詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

長嶋南子「冬至」、小柳玲子「呼ばれる」、万亀佳子「花の寺」

2009-04-26 14:58:34 | 詩(雑誌・同人誌)
長嶋南子「冬至」、小柳玲子「呼ばれる」、万亀佳子「花の寺」(「きょうは詩人」13、2009年04月09日発行)

 長嶋南子「冬至」は、「呼ぶ」ということをとおして時間が描かれている。時間をどう受け入れるかが書かれている。

布団から顔を出して寝ているのは
おばあさんとおばあさん猫です
おばあさんはきのうまでおかあさんと呼ばれ
もっと前には娘さんともおねえさんとも呼ばれ
もっともっと前にはミナコちゃんと呼ばれ
あさってごろはホトケさんと呼ばれるでしょう
いまでは生まれた時からずっとおばあさんで
猫と暮らしていたような気がします
おばあさんはいつも猫に話しかけています
猫だって話しかければちゃんと返事するのですよ

 このあと、家族「夫」の呼び方の変遷、猫の呼び方の変遷が描かれている。だれをどう呼ぶか、自分がどう呼ばれるのを受け入れてきたか、というなかに「時間」の「肉体」が自然に描かれている。この「肉体」について、いちいち説明するのは面倒なので省略するが、長嶋の詩がおもしろいのは、「時間」の「肉体」を、過去だけではなく、未来へも押し広げ、ゆったりと受け入れているところだ。
 いろいろな変化は「頭」で受け入れようとすると、とても面倒である。
 呼び方の変化が、いったいどんなふうにその人の暮らしにかかわっているか--というようなことを、具体的に、「頭」でわかるように説明しようとすると、とても面倒である。そういうことは、みんなが体験しているから、説明などせずに、あ、そうだね、どこでもこういうことが起きるね、と受け入れておけばいいだけのことである。
 それをそのまま「未来」にまで、押し広げる--というのは、しかし、ほんとうはとてもむずかしい。
 ひとはいつかは死ぬ。死んだひとは「ホトケさん」と呼ばれる。ホトケさんと、誰かを呼んだことはあるかもしれないが、呼ばれた経験はだれにもない。経験していないことを受け入れるのはとてもむずかしい。そう呼ばれることは経験上推測はできても、なぜ、そんなふうに呼ばれなければならないのかわからない。そう呼ばれた時の気持ちがわからない。
 このわからないものを、わからないまま受け入れる。
 考えてみれば、人生というのは、わからないものを受け入れつづけることなのかもしれない。「肉体」はわからないものを受け入れても、なんとか、わかったように過ごして行けるものなのだ。「肉体」は何かを理解できない。「頭」のように、何かを論理的に、すべてにことばにして理解できないけれど、なんとかなる。
 そういう「肉体」の自信、余裕のようなものが、とてもいい。安心感をおぼえる。そして、それが自然と笑いを誘う。
 終わりの方に、とても楽しい「いま」が描かれている。

いまにも降りそうな夕方
女手ひとつでは薪割りも大変でしょう
と遠くからよそのおじいさんが通ってきました
あまり遠いのでおじいさんは家に帰れなくなりました
二人で寝れば暖かくなるからといって
布団に入ってきました
おばあさんは猫になって
よそのおじいさんの右腕を枕に寝ています
隣に寝ているおじいさんを
なんと呼べばいいのかもじもじしています

 「あさってごろはホトケさんと呼ばれるでしょう」とさえ笑っていえるのに、「肉体」は予測しなかったできごとにとまどって、「呼び方」に迷っている。「未来」がどんなにわかっていても、人間には、「いま」がわからない。いや、わかりすぎて、どんなふうにしても、その「正しさ」にどぎまぎしてしまう。(もじもじしてしまう。)
 この「いま」という時間があるから、ある意味では、過去も未来も、その「呼び方」の変化も、ゆったりと受け入れることができるのだろう。「いま」起きることは、なにもわからない。どうなるか、わからない。どうなってしまってもいい。どうなってしまってもいいのに、やっぱりためらう。
 この矛盾の美しさ。これは、「肉体」の美しさである。「頭」にとって矛盾は醜いものであるが、「肉体」にとっては矛盾は美である。矛盾があるから「肉体」は輝く。



 小柳玲子「呼ばれる」は、「そこのひと」と呼ばれた体験を書いている。何度か「そこのひと」呼ばれたことがあるうちの、ある不思議な体験がその中心に書かれている。

「そこのひと」と呼ばれる
暗い美術館の一隅だった
見回してもだれもいないので やっぱり「そこのひと」は
私らしい (略)
「私をひかりのある処へ」と絵の一枚が言う
黄泉の絵の中で名前を知らない画家は急に私の方を振り返る
絵の中ではさっきまではうしろ姿だったのだ
間もなくまたうしろをむかなければならないので彼は焦っている
もう日本語では間に合わない様子で英語で喋る
どうしてだか英語はよく分かる
私は英語音痴なのに変である
この辺りでようふく「あれだ」と私は気がつく
いつもの 夢の使いがやってきているのだ
「早く名前を言ってください」
(略)
「自分の名前くらい言えるでしょう」
彼は次第に小さく暗くなりながらダッドと名乗った
リチャード・ダッド
気が狂い
愛した父を殺した男です
深い闇 この絵の中にいる者です
そこのあなた 信号が聞こえますか

 1枚の絵、ひとりの画家との出会い。それを「呼ばれる」という「肉体」の反応で描き出している。「呼ばれる」のは、そのとき、そこに「肉体」があったからである。
 絵と出会い、「肉体」と「肉体」が出会う。「肉体」であるから、その絵のなかの人物が後ろをむいていても大丈夫である。ちゃんと正面に向き直ることができる。そして、名前を告げることもできる。
 「この辺りでようやく「あれだ」と私はきがつく」という1行は、小柳が何度もそういう体験をしていることを語っている。リチャード・ダッドの絵に出会うたびに、その絵がダッドの作品と知らずに向き合った時でも(そういうときにこそ)、絵は小柳にむかって「そこのひと」と呼びかけてくるのだ。絵に発見される「肉体」をしらずに小柳はみにつけている。小柳はそういう「肉体」になっている。
 「肉体」ごと、小柳はダッドの絵を愛している。だから、その「肉体」はダッドから発見されるのだ。



 万亀佳子「花の寺」。

極楽寺に花が散る
散って積もってその上に散って
重なって散ってまた散って
花は下から死んでいく

 「花は下から死んでいく」という1行がすばらしい。降り積もった花--その下の方の花はふつうは見えない。その見えないものを万亀の「肉眼」はくっきりととらえる。「肉体」としての「眼」は障害物をこえて、そこに起きていることを透視する。



リチャード・ダッド (夢人館8)

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『田村隆一全詩集』を読む(66)

2009-04-26 01:41:51 | 田村隆一

 きのう書いた感想は「意味」にしばられすぎていたかもしれない。私は実は『ぼくの航海日誌』は好きではない。ただし、一か所だけ、とけも好きなところがある。1行だけ、とても好きな行がある。
 「六月 すべてが美しすぎる」。そのなかほど。

アバよ カバよ アリゲーター

 ここには「意味」はない。
 というと、いいすぎになるかもしれないが、「意味」ではないものがある。「アバよ」はたしかに、その前の「ぼくは人間の皮とおさらばだ」と通い合っている。「おさらばだ」から、別れのことば「アバよ」が導き出されている。
 「カバよ」は「アバよ」と音だけが通い合っている。そして「アリゲーター」は「カバ」とアフリカの動物という「意味」でつながる。「意味」でつながることで、逆に無意味になる。--その瞬間の音楽。これが好きなのだ。

 ことばは「意味」になったり、「無意味」になったりして動いていく。その動きが、とても好きなのである。
 あるいは、言い直した方がいいのかもしれない。
 ことばが「意味」になろうとするとき、それを拒絶し、無意味に還元してしまう--その瞬間に、つかみどころのないエネルギーを感じ、そこに音楽の自由を感じ、そこ響きにひかれる、と。

 1連目から振り返る。

春がきた 終末の春がひらく
破滅するために花が咲きみだれ 草木は
若葉から緑に 暗緑色の炎にかわる
桜の花はとっくに散ってしまったのに
桜の花の記憶がまったくない
これは不思議な夢を見ているようなものだ

 昭和20年の6月。戦争の末期に感じている何か。不安。「破滅するために花が咲きみだれ」ということばのなかの「破滅するために」。特に「ために」ということばが、とても痛烈に響いてくる。どうしようもない暗さ。それが「花」といっしょにあること、「春」のいのちといっしょにあることの不思議さ。それは確かに「夢」なのかもしれない。
 この1連目を受けて、2連目は、「意味」のなかへ、ぐいと入っていく。

過去も未来もない
「今」という点の連続

 時間が「時・間」にならない。「間」が欠落する。それは昭和20年の「意味」であったかもしれない。いや、あったにちがいないと思う。
 だが、こういう「意味」のなかに意識が進んで行くと、「人生」が「意味」そのものになっていくようで、とても重苦しい。
 「意味」はさらにつづいていく。

過去も未来もない
「今」という点の連続
その点と点をつなぐ糸はからまり ぼくの指では
ほぐせない
糸がもつれ からまっているうちは
ぼくは人間の皮をかぶっていられるのかもしれない

 「時間」と「人間」。「今」、ここに存在すること。存在させられること。そこから「意味」は幾つでも出てくるだろうと思う。任意に「意味」が捏造できるだろうと思う。だからこそ、それを田村は一気に破壊する。

アバよ カバよ アリゲーター

 この音楽は、私には「アバよ カバよ ありがたや」にも聞こえる。「ありがたや」は「ありがたや」で「意味」になるかもしれないけれど、「アバよ」「カバよ」という音の連続に影響された、「アリゲーター」「ありがたや」という無意味な音の重なりによって「意味」が笑われると思う。

 「笑い」というのは、「意味」の拒絶、拒否であると思う。

 こういう「笑い」をくぐり抜けて、田村は、2連目で書いた「過去も未来もない/「今」という点の連続」という昭和20年の「意味」から遠ざかる。そして、昭和20年の「肉体」になる。その部分が、また、非常に美しい。

この年の春から初夏にかけて
ぼくは不思議な夢ばかり見ていた
桜の記憶もなければ
梅雨の記憶もない
雨にぬれる
という人間的感覚を失ってしまったのか

 この「雨にぬれる/という人間的感覚を失ってしまったのか」で、私は、ふるえる。あ、人間は「肉体」であると同時に「自然」なのだ、ふいに気がつく。「自然」と常に「交感」しているだ。
 この感動が、最後の3連で、もう一度強烈によみがえってくる。

夜は
「線の行者」村上華岳の芸術論を読んで

すべてが美しすぎる という
破滅の意味を体験する

夢がない
こんな夢を見たのは生まれてはじめてだ

 




20世紀詩人の日曜日
田村 隆一
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