小林稔『砂の襞』(思潮社、2008年09月25日発行)
小林稔は自己をみつめる。それはだれもがすることではあるけれど、なぜか、感想を書こうとした瞬間に、そういうことばが浮かび上がってきた。とても基本的なこと、根本的なことが、ふと、思い浮かぶのである。
「明るい鏡」の書き出し。
鏡があり、そこに映っているのは「実像」ではあっても「実物」ではない。あくまで「像」である。「像」には「像」に先だつ「実物」があって、「像」を破壊するためには、「像」そのものではなく、「実物」を破壊しなければならない。いわば、ここには向きの逆な動き、矛盾した(?)動きというものがある。その矛盾を小林はしっかりとみつめようとしている。
自己洞察とは、いわば、自己を対象化すること。対象化とは自己を自己から切り離すこと。自己から切り離された自己は自己ではない--という矛盾をくぐり抜けないかぎり、自己洞察はできない。
そういうことを、小林はしっかりと理解している。
こういう姿勢、生き方に間違いはない。それは人間ならだれもがしなければならないことである。
しかし、詩は、そうではないのである。
そうではない、と書いてしまうと、ちょっと違ってしまうのだけれど、とりあえず、そうではない、と書いておく。
自分をみつめる。自分を点検する。自己から切り離し、客観化する。それだけでは詩にならない、と言った方がいいのかもしれない。
客観化しようとしてもできないもの、自己から切り離そうとしても切り離せない何かがあって、それが「客観」というような冷静な秩序を突き破って、突然姿をあらわしてしまう。そういうものが詩である。
詩は、制御できないのだ。
ここには何一つ嘘は書かれていないと思う。正しいことが書かれていると思う。そして、ふしぎなことに、それが「正しい」がゆえに、私には詩には感じられないのだ。自分の考えを(思考を)、「否、」と一瞬にして否定できる強い何か--それが小林のことばの運動の基本だけれど、それが強すぎて、詩になりきれない、という感じがする。
鏡をとおして(媒介にして)自己を客観視する。そのときに見える「他者」ではなく、ほかの「他者」がいる、と私は思うのだ。
自分を壊してしまう「他者」というものが、自分の「肉体」の内部に「いのち」になる瞬間を待っている。その誕生は制御できない。その制御できないものがあらわれたときこそが、詩、なのだと私は思う。
小林は、「論理的」であるがゆえに、その「他者」の暴走を抑制してしまっているような気がする。
*
後半に、紀行詩(?)が集められている。異国で体験したことが、とてもていねいに描写されている。良質な観光案内のようだ。あ、小林の行った国へ行ってみたいなあ、と思う。そういう意味では、とてもいい詩なのかもしれない。
新しく出会ったものをきちんと受け止め反応する感受性は、青春の美しさに輝いている。そういう意味では、たぶん、とてもいい詩なのだと思う。
でも、私は、そういうものとは違ったものを読みたい。
異国の風景ではなく、異国へいったときに、それまでの制御をはなれて、小林の内部から暴れ出してくる「いのち」を読みたい、と感じてしまう。「理性」あるいは「客観」を離れて、これなに? わからないよ、というような部分をことばにしてもいいのではないだろうか。
そんなことを、ふと思った。
同時に、私は荒川洋治の『水駅』をふいに思い出した。あ、あれはいい詩集だったなあと、あらためて思った。荒川は「紀行詩」(?)の形をかりながら、異国を描写してはいない。異国に(つまり、他者の世界)に触れたときに、荒川の内部から、荒川を突き破ってあらわれる荒川自身を描いていた。それは荒川の知らない荒川であるがゆえに、本物の荒川なのだ。荒川を突き破ってでてきたものを、これはなんだろうと、ふしぎな気持ちで見ている荒川--そのふしぎさのなかに、抒情があった、と思う。--記憶を頼りに、書いているのだが……。
小林稔は自己をみつめる。それはだれもがすることではあるけれど、なぜか、感想を書こうとした瞬間に、そういうことばが浮かび上がってきた。とても基本的なこと、根本的なことが、ふと、思い浮かぶのである。
「明るい鏡」の書き出し。
鏡に写る素肌の男の鳩尾に ゆっくりとナイフを落としていく
刃を男の胸にとどかせるためには
その腕を 手前に引かなければならぬ
鏡があり、そこに映っているのは「実像」ではあっても「実物」ではない。あくまで「像」である。「像」には「像」に先だつ「実物」があって、「像」を破壊するためには、「像」そのものではなく、「実物」を破壊しなければならない。いわば、ここには向きの逆な動き、矛盾した(?)動きというものがある。その矛盾を小林はしっかりとみつめようとしている。
自己洞察とは、いわば、自己を対象化すること。対象化とは自己を自己から切り離すこと。自己から切り離された自己は自己ではない--という矛盾をくぐり抜けないかぎり、自己洞察はできない。
そういうことを、小林はしっかりと理解している。
こういう姿勢、生き方に間違いはない。それは人間ならだれもがしなければならないことである。
しかし、詩は、そうではないのである。
そうではない、と書いてしまうと、ちょっと違ってしまうのだけれど、とりあえず、そうではない、と書いておく。
自分をみつめる。自分を点検する。自己から切り離し、客観化する。それだけでは詩にならない、と言った方がいいのかもしれない。
客観化しようとしてもできないもの、自己から切り離そうとしても切り離せない何かがあって、それが「客観」というような冷静な秩序を突き破って、突然姿をあらわしてしまう。そういうものが詩である。
詩は、制御できないのだ。
五十年以上もの時間を奪いあった私が
この男であると信じてよいか
痛みを分かちもったといえるか
否、私を見つめているのは永遠の他者
ここには何一つ嘘は書かれていないと思う。正しいことが書かれていると思う。そして、ふしぎなことに、それが「正しい」がゆえに、私には詩には感じられないのだ。自分の考えを(思考を)、「否、」と一瞬にして否定できる強い何か--それが小林のことばの運動の基本だけれど、それが強すぎて、詩になりきれない、という感じがする。
鏡をとおして(媒介にして)自己を客観視する。そのときに見える「他者」ではなく、ほかの「他者」がいる、と私は思うのだ。
自分を壊してしまう「他者」というものが、自分の「肉体」の内部に「いのち」になる瞬間を待っている。その誕生は制御できない。その制御できないものがあらわれたときこそが、詩、なのだと私は思う。
小林は、「論理的」であるがゆえに、その「他者」の暴走を抑制してしまっているような気がする。
*
後半に、紀行詩(?)が集められている。異国で体験したことが、とてもていねいに描写されている。良質な観光案内のようだ。あ、小林の行った国へ行ってみたいなあ、と思う。そういう意味では、とてもいい詩なのかもしれない。
新しく出会ったものをきちんと受け止め反応する感受性は、青春の美しさに輝いている。そういう意味では、たぶん、とてもいい詩なのだと思う。
でも、私は、そういうものとは違ったものを読みたい。
異国の風景ではなく、異国へいったときに、それまでの制御をはなれて、小林の内部から暴れ出してくる「いのち」を読みたい、と感じてしまう。「理性」あるいは「客観」を離れて、これなに? わからないよ、というような部分をことばにしてもいいのではないだろうか。
そんなことを、ふと思った。
同時に、私は荒川洋治の『水駅』をふいに思い出した。あ、あれはいい詩集だったなあと、あらためて思った。荒川は「紀行詩」(?)の形をかりながら、異国を描写してはいない。異国に(つまり、他者の世界)に触れたときに、荒川の内部から、荒川を突き破ってあらわれる荒川自身を描いていた。それは荒川の知らない荒川であるがゆえに、本物の荒川なのだ。荒川を突き破ってでてきたものを、これはなんだろうと、ふしぎな気持ちで見ている荒川--そのふしぎさのなかに、抒情があった、と思う。--記憶を頼りに、書いているのだが……。
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