詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

岩佐なを「「狩り」がえし」、小長谷清実「廃墟を見た日」

2009-04-09 10:40:05 | 詩(雑誌・同人誌)
岩佐なを「「狩り」がえし」、小長谷清実「廃墟を見た日」(「交野が原」66、2009年05月01日発行) 

 私は、突然、岩佐なをの詩が好きになってしまった。「気持ち悪い、気持ち悪い、気持ち悪い」と書きつづけてきたのだが、「気持ち悪い」って、ほんとうは「気持ちいい」ことなのか、と思うくらいの劇的変化である。私がかわったのか、岩佐がかわったのか。岩佐がかわったのだ、と思い込みたいのだが、違うかもしれない。
 岩佐なを「「狩り」がえし」は「拳狩り」と「平手狩り」というふたつのことがらが書かれている。「拳」で殴る。それは「禁止」。「平手」で殴る。それも「禁止」。いわば、「暴力」の「禁止」だね。封じこめられた「怒り」の鬱屈のようなものを書いているのだと思う。
 その、「意味」ではなく、「文体」が、いまは、とても好きである。
 前半。

「拳狩り」があって
はずされたこぶしは首ケ淵に
みんな放りこまれた
虐げられたこぶしはそれぞれ底で
グッと握ったりパッと開いたり
ゆびをわなわなさせたりしている
クヤシイのさ。
ハズサレてさ。
いつかときが満ちこぶしが解かれて
てのひらになったとき
つぎつぎと握手をもとめあって
そこにまたてのひらがかぶさりかぶさり
うりゃりゃ
どでかいこぶしの団子と化して
淵からとびだしていくのさ。
さんじょう、岩石入道っ。

 5行目、6行目。「グッと握ったりパッと開いたり/ゆびをわなわなさせたりしている」の口語の感覚。岩佐のことばではあるけれど、どこかその辺にころがっている(?)、ごくふつうの口語。それが「文語」ではとらえきれない「ことばにならない」感覚を拾い上げる。文学というのは磨き上げられた「ことば」(鍛練されたことばという意味で、私は「文語」と呼ぶ--古典でいう「文語」とは別の意味で、私は「文語」ということばをつかっている)で書かれるものだとすれば、これは文学ではない。たとえていえば「芸能」である。「落語」のような、暮らしのなかにもぐりこんで、その内部をときほぐす口語である。
 いつのころからかわからないけれど(もしかしたら最初のころからなのかもしれないけれど)、岩佐は、この「口語」の領域が突然ひろがり、そのひろがり、その余裕がとても私には気持ちよく感じられるようになった。
 「グッと握ったりパッと開いたり/ゆびをわなわなさせたりしている」という慣用句の口語のあと、口語そのままの会話、「クヤシイのさ。/ハズサレてさ。」という素早さ。倒置法。それから、ぐいっと力をこめて、「意識の文体」がやってくる。「いつかときが満ちこぶしが解かれて」。あ、この「解かれて」という「文語」。「こぶしが解かれて」なんて、「口語」では、けっして言わない。そこには、何か、「あらたまった気持ち」がある。そのあらたまった気持ちにあわせて、「拳」の「次元」が違ってくる。
 拳がてのひらになり、握手し(にぎりしめ)、その力で再び拳になる。
 この変化が、口語、文語、口語という形と響きあう。
 それは、私には人間の怒りが封じこめられ、無力化されたものが、意識の力で怒りを再構築し、よみがえるという運動の形式に重なって感じられる。岩佐は、こういうこと、わたしのつかったような面倒くさいことばでいわずに、口語と、その鍛えられた文体の力で動かしていく。口語にも文体があるのだ、と教えられる。

 後半は「平手狩り」。全部引用したいけれど、「交野が原」を買って読んでもらいたいので、後半の引用は少しだけ。

てやゆびは強くたくましく育って
ついには泥をぬぐってとびだして
御代官や御大尽の(初版では*「御××や御××の」)
クビをグシグシ絞めたものだったぎゃあ

 「初版では」のふいの「注釈」がおかしい。
 「拳狩り」や「平手狩り」の「拳」「平手」は一種の「伏せ字」なのだ。「御××や御××の」と同じように、わかるひとにはわかる。わからないひとにはわからなくてもかまわない、という「伏せ字」。
 岩佐にとって詩とは、この「伏せ字」の共有のことである。
 何かいいたいことがある。でも、それをそのままいうのではない。「わざと」隠していう。別のことばでいいながら、その別のことばでいっていることを「共有」する。隠語だね。そして、くすくす笑う。
 この「笑い」の強さ。--私が最近の岩佐に感じるのは、この「笑い」の強さである。口語で語られる笑い、文字にしたりしないので、すーっと消えていくようだが、逆に文字にはしないという「知恵」によって、するっと逃げ延びながら生きていく人間の力、その共有。
 そのときの、人間の強さを感じる。



 小長谷清実「廃墟を見た日」は、岩佐が「隠語」で語ることを、「比喩」(象徴)にしてしまう。「比喩」「象徴」を共有する時、見えてくるものを提示する。

廃墟のある地域に
旅をしてくる、
そう言って、ずっと前に
別れた男に
時どき出会う

 「廃墟」も「旅」も比喩である。「男」すらも「比喩」であり、「象徴」かもしれない。小長谷のことばを読む時、私は「口語」ではなく、「文語」を共有する--「文語」を共有しないと、小長谷のことばは動いて見えない。
 小長谷のことばは、岩佐のことばより、はるかに音楽的に感じられることがあるが、その音楽は、たとえていえば岩佐の音楽がカラオケで鍛えられた声だとすると、小長谷の音楽はピアノで正確にみがかれた声である。鍛えた声、みがいた声--これは、あまりに比喩的すぎる言い方かもしれないが……。


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『田村隆一全詩集』を読む(49)

2009-04-09 01:17:09 | 田村隆一

 「千の眼」。これは、逆説である。ヘイリー・ミラーのことばを田村は引用している。そのなかに「千の眼」ということばがでてくる。

子宮の天国と友情の天国との相違は、子宮のなかではひとは盲目だということである。
友だちはきみに、インダラ女神のように、
千の眼を与えてくれる
友だちを通して、無数の人生を経験する。
違った次元を見る。

 「千」は「無数の人生」の「無数」と同じである。「無数の人生」の「無数」はまた「違った次元」と同じ意味である。
 だが、その「千」「無数」はまた「ひとつ」でもある。「千」「無数」は出会いながら、そのひとつひとつを消していくのである。
 田村が、あるいはヘイリー・ミラーが「友だち」にあう。そのとき、田村は田村でなくなる。ヘイリー・ミラーはヘイリー・ミラーではなくなる。田村が消される。ヘイリー・ミラーが消える。いいかえると、「友だち」を通して、生まれ変わる。「友だち」に出会うたびに、田村は、ヘイリー・ミラーは生まれ変わりつづける。生まれ変わるから「別の人生」を、「違った次元」を見ることができる。見ているのは同じ「肉眼」である。
 「友だち」(他人)は、「目」を否定し、破壊し、「肉眼」をめざめさせる。「目」は盲目である。その「盲目」の「目」が叩き壊され、「肉眼」として生まれ変わりつづけるとき、その「ベクトル」としての運動は、ジグザグか一直線か、あるいは複雑な曲線化もしれないけれど、「ひとつ」である。「ひとつ」であるから「ジグザグ」「一直線」「曲線」と名付けることができる。

 それは、つながっている。

 矛盾しているようにだが、田村は、ヘイリー・ミラーは、次々に否定され、破壊され、生まれ変わることで、「千」と「無数」、「違った次元」とつながるのである。それはしかし、矛盾→止揚→発展という軌跡としての「ひとつ」ではない。拡大していく軌跡ではない。むしろ、縮小していく軌跡である。ゼロになっていく軌跡である。
 ゼロになったとき、「ひとつ」になる。
 --私には、矛盾した言語でしか語れないが、そういうものがあるのだ。
 この「ゼロ」を田村は、芭蕉と西脇順三郎を例に、「乞食」ということばで語ってもいる。

松尾芭蕉も西脇順三郎も
詩人になるためには乞食にならなければならないと本気で考え
日夜研鑽したヒーローだった
乞食になるために彼等がどれほど苦労したかわからなかったというエピソードを読むと
乞食が詩人になれるわけがないことがよく分かる

 「乞食」が詩人なのではなく、「乞食」ではなかったものが「乞食」になると詩人なのである。自己否定し、破壊し、「ゼロ」になる。その限りなく「ゼロ」に近い「場」をもとに生まれ変わるとき、それは「千」の「眼」の「肉眼」になって、世界をとらえ直す。その「肉眼」を通ったことばが詩である。
 この「ゼロ」を「無」と言い換えると、東洋哲学に近づきすぎるだろうか。

 だが、どんな哲学も、似た形態をとるのだろう。それをあらわすことばが、それぞれに違うけれど、どこかで共通するのだろう。



泉を求めて―田村隆一対話集 (1974年)
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