監督 ガス・ヴァン・サント 出演 ショーン・ペン、エミール・ハーシュ、ジョシュ・ブローリン
ゲイを主人公にした映画は、いまでは珍しくない。けれども、そうした映画のなかにあっても、この映画はとびぬけて風変わりである。明るい。それも、コメディー、笑いの明るさではなく、希望に満ちた明るさなのだ。
とても不思議である。
ハーベイ・ミルクという政治家が暗殺されたことは、周知の事実である。予告編やチラシで説明されている。そして、映画そのものも、ショーン・ペンが「私が暗殺されたらこのテープを公開してくれ」と自分の歴史をテープに吹き込むところから始まる。ミルクが死ぬまでの映画であることは、あらかじめ知らされている。それにもかかわらず、明るい。途中に、ミルクの恋人が首吊り自殺する。それにもかかわらず明るい。
なぜなのだろうか。
ハーベイ・ミルクが変化していくからである。最初は、ゲイであることを隠している。隠して、保険会社で働いている。地下鉄の出口で偶然ひとりの男に出会う。そこから変わりはじめる。ニューヨークを捨てる。カリフォルニアへ引っ越す。ゲイが行き交う街でカメラ屋を開く。多くの仲間に出会い、同時に、そうした仲間があつまる社会にあっても、その社会そのものを弾圧する力があることを知る。バーに警官が殴り込み、仲間を一斉に摘発(?)する。
そういう現実に直面して、ミルクは「ことば」を獲得していく。
彼が最初に発したことば。「私は、ハーベイ・ミルクだ。みんなをリクルートしたい」。映画では「リクルート」を「勧誘」と訳していたが、これは単なる「勧誘」ではなく、「兵士として」勧誘したい、という意味である。つまり、いっしょに戦おうという意味である。戦いへ誘っているのである。自分たちを弾圧するものと戦おうと誘っているのである。べつなことばでいえば、いっしょに戦おうだけではなく、自分は戦争を組織する。それに参加してくれ、といっているのである。自分がリーダーになる。責任を持つ。だから、この戦いに参加してくれ、というのである。
これは、彼が、地下鉄の出口で男を誘った時のことばとはまったく異質である。恋人を誘う時、彼は「39歳の最後の夜をひとりで過ごすのはさびしい」と誘った。自分を助けてくれ、と「弱い」部分をさらけだして、助けを求めた。
しかし、いまは違うのだ。ゲイが置かれている「弱さ」は社会的につくられたもの、差別である。「弱さ」を強いるもの戦い、戦いをとおして強くなろう、と彼は訴える。
社会への通路を閉ざし、つまり社会から隠れて、恋人へ愛を囁き、甘えていたことばから、社会と向き合うための「ことば」への変化。それが「リクルート」のひとことに集約されている。
ことばの変化は、当然、人間関係の変化にもつながる。ミルクは恋人を失ってしまう。けれども、ミルクは引き返さない。つぎつぎに、新しい「ことば」を獲得していく。「論理」を獲得していく。「感情」(恋愛)ではなく、「論理」(正義)で、ひとと向き合う。たとえば、教師からゲイを追放しようとする政治家との討論。「ゲイではない教師が犯す変質的性犯罪の割合は?」そう問うことで、ゲイ追放を訴える政治家が「論理」ではなく、自分の感情(嗜好)だけでことばを発していることを明らかにしていく。それはあらゆる状況で通じるものではないが、通じようが通じまいが、つまり、それがどういう状況であろうと、ミルクは「論理」の正しさで戦う。
ことばは「武器」なのである。「論理」は武器になりうるのである。
だから、ひとは「ことば」を恐れる。「ことば」をたとえば銃弾という武器で押さえようとする。そして、実際に、ミルクはその銃弾によって命を奪われる。
それでも、この映画は明るい。
人間のことばは変わりうる。つまり、人間は変わりうる。そして、ことばによって社会は変えられるということを語るからである。
ことばを持つ国は強い。アメリカは、確かに強い国だと、この映画を見て思った。オバマの背後にはキング牧師の「私には夢がある」という美しいことばがある。それは「私は新兵をつのりたい(リクルートしたい)」というミルクへとつながる。個人個人の夢、ひとりひとりの夢が組織化され、戦いを挑む時、オバマの「われわれはできる」という確信に「チェンジ」する。
激変の時代に、過去から、激変を戦ったことばが「未来」として噴出してきた。そういう鮮やかな印象がこの映画を明るいものにしている。
ショーン・ペンの演技もすばらしかった。演じているというより、スクリーンのなかで生きていた。恋人と出会った歓び、そこから出発して、差別への怒り、怒りから戦いへ、戦いから正義へ、未来へと動いていく変化が、生きている感じでつたわってくる。ショーン・ペンはミルクを演じたのではなく、敬意を持って、彼の人生を生きたのだと思う。
*
もう1本ショーン・ペンを見るなら……。
イーストウッド監督の傑作。
ゲイを主人公にした映画は、いまでは珍しくない。けれども、そうした映画のなかにあっても、この映画はとびぬけて風変わりである。明るい。それも、コメディー、笑いの明るさではなく、希望に満ちた明るさなのだ。
とても不思議である。
ハーベイ・ミルクという政治家が暗殺されたことは、周知の事実である。予告編やチラシで説明されている。そして、映画そのものも、ショーン・ペンが「私が暗殺されたらこのテープを公開してくれ」と自分の歴史をテープに吹き込むところから始まる。ミルクが死ぬまでの映画であることは、あらかじめ知らされている。それにもかかわらず、明るい。途中に、ミルクの恋人が首吊り自殺する。それにもかかわらず明るい。
なぜなのだろうか。
ハーベイ・ミルクが変化していくからである。最初は、ゲイであることを隠している。隠して、保険会社で働いている。地下鉄の出口で偶然ひとりの男に出会う。そこから変わりはじめる。ニューヨークを捨てる。カリフォルニアへ引っ越す。ゲイが行き交う街でカメラ屋を開く。多くの仲間に出会い、同時に、そうした仲間があつまる社会にあっても、その社会そのものを弾圧する力があることを知る。バーに警官が殴り込み、仲間を一斉に摘発(?)する。
そういう現実に直面して、ミルクは「ことば」を獲得していく。
彼が最初に発したことば。「私は、ハーベイ・ミルクだ。みんなをリクルートしたい」。映画では「リクルート」を「勧誘」と訳していたが、これは単なる「勧誘」ではなく、「兵士として」勧誘したい、という意味である。つまり、いっしょに戦おうという意味である。戦いへ誘っているのである。自分たちを弾圧するものと戦おうと誘っているのである。べつなことばでいえば、いっしょに戦おうだけではなく、自分は戦争を組織する。それに参加してくれ、といっているのである。自分がリーダーになる。責任を持つ。だから、この戦いに参加してくれ、というのである。
これは、彼が、地下鉄の出口で男を誘った時のことばとはまったく異質である。恋人を誘う時、彼は「39歳の最後の夜をひとりで過ごすのはさびしい」と誘った。自分を助けてくれ、と「弱い」部分をさらけだして、助けを求めた。
しかし、いまは違うのだ。ゲイが置かれている「弱さ」は社会的につくられたもの、差別である。「弱さ」を強いるもの戦い、戦いをとおして強くなろう、と彼は訴える。
社会への通路を閉ざし、つまり社会から隠れて、恋人へ愛を囁き、甘えていたことばから、社会と向き合うための「ことば」への変化。それが「リクルート」のひとことに集約されている。
ことばの変化は、当然、人間関係の変化にもつながる。ミルクは恋人を失ってしまう。けれども、ミルクは引き返さない。つぎつぎに、新しい「ことば」を獲得していく。「論理」を獲得していく。「感情」(恋愛)ではなく、「論理」(正義)で、ひとと向き合う。たとえば、教師からゲイを追放しようとする政治家との討論。「ゲイではない教師が犯す変質的性犯罪の割合は?」そう問うことで、ゲイ追放を訴える政治家が「論理」ではなく、自分の感情(嗜好)だけでことばを発していることを明らかにしていく。それはあらゆる状況で通じるものではないが、通じようが通じまいが、つまり、それがどういう状況であろうと、ミルクは「論理」の正しさで戦う。
ことばは「武器」なのである。「論理」は武器になりうるのである。
だから、ひとは「ことば」を恐れる。「ことば」をたとえば銃弾という武器で押さえようとする。そして、実際に、ミルクはその銃弾によって命を奪われる。
それでも、この映画は明るい。
人間のことばは変わりうる。つまり、人間は変わりうる。そして、ことばによって社会は変えられるということを語るからである。
ことばを持つ国は強い。アメリカは、確かに強い国だと、この映画を見て思った。オバマの背後にはキング牧師の「私には夢がある」という美しいことばがある。それは「私は新兵をつのりたい(リクルートしたい)」というミルクへとつながる。個人個人の夢、ひとりひとりの夢が組織化され、戦いを挑む時、オバマの「われわれはできる」という確信に「チェンジ」する。
激変の時代に、過去から、激変を戦ったことばが「未来」として噴出してきた。そういう鮮やかな印象がこの映画を明るいものにしている。
ショーン・ペンの演技もすばらしかった。演じているというより、スクリーンのなかで生きていた。恋人と出会った歓び、そこから出発して、差別への怒り、怒りから戦いへ、戦いから正義へ、未来へと動いていく変化が、生きている感じでつたわってくる。ショーン・ペンはミルクを演じたのではなく、敬意を持って、彼の人生を生きたのだと思う。
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