詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

ガス・ヴァン・サント監督「ミルク」(★★★★)

2009-04-24 10:57:02 | 映画
監督 ガス・ヴァン・サント 出演 ショーン・ペン、エミール・ハーシュ、ジョシュ・ブローリン

 ゲイを主人公にした映画は、いまでは珍しくない。けれども、そうした映画のなかにあっても、この映画はとびぬけて風変わりである。明るい。それも、コメディー、笑いの明るさではなく、希望に満ちた明るさなのだ。
 とても不思議である。
 ハーベイ・ミルクという政治家が暗殺されたことは、周知の事実である。予告編やチラシで説明されている。そして、映画そのものも、ショーン・ペンが「私が暗殺されたらこのテープを公開してくれ」と自分の歴史をテープに吹き込むところから始まる。ミルクが死ぬまでの映画であることは、あらかじめ知らされている。それにもかかわらず、明るい。途中に、ミルクの恋人が首吊り自殺する。それにもかかわらず明るい。
 なぜなのだろうか。
 ハーベイ・ミルクが変化していくからである。最初は、ゲイであることを隠している。隠して、保険会社で働いている。地下鉄の出口で偶然ひとりの男に出会う。そこから変わりはじめる。ニューヨークを捨てる。カリフォルニアへ引っ越す。ゲイが行き交う街でカメラ屋を開く。多くの仲間に出会い、同時に、そうした仲間があつまる社会にあっても、その社会そのものを弾圧する力があることを知る。バーに警官が殴り込み、仲間を一斉に摘発(?)する。
 そういう現実に直面して、ミルクは「ことば」を獲得していく。
 彼が最初に発したことば。「私は、ハーベイ・ミルクだ。みんなをリクルートしたい」。映画では「リクルート」を「勧誘」と訳していたが、これは単なる「勧誘」ではなく、「兵士として」勧誘したい、という意味である。つまり、いっしょに戦おうという意味である。戦いへ誘っているのである。自分たちを弾圧するものと戦おうと誘っているのである。べつなことばでいえば、いっしょに戦おうだけではなく、自分は戦争を組織する。それに参加してくれ、といっているのである。自分がリーダーになる。責任を持つ。だから、この戦いに参加してくれ、というのである。
 これは、彼が、地下鉄の出口で男を誘った時のことばとはまったく異質である。恋人を誘う時、彼は「39歳の最後の夜をひとりで過ごすのはさびしい」と誘った。自分を助けてくれ、と「弱い」部分をさらけだして、助けを求めた。
 しかし、いまは違うのだ。ゲイが置かれている「弱さ」は社会的につくられたもの、差別である。「弱さ」を強いるもの戦い、戦いをとおして強くなろう、と彼は訴える。
 社会への通路を閉ざし、つまり社会から隠れて、恋人へ愛を囁き、甘えていたことばから、社会と向き合うための「ことば」への変化。それが「リクルート」のひとことに集約されている。
 ことばの変化は、当然、人間関係の変化にもつながる。ミルクは恋人を失ってしまう。けれども、ミルクは引き返さない。つぎつぎに、新しい「ことば」を獲得していく。「論理」を獲得していく。「感情」(恋愛)ではなく、「論理」(正義)で、ひとと向き合う。たとえば、教師からゲイを追放しようとする政治家との討論。「ゲイではない教師が犯す変質的性犯罪の割合は?」そう問うことで、ゲイ追放を訴える政治家が「論理」ではなく、自分の感情(嗜好)だけでことばを発していることを明らかにしていく。それはあらゆる状況で通じるものではないが、通じようが通じまいが、つまり、それがどういう状況であろうと、ミルクは「論理」の正しさで戦う。
 ことばは「武器」なのである。「論理」は武器になりうるのである。
 だから、ひとは「ことば」を恐れる。「ことば」をたとえば銃弾という武器で押さえようとする。そして、実際に、ミルクはその銃弾によって命を奪われる。
 それでも、この映画は明るい。
 人間のことばは変わりうる。つまり、人間は変わりうる。そして、ことばによって社会は変えられるということを語るからである。
 ことばを持つ国は強い。アメリカは、確かに強い国だと、この映画を見て思った。オバマの背後にはキング牧師の「私には夢がある」という美しいことばがある。それは「私は新兵をつのりたい(リクルートしたい)」というミルクへとつながる。個人個人の夢、ひとりひとりの夢が組織化され、戦いを挑む時、オバマの「われわれはできる」という確信に「チェンジ」する。
 激変の時代に、過去から、激変を戦ったことばが「未来」として噴出してきた。そういう鮮やかな印象がこの映画を明るいものにしている。

 ショーン・ペンの演技もすばらしかった。演じているというより、スクリーンのなかで生きていた。恋人と出会った歓び、そこから出発して、差別への怒り、怒りから戦いへ、戦いから正義へ、未来へと動いていく変化が、生きている感じでつたわってくる。ショーン・ペンはミルクを演じたのではなく、敬意を持って、彼の人生を生きたのだと思う。



もう1本ショーン・ペンを見るなら……。
イーストウッド監督の傑作。

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『田村隆一全詩集』を読む(64)

2009-04-24 00:42:02 | 田村隆一

 「新世界より」には不思議な1行がある。

第二次世界大戦後は 王様は
数少なくなってしまって そのかわり
クレヨンも二十四色から数百色
コンピューターによれば赤だけで三千色
これでは絵も描けないし 舌も出せない

 この「舌」は何?
 「舌」ということばが田村の詩のなかで、どんなふうにつかわれているか分類・分析すればわかるだろうか。
 「想像の舌」では、

きみの舌をできるだけ長くのばせ
その舌が

どんな地平線に
どんな水平線に
触れられるものか試してみるんだ

 と書かれていた。
 「舌」はことばかもしれない。「舌」をつかって、ことばを発する。「舌」はことばの「肉体」かもしれない。
 「想像の舌」は「苦み」「痛み」に触れた。味覚と触覚。その融合。そして、それは「ことば」のなかで姿をあらわした。
 どんなことがらも「ことば」のなかで起きるのである。

 「沈める都市」の「2」の部分。

人の耳は海の色の変調が見えない
人の目は岩礁に砕かれる白い波頭が聞えない

 こう書く時、その反語として、田村には「肉耳」には海の色の変調が見える。「肉眼」には岩礁に砕かれる波頭が聞こえるという意識がある。
 そうであるなら、次の部分は、どんな反語を隠しているのだろうか。

まして
雪の上の足跡
草原の微風
野の花ヒースの荒野
猫の目スノー・ドロップ
森の小鳥の海鳥の裂かれた舌
人の耳も目も
また舌も
観察することも批評することも
できっこない まして創造することは

 もし、人間が「肉眼」「肉耳」を、そして「肉舌」を獲得できたら、ひとは雪の上の足跡を聞くことができる、草原の微風を見ることができる、ヒースの荒野、猫の目、小鳥の舌を観察することはもちろん批評もできる。さらには、創造することができる。
 「肉眼」「肉耳」「肉舌」は創造するのである。ことばは、創造に従事するのである。
 創造とは何か。
 「沈める都市」の前半。

その海は生物の母胎
生物を殺戮する悪の女神

生物は海で創造され
生物は海で破滅し

創造から再創造へ
破滅によって再生する

 「肉舌」は、あるいは「肉ことば」といってしまおう。「肉ことば」はすべてを破滅させ、同時に、破滅させることで再生させる。破滅が、創造である。破壊が創造である。


 そして。

 「新世界より」にもどろう。「肉ことば」は数が多ければいいのではない。クレヨンの数、赤だけでも三千色もあるコンピューターの色のように、ひとつのことに属する「ことば」が3000あればいいのではない。「王」のように、わがままな、独裁的であれば、それは数少なくていいのだ。
 だれにも奉仕しない独裁者。君臨するひと。王。
 そのことば、「肉ことば」だけが、世界を創造する。破壊しながら、あたらしく創造する。

 そんな夢が、祈りが「舌」ということばの源をささえている。




田村隆一―断絶へのまなざし (1982年)
笠井 嗣夫
沖積舎

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