詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

嵯峨恵子『私の男』

2009-04-01 12:02:17 | 詩集
嵯峨恵子『私の男』(思潮社、2009年03月08日発行)

 「映画」からヒントを得て書いた作品がある。私は、そんなに映画を見ていない。嵯峨の取り上げている映画で見ていないものもある。ただ、見ている映画の範囲内で言うと、どうも嵯峨の書いていることがぴんとこない。しっくりこない。
 「アデルの物語」は、トリュフォーの「アデルの恋の物語」を題材にしている。延々とストーリーの紹介がある。そのストーリーは私の記憶しているものと同じなのに、そして、私は「アデルの恋の物語」はとても好きな作品なのに、なんだか遠い感じがする。なぜなんだろう。
 最終連。

私が思い出すのはアデルだけ。ピンソンも下宿先の夫婦も、本屋も記憶からは遠い。アデルだけが強く、ひたむきで埃にまみれてさえ美しかった。十八歳のイザベル・アジャーニ、いや、アデル・ユーゴは。

 あ、そうなんだ。嵯峨は、まずイザベル・アジャーニの恋という感じで映画を見て、いや、これはアデル・ユーゴなんだ、と思っている。美しかったのは、アデル・ユーゴなのだと。アデル・ユーゴの激情が美しかったのだと。きっと、嵯峨は、映画のストーリーを見ていたのだろう。
 私は、映画をそんなふうには見ない。ストーリーは、どの映画でも、まったく関係ない。だから推理ものでも、犯人が誰か聞かされても、(いわゆるネタバレ)、私はぜんぜん気にならない。たぶん、私の見方が間違っているのだろうけれど。
 私はアデル・ユーゴの物語と思って見はじめて、(それはイザベル・アジャーニを見てから10秒くらいなものだと思う)、そのあとはイザベル・アジーャニの恋だと思って見てしまう。アデル・ユーゴは、どこかへ消えてしまっている。俳優のもっている肉体、その感情を見てしまう。見とれてしまう。目と、鼻と、その唇がどんなふうに動くかしか見ていない。
 私も、この映画ではイザベル・アジーャニしか覚えていない。
 そして、だからこそ思うのだが、嵯峨はイザベル・アジャーニしか覚えていないと書いているけれど、その肉体は「寝汗」(4連目)「雪の日の赤い鼻」と「涙」(6連目)しか書かれていない。
 なぜ?
 詩のことばは、ストリート向き合うのではなく、スクリーンの映像、映し出される役者の肉体と向き合わないと、詩にならないのではないか。ストーリーの紹介なら、映画のパンフレットにまかせておけばいいのでは、と思ってしまう。

 ただし、そういう「映画詩」のなかでは、「おばあちゃんに聞いてごらん」はとてもおもしろかった。「ベルヴィル・ランデヴー」というフランス・アニメについて語った詩である。
 1連目と2連目。

おばあちゃんはなんで片足が短いの?
孫のシャンピオンを選手になるまでトレーニングさせるの?
なんでピアノと太鼓かじょうずなの?
おばあちゃんに聞いてごらん
おばあちゃんは何でも知っている

犬のプルートはなんで電車が通るたびにほえるの?
えさはシャンピオンの食べ残し?
ブルーノはなんで自動車やボートを押せるの?
おばあちゃんに聞いてごらん
おばあちゃんは何でも知っている

 この作品では、映画の断片は紹介されているが、ストーリーは紹介されていない。というより、ストーリーと切り離して、余分なことばかりが書かれている。ただし、見た人なら、ここに書いてある映像を思い出すことができる。そして、ストーリーを思い出しながら、結局、おもしろかったのはストーリーではなく、嵯峨が書いている余分なこと--ストーリーから逸脱していく余分なものだったことがわかる。
 たとえばおばあちゃんの片方が短い足。それをあらわすための片方だけヒールの厚い(高い)靴。そのカリカチュアされた肉体と、その肉体を受け入れて生きていく生き方(!)。人生とは、何かを受け入れながら生きていくこと、という姿勢。そこからはじまる、ほんとうに余分なこと。余分--といっても、たぶん、それは余分ではない。きっと、ほかにも方法があるはずなのに、そういう方法をとらずに、一人一人「独自の」方法をとるために生まれてくる「ずれ」なのかもしれない。そして、そういう「ずれ」にフランス人の癖がでていて、それが楽しい。2連目の、ブルーノが電車に吠える理由も、映画を見ているひとならわかるけれど、けっさくでしょ? おいおい、ほんとうに、犬がそんな理由でほえるかい?とちゃちゃを入れたくなるけれど、そんなふうに「論理立てる」のがフランス人なんだろうね。
 ストーリーを分断する余分なもの、ストーリーを逸脱して存在するものをピックアップしながら、それを

おばあちゃんに聞いてごらん
おばあちゃんは何でも知っている

 というリフレインのなかに閉じ込めていく。
 そのリフレインは、なんとういのだろう、この映画のテーマ、自分のできることをしながら世界を完結させ、その自分の世界を充実させて遊ぶという構造にぴったりあっている。
 この映画の登場人物たちは、みんなそれぞれ自分にできることをしている。しかも、どんなときでも楽しんでいる。世界がどうなろうと関係ない。歌を忘れずに生きている。その歌は、たしかに「おばあちゃんに聞いてごらん/おばあちゃんは何でも知っている」と歌っていたかもしれない、という気持ちになる。映画のなかの歌(主題歌?)は「コンスタンチノープルと韻を踏むのは難しい」とかなんとか歌っているのだが、きっとそれは間違いで、ほんとうは「おばあちゃんに聞いてごらん/おばあちゃんは何でも知っている」なんだよ、といいたくなるくらいに、この映画にぴったりである。
 詩集中、この1篇は傑作である、と思った。



 「ベルヴィル・ランデヴー」は、フレンチ・アニメの大傑作。フレンチ味がいっぱい。音楽のつかい方が素朴で楽しい。
 ぜひ、映画も見てください。DVDも紹介しておきます。


私の男―Mon homme
嵯峨 恵子
思潮社

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ロン・ハワード監督「フロスト×ニクソン」(★★★★+★)

2009-04-01 11:04:14 | 映画

監督 ロン・ハワード 出演 フランク・ランジェラ、マイケル・シーン、ケビン・ベーコン

 この映画は一箇所、非常におそろしいシーンがある。フロストがニクソンを追いつめ、「大統領が法なのだ」と言わせたあと、当時を回想したシーン。フロストに協力したひとりが言う。おおよそ、次のような内容である。
 「映像はすべてを切り捨てる。短絡化する。ひとはニクソンが追いつめられ、告白した一瞬のテレビ画面しか覚えていない」
 これはほんとうである。わたしたちは、全体をじっくり検証して何かを判断するのではなく、一瞬の表情で全部を判断してしまう。物事をひとつひとつことばにして、論理的に矛盾がないかどうかなど、気にしないのだ。論理が破綻する、その一瞬。そのときの表情。それだけで、その論理全体を一気に否定する。否定的な判断を下す。
 その判断は、間違ってはいないだろうけれど、たしかに何かを省略している。重要な「過程」を、その「表情」を引き出すまでにつみかさねてきた「過程」を一瞬のうちに忘れさせる。「ほら、やっぱりニクソンが悪かった、とんでもない奴だった」と簡単に判断して、では、そういった悪事が再びおこらないようにするためには何をすべきなのか、ということを考えなくなる。何を、どうすればニクソンのやった犯罪を防げるかは、その表情を引き出すまでの「過程」のなかにこそ手がかりがあるにもかかわらず、である。
 この映画は、映画でありながら、映像文化を厳しく批判している。それがおそろしい。とても冷めた映画である。

 映画は、フロストがニクソンを追いつめていく過程を映像化している。そこには、おもしろい対比がある。
 フロストは軽薄である。マイケル・シーンは「クィーン」(★★★★)のなかでブレア首相を演じ、クィーンから「にやけ顔のブレア」と呼ばれた役者だが、実際、顔がにやけている。とてもニクソンを追いつめるような男には見えない。それはニクソン自身も感じたことなのだと思う。くみやすい相手だと思い、インタビューに応じることにしたのだろう。(何回か金の話が出てくるが、金もそうだが、相手の顔の印象が影響しているだろう。)
 実際に、インタビューがはじまると、ニクソンの独壇場である。質問に対し、延々と一般論で語りつづけ、質問させない。インタビューの時間を演説でつかいきってしまう作戦である。そのとき、フロスト、マイケル・シーンの顔からにやけた印象が消える。笑っていられない。反撃の機会をなくして、うろたえて、椅子に沈み込む。
 このとき、私たちは、ニクソンとフロストの対話など聞いていない。二人の表情から、あ、ニクソンが勝っている、とだけ思う。ニクソンは、ちょっとちゃちゃを入れたいような、おかしな話もするのだか(実際、私は何度か声を上げて笑ってしまったが)、何を話したのだったか、よく思い出せない。ただ、フロストの姿勢が崩れ、顔が低くなり、後ろにさがり、背を自分で支えるのではなく、椅子の背もたれにあずけ、反撃できないというより、ただひたすらニクソンの攻撃をなすすべもなく浴びているという印象だけをもってしまう。
 インタビューのほとんどは、ニクソンが圧勝しているのである。
 ニクソンは非常に堂々とした男であり、フロストは軟弱な、たかがテレビのパフォーマーという印象しか残さない。
 途中には、二人の対比として靴の話が出てくる。フロストの履く靴が甲を解放したイタリア製の紐なしであるのに対して、ニクソンはあくまで甲をしっかりと固定する紐のある靴を履いている。ニクソンは「あの靴を見たか。イタリア製だ。紐なしで女っぽい」。そのことばのように、二人の対決は、攻めるニクソン(男)、うろたえるフロスト(女)という単純化した「映像」に収斂する。映像は、すべてを、簡単に短絡化するのである。
 これが、最後のインタビューで逆転する。
 そこでかわされる対話については省略するが、この大逆転の、勝利の一瞬の映像の処理がとてもすばらしい。
 最初に書いたフロストの仲間の「映像は短絡化する。ひとはニクソンの顔しか覚えていない。見ていない」というせりふを追いかけるようにして、実際のテレビモニターのなかにニクソンの最後の表情を映し出す。それもテレビ画面は斜めになっていて、あっ、ニクソンが絶望しているということがわかる範囲で、ぎりぎりの短い時間だけ、映し出す。映画なのに、映画のカメラがとらえたニクソンのアップではなく、あくまでテレビ--一般の人が見たであろうテレビのモニターのなかのアップを見せる。これは、うまい。ほんとうに、うまい。映画を見ているはずなのに、一気に、ニクソンがインタビューに応じたその時代、その瞬間、その敗北の瞬間に観客を引き込む。ああ、そういうことがあった、と、そのテレビを見ていない私でさえ思うのだから、実際にアメリカでそのテレビを見てひとはきっとその時間に引き戻されたことだろうと思う。
 どんな映像でも、その映像を受け入れるモニター(スクリーン)の大きさと、それにあわせたアップの大きさ(対象への接近の仕方)がある、ということも、ロン・ハワードは熟知しているのかもしれない。最後の最後、だめ押しの表情をテレビでなく、スクリーンでとらえた方が表情ははっきりするし、映画らしくもなるのだが、それではニクソンとのインタビューがつくりものになってしまう。リアルを超越してしまう。リアルを超越していい映画と、超越してはいけない映画があって、この映画はあくまでリアルに踏みとどまる映画である。(そのために映像文化批判までしている。)
 ロン・ハワードは特別に好きな監督というわけではなかったが、この最後の映像で、とても好きになってしまった。--あ、きっと、こんな感想も、きっと「短絡的」と批判されているのだろうけれど。


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『田村隆一全詩集』を読む(41)

2009-04-01 00:03:33 | 田村隆一
 人間とは何か。田村は人間をどのように見ていたか。短い詩がふたつある。「装飾画の秘密」。

猫は一瞬のうちに猫になるが
人間はそうはいかない
光の部分と陰の部分でできているからだ

女性が女性になるためには
軽快なリズムと多彩の色調で
縁取られた時間がいる

神の眼から見れば
猫も人間もおなじ時間のなかで
生きているのだが

画家の眼から見たら
人間は物と交感することで人間になるのだ
とくに女性は装飾のなかで

装飾は流行ではない
装飾には内的な持続があり その時間が
女性に生命をあたえるとしか思えない

まだ だれも
猫の足音を聞いたものはいない

 「人間は物と交感することで人間になるのだ」。この行の「交感」は、次の連で「内的な持続」の「時間」と言い換えられ、「なる」は「生命あたえる」と言い換えられている。ものと交感するときの内的持続をとおして、人間は人間に生命をあたえ、そうすることで人間に「なる」。
 猫は猫になるというよりも「なる」という時間(内的持続)を必要としない。猫は猫に「なる」というよりも、最初から猫で「ある」のだ。人間だけが人間に「なる」のである。内的持続をとおして。

 「受精」という作品では田村は人間と花、蝶と比べている。

人間の見ていないところで
花はひらく

紫色の炎が空から垂れさがり
はげしい驟雨が海のほうへ駈けぬけて行くと

うなだれていた花は光りにむかって
唇をひらく

黒い蝶が通りすぎる
蜜蜂が通る

花は生殖器だから
ぼくは裸体のまま白昼の世界をみつめている

むろん
ぼくは人間ではない

 「ぼくは人間ではない」。では、何なのか。その直前の連が手がかりになるだろう。「ぼくは裸体のまま白昼の世界をみつめている」というのは、もちろん「事実」ではないだろう。比喩だろう。「裸体のまま」というのは。そして、「裸体のまま」であるから、田村は「人間ではない」といっている。「裸体」でないならなら「人間である」。
 「ぼくは人間ではない」の「ない」が重要である。「ない」は「ある」に対して「ない」といっているだ。
 では何なのか。
 「人間」に「なった」のである。
 比喩としての「裸体のまま」。それは、比喩は「ある」ではなく、「なる」である。たとえば、「花は生殖器である」の「生殖器」は比喩である。花は、人間でいえば「生殖器」である。「生殖器」というのは「動物」のものであって「植物」のものではない。比喩である。そして、その比喩をつかったとき、花は生殖器に「なる」。「ある」ではなく、人間の意識のなかで、生殖器に「なる」。
 花が生殖器に「なる」とき、田村は、その生殖器に誘われて「裸体」に「なる」。
 この「なる」というのは、現実というか、客観的な現象ではなく、「内的」なものである。「内的な持続の時間」のなかでおきる現象である。
 そして、こうした「内的持続時間」のなかでおきる変化、花が生殖器に「なり」、田村が裸のままに「なる」という、「なる」の重なり合いを「交感」というのである。

 最終行の「ぼくは人間ではない」とは「ぼくは人間になる」とおなじ意味になる。

 「ぼくは人間である」のでは「ない」。人間に「なる」。「ある」を否定して「なる」へと動く。たどりついたところは、弁証法のように、矛盾→止揚→発展ではないから、簡単にはわからない。「ある」を否定し、解体し、生まれ変わる「なる」も、外見的にはわからない。わかりにくい。すべては「内的持続時間」の問題である。




詩集〈1977~1986〉
田村 隆一
河出書房新社

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