林亮『椅子のように』(私家版、2009年03月01日発行)
林亮『椅子のように』は短い連作で構成された詩集である。少し俳句に似ているかなあ、世界の把握の仕方、つかんできて、ぱっと放す感覚が俳句的かなあ、と思っていたら、俳句を書く人のようであった。
「水平線 Ⅲ」が、私は特に好きである。
水平線と私の区別がなくなる。その瞬間を「今を/無く」と書いている。
この「今を/無く」すが、私には、とても俳句的に見える。水平線でも、私でもなく、「いま」がなくなる。「いま」をなくしてしまうと、どうなるのか。「永遠」が広がる。「いま」がブラックホールのようにすべてを飲み込み、一瞬のうちにビッグバンが起き、その一瞬が「永遠」になる。
それはほんとうに永遠? それとも永遠という残像?
どちらでもいい。(ほんとうは、どちらでもいいということではないかもしれないけれど。)
「永遠」とは、そして、「時間」がなくなることでもある。林は「今」と書いているけれど、その「今」を「時間」と定義し直すと、林の「思想」がよくわかると思う。「無・今」は「無・時間」なのである。「永遠」とは拡大された時間ではなく、計測するための基準を、物差しを放棄した時間、物差しを拒絶した時間なのである。「無・時間」の「無」は基準、物差し(たとえば、何時間、何分、何秒という時の単位)を捨て去った、無防備の時間である。
こういう「時間」を「今」と定義するのは、林が「一期一会」を生きているからである。すべては「いま」しかない。「いま」だれかと、何かと会う。その出会いは一度かぎりであるから、その一度かぎりを「時間」を超越した交感にまで高める。その交感のなかで、自分が自分でなくなる--生まれ変わる。「いま」を「出会い」を、自分が生まれ変わるための瞬間ととらえて、真摯に生きているからだろう。
そして、この真摯というのは、正直ということでもある。「真剣」というと、なんだか何かをめざしているようで気持ちが悪いが、林の真摯は「正直」。何かを目指すとすれば、それは「無垢」をめざしている。「無為」をめざしている。何もしないで(自分から働きかけるのではなく、という意味)、相手があたえてくれるものを、ただ受け止める、相手が手渡してくれたものに、自分自身をそわせてみる、完全にその対象になるために自分を素っ裸にしていきるという真摯である。
放心して、完全に無防備になって、好きな海を見つめていたい。あ、何もせず、ただ水平線を見つめたのはいつのことだったろうか、とふと、思った。
「無・時間」とは、「時間」の「過去」と「未来」の区別がなるなる、ということでもある。「思い出 Ⅲ」はそんな時間の姿を描いている。
「思い出」は過去からやってくる。そして「思い出」がわたしを追い越していく--どこへ? 未来へではなく、やはり「永遠」へというしかない。
「旅 Ⅴ」にも心がふるえた。
「一期一会」ということは、「わたし」が常に「わたし」ではなくなるということ。だれかに、何かに出会うたびに「わたし」は生まれ変わる。「わたし」と「生まれ変わったわたし」のそのふたつの「わたし」の間(林は「隙間」と書いている)、「わたしのいのち」がある。それは永遠の旅--永遠の運動である。
林は、この「無・時間」を「雲」になって流れていく。「生まれ変わる」とは「なる」ということなのでもある。
林亮『椅子のように』は短い連作で構成された詩集である。少し俳句に似ているかなあ、世界の把握の仕方、つかんできて、ぱっと放す感覚が俳句的かなあ、と思っていたら、俳句を書く人のようであった。
「水平線 Ⅲ」が、私は特に好きである。
水平線なのか
水平線の
残像なのか
わたしなのか
わたしのなかの
残像なのか
いつから今を
無くしてしまったのか
水平線と私の区別がなくなる。その瞬間を「今を/無く」と書いている。
この「今を/無く」すが、私には、とても俳句的に見える。水平線でも、私でもなく、「いま」がなくなる。「いま」をなくしてしまうと、どうなるのか。「永遠」が広がる。「いま」がブラックホールのようにすべてを飲み込み、一瞬のうちにビッグバンが起き、その一瞬が「永遠」になる。
それはほんとうに永遠? それとも永遠という残像?
どちらでもいい。(ほんとうは、どちらでもいいということではないかもしれないけれど。)
「永遠」とは、そして、「時間」がなくなることでもある。林は「今」と書いているけれど、その「今」を「時間」と定義し直すと、林の「思想」がよくわかると思う。「無・今」は「無・時間」なのである。「永遠」とは拡大された時間ではなく、計測するための基準を、物差しを放棄した時間、物差しを拒絶した時間なのである。「無・時間」の「無」は基準、物差し(たとえば、何時間、何分、何秒という時の単位)を捨て去った、無防備の時間である。
こういう「時間」を「今」と定義するのは、林が「一期一会」を生きているからである。すべては「いま」しかない。「いま」だれかと、何かと会う。その出会いは一度かぎりであるから、その一度かぎりを「時間」を超越した交感にまで高める。その交感のなかで、自分が自分でなくなる--生まれ変わる。「いま」を「出会い」を、自分が生まれ変わるための瞬間ととらえて、真摯に生きているからだろう。
そして、この真摯というのは、正直ということでもある。「真剣」というと、なんだか何かをめざしているようで気持ちが悪いが、林の真摯は「正直」。何かを目指すとすれば、それは「無垢」をめざしている。「無為」をめざしている。何もしないで(自分から働きかけるのではなく、という意味)、相手があたえてくれるものを、ただ受け止める、相手が手渡してくれたものに、自分自身をそわせてみる、完全にその対象になるために自分を素っ裸にしていきるという真摯である。
放心して、完全に無防備になって、好きな海を見つめていたい。あ、何もせず、ただ水平線を見つめたのはいつのことだったろうか、とふと、思った。
「無・時間」とは、「時間」の「過去」と「未来」の区別がなるなる、ということでもある。「思い出 Ⅲ」はそんな時間の姿を描いている。
夕暮れには
露台に腰を掛けて
ずっと待っている
思い出がわたしに
追い付くのを
思い出がわたしを
追い越していくのを
「思い出」は過去からやってくる。そして「思い出」がわたしを追い越していく--どこへ? 未来へではなく、やはり「永遠」へというしかない。
「旅 Ⅴ」にも心がふるえた。
わたしは
わたしとわたしは
時間を旅している
永遠にわたしに
出会うことはない
わたしは旅をし
旅をするわたしと
わたしの隙間を
旅するわたし
そのように雲は流れる
「一期一会」ということは、「わたし」が常に「わたし」ではなくなるということ。だれかに、何かに出会うたびに「わたし」は生まれ変わる。「わたし」と「生まれ変わったわたし」のそのふたつの「わたし」の間(林は「隙間」と書いている)、「わたしのいのち」がある。それは永遠の旅--永遠の運動である。
林は、この「無・時間」を「雲」になって流れていく。「生まれ変わる」とは「なる」ということなのでもある。