詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

野樹かずみ、河津聖恵『わたしたちの路地』

2009-04-27 13:08:07 | 詩集
野樹かずみ、河津聖恵『わたしたちの路地』(澪標、2009年01月30日発行)

 野樹かずみの短歌に、河津聖恵の詩が応じるという形で、この作品群は出発する。

 早朝はいちばん安い塩パンもまだあたたかい涙のようだ

塩パン、そこから何を想像できるか

たった一個の固いパン、そのざらざらとしたぺったんこの
つねにいつもさいごの晩餐

一人の少女を想う
草履の足を動かしてみる

 この出発は、少し危険である。「いちばん安い塩パン」「あたたかい」「涙」。「つねにいつものさいご」 「少女」。そして、それを結びつける「想像」ということば。あらゆるものは「想像」のフィルターを通ると「抒情」になってしまう。「抒情」に「涙」(しかも、あたたかいと通い合う「涙」)が結びつくと、もう行く先は決まっている。
 けれど、この「想像」を、野樹の現実から出発する「短歌」、その破調が、破調の勢いで破っていく。

 廃材の小屋がひしめきあう路地の水溜まり 朝の光がゆれる
 大きすぎるパパのぼろ靴からのびるほそい足まるい腹はだかんぼう

 この破調、現実がことばを破壊するエネルギーの前では「想像」はあまりにも抒情的でありすぎる。
 河津は、この暴走に向き合うために中上健次の故郷をたずねている。野樹がフィリピンの現実と向き合うのに対して、河津は中上の現実と向き合う。ふたつの「場」をつなぐものは「路地」である。
 
路地はいたるところにある
私たちの世界に脈打つひそやかな静脈の青の葬送

 そして、ふたりは互いに互いの文体を破壊し合う。新しい自分と出会うために。それはそれで、たぶん、意義のあることなのだと思う。
 野樹の

蠅、蠅蠅、蠅蠅蠅、、、蠅、蠅蠅、蠅蠅蠅、、、蠅蠅蠅、、、蠅、

 という短歌は、とても好きだが、気がかりなのは、この二人の往復文学作品(?)をささえている「愉悦」が、フィリピンや中上の持っている「愉悦」とは違うような気がすることである。
 私はフィリピンも中上の故郷も実際には知らない。知っているのは中上の作品の中に出てくる「愉悦」だけである。中上の作品にはすべてのものをとろけさせる「無時間」の「愉悦」がある。死んでいくことの「愉悦」がある。いのちの中でいのちが死んでいくことの、清らかさがある。
 ふたりのことばのなかでは、「蠅、蠅蠅、蠅蠅蠅、、、蠅、蠅蠅、蠅蠅蠅、、、蠅蠅蠅、、、蠅、」にはそれを感じたが、ほかではどうもその手触りがない。どこまでいっても「想像」がどこかに紛れ込んでいるような感じがする。
 「愉悦」がふたりのなかで完結してしまっているという印象がある。「ここまで、自分を破壊しました、変えてみました」と喜び合っている感じがする。「作品」のタイトルの「わたしたちの路地」が、ほんとうに、野樹と河津のふたりの「わたしたち」という感じがどこかに残る。

 私は、野樹の作品は、今回読むのが初めてである。河津のことばは読んだことがある。河津の変化に、私がとまどっているだけなのかもしれないけれど。

christmas mountain わたしたちの路地
野樹 かずみ,河津 聖恵
澪標

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『田村隆一全詩集』を読む(67)

2009-04-27 01:28:19 | 田村隆一

 『ハミングバード』(1992年)。「亀が淵ブルース」の3連目、4連目が、私はとても好きである。

私がね、子どものころは蛇の棲家でしてね
ええ、二階堂の草っぱらのことですよ
マムシはむろん
シマヘビ ヤマカガシ 脱皮する前の
青大将ときたらノタリノタリしているだけで
その連中が草むらからいっせいに
動きだすんです
春 冬眠からさめたばかりだから
そりゃあ 鮮かなもんでした
二万坪の草原が波立つんですよ
どこへ?
ほら 細い川が流れているでしょ
亀が淵というんですけどね
亀はたくさんいましたけど スッポン ウナギまで遊んでいて
蛇の大群は
カエルを狙って走り出すんです
カエルのコーラス
カエルのタンゴ これがルンバになると
危い

 引用したのは3連目。田村自身のことばではなく、「この土地で生れ育った六十男/海軍のゼロ戦乗りの生き残りが/ぼくに語ってくれた」(5連目)をそのまま再現したものである。
 田村は、その男の語ったことばに手を加えていない。(と、私は感じる。)なぜ、他人のことばをそのまま引用して、田村の詩にしたのか。田村は、そのことばが「肉眼」から発せられていると感じたからだろう。そのことばが、そして田村の「肉眼」を活性化させる。男の語ったことばを聴きながら、田村の目は「肉眼」になって、草むらが動くのを見る。実感する。
 「他人」のことばの、その「他人」性が、田村の「肉眼」を目覚めさせる。それはユトリロの「白」が田村の「肉眼」を目覚めさせるのと同じである。田村の五感を超越しているもの--その超越性が「他人」である。
 これは、逆に言えば、もしことばが五感を超越した状態に達すれば、それは自分が発したことばでも「他人」のことばになる、自分を超越したものになる、つまり詩になるということでもある。

 詩とは「他人」のことばなのである。

 「他人」のことば、新しいことばであるからこそ、そこに詩がある。たとえば、

そりゃあ 鮮やかなもんでしたよ

 この一行の「鮮やか」ということば。
 教科書で教える「詩」(学校教育の詩)では、たぶん「鮮やか」な状態を「鮮やか」ということばをつかわずに書き表すのが詩であると定義されるだろう。(文学のことばだと定義されるだろう。)
 だが、この六十男の発した「鮮やか」は、ふつうの目が感じる「鮮やかさ」とは違っている。
 「肉眼」がつかむ「鮮やかさ」だ。同じ「鮮やか」という表記であっても、そこに書かれている実体が違うのである。その「鮮やか」とは蛇が群れをなして動いていくとき、その動きにあわせて草が動く、その動きをあらわしている。そういうものを「鮮やか」と呼んだひとはいない。(私は、そういうことばを読んだことがないし、たぶん田村も読んだことがないのだと思う。だから、そのまま書いている。)
 そこでは、草の動きさえ、「他人」なのである。蛇がいっせいに動くという世界そのものが「他人」なのである。
 「肉眼」が「他人」なら、その「他人」の耳も「肉耳」になる。カエルの声が(合唱が)、平和なものから、蛇の襲撃を知って、トーンを変える。「タンゴ」が「ルンバ」にかわる。この変化をとらえる「肉耳」。
 「肉体」そのものが、ここではかわっていく。そして、それにあわせて「世界」が「鮮やか」になっていく。

 「他人」のことばにあわせて、自分自身が「他人」になっていくのを受け入れている田村がここにいる。そういう田村のありかたを、私は「正直」だと感じる。




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