの」の書き出し。「奴等は来た。」の「奴等」とは「だれ」なのかは、その後も「説明」されなかった。いつも、どの詩でも「説明」は省略される。そして「説明」が省略されているがゆえに、そのことばは「映像」としてのみ、そこに登場する。「過去」を持たない。「過去」をリッツォスは読者の想像力に任せてしまう。そして、映像に徹する。

 リッツォスの詩が映画に似ていることはすでに書いたが、ここでもことばは「カメラ」となって移動するだけである。移動し、ロングから、クローズアップへ。そのとき、読者のこころは自然に動く。ロングからクローズアップへという視線(カメラ)の動きそのものに「感情」があるからである。人は感情が強くなると、その対象だけをクローズアップでみつめる。その動きをことば(カメラ)は追うだけなのである。

 この詩では、そういう動きの他に、もう一つ、とても視覚的なものがある。闇と光の対比である。夜と、邸宅からあふれる光。そういう外観の描写からはじまり、ことば(カメラ)は邸宅の内部に移動し、邸宅の内部、ひとつの部屋の中で、鏡に近づく。鏡のなかには、暗闇よりももっと深い闇が映っている。床板。腐って、凹んでいる。その「途方もない深さ」。そこに、夜の闇を超越した闇がある。「こころ」の闇がある。暗い、と書かずに「深さ」と書いているのは、それが夜を超越しているからである。「暗い」ではつたえられないものが、そこにはある。「こころ」にしかとらえることのできない闇である。
 
 簡潔である。「こころ」を、抒情を排除したまま、ことばは動く。清潔に感じるのは、そこに余分な「こころ」がないからだ。
 中井の訳は、その簡潔さ、清潔さととてもよく合っている。




こんなとき私はどうしてきたか (シリーズケアをひらく)
中井 久夫
医学書院

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