詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

ダニー・ボイル監督「スラムドッグ・ミリオネラ」(★★★★)

2009-04-22 21:35:31 | 映画
監督 ダニー・ボイル 脚本 サイモン・ビューフォイ 出演 デーヴ・バテル、フリーダ・ピンチ、イルファン・カーン

 好きなシーンがいくつかあるが、とりわけ好きなのが、ラストシーンの、駅で主人公の少年が初恋の少女と再会するシーン。少年が少女のほほの傷に唇をつける。そのときフィルムが猛スピードで逆回転する。まだ少女のほほに傷がないときまで。いまの少女はほほに傷があるけれど、その傷が記憶の美しいほほに瞬時のうちにとってかわる。少年は「いま」を生きると同時に、「過去」を生きている。過去のあらゆる瞬間が、「いま」を輝かせるのだ。
 この「いま」と「過去」の関係は、この映画のすべてである。
 少年はクイズショーの難問を次々に突破していく。学校教育を受けていないのに、次々に難問を答える。なぜ、そういうことができるか--ということを解きあかす形でストーリーは進むのだが、彼が答えることができるのは、それを「体験」しているからだ。人は「知識」は忘れる。けれど、体験は忘れない。
 たとえば、クイズで「 100ドル札に書かれているアメリカ大統領は?」という問題がでたとき、少年はかつていっしょに暮らしたことのある少年を思い出す。その少年は「盲目」にさせられ、路上でシンガーとして物乞いをしている。主人公は、金持ちのアメリカ人のふりをしてその少年に 100ドル札を渡すのだが、そのとき盲目の少年は主人公に「どんな絵が書いてある?」と確かめる。主人公は顔をことばで描写する。すると盲目の少年は「ベンジャミン・フランクリンだ。 100ドル札にまちがいない」という。少年は 100ドル札をつかわない。 100ルピー札も知らない。それは実際に手にしたことがないからだ。けれど、かつての仲間がいったことば、 100ドル札にはベンジャミン・フランクリンの肖像が描いてあるということは忘れることができない。これが学校で教わった「知識」なら忘れてしまったかもしれない。だが、現実は、ぜったい間違えてはいけないものとして身につけた「体験」は忘れようがない。ベンジャミン・フランクリンはアメリカの大統領ではなく、かつていっしょに暮らしたことのある少年、盲目にさせられて、路上で歌を歌い物乞いをさせられている友だちが話してくれた 100ドル札の絵だからである。
 少年が知っているのは、自分の体験だけである。絶対に間違えることのない自分のなまなましい体験。命懸けの体験だけである。
 クリケット遊びはするけれど、それは遊びでするものであって見るものではない。だから、だれがどんな記録を残したかは知らない。映画をたくさんみているわけではないが、自分が糞壺に飛び込んでまでしてサインを俳優の名前は忘れるはずがない。『三銃士』の本は見たことがあり、聞いたこともあるが、読んだことはないので(学校へきちんといけなかったので)、その登場人物は知らない……。
 その体験には、とてもムラがある。きちんと学校へ行き、そこで学習するのではなく、生きていく過程で必要なものだけを体験するから、どうしてもそこで身につけた「知識」は体系立っていない。--このムラが、クイズの形式にぴったりあって、少年は、つぎつぎに正解を答える。そこには、他人が(司会者が)しかけた嘘を見抜くという「知恵」も含まれる。
 インド、ムンバイという土地が(暮らしが)、少年をそんなふうに育てた。貧しい暮らし、そこを訪問する金持ちのアメリカ人というギャップ。宗教の対立があり、ギャングが横行し、他方で安い人件費ゆえに「世界のコールセンター」が存在する都市。コンピューターをたたけば、さまざまな「知識」が無料で集まってくる仕組み。そこでは、体系だった成長というものの方がむりかもしれない。現実の過激さが、体系をくずしていくのである。
 映画からは、そうい現実がみえてくる。現実と真剣に向き合いながら生きている人間がみえてくる。

 この映画のすばらしさは、何よりもそういう現実をアトランダムのクイズ形式と重ねて展開する脚本にある。クイズの質問ごとに少年の「過去」がなまなましくよみがえる。それは「過去」ではなく、「いま」の彼の「いのち」そのものとしてよみがえる。なぜなら、彼がクイズにでているのは、初恋の少女に再び会うことが目的なのだから。多くの国民が見ているテレビ。そこに出れば、離ればなれになった少女が見てくれるかもしれない。そして会いに来てくれるかもしれない。少年の恋は現在形(いま)であり、その恋の過程に体験してきたことが、クイズとともによみがえる。過酷な体験だけがよみがえるのではなく、瑞々しい思いがよみがえる。愛がよみがえる。
 愛があるとき、ひとは答えを間違えるはずがないのである。
 これは、最後の最後に、美しい形で描かれる。「三銃士の主人公はだれ?」少年は知らない。そして「ライフライン」で電話に出た少女も知らない。彼等は本を読まない。でも、間違えるはずがない。それはふたりが愛し合っているからである。--そんな、ばかな、そんな非現実的な、と思うひとがいるなら、それは愛を知らないからである。知らなくても「正解」を選んでしまう。それは「軌跡」でも「偶然」でもなく、その愛が「運命」だからである。
 映画の宣伝文句にのってしまったような書き方になってしまったが、それは確かにそうなのだ。そうに違いないと信じさせてくれる力が、この映画の脚本には宿っている。

 もひとつ、おまけ(?)。
 映画のほんとうのラスト。ストーリーがおわったあとの、クレジットの紹介に先だってはじまるダンスシーンがすばらしい。駅のプラットホームで登場人物が踊る。華やかで、すべてが生きている歓びにかわる。それはストーリーとは関係ない。関係ないけれど、その「いま」を生きて楽しむというエネルギーが炸裂していて、あ、これがインドなのだと感動してしまう。ストーリー部分に拮抗する、「付録」(おまけ)とはいえない。付録、おまけを超越した美しさに満ちている。


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荒川洋治『実視連星』

2009-04-22 14:57:37 | 詩集
荒川洋治『実視連星』(思潮社、2009年05月01日発行)

 「写真機の雲」という作品がある。そのなかほど、

Sはあるとき
Sよりも年上の男を
「先輩! 先輩!」
とうれしそうに呼んでいた
その先輩、先輩と呼ばれた人は
酒の入ったコップをもちながら にっこりとわらい
「きみは、ユーモアものでもかいてみたら。あいうえお」
と石川にいった
先輩はこれで二人になった
同じことをいう これが感じとれる社会だ

 最後の「同じこと」というのは、詩の冒頭の部分を受けている。

二年先輩のSは 石川が学生のころ
「おまえには 才能はない
趣味で ユーモア小説でもかいてみろや」
と言った
このSのひとことかが
石川の雲を先導した

 「ユーモア小説(もの)でもかいてみろ」と石川は2回言われた。そこに「社会」がある。「社会」とは「同じこと」を言ってくれるひとたちとの関係のことである。
 荒川が詩をとおして書きつづけているのは、この「同じことをいう」という暮らしの(生き方の)大切さである。「同じことをいう」という習慣が消えつつある。それは「同じこと」が消えるということでもある。荒川は、その消えつつある「同じこと」を詩の形にして守りつづけている。守りつづけていると書くと保守的な感じがするかもしれないが、誰もが「同じことだからいわない」という風潮を生きている時と、この「同じことをいう」という生き方は非常に革新的である。革新的でありすぎて、その革新性が見えにくい。つまり、どんなふうに革新的であるかを説明しようとすると、非常にめんどうくさい。

 「社会」「同じことをいう」。それに関することばはつづく。

同じことをいう これが感じとれる社会だ
でも体制の転覆はないぜ と
Sのたよりは かなしいことにふれた
長文でもないので そこに社会があった 恐怖があった

 「同じこと」は「長文」ではない。とても短い。短いけれど、それをささえている「感じ」はとても長い。短い「同じこと」を聞かされながら、どれだけ長い(長文の)「感じ」を感じ取れるか--それが大切なのである。
 短い「同じこと」を繰り返し言いつづけ、それが感じ取れるまでそのひとを待ってくれるのが「社会」というものである。そういう「社会」はしだいに消えつつある。たとえば「先輩」という「社会」も。その結果、「短いことば」の奥にある「長い感じ」がどんどん消されてしまって、「感じ」そのものが「日本語」から消えてしまっていく。
 荒川が感じていることばへの思いは、そういうことだろうと思う。
 「日本語」から「感じ」を消したくない。「日本語」に「感じ」を復活させたい。--荒川がやっていることは、それにつきると思う。『水駅』のころから、それは一貫していると思う。『水駅』のころは、それが「抒情」という形に見えたので理解しやすかったが、いま書いている作品には「抒情」のような簡単な(便利な)キーワードがない。そのために、とても説明しにくい。
 「同じこと」をいう社会。それを言ってくれるひととの関係。そのなかでつくられ、そだてられていく感じ、そしてことばのつかいかたの作法。それは、ことばをどう感じ取るかという感じ方の「教育」でもある。

 うまくいえない。

 たとえば、次の連の次の部分。

「おれの着物はおまえの反物」
そんなことも
Sはいったように思うが
この いまの思いがうれしくて
少しもそれを真剣にきいていない
「あとから誰かがきくだろう」
石川はそう思い
勇気のある行動に出ようとした

 ひとが何かいう。いってくれる。それを「真剣」にはきかない。「あとから誰かがきくだろう」。そんなふうに聞き逃す。そうやってやりすごしたことばを、もう一度誰かがいってくれる時(それに気づいた時)、そこから「社会」がうまれる。つまり、離れているふたり(同じことをいってくれたふたり)が、石川というひとりを中心につながる。そして、そこに「感じ」が流れはじめる。「感じ」が存在するだけではなく、動きはじめる。
 荒川は、ことばを、1対1の関係の中で動かそうとはしていない。1対1の関係のなかにとじこめようとはしていない。1対1から解放しようとしている。そう説明すれば、いくらか荒川の革新性に近づくことになるだろうか。
 ことばは、たとえば恋人に愛を告白することばは、基本的に1対1の関係にある。ほかのひとが納得しなくても相手さえ納得すれば、それはことばとして有効である。そういうことを狙ったことばは、たくさんある。1対1の関係の中で有効なことばが流通し、反乱しているとさえいえる。
 荒川は、そういうことばに対して、1対1をさえている、もっとゆるやかな、感じ方そのものを育てることばを復活させようとしている。
 「あとから誰かがきくだろう」は、この連の部分では、石川自身の思いとなっているけれど、それはほんとうはSの思いでもある。「あとから石川はまた誰かから聞かされるだろう」。いま、いっていることがわからなくてもいい。いつか、また誰かに出会い、「おなじこと」を聞く。そのとき、「感じ」がわかる。「感じ」を思い出す。そんな具合にして、深いところでつながっていく「社会」というものがある。
 「先輩」とは、たぶん「おなじこと」をいってくれる人のことである。
 昔は、こういう「先輩」の集団を「壇」と呼んでいた、と思う。荒川は、いまはなくなった「壇」を復活させようとしている。「壇」によって、ことばの「感じ」をささえ、ことばの動き方を鍛練しようとしている。
 でも、これは、現代のように、「オンリーワン」至上主義の時代には、なかなか通じないだろうと思う。人間は「ナンバーワン」でなくていいのはもちろんだけれど、「オンリーワン」でなくてもいいのである。「オンリーワン」などといわなくても人はひとりにきまっている。「オンリーワン」でなくてもひとりであり、同時に、そのひとりは「感じ」をそれぞれに持っている、「感じ方」を共有しているということが重要なのである。「感じ」というより「感じ方」の共有。その「共有」の「場」が「壇」だろうと思う。「感じ方」の共有がなくなったとき、「感じ」そのものがなくなっていく、と荒川は感じているのだと思う。
 これは、しかし、通じないかもしれないなあ、と思う。さびしいけれど(荒川には申し訳ない気持ちにもなるけれど)、荒川のやっていることは、あまりにも高級すぎる。時代を先取りしすぎている。



 「同じこと」。これは、ことばがそのままなら「同じこと」になるわけではない。そのことを厳しく書いている詩がある。「酒」の3連目。全体が2字下げになっている。注釈の形で挿入された行である。

〔この詩を見るため、捨てるための手引き〕
最初の一節のなかほどにある「強い母」は、
正しくは「強い母」。最終節のこれもなかほどの
「たぐいまれな薬草」は「たぐいまれな薬草」が
正しい。全体にみえる「酒」も、正しくは「酒」。
いまはこんなことをしている。

 「この詩」とあるが、この作品の最初の一節にも、最後の節にも、「強い母」もそれ以下のことばも出てこない。そして、間違っている(?)と指摘されていることばと「強い母」「たぐいまれな薬草」「酒」と、正しくは云々といわれたことばは、まったく同じである。外見上は同じことばを一方を間違っていると書き、ただしくは云々と書き直している。
 これは、どういうことだろう。「強い母」は正しくは「弱い母」、「たぐいまれな薬草」は正しくは「ありふれた薬草」なら違いはわかるが、同じことばで反復されたのでは、訳が分からなくなる。
 たぶん、荒川は、「この詩」に書かれている「強い母」以下のことばは「壇」を共有していない、というのである。「感じ方」が共有されたものではない、というのである。外見は「同じ」であっても「感じ方」が「共有」されていなければ、そのことばは「正しくはない」。
 「写真機の雲」に戻る。先輩Sは「趣味で ユーモア小説でもかいてみろや」と石川にいった。Sよりも年上の男(Sの先輩)は「きみは、ユーモアのもでもかいてみたら」と石川にいった。それは正確には「同じ」ではない。けれど「同じこと」である。
 「酒」にもどる。荒川が書いている「強い母」「たぐいまれな薬草」「酒」はまったく同じことばではある。けれど、それは「同じこと」ではない。「こと」が大切なのだ。「同じ」をささえている「こと」が。「こと」がそこに存在するかどうかがとても大切なのだ。
 荒川は、ここでは、荒川自身の詩の読み方、あるいは本の読み方を、しずかに語っているだ。「いまはこんなことをしている」と。

 言い直そう。
 荒川は「こと」を書いている。「こと」というのは、ことばのなかに隠れているものである。「こと・ば」。「こと」の「葉っぱ」(端切れ?)が「ことば」であり、そこに「こと」がなければ、ただの葉っぱである。
 さらに言い直せば、荒川は、彼の作品では「感じ方」が「共有」されていたことばを選りすぐって詩を書いている。そうすることで「こと」をしっかりみえるものにしようとしている。





実視連星
荒川 洋治
思潮社

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『田村隆一全詩集』を読む(62)

2009-04-22 01:10:13 | 田村隆一

 「生きる歓び」は田村が飼っていた猫と尾長(鳥)を追悼する詩である。

生のよろこび
生のかなしみ

死のかなしみ
死のよろこび

ぼくらはその世界で漂流している
神あらば
大爆笑になるだろう

死は卵だ
その卵を 破って

生はよみがえる
猫のチーコ 尾長のタケ
十八年も生きつづけて いま
桜の木の下で眠っている

人生痛苦多しといえども
夕べには茜雲あり
暁の星に光りあり
チーコ タケ
チーコは仔猫になって永福寺(ようふくじ)あとの草原をかけめぐれ
タケ 小さな山の上を小さな羽根で飛びまわれ

 死んでしまった猫と尾長が記憶の中でよみがえる。死者が記憶の中でよみがえる。それは誰もが体験することである。その誰もが体験することを、

死は卵だ
その卵を 破って

生はよみがえる

 と田村は書いている。
 ここに書いてあることは、誰もが知っていることなので、その知っていることを「比喩」として書いてあるだけ--と単純に思ってしまう。単純に、そう思ってしまうけれど、やはり、これは田村にしか書けない行である。田村しか書かなかった行である。
 死が生を生む。死を通って生はよみがえる--このことばは矛盾である。ふつうは生には死がやってくる。生を通り抜けて死にいたる。田村のことばは、その「時間」の流れとは一致しない。矛盾する。
 その矛盾を解体するために「卵」という比喩がつかわれている。「比喩」とは矛盾を解体するためにとおらなければならない「場」なのである。

 「時」には、甲という時と別の乙という時があって、それが出会った時に甲と乙との「間」として「時間」が動きはじめる。「差」(隔たり)があって、それが「間」であり、その「間」にこそ「自由」がある。
 このことを「比喩」にあてはめてみよう。
 「比喩」が「比喩」であるためには、その「比喩」は描こうとしている対象そのものではない。
 「死は卵だ」という「比喩」が成り立つためには、「死」と「卵」のあいだに「間」が、隔たりがなければならない。実際「死」と「卵」は同じものではない。「死」は「もの」ではない。手でさわることもできない。「死」と「卵」を勘違いするひとはだれもいない。そこには決定的な「間」がある。
 そして、それに決定的な「間」があるにもかかわらず、それではその決定的な「間」とは何なのか、私たちは、うまく語れない。少なくとも私にはそれを語ることができない。隔たりすぎていて、「間」というものを意識すらできない。「死」と「卵」は無限大に遠い。これでは、意識は動いていかない。
 別の例で説明する。
 たとえば「少女は薔薇」という比喩。「少女」と「薔薇」は同一ではない。ふたつの存在のあいだには「間」がある。しかし、それが比喩である時、その「間」を「美」という観念が駆け抜け、ふたつを結びつける。「間」は「間」でありながら、しっかりと結びつく。
 そのときの「美」というベクトルが意識される時、比喩は比喩になる。比喩を構成する要件にはふたつあることになる。ふたつの存在のあいだの「間」、そしてその間を結ぶ「ベクトル」。
 「死」と「卵」には巨大な「間」は存在するが、それを結びつけるベクトルはない。だから、これは、ふつうの「比喩」ではない。

 「死は卵だ」が「比喩」になるためには、「ベクトル」が必要だ。このベクトルを田村は「破って」という動詞でつくりだしている。「破って」という動詞が「死」と「卵」の「間」を駆け抜けることによって、それははじめて「比喩」になる。
 この運動をつくりだす時につかう「動詞」--そこに、田村の「思想」が凝縮している。
 何度も書いてきたが、田村の矛盾は、矛盾→止揚→発展という形で昇華はしない。存在を、その存在の存在形式を破壊し、対立構造そのものを解体するというのが、田村の矛盾の形式であった。そのときの運動のありようが「破って」ということばとして、ここに凝縮している。
 「破る」「破壊する」「解体する」--そのとき「間」も解体する。そして、その瞬間に「自由」があふれだす。「生きる歓び」が。

 別の角度からもう一度。
 「生」と「死」。その「間」。「間」をつくりだしている何か。「生」と「死」はまったく別のものであるけれど、そのふたつのものに「間」というものが存在しうるのか。「死」と「卵」の「間」は無限大だったが、「死」と「生」は? まったく違うものなのに、そのふたつのものに「間」はない。しっかり隣り合っている。分離不能である。「生」がおわったところから「死」なのである。「間」は存在しない。
 「間」が存在しないのに、「比喩」をつかう。「間」を呼び込むことばを田村はつかう。そして、「破る」という動詞を持ち込むことで、「間」の存在を明確にし、同時に「間」を破壊することで「自由」の在り方を指し示す。
 このときの「比喩」と「動詞」は、また、不思議なものに触れている。
 「その卵を 破って」と田村は書いているが、これは正確には(?)、「卵の殻を破って」ということになるだろう。「間」はほんとうは存在する。「卵の殻」のように破ってしまえば、その存在形式がかわってしまうほど存在そのものに密着したかたちで、ふたつのものをわける「間」がある。「間」は「無限大」ではなく、逆に「無限小(?)」だったのである。「無限大」と「無限小」が結びついている--そういう「存在形式」がある。「矛盾」がひとつのもののなかで固く結びついていることがある。それを田村は「破る」。「やぶる」ことで、その矛盾を「自由」に転換しようとする。

 そして、このとき、田村は「卵の殻」の「殻」ということばを省略している。省略すると同時に、1字分の「空白」、アキを書いている。
 これは、とても重要なことだと私は思う。
 「卵」には「殻」がある--ということは周知の事実である。「卵を破る」といえば「卵の殻を破る」というのに等しいことはだれでもわかる。だれでもわかるから「殻」を書かなかった。それは、ひとつの理由である。しかし、「殻」を書かなかったのは、それだけではないと私は思う。「殻」と書いて、そこに「小さな間」を出現させてしまうと、田村の書こうとしていることは違ってきてしまう。田村は、そういうことを無意識のうちに知っていたのだと思う。
 卵の2行は、

死は卵だ
その殻を 破って

 とも書くことができたはずだ。「卵」「殻」とことばをかえた方が「卵」を2回つかわずにすみ、ことばの変化が出たかもしれない。(そのかわり、なんとも「間延び」した、だらしないことばの動きになる。)
 しかし、「殻」と書いてしまえば、そこに「境界」ができる。「境目」ができる。「生」と「死」は確かに違った存在であるが、そこには「境目」はない。「殻」と書くと、その「殻」のなかに境目ができて、田村の生死観と違ってきてしまうのである。
 その、間違った方向へ動くベクトルを制御するために「殻」は省略されている。しかも、「破る」という動詞は絶対に書かなくてはならない。
 この複雑な問題を通り抜けるために1字空白が導入されているのである。空白によって、意識を緊張させているのである。
 多くの詩人が1字空白をつかう。改行をつかう。ほとんど無意識につかっいると思う。田村も無意識でつかう時が多いかもしれない。しかし、この「その卵を 破って」というときの1字あきには、精神の運動を正確に描こうとする意識がはっきり働いている。その意識が、つぎの「生はよみがえる」という行の前に、1行あきを呼び込んでいる。

 ことばには書いていいものと書いてはいけないものがある。

 1字あきという「間」、1行あきという「間」。この詩では、その「空白」に田村の思想が凝縮されている。
 --私は、ほんとうは、そこから書きはじめるべきだったかもしれない。
 「生きる歓び」は猫と尾長のことを思い出している小さな作品である。飼っていたペットのことを思い出すというのは誰もが体験する小さなことがら(?)である。けれど、

死は卵だ
その卵を 破って

生はよみがえる

 この3行(1行あきを含めれば4行)には田村の思想が凝縮している。ペットのことを思い出すという「内容」に目を向けると、読み落としてしまう大事なものが凝縮している。



新選田村隆一詩集 (1977年) (新選現代詩文庫)
田村 隆一
思潮社

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