監督 ダニー・ボイル 脚本 サイモン・ビューフォイ 出演 デーヴ・バテル、フリーダ・ピンチ、イルファン・カーン
好きなシーンがいくつかあるが、とりわけ好きなのが、ラストシーンの、駅で主人公の少年が初恋の少女と再会するシーン。少年が少女のほほの傷に唇をつける。そのときフィルムが猛スピードで逆回転する。まだ少女のほほに傷がないときまで。いまの少女はほほに傷があるけれど、その傷が記憶の美しいほほに瞬時のうちにとってかわる。少年は「いま」を生きると同時に、「過去」を生きている。過去のあらゆる瞬間が、「いま」を輝かせるのだ。
この「いま」と「過去」の関係は、この映画のすべてである。
少年はクイズショーの難問を次々に突破していく。学校教育を受けていないのに、次々に難問を答える。なぜ、そういうことができるか--ということを解きあかす形でストーリーは進むのだが、彼が答えることができるのは、それを「体験」しているからだ。人は「知識」は忘れる。けれど、体験は忘れない。
たとえば、クイズで「 100ドル札に書かれているアメリカ大統領は?」という問題がでたとき、少年はかつていっしょに暮らしたことのある少年を思い出す。その少年は「盲目」にさせられ、路上でシンガーとして物乞いをしている。主人公は、金持ちのアメリカ人のふりをしてその少年に 100ドル札を渡すのだが、そのとき盲目の少年は主人公に「どんな絵が書いてある?」と確かめる。主人公は顔をことばで描写する。すると盲目の少年は「ベンジャミン・フランクリンだ。 100ドル札にまちがいない」という。少年は 100ドル札をつかわない。 100ルピー札も知らない。それは実際に手にしたことがないからだ。けれど、かつての仲間がいったことば、 100ドル札にはベンジャミン・フランクリンの肖像が描いてあるということは忘れることができない。これが学校で教わった「知識」なら忘れてしまったかもしれない。だが、現実は、ぜったい間違えてはいけないものとして身につけた「体験」は忘れようがない。ベンジャミン・フランクリンはアメリカの大統領ではなく、かつていっしょに暮らしたことのある少年、盲目にさせられて、路上で歌を歌い物乞いをさせられている友だちが話してくれた 100ドル札の絵だからである。
少年が知っているのは、自分の体験だけである。絶対に間違えることのない自分のなまなましい体験。命懸けの体験だけである。
クリケット遊びはするけれど、それは遊びでするものであって見るものではない。だから、だれがどんな記録を残したかは知らない。映画をたくさんみているわけではないが、自分が糞壺に飛び込んでまでしてサインを俳優の名前は忘れるはずがない。『三銃士』の本は見たことがあり、聞いたこともあるが、読んだことはないので(学校へきちんといけなかったので)、その登場人物は知らない……。
その体験には、とてもムラがある。きちんと学校へ行き、そこで学習するのではなく、生きていく過程で必要なものだけを体験するから、どうしてもそこで身につけた「知識」は体系立っていない。--このムラが、クイズの形式にぴったりあって、少年は、つぎつぎに正解を答える。そこには、他人が(司会者が)しかけた嘘を見抜くという「知恵」も含まれる。
インド、ムンバイという土地が(暮らしが)、少年をそんなふうに育てた。貧しい暮らし、そこを訪問する金持ちのアメリカ人というギャップ。宗教の対立があり、ギャングが横行し、他方で安い人件費ゆえに「世界のコールセンター」が存在する都市。コンピューターをたたけば、さまざまな「知識」が無料で集まってくる仕組み。そこでは、体系だった成長というものの方がむりかもしれない。現実の過激さが、体系をくずしていくのである。
映画からは、そうい現実がみえてくる。現実と真剣に向き合いながら生きている人間がみえてくる。
この映画のすばらしさは、何よりもそういう現実をアトランダムのクイズ形式と重ねて展開する脚本にある。クイズの質問ごとに少年の「過去」がなまなましくよみがえる。それは「過去」ではなく、「いま」の彼の「いのち」そのものとしてよみがえる。なぜなら、彼がクイズにでているのは、初恋の少女に再び会うことが目的なのだから。多くの国民が見ているテレビ。そこに出れば、離ればなれになった少女が見てくれるかもしれない。そして会いに来てくれるかもしれない。少年の恋は現在形(いま)であり、その恋の過程に体験してきたことが、クイズとともによみがえる。過酷な体験だけがよみがえるのではなく、瑞々しい思いがよみがえる。愛がよみがえる。
愛があるとき、ひとは答えを間違えるはずがないのである。
これは、最後の最後に、美しい形で描かれる。「三銃士の主人公はだれ?」少年は知らない。そして「ライフライン」で電話に出た少女も知らない。彼等は本を読まない。でも、間違えるはずがない。それはふたりが愛し合っているからである。--そんな、ばかな、そんな非現実的な、と思うひとがいるなら、それは愛を知らないからである。知らなくても「正解」を選んでしまう。それは「軌跡」でも「偶然」でもなく、その愛が「運命」だからである。
映画の宣伝文句にのってしまったような書き方になってしまったが、それは確かにそうなのだ。そうに違いないと信じさせてくれる力が、この映画の脚本には宿っている。
もひとつ、おまけ(?)。
映画のほんとうのラスト。ストーリーがおわったあとの、クレジットの紹介に先だってはじまるダンスシーンがすばらしい。駅のプラットホームで登場人物が踊る。華やかで、すべてが生きている歓びにかわる。それはストーリーとは関係ない。関係ないけれど、その「いま」を生きて楽しむというエネルギーが炸裂していて、あ、これがインドなのだと感動してしまう。ストーリー部分に拮抗する、「付録」(おまけ)とはいえない。付録、おまけを超越した美しさに満ちている。
好きなシーンがいくつかあるが、とりわけ好きなのが、ラストシーンの、駅で主人公の少年が初恋の少女と再会するシーン。少年が少女のほほの傷に唇をつける。そのときフィルムが猛スピードで逆回転する。まだ少女のほほに傷がないときまで。いまの少女はほほに傷があるけれど、その傷が記憶の美しいほほに瞬時のうちにとってかわる。少年は「いま」を生きると同時に、「過去」を生きている。過去のあらゆる瞬間が、「いま」を輝かせるのだ。
この「いま」と「過去」の関係は、この映画のすべてである。
少年はクイズショーの難問を次々に突破していく。学校教育を受けていないのに、次々に難問を答える。なぜ、そういうことができるか--ということを解きあかす形でストーリーは進むのだが、彼が答えることができるのは、それを「体験」しているからだ。人は「知識」は忘れる。けれど、体験は忘れない。
たとえば、クイズで「 100ドル札に書かれているアメリカ大統領は?」という問題がでたとき、少年はかつていっしょに暮らしたことのある少年を思い出す。その少年は「盲目」にさせられ、路上でシンガーとして物乞いをしている。主人公は、金持ちのアメリカ人のふりをしてその少年に 100ドル札を渡すのだが、そのとき盲目の少年は主人公に「どんな絵が書いてある?」と確かめる。主人公は顔をことばで描写する。すると盲目の少年は「ベンジャミン・フランクリンだ。 100ドル札にまちがいない」という。少年は 100ドル札をつかわない。 100ルピー札も知らない。それは実際に手にしたことがないからだ。けれど、かつての仲間がいったことば、 100ドル札にはベンジャミン・フランクリンの肖像が描いてあるということは忘れることができない。これが学校で教わった「知識」なら忘れてしまったかもしれない。だが、現実は、ぜったい間違えてはいけないものとして身につけた「体験」は忘れようがない。ベンジャミン・フランクリンはアメリカの大統領ではなく、かつていっしょに暮らしたことのある少年、盲目にさせられて、路上で歌を歌い物乞いをさせられている友だちが話してくれた 100ドル札の絵だからである。
少年が知っているのは、自分の体験だけである。絶対に間違えることのない自分のなまなましい体験。命懸けの体験だけである。
クリケット遊びはするけれど、それは遊びでするものであって見るものではない。だから、だれがどんな記録を残したかは知らない。映画をたくさんみているわけではないが、自分が糞壺に飛び込んでまでしてサインを俳優の名前は忘れるはずがない。『三銃士』の本は見たことがあり、聞いたこともあるが、読んだことはないので(学校へきちんといけなかったので)、その登場人物は知らない……。
その体験には、とてもムラがある。きちんと学校へ行き、そこで学習するのではなく、生きていく過程で必要なものだけを体験するから、どうしてもそこで身につけた「知識」は体系立っていない。--このムラが、クイズの形式にぴったりあって、少年は、つぎつぎに正解を答える。そこには、他人が(司会者が)しかけた嘘を見抜くという「知恵」も含まれる。
インド、ムンバイという土地が(暮らしが)、少年をそんなふうに育てた。貧しい暮らし、そこを訪問する金持ちのアメリカ人というギャップ。宗教の対立があり、ギャングが横行し、他方で安い人件費ゆえに「世界のコールセンター」が存在する都市。コンピューターをたたけば、さまざまな「知識」が無料で集まってくる仕組み。そこでは、体系だった成長というものの方がむりかもしれない。現実の過激さが、体系をくずしていくのである。
映画からは、そうい現実がみえてくる。現実と真剣に向き合いながら生きている人間がみえてくる。
この映画のすばらしさは、何よりもそういう現実をアトランダムのクイズ形式と重ねて展開する脚本にある。クイズの質問ごとに少年の「過去」がなまなましくよみがえる。それは「過去」ではなく、「いま」の彼の「いのち」そのものとしてよみがえる。なぜなら、彼がクイズにでているのは、初恋の少女に再び会うことが目的なのだから。多くの国民が見ているテレビ。そこに出れば、離ればなれになった少女が見てくれるかもしれない。そして会いに来てくれるかもしれない。少年の恋は現在形(いま)であり、その恋の過程に体験してきたことが、クイズとともによみがえる。過酷な体験だけがよみがえるのではなく、瑞々しい思いがよみがえる。愛がよみがえる。
愛があるとき、ひとは答えを間違えるはずがないのである。
これは、最後の最後に、美しい形で描かれる。「三銃士の主人公はだれ?」少年は知らない。そして「ライフライン」で電話に出た少女も知らない。彼等は本を読まない。でも、間違えるはずがない。それはふたりが愛し合っているからである。--そんな、ばかな、そんな非現実的な、と思うひとがいるなら、それは愛を知らないからである。知らなくても「正解」を選んでしまう。それは「軌跡」でも「偶然」でもなく、その愛が「運命」だからである。
映画の宣伝文句にのってしまったような書き方になってしまったが、それは確かにそうなのだ。そうに違いないと信じさせてくれる力が、この映画の脚本には宿っている。
もひとつ、おまけ(?)。
映画のほんとうのラスト。ストーリーがおわったあとの、クレジットの紹介に先だってはじまるダンスシーンがすばらしい。駅のプラットホームで登場人物が踊る。華やかで、すべてが生きている歓びにかわる。それはストーリーとは関係ない。関係ないけれど、その「いま」を生きて楽しむというエネルギーが炸裂していて、あ、これがインドなのだと感動してしまう。ストーリー部分に拮抗する、「付録」(おまけ)とはいえない。付録、おまけを超越した美しさに満ちている。
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