詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

河津聖恵『新鹿』

2009-04-25 08:54:26 | 詩集
河津聖恵『新鹿』(思潮社、2009年03月25日発行)

 河津聖恵『新鹿』は紀州の人と風景と出会うことで書かれた詩集である。紀州といえば、熊野、熊野といえば中上健次である。河津は、中上健次とも向き合っている。
 そのせいだろうか、この詩集では、いままで知っている河津ではない新しい河津に出会うことができる。中上健次をときどき強く感じる。私が中上健次を(つまり、中上と向き合っている新しい河津を)見るのは、「湯ノ峰」次の部分である。

なかは危うい掛け金一個
どんと押されれば脆い いや囲いの板にもう隙間が空いている
“裸体をさらすのだな……”(囁き)
川の女神のように ではなく
ここに辿り着いたあまたの病み傷ついたニンゲンたち
醜い餓鬼となった小栗判官のシルエットまでうちそろい
“ラタイをさらしたのだな!”(コーラス)
たちこめる硫黄の匂いは千年という時の体温である

 括弧のなかにいれられた「コーラス」。声はひとりのものではない。声はいつでもコーラスであり、そこにはあらゆるニンゲンの「千年」の「時」がある。一人に出会うことで、実は、その土地に生きてきた複数の、声なき声にであう。「コーラス」は集団の声だが、それは「声なき声」である。ひとりの時は聞こえない声。集まることで聞こえる声。
 この、集まる、ということは特別なことである。

濁った(七色になるというが今青に近い)湯を 抱くようにかきまぜる
あたたかい
芯から(地獄から)あたたかい
救われるだろうか 救ってください 救ってやれ
私が私を赦しはじめる 蘇生のささやかで深い意味を知る
血くだがほどかれ 希望の幻は頬をへめぐって

 集まったものは、矛盾を抱えている。それはただ集まったものだから、いろいろなものをふくんでいる。

芯から(地獄から) 

 「天国から」あるいは「あの世から」ではなく、「地獄から」。すべてが集まるというのはそれは否定的なものをも含むのだ。それは、「地獄」をふくんでいるから、あたたかい。「精神」のあたたかさではなく、血のあたたかさだ。
 許しをもとめるものの、あたたかさ。
 そしてそれが、ぶつかりながら「救われるだろうか 救ってください 救ってやれ」とうごめく。
 「地獄」を「救う」、「赦す」。そうすることで、「血くだ」(血管)が「ほどかれ」、つまり、あらゆる血が、「血」そのものの「あたたかさ」につながる。「蘇生」するとは、いちばん最初の「血」につながること。「血」のあらゆる「歴史」につながることだ。あらゆる「血の歴史」につながり、そこから自分が失っていた力をとりもどす。「いのち」の「つながり」そのものになる。
 蘇生は「新しい血」になるのではない。延々とつづく、いわば源流の血をとりもどすことなのだ。源流の血は、真新しい鼓動に励まされて噴出する。そこに鼓動がかかわるがゆえに、それは「あたたかい」。肉体が「血」を押し出しているのだ。
  そのとき、「血」が「精神」にかわる。いや、「精神」を超越する。純粋に「肉体」になる。「肉体」そのものとして流れる。

 この「地獄」と「血」、そして「肉体」の関係は、「新鹿(二)」でも繰り返し書かれている。

新鹿はどこか
あたしかとは何か
ジャズのようにいのちの応答を呼び覚ます問いかけ
--もっと別の方法はないか?
(深い声がはじまる)

 「コーラス」とは「深い声」である。それは「深い」がゆえに、つまり「地獄」をふくむあらゆる血、源流にふれる血であるがゆえに、自分の血をささえ、自分の「血くだ」をかけめぐる。そのとき、ひとは「血の歴史=いのち」そのものと「応答」するのだ。
 そこから詩ははじまる。

自身を救い人をも救うそれはきっとある
この世界もまた輝く物質ならば
触れ 持ちあげ 動かすことができるはずだ
(私の唇がうごいていく)
昨日見た翡翠色の大塔川で動いていた必然のショベルカーのように!

 (私の唇がうごいていく)。この一行がすごい。血の源流に触れ、そこからいちばん純粋な血を取り戻す。その血、そのいのちは精神ではなく、「肉体」である。だから、それを取り戻す時、動くは「頭」ではなく、「肉体」そのものである。「唇」がうごく。「唇」がことばを受け継ぎ、そのまま、ことばは唇をとおることで、声になり、語りになる。語りとは、「頭」に働きかけることばではなく、「肉体」そのものに働きかけ、「肉体」を解放する(ときはなつ、ほどく)ものでもある。
 だから、次のようなことが起きる。

眼下のさむい薄青の海から
私たちは海鳴りを聴きとどける
かつてここに立ったひとの「うつほ」は 今もこのように静かに在る
根源的に、ある
(眼の裏が共鳴している)

 共鳴。
 それは「眼」ではなく、耳が受け取るもの、あるいは「喉」(声)が受け渡すもの。それが「眼」とともにある。
 「根源的」なものに触れるのは「頭」ではなく、「肉体」。ここでは、「眼の裏」。しかも、そのとき「眼」は「眼」を超越する。「眼」であることを越境して、他の肉体につながり、他の肉体の機能を自分のものにしてしまう。他の肉体と融合して、あたらしい「肉体」、名付けられていない「肉体」になる。「いのち」になる。





神は外せないイヤホンを
河津 聖恵
思潮社

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『田村隆一全詩集』を読む(65)

2009-04-25 00:28:06 | 田村隆一

 『ぼくの航海日誌』(1991年)は、田村の誕生から1991年までの半生を描いている。自伝である。自伝を書くことで田村は何をしようとしたのだろう。最後におさめられている「二月 白」。その最後の部分。

ぼくにとって現在は
白という色彩 現在を指で触れたかったら
ユトリロの色彩を見るがいい

白という色を産みだすために
ただそれだけのために
ぼくは詩を書く

一行の余白
その白
その断崖を飛びこえられるか



 田村の「白」とユトリロへのこだわりは『新世界より』の「白の動き」にすでに書かれている。田村の自伝が、最終的に描き出しているのは、その「白」への強い希求である。「白」とはいったいどんな色なのだろう。
 それは、たぶん「灰色」と関係している。田村には『灰色ノート』という詩集がある。「白」はその「灰色」と連動している。「白」は「灰色」からうまれてくるのか。あるいは、「灰色」は白からうまれてくるのか。

 「白」と「灰色」のあいだで、動きだそうとする田村がいる。『ぼくの航海日誌』は、その動きだすための準備のように見える。

古い年は過ぎ
新しい年がくる その新しい年も
またたくまに
古くなるだろう ぼくらは
過去をつくりながら地上を旅するのだが
どこの国へいっても出会うのは過去ばかり
未来は
ぼくらの背後から追跡してくる

 「未来」を「白」を手にいれるには、「過去」を「灰色」を「肉眼」で見つめなおさなくてはならない。「過去」と呼ばれるものと「いま」との「間」のなかにある動き、それを見極めようとしたのだと思う。





青い廃墟にて―田村隆一対話集 (1973年)
田村 隆一
毎日新聞社

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