長嶋南子「冬至」、小柳玲子「呼ばれる」、万亀佳子「花の寺」(「きょうは詩人」13、2009年04月09日発行)
長嶋南子「冬至」は、「呼ぶ」ということをとおして時間が描かれている。時間をどう受け入れるかが書かれている。
このあと、家族「夫」の呼び方の変遷、猫の呼び方の変遷が描かれている。だれをどう呼ぶか、自分がどう呼ばれるのを受け入れてきたか、というなかに「時間」の「肉体」が自然に描かれている。この「肉体」について、いちいち説明するのは面倒なので省略するが、長嶋の詩がおもしろいのは、「時間」の「肉体」を、過去だけではなく、未来へも押し広げ、ゆったりと受け入れているところだ。
いろいろな変化は「頭」で受け入れようとすると、とても面倒である。
呼び方の変化が、いったいどんなふうにその人の暮らしにかかわっているか--というようなことを、具体的に、「頭」でわかるように説明しようとすると、とても面倒である。そういうことは、みんなが体験しているから、説明などせずに、あ、そうだね、どこでもこういうことが起きるね、と受け入れておけばいいだけのことである。
それをそのまま「未来」にまで、押し広げる--というのは、しかし、ほんとうはとてもむずかしい。
ひとはいつかは死ぬ。死んだひとは「ホトケさん」と呼ばれる。ホトケさんと、誰かを呼んだことはあるかもしれないが、呼ばれた経験はだれにもない。経験していないことを受け入れるのはとてもむずかしい。そう呼ばれることは経験上推測はできても、なぜ、そんなふうに呼ばれなければならないのかわからない。そう呼ばれた時の気持ちがわからない。
このわからないものを、わからないまま受け入れる。
考えてみれば、人生というのは、わからないものを受け入れつづけることなのかもしれない。「肉体」はわからないものを受け入れても、なんとか、わかったように過ごして行けるものなのだ。「肉体」は何かを理解できない。「頭」のように、何かを論理的に、すべてにことばにして理解できないけれど、なんとかなる。
そういう「肉体」の自信、余裕のようなものが、とてもいい。安心感をおぼえる。そして、それが自然と笑いを誘う。
終わりの方に、とても楽しい「いま」が描かれている。
「あさってごろはホトケさんと呼ばれるでしょう」とさえ笑っていえるのに、「肉体」は予測しなかったできごとにとまどって、「呼び方」に迷っている。「未来」がどんなにわかっていても、人間には、「いま」がわからない。いや、わかりすぎて、どんなふうにしても、その「正しさ」にどぎまぎしてしまう。(もじもじしてしまう。)
この「いま」という時間があるから、ある意味では、過去も未来も、その「呼び方」の変化も、ゆったりと受け入れることができるのだろう。「いま」起きることは、なにもわからない。どうなるか、わからない。どうなってしまってもいい。どうなってしまってもいいのに、やっぱりためらう。
この矛盾の美しさ。これは、「肉体」の美しさである。「頭」にとって矛盾は醜いものであるが、「肉体」にとっては矛盾は美である。矛盾があるから「肉体」は輝く。
*
小柳玲子「呼ばれる」は、「そこのひと」と呼ばれた体験を書いている。何度か「そこのひと」呼ばれたことがあるうちの、ある不思議な体験がその中心に書かれている。
1枚の絵、ひとりの画家との出会い。それを「呼ばれる」という「肉体」の反応で描き出している。「呼ばれる」のは、そのとき、そこに「肉体」があったからである。
絵と出会い、「肉体」と「肉体」が出会う。「肉体」であるから、その絵のなかの人物が後ろをむいていても大丈夫である。ちゃんと正面に向き直ることができる。そして、名前を告げることもできる。
「この辺りでようやく「あれだ」と私はきがつく」という1行は、小柳が何度もそういう体験をしていることを語っている。リチャード・ダッドの絵に出会うたびに、その絵がダッドの作品と知らずに向き合った時でも(そういうときにこそ)、絵は小柳にむかって「そこのひと」と呼びかけてくるのだ。絵に発見される「肉体」をしらずに小柳はみにつけている。小柳はそういう「肉体」になっている。
「肉体」ごと、小柳はダッドの絵を愛している。だから、その「肉体」はダッドから発見されるのだ。
*
万亀佳子「花の寺」。
「花は下から死んでいく」という1行がすばらしい。降り積もった花--その下の方の花はふつうは見えない。その見えないものを万亀の「肉眼」はくっきりととらえる。「肉体」としての「眼」は障害物をこえて、そこに起きていることを透視する。
長嶋南子「冬至」は、「呼ぶ」ということをとおして時間が描かれている。時間をどう受け入れるかが書かれている。
布団から顔を出して寝ているのは
おばあさんとおばあさん猫です
おばあさんはきのうまでおかあさんと呼ばれ
もっと前には娘さんともおねえさんとも呼ばれ
もっともっと前にはミナコちゃんと呼ばれ
あさってごろはホトケさんと呼ばれるでしょう
いまでは生まれた時からずっとおばあさんで
猫と暮らしていたような気がします
おばあさんはいつも猫に話しかけています
猫だって話しかければちゃんと返事するのですよ
このあと、家族「夫」の呼び方の変遷、猫の呼び方の変遷が描かれている。だれをどう呼ぶか、自分がどう呼ばれるのを受け入れてきたか、というなかに「時間」の「肉体」が自然に描かれている。この「肉体」について、いちいち説明するのは面倒なので省略するが、長嶋の詩がおもしろいのは、「時間」の「肉体」を、過去だけではなく、未来へも押し広げ、ゆったりと受け入れているところだ。
いろいろな変化は「頭」で受け入れようとすると、とても面倒である。
呼び方の変化が、いったいどんなふうにその人の暮らしにかかわっているか--というようなことを、具体的に、「頭」でわかるように説明しようとすると、とても面倒である。そういうことは、みんなが体験しているから、説明などせずに、あ、そうだね、どこでもこういうことが起きるね、と受け入れておけばいいだけのことである。
それをそのまま「未来」にまで、押し広げる--というのは、しかし、ほんとうはとてもむずかしい。
ひとはいつかは死ぬ。死んだひとは「ホトケさん」と呼ばれる。ホトケさんと、誰かを呼んだことはあるかもしれないが、呼ばれた経験はだれにもない。経験していないことを受け入れるのはとてもむずかしい。そう呼ばれることは経験上推測はできても、なぜ、そんなふうに呼ばれなければならないのかわからない。そう呼ばれた時の気持ちがわからない。
このわからないものを、わからないまま受け入れる。
考えてみれば、人生というのは、わからないものを受け入れつづけることなのかもしれない。「肉体」はわからないものを受け入れても、なんとか、わかったように過ごして行けるものなのだ。「肉体」は何かを理解できない。「頭」のように、何かを論理的に、すべてにことばにして理解できないけれど、なんとかなる。
そういう「肉体」の自信、余裕のようなものが、とてもいい。安心感をおぼえる。そして、それが自然と笑いを誘う。
終わりの方に、とても楽しい「いま」が描かれている。
いまにも降りそうな夕方
女手ひとつでは薪割りも大変でしょう
と遠くからよそのおじいさんが通ってきました
あまり遠いのでおじいさんは家に帰れなくなりました
二人で寝れば暖かくなるからといって
布団に入ってきました
おばあさんは猫になって
よそのおじいさんの右腕を枕に寝ています
隣に寝ているおじいさんを
なんと呼べばいいのかもじもじしています
「あさってごろはホトケさんと呼ばれるでしょう」とさえ笑っていえるのに、「肉体」は予測しなかったできごとにとまどって、「呼び方」に迷っている。「未来」がどんなにわかっていても、人間には、「いま」がわからない。いや、わかりすぎて、どんなふうにしても、その「正しさ」にどぎまぎしてしまう。(もじもじしてしまう。)
この「いま」という時間があるから、ある意味では、過去も未来も、その「呼び方」の変化も、ゆったりと受け入れることができるのだろう。「いま」起きることは、なにもわからない。どうなるか、わからない。どうなってしまってもいい。どうなってしまってもいいのに、やっぱりためらう。
この矛盾の美しさ。これは、「肉体」の美しさである。「頭」にとって矛盾は醜いものであるが、「肉体」にとっては矛盾は美である。矛盾があるから「肉体」は輝く。
*
小柳玲子「呼ばれる」は、「そこのひと」と呼ばれた体験を書いている。何度か「そこのひと」呼ばれたことがあるうちの、ある不思議な体験がその中心に書かれている。
「そこのひと」と呼ばれる
暗い美術館の一隅だった
見回してもだれもいないので やっぱり「そこのひと」は
私らしい (略)
「私をひかりのある処へ」と絵の一枚が言う
黄泉の絵の中で名前を知らない画家は急に私の方を振り返る
絵の中ではさっきまではうしろ姿だったのだ
間もなくまたうしろをむかなければならないので彼は焦っている
もう日本語では間に合わない様子で英語で喋る
どうしてだか英語はよく分かる
私は英語音痴なのに変である
この辺りでようふく「あれだ」と私は気がつく
いつもの 夢の使いがやってきているのだ
「早く名前を言ってください」
(略)
「自分の名前くらい言えるでしょう」
彼は次第に小さく暗くなりながらダッドと名乗った
リチャード・ダッド
気が狂い
愛した父を殺した男です
深い闇 この絵の中にいる者です
そこのあなた 信号が聞こえますか
1枚の絵、ひとりの画家との出会い。それを「呼ばれる」という「肉体」の反応で描き出している。「呼ばれる」のは、そのとき、そこに「肉体」があったからである。
絵と出会い、「肉体」と「肉体」が出会う。「肉体」であるから、その絵のなかの人物が後ろをむいていても大丈夫である。ちゃんと正面に向き直ることができる。そして、名前を告げることもできる。
「この辺りでようやく「あれだ」と私はきがつく」という1行は、小柳が何度もそういう体験をしていることを語っている。リチャード・ダッドの絵に出会うたびに、その絵がダッドの作品と知らずに向き合った時でも(そういうときにこそ)、絵は小柳にむかって「そこのひと」と呼びかけてくるのだ。絵に発見される「肉体」をしらずに小柳はみにつけている。小柳はそういう「肉体」になっている。
「肉体」ごと、小柳はダッドの絵を愛している。だから、その「肉体」はダッドから発見されるのだ。
*
万亀佳子「花の寺」。
極楽寺に花が散る
散って積もってその上に散って
重なって散ってまた散って
花は下から死んでいく
「花は下から死んでいく」という1行がすばらしい。降り積もった花--その下の方の花はふつうは見えない。その見えないものを万亀の「肉眼」はくっきりととらえる。「肉体」としての「眼」は障害物をこえて、そこに起きていることを透視する。
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