渡会やよひ「類従」、糸井茂莉「鳥/島のための夢」(「庭園詩華集二〇〇九」2009年04月05日)
渡会やよひ「類従」はとても魅力的だ。
「砂」を「虎」ではないか、と見間違う。そして、それを「情動」と呼ぶ。--渡会は正確には「情動にとらえられる」と書いているのだが、「砂」を見たから「情動」が起きたのか、「砂」を「虎」と見たから「情動」が起きたのか、あるいは「情動」が潜んでいたために「砂」が「虎」に見えたのか、はっきりしない。たぶん、それは分離できないものだと思う。分離できないがゆえに、それを「砂=虎」は情動であり、「砂=虎=情動」なのだと思う。
さらにいえば、「砂」「虎」は渡会の外部にあり、「情動」は渡会の内部にあるものだが、それが同じものとして結びつく時、そこには外部・内部という区別はなくなる。
この、区別のなくなったもののつながりの内部へと渡会は、ことばの力で入っていく。そのことばの歩みがとても美しい。
「砂=虎=情動」は「均衡」している。そして、それが尋常なことではない(ふつうの世界ではない)ということを渡会は意識している。だからこそ「渡れるだろうか」「近づけるだろうか」と疑問の形でことばを動かしている。それは、「日常的」には、あってはならない世界の形である。だから「詩」という形をとっている。
そして、そんなふうに「疑問」を持てば持つほど、その「均衡」はより緊密になる。この不思議。この不思議さのなかに、詩がある。
なんと美しい2行だろうか。「砂」を「とら」と呼ぶ「情動」、「虎」を「すな」と呼んでしまう「情動」。漢字、1字あき、ひらがな、漢字、1字下げ、ひらがな、ということばの動きのなかに「情動」の揺らぎがある。1字あきのなかに、改行の瞬間に、「情動」がことばを渡る、ことばに近づく。
渡会は、もう、このとき現実の「砂」「虎」ではなく、ことばそのものを渡り、ことばそのものに近づくのだ。ものをことばで呼ぶという行為そのものになるのだ。
緊密であること。渡ること。近づくこと。それは「つながる」ということばのなかで収斂する。ことばが、「もの」(たとえば、砂、たとえば虎)と肉体(たとえば情動)をつなぐ。その瞬間に、人間は、詩に生まれ変わる。
そして、その瞬間、世界が、激変する。
もう、そこでは渡会は人間ではない。砂はもちろん砂ではない。虎も虎ではない。渡会は、そのことばは、すべてを超越してゆく。そして、すべてになりうる何かになる。まだ名付けられていない何かに、瞬間的に、かわってしまう。
「自在」ということばがある。
渡会は、この瞬間、「自在」に何にでもなれるエネルギーそのものになる。
*
糸井茂莉「鳥/島のための夢」は、渡会とは「区別」の仕方が違っている。渡会は、「砂」を「虎」と見間違えたが、糸井は、夢のなかで「鳥」を「島」かといぶかる。
糸井は、渡会と違って「見間違えない」。「不明」のものから出発して、それを「鳥」と「島」へ分離していく。渡会が接近していく(つながることを夢見ている)のに対して、糸井は切断していく。
1連目が象徴的である。
「切れる」「結ばれず」--糸井は、最初から、対象と離れた場にいて、そこで浮遊する。対象に言及することは、対象に近づき、つながることであるはずだが、近づき、それに触れながらも、糸井は、ひたすらそこから離れようとする。分離しようとする。そのために、ことばをつかう。そして、
というふうに、中断する。宙吊りのまま、世界のなかにある。それが糸井の「自在」である。
渡会やよひ「類従」はとても魅力的だ。
動物園のはずれで
不意の情動にとらえられるのは
枯れた雑草ゾーンに
盛り砂があるからだ
目路をさえぎり
陥没の危うさに寝そべって
油断なく荒んでいるもの
かぎりなく凝縮するものであり
美しく崩れるもの
それはまた獣舎を離れた虎ではないか
「砂」を「虎」ではないか、と見間違う。そして、それを「情動」と呼ぶ。--渡会は正確には「情動にとらえられる」と書いているのだが、「砂」を見たから「情動」が起きたのか、「砂」を「虎」と見たから「情動」が起きたのか、あるいは「情動」が潜んでいたために「砂」が「虎」に見えたのか、はっきりしない。たぶん、それは分離できないものだと思う。分離できないがゆえに、それを「砂=虎」は情動であり、「砂=虎=情動」なのだと思う。
さらにいえば、「砂」「虎」は渡会の外部にあり、「情動」は渡会の内部にあるものだが、それが同じものとして結びつく時、そこには外部・内部という区別はなくなる。
この、区別のなくなったもののつながりの内部へと渡会は、ことばの力で入っていく。そのことばの歩みがとても美しい。
ゆるやかにカーブする背中
翳る幾条かの創の縞
まだ何ものにもならない
代赭色の気高い憧憬
渡れるだろうか
その一刷毛の稜線を
吹き上げる風に虎落笛のようにこたえれば
近づけるだろうか
その激しく均衡するものに
「砂=虎=情動」は「均衡」している。そして、それが尋常なことではない(ふつうの世界ではない)ということを渡会は意識している。だからこそ「渡れるだろうか」「近づけるだろうか」と疑問の形でことばを動かしている。それは、「日常的」には、あってはならない世界の形である。だから「詩」という形をとっている。
そして、そんなふうに「疑問」を持てば持つほど、その「均衡」はより緊密になる。この不思議。この不思議さのなかに、詩がある。
砂 とら
虎 すな
なんと美しい2行だろうか。「砂」を「とら」と呼ぶ「情動」、「虎」を「すな」と呼んでしまう「情動」。漢字、1字あき、ひらがな、漢字、1字下げ、ひらがな、ということばの動きのなかに「情動」の揺らぎがある。1字あきのなかに、改行の瞬間に、「情動」がことばを渡る、ことばに近づく。
渡会は、もう、このとき現実の「砂」「虎」ではなく、ことばそのものを渡り、ことばそのものに近づくのだ。ものをことばで呼ぶという行為そのものになるのだ。
砂の無数の微小な眼窩から
あの果てしなく極まる二つの眼に
金色にかがようさみしい尾に
つながることができるだろうか
緊密であること。渡ること。近づくこと。それは「つながる」ということばのなかで収斂する。ことばが、「もの」(たとえば、砂、たとえば虎)と肉体(たとえば情動)をつなぐ。その瞬間に、人間は、詩に生まれ変わる。
そして、その瞬間、世界が、激変する。
地に伏す枯草を踏み
ひややかにやさしい音楽にくるぶしを埋(うず)められ
砂 とら
虎 すな
見知らぬものにただ類従を願い
この結界を
はみだしてゆく
もう、そこでは渡会は人間ではない。砂はもちろん砂ではない。虎も虎ではない。渡会は、そのことばは、すべてを超越してゆく。そして、すべてになりうる何かになる。まだ名付けられていない何かに、瞬間的に、かわってしまう。
「自在」ということばがある。
渡会は、この瞬間、「自在」に何にでもなれるエネルギーそのものになる。
*
糸井茂莉「鳥/島のための夢」は、渡会とは「区別」の仕方が違っている。渡会は、「砂」を「虎」と見間違えたが、糸井は、夢のなかで「鳥」を「島」かといぶかる。
島だろうか、とりだろうか。あれは。しるしのようになびくあの白いものは。島、とする筋肉の盛り上がりを見せてくぼんでゆく土のきれはし。孤島としての夜。鳥、とする。象徴の肉片となって虚空に消える物体。ちぎれて、漂って。うっすらとわたしに近づいてく。兆しとしての夜。
糸井は、渡会と違って「見間違えない」。「不明」のものから出発して、それを「鳥」と「島」へ分離していく。渡会が接近していく(つながることを夢見ている)のに対して、糸井は切断していく。
1連目が象徴的である。
切れる、途切れる、続かないように、意味をなさないように、断ち切れる、逸れる、浮遊するため、夢のように、夢という言葉のため、夢になるために、消える、在るために、白の、からっぽの、肉体とはよべないものに、なるため、来るため、意味の、身体の軌道を残さないように、身体の意味が不意にあらわれないように、さやかに、白の、ささやかに、結ばれずに、結ばれずに、この、
「切れる」「結ばれず」--糸井は、最初から、対象と離れた場にいて、そこで浮遊する。対象に言及することは、対象に近づき、つながることであるはずだが、近づき、それに触れながらも、糸井は、ひたすらそこから離れようとする。分離しようとする。そのために、ことばをつかう。そして、
この、
というふうに、中断する。宙吊りのまま、世界のなかにある。それが糸井の「自在」である。
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