詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

林亮『椅子のように』

2009-04-15 09:22:14 | 詩集
林亮『椅子のように』(私家版、2009年03月01日発行)

 林亮『椅子のように』は短い連作で構成された詩集である。少し俳句に似ているかなあ、世界の把握の仕方、つかんできて、ぱっと放す感覚が俳句的かなあ、と思っていたら、俳句を書く人のようであった。
 「水平線 Ⅲ」が、私は特に好きである。

水平線なのか
水平線の
残像なのか
わたしなのか
わたしのなかの
残像なのか
いつから今を
無くしてしまったのか

 水平線と私の区別がなくなる。その瞬間を「今を/無く」と書いている。
 この「今を/無く」すが、私には、とても俳句的に見える。水平線でも、私でもなく、「いま」がなくなる。「いま」をなくしてしまうと、どうなるのか。「永遠」が広がる。「いま」がブラックホールのようにすべてを飲み込み、一瞬のうちにビッグバンが起き、その一瞬が「永遠」になる。
 それはほんとうに永遠? それとも永遠という残像?
 どちらでもいい。(ほんとうは、どちらでもいいということではないかもしれないけれど。)
 「永遠」とは、そして、「時間」がなくなることでもある。林は「今」と書いているけれど、その「今」を「時間」と定義し直すと、林の「思想」がよくわかると思う。「無・今」は「無・時間」なのである。「永遠」とは拡大された時間ではなく、計測するための基準を、物差しを放棄した時間、物差しを拒絶した時間なのである。「無・時間」の「無」は基準、物差し(たとえば、何時間、何分、何秒という時の単位)を捨て去った、無防備の時間である。
 こういう「時間」を「今」と定義するのは、林が「一期一会」を生きているからである。すべては「いま」しかない。「いま」だれかと、何かと会う。その出会いは一度かぎりであるから、その一度かぎりを「時間」を超越した交感にまで高める。その交感のなかで、自分が自分でなくなる--生まれ変わる。「いま」を「出会い」を、自分が生まれ変わるための瞬間ととらえて、真摯に生きているからだろう。
 そして、この真摯というのは、正直ということでもある。「真剣」というと、なんだか何かをめざしているようで気持ちが悪いが、林の真摯は「正直」。何かを目指すとすれば、それは「無垢」をめざしている。「無為」をめざしている。何もしないで(自分から働きかけるのではなく、という意味)、相手があたえてくれるものを、ただ受け止める、相手が手渡してくれたものに、自分自身をそわせてみる、完全にその対象になるために自分を素っ裸にしていきるという真摯である。
 放心して、完全に無防備になって、好きな海を見つめていたい。あ、何もせず、ただ水平線を見つめたのはいつのことだったろうか、とふと、思った。

 「無・時間」とは、「時間」の「過去」と「未来」の区別がなるなる、ということでもある。「思い出 Ⅲ」はそんな時間の姿を描いている。

夕暮れには
露台に腰を掛けて
ずっと待っている
思い出がわたしに
追い付くのを
思い出がわたしを
追い越していくのを

 「思い出」は過去からやってくる。そして「思い出」がわたしを追い越していく--どこへ? 未来へではなく、やはり「永遠」へというしかない。

 「旅 Ⅴ」にも心がふるえた。

わたしは
わたしとわたしは
時間を旅している
永遠にわたしに
出会うことはない
わたしは旅をし
旅をするわたしと
わたしの隙間を
旅するわたし
そのように雲は流れる

 「一期一会」ということは、「わたし」が常に「わたし」ではなくなるということ。だれかに、何かに出会うたびに「わたし」は生まれ変わる。「わたし」と「生まれ変わったわたし」のそのふたつの「わたし」の間(林は「隙間」と書いている)、「わたしのいのち」がある。それは永遠の旅--永遠の運動である。
 林は、この「無・時間」を「雲」になって流れていく。「生まれ変わる」とは「なる」ということなのでもある。
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『田村隆一全詩集』を読む(55)

2009-04-15 01:01:19 | 田村隆一

 『ワインレッドの夏至』(1985年)には西脇順三郎が登場する。
 西脇はとても音楽的な詩人だったと私は思う。「夏至から冬至まで」という作品で、田村は西脇の不思議な「音楽」(音)について書いている。

カマキューラの山々なども白く」
とJ・Nは
鎌倉をカマキューラと発音したが
その秘密がやっと分かった

 その秘密とは。
 西脇の連れ合い、マジョリイと関係がある。田村は西脇がマジョリイと海岸を歩いているのを見た--というF先生の話を聞く。カマキューラと最初に発音したのはマジョリイである。西脇はその「音」をおもしろいと思い、それを詩にしたのである。
 日本とイギリスの出会い。異質なものが出会うと、そこにはなにかしら不思議な変化がおきる。鎌倉はカマキューラになる、というふうな。
 このとき、この変化のなかに起きていることはなんだろうか。
 異国の出会い、というだけではなさそうである。空間の出会いだけではなさそうである。

 「時間」の「未消化」ということを、私はきのう書いた。私は、かなり飛躍した見方になることを承知で書いているのだが、田村は、この西脇のなかの「音楽」に触れて、「空間」ではなく、「時間」に触れているのだと思う。

 「ワインレッドの夏至」という作品は、「Ambarvalia」に出会った時のことを書いている。
 そのなかに、次の行がある。

それから
ワインレッドの色は
ヨーロッパにひろがりはじめ
一九四一年は北半球のほぼ全域を染めあげる
大戦が三千万の死者と廃墟と死語を遺して夏の嵐のように過ぎ去っていったが
僕のワインレッドの不思議な詩集も
灰になった

その灰の中から
ぼくの戦後の青春がはじまったが
ワインレッドの詩人は
ホメロス以来の文学文明にあらわれた憂鬱の諸形式を脳髄に刻みつけて
憂鬱の熟成にむかう
新潟小千谷(おぢや)から江戸への文明のシルクロードは
ロンドンのキューガーデンへ
そしてイタリアの庭へと
長安からギリシャへと言語空間のシルクロードまでひろがり
その詩には
絵画的な光りがきらめき
油彩と水彩と水墨から
ふるえる野が誕生する

 「絵画的」ということばがある。そして、さまざまな土地を駆け抜けることばのために、この西脇論は、「空間的」に見える。一見、「空間的」である。けれど、田村は、どこかで「時間」を感じているのではないだろうか。西脇のことばの運動が「時間」と交差していると感じているのではないだろうか。
 ここには地名と同時に、「時代」が描かれている。「戦後」「ホメロス」の時代、「江戸」「シルクロード」の時代……。
 「空間」が出会うと同時に「時代」も、つまり「時間」も出会っている。そして、「場」の出会いが「絵画的」だとするなら、「時間」の出会いこそ、「音楽的」というものではないかと思う。
 西脇は外国語に触れた時、「音楽」を感じていたのだと思う。音そのものの中にある不思議な何か。音はつながってことばになる。そのつながりのなかに「時間」が潜んでいる。絵画はあくまで「平面」(空間)としてつながっていく。しかし、「音」はやはり「空間」に広がりはするけれど、その広がりは「平面」ではなく、「時間」として広がり、消えていく。絵画と違って「音」は消えていく。それは、「時間」は消えていくということでもある。
 「時間」が消えるから、かけ離れたものは、何の障害もなく、「いま」「ここ」で出会う。「鎌倉」ということばが「キャマクーラ」と出会うように。

 そんなことは、どこにも書いてない。--たぶん、多くのひとは、そういうだろうと思う。私の書いていることは、完全な「妄想」の類。度を越した「誤読」だと。

 もしかすると、私が西脇の詩について感じていることを、私は田村を利用して(?)語っているだけなのかもしれない。そうだとしても、田村のことばにも、田村が西脇から「時間」と「音楽」を感じ、そこに何かを見出していたという行が、はっきりと存在する。「ワインレッドの夏至」の最終連。

古代的歓喜から
近代的憂鬱へ
二十世紀の
世紀末の

へと旅した詩人の声は

を活性化し多声化しながら
諸生物の夏の
喊声を
よびおこす

 「古代」「近代」「二十世紀」と「声」(音)、そして「多声化」。音楽がぶつかりあいながら、音楽を破壊し、音楽を生成する。
 「鎌倉」が「カマキューラ」だって? そんな「音楽」があるか? ある、と私は思う。そして、そこで鳴り響くのは単に「声」だけではなく、人間が生きてきた「時間」なのだと、思う。「音楽」は「時間」の「肉体」である、と私は思う。
 空間的存在を把握するためには「肉眼」が必要だったように、田村は西脇の「音楽」を通して「肉耳」にであっている。そこに「時間」がある。





ワインレッドの夏至―田村隆一詩集
田村 隆一
集英社

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