岩佐なを「「狩り」がえし」、小長谷清実「廃墟を見た日」(「交野が原」66、2009年05月01日発行)
私は、突然、岩佐なをの詩が好きになってしまった。「気持ち悪い、気持ち悪い、気持ち悪い」と書きつづけてきたのだが、「気持ち悪い」って、ほんとうは「気持ちいい」ことなのか、と思うくらいの劇的変化である。私がかわったのか、岩佐がかわったのか。岩佐がかわったのだ、と思い込みたいのだが、違うかもしれない。
岩佐なを「「狩り」がえし」は「拳狩り」と「平手狩り」というふたつのことがらが書かれている。「拳」で殴る。それは「禁止」。「平手」で殴る。それも「禁止」。いわば、「暴力」の「禁止」だね。封じこめられた「怒り」の鬱屈のようなものを書いているのだと思う。
その、「意味」ではなく、「文体」が、いまは、とても好きである。
前半。
5行目、6行目。「グッと握ったりパッと開いたり/ゆびをわなわなさせたりしている」の口語の感覚。岩佐のことばではあるけれど、どこかその辺にころがっている(?)、ごくふつうの口語。それが「文語」ではとらえきれない「ことばにならない」感覚を拾い上げる。文学というのは磨き上げられた「ことば」(鍛練されたことばという意味で、私は「文語」と呼ぶ--古典でいう「文語」とは別の意味で、私は「文語」ということばをつかっている)で書かれるものだとすれば、これは文学ではない。たとえていえば「芸能」である。「落語」のような、暮らしのなかにもぐりこんで、その内部をときほぐす口語である。
いつのころからかわからないけれど(もしかしたら最初のころからなのかもしれないけれど)、岩佐は、この「口語」の領域が突然ひろがり、そのひろがり、その余裕がとても私には気持ちよく感じられるようになった。
「グッと握ったりパッと開いたり/ゆびをわなわなさせたりしている」という慣用句の口語のあと、口語そのままの会話、「クヤシイのさ。/ハズサレてさ。」という素早さ。倒置法。それから、ぐいっと力をこめて、「意識の文体」がやってくる。「いつかときが満ちこぶしが解かれて」。あ、この「解かれて」という「文語」。「こぶしが解かれて」なんて、「口語」では、けっして言わない。そこには、何か、「あらたまった気持ち」がある。そのあらたまった気持ちにあわせて、「拳」の「次元」が違ってくる。
拳がてのひらになり、握手し(にぎりしめ)、その力で再び拳になる。
この変化が、口語、文語、口語という形と響きあう。
それは、私には人間の怒りが封じこめられ、無力化されたものが、意識の力で怒りを再構築し、よみがえるという運動の形式に重なって感じられる。岩佐は、こういうこと、わたしのつかったような面倒くさいことばでいわずに、口語と、その鍛えられた文体の力で動かしていく。口語にも文体があるのだ、と教えられる。
後半は「平手狩り」。全部引用したいけれど、「交野が原」を買って読んでもらいたいので、後半の引用は少しだけ。
「初版では」のふいの「注釈」がおかしい。
「拳狩り」や「平手狩り」の「拳」「平手」は一種の「伏せ字」なのだ。「御××や御××の」と同じように、わかるひとにはわかる。わからないひとにはわからなくてもかまわない、という「伏せ字」。
岩佐にとって詩とは、この「伏せ字」の共有のことである。
何かいいたいことがある。でも、それをそのままいうのではない。「わざと」隠していう。別のことばでいいながら、その別のことばでいっていることを「共有」する。隠語だね。そして、くすくす笑う。
この「笑い」の強さ。--私が最近の岩佐に感じるのは、この「笑い」の強さである。口語で語られる笑い、文字にしたりしないので、すーっと消えていくようだが、逆に文字にはしないという「知恵」によって、するっと逃げ延びながら生きていく人間の力、その共有。
そのときの、人間の強さを感じる。
*
小長谷清実「廃墟を見た日」は、岩佐が「隠語」で語ることを、「比喩」(象徴)にしてしまう。「比喩」「象徴」を共有する時、見えてくるものを提示する。
「廃墟」も「旅」も比喩である。「男」すらも「比喩」であり、「象徴」かもしれない。小長谷のことばを読む時、私は「口語」ではなく、「文語」を共有する--「文語」を共有しないと、小長谷のことばは動いて見えない。
小長谷のことばは、岩佐のことばより、はるかに音楽的に感じられることがあるが、その音楽は、たとえていえば岩佐の音楽がカラオケで鍛えられた声だとすると、小長谷の音楽はピアノで正確にみがかれた声である。鍛えた声、みがいた声--これは、あまりに比喩的すぎる言い方かもしれないが……。
私は、突然、岩佐なをの詩が好きになってしまった。「気持ち悪い、気持ち悪い、気持ち悪い」と書きつづけてきたのだが、「気持ち悪い」って、ほんとうは「気持ちいい」ことなのか、と思うくらいの劇的変化である。私がかわったのか、岩佐がかわったのか。岩佐がかわったのだ、と思い込みたいのだが、違うかもしれない。
岩佐なを「「狩り」がえし」は「拳狩り」と「平手狩り」というふたつのことがらが書かれている。「拳」で殴る。それは「禁止」。「平手」で殴る。それも「禁止」。いわば、「暴力」の「禁止」だね。封じこめられた「怒り」の鬱屈のようなものを書いているのだと思う。
その、「意味」ではなく、「文体」が、いまは、とても好きである。
前半。
「拳狩り」があって
はずされたこぶしは首ケ淵に
みんな放りこまれた
虐げられたこぶしはそれぞれ底で
グッと握ったりパッと開いたり
ゆびをわなわなさせたりしている
クヤシイのさ。
ハズサレてさ。
いつかときが満ちこぶしが解かれて
てのひらになったとき
つぎつぎと握手をもとめあって
そこにまたてのひらがかぶさりかぶさり
うりゃりゃ
どでかいこぶしの団子と化して
淵からとびだしていくのさ。
さんじょう、岩石入道っ。
5行目、6行目。「グッと握ったりパッと開いたり/ゆびをわなわなさせたりしている」の口語の感覚。岩佐のことばではあるけれど、どこかその辺にころがっている(?)、ごくふつうの口語。それが「文語」ではとらえきれない「ことばにならない」感覚を拾い上げる。文学というのは磨き上げられた「ことば」(鍛練されたことばという意味で、私は「文語」と呼ぶ--古典でいう「文語」とは別の意味で、私は「文語」ということばをつかっている)で書かれるものだとすれば、これは文学ではない。たとえていえば「芸能」である。「落語」のような、暮らしのなかにもぐりこんで、その内部をときほぐす口語である。
いつのころからかわからないけれど(もしかしたら最初のころからなのかもしれないけれど)、岩佐は、この「口語」の領域が突然ひろがり、そのひろがり、その余裕がとても私には気持ちよく感じられるようになった。
「グッと握ったりパッと開いたり/ゆびをわなわなさせたりしている」という慣用句の口語のあと、口語そのままの会話、「クヤシイのさ。/ハズサレてさ。」という素早さ。倒置法。それから、ぐいっと力をこめて、「意識の文体」がやってくる。「いつかときが満ちこぶしが解かれて」。あ、この「解かれて」という「文語」。「こぶしが解かれて」なんて、「口語」では、けっして言わない。そこには、何か、「あらたまった気持ち」がある。そのあらたまった気持ちにあわせて、「拳」の「次元」が違ってくる。
拳がてのひらになり、握手し(にぎりしめ)、その力で再び拳になる。
この変化が、口語、文語、口語という形と響きあう。
それは、私には人間の怒りが封じこめられ、無力化されたものが、意識の力で怒りを再構築し、よみがえるという運動の形式に重なって感じられる。岩佐は、こういうこと、わたしのつかったような面倒くさいことばでいわずに、口語と、その鍛えられた文体の力で動かしていく。口語にも文体があるのだ、と教えられる。
後半は「平手狩り」。全部引用したいけれど、「交野が原」を買って読んでもらいたいので、後半の引用は少しだけ。
てやゆびは強くたくましく育って
ついには泥をぬぐってとびだして
御代官や御大尽の(初版では*「御××や御××の」)
クビをグシグシ絞めたものだったぎゃあ
「初版では」のふいの「注釈」がおかしい。
「拳狩り」や「平手狩り」の「拳」「平手」は一種の「伏せ字」なのだ。「御××や御××の」と同じように、わかるひとにはわかる。わからないひとにはわからなくてもかまわない、という「伏せ字」。
岩佐にとって詩とは、この「伏せ字」の共有のことである。
何かいいたいことがある。でも、それをそのままいうのではない。「わざと」隠していう。別のことばでいいながら、その別のことばでいっていることを「共有」する。隠語だね。そして、くすくす笑う。
この「笑い」の強さ。--私が最近の岩佐に感じるのは、この「笑い」の強さである。口語で語られる笑い、文字にしたりしないので、すーっと消えていくようだが、逆に文字にはしないという「知恵」によって、するっと逃げ延びながら生きていく人間の力、その共有。
そのときの、人間の強さを感じる。
*
小長谷清実「廃墟を見た日」は、岩佐が「隠語」で語ることを、「比喩」(象徴)にしてしまう。「比喩」「象徴」を共有する時、見えてくるものを提示する。
廃墟のある地域に
旅をしてくる、
そう言って、ずっと前に
別れた男に
時どき出会う
「廃墟」も「旅」も比喩である。「男」すらも「比喩」であり、「象徴」かもしれない。小長谷のことばを読む時、私は「口語」ではなく、「文語」を共有する--「文語」を共有しないと、小長谷のことばは動いて見えない。
小長谷のことばは、岩佐のことばより、はるかに音楽的に感じられることがあるが、その音楽は、たとえていえば岩佐の音楽がカラオケで鍛えられた声だとすると、小長谷の音楽はピアノで正確にみがかれた声である。鍛えた声、みがいた声--これは、あまりに比喩的すぎる言い方かもしれないが……。
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