詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

望月遊馬「はじける豆たち」、河野聡子「ポチピ」

2009-04-23 10:07:26 | 詩(雑誌・同人誌)
望月遊馬「はじける豆たち」、河野聡子「ポチピ」(「ガニメデ」45、2009年04月01日発行)

 望月遊馬「はじける豆たち」は「にぎりめし」「しめじ」「とうふ」という連作が並んでいる。ことばが、とても静かである。
 「とうふ」という作品がとてもいい。

白く、ねぎと、オクラと、削り節がそえてある。わかれながら、みちている。手をかさねると白くあえぐので、ねぎをかけてなだめると静かになる。流れるようにふれると、オクラや、削り節がふってくる。とうふのうちがわに眼がある。季節はずれの雪があわいのなかを抜けていく。羽織りが、とうふをまもっている。はがしていくとあられもない、くやしさが、ぶらさがっている。

 冷や奴。薬味はねぎ、オクラ、削り節。それを食べる時の感じを、人間の側ととうふの側から書いている。人間の側から書きはじめている。だが、実際に、食べはじめるとなると、人間の側ととうふの側という境界線が揺らぐ。「手をかさねると白くあえぐので」がとてもおもしろい。とうふから滲み出る水分を、手をとうふの肌にそえるようにして、器から逃がす瞬間のことなのだと思うのだが、実際に手がとうふにふれることで、とうふの声を聞く。とうふの肉体を感じる。「手をかさねる」の静かさと「あえぐ」の深さが、触れ得ぬもに触れる禁忌のようなまぶしさに輝く。
 この深さに触れてしまえば、もう、人間の側にとどまりつづけることはできない。
 「とうふのうちがわ」に入り込んで、そこから世界をみつめなおすことになる。
 もし、あなたがとうふの内側にいたら、何が見えるだろう。何を感じるだろう。降りしきる雪のなかにひとりとじこめられている。その雪が、外側から、「羽織」でも脱がすように、「白」を脱がされる。脱がされても、どこまでいっても「白」なのだけれど、内部の「白」は、やっぱり「あられもない」。
 この瞬間を、とうふは「くやしい」と感じている。
 いいなあ、とうふになってみたいなあ、と思った。とうふになって、ここに書かれている「くやしさ」を味わってみたい。



 河野聡子「ポチピ」は、ちょっとわからない。そして、おかしい。前半の2連。

サトウさんのビルに行きたい、何度かそういった
サトウさんのビルはすこし離れた海に立って入り口に波が打ち寄せている
まだポチに乗れないから駄目、いつでもポチといっしょじゃないと駄目、ポチと海に出れる日が来たらサトウさんちにいってもいい、といわれた

その日からポチ改造に取り組むときめた、ポチと海に出られるほど大きくなればサトウさんのビルに行く、海は青と灰色でうねる、海から突っ立つビル群の屋上からカガミヤシの胞子が飛んで行くのをみる、光をはねかえしている、半月のかたちをしたカガミヤシの胞子の群れが波に乗る、カガミヤシはカガミでもなければヤシでもなく、胞子はイチョウの葉に似ている、海はビルの入口ドアから三段下で、大きなからだの端っこを波うたせている、カガミヤシの半月は波に乗ってすぐ先の、サトウさんのビルへたどりつく、いまにもたどりつく
 
 望月の詩では「手」が「人間」と「とうふ」を分け、同時に接点になっていた。「手」でふれることをとおして、人間の側からとうふの側へと視点が移っていった。
 そういう移行の分岐点が、河野の作品では何にあたるのか、私にはわからない。
 わからないのだけれど、不思議に魅力的である。
 だいたい「ポチ」がわからない。「犬」のようなのだが、「犬」そのものというよりも、人間と犬との関係を「ポチ」と呼んでいるような感じがする。
 対象があって、私がある、という感じでことばが動いていっているわけではないのだと思う。対象、私という分離は、「客観」の問題なのだが、河野のことばはこの「客観」を欠いている。そして、そこからおもしろいことがはじまるのだ。
 カガミヤシの部分に、わかりやすい形で「客観」の欠如(排除、といいなおすと、たぶん河野の思想を明確にできると思う)のおもしろさがでている。「カガミヤシはカガミでもなければ、ヤシでもなく」。わざわざ、どうでもいい(?)といえば語弊があるかもしれないけれど、わざわざ「客観」をことばのなかに持ち込んでいる。それも「客観」と呼ぶにはあまりにもばかばかしい「客観」である。そんなことは言われなくても誰もが知っている。いや、知らなくても見当がつく。それをわざわざ書く。
 詩は、いつでも、こういう「わざと」のなかにある。「わざと」から出発する。
 この詩、「カガミヤシ」の詩だっけ? 違うね。
 ことばは「わざと」違う方向へ動いているのだ。違う方向へ動いていくことで、「ポチ」と「私」と「サトウさんのビル」「海」のあいだに、距離をつくりだす。それを「わざと」離して見せる。--対象からの「分離」が「客観性」の土台だが、そういう土台を「わざと」つくりだし、「客観性」なんて、わざとらしいものであって、重要ではない、というのだ。
 そんなものは、どうでもよくて、「ポチ」「私」「サトウさんのビル」「海」の関係、どうやったらその距離を縮め、「ひとつ」になれるかを河野は考えている。
 そして、その「ひとつ」というのは、「場」のことであるよりも、関係そのもののことである。離れていても「ひとつ」、いっしょにいても「複数」ということはあるのだ。そして、離れていても「ひとつ」ということは、別なことばで言えば、「ひとつ」の感じ・考えを共有するということでもある。関係は、「感じ・考え」の共有のなかにある。「感じ・考え」の共有が「関係」である。
 カガミヤシのくだりは、そういう「感じ・考え」の共有を「わざと」つくりだすためのものである。「カガミヤシはカガミでもなければヤシでもなく」というどうでもいい「事実」の「共有」が、この作品の全体の、あるかないかわからないような「関係」(ポチ、ポチピって何なのさ)を「ほんもの」に変えていくのだ。「ほんもの」の土台として、ほかの部分をささえるのだ。

ポチボートを作ろうよとポチにいった、材料がありません、繊維強化プラスチック、液晶ポリマー、ナノうんたらポチ用語が連発された、ポチをさえぎってバナナの皮と牛乳パックはどうよときいた、バナナの皮と牛乳パックで二十五分の一のポチボート模型を成型した、二十五分の一ポチと自分は消しゴムで削った、歩地はセンサーをかざして遠くを見る様子になった、ためらったふりをした

 「繊維強化プラスチック、液晶ポリマー、ナノうんたら」「バナナの皮と牛乳パック」「二十五分の一」。わざと導入された「客観」が「関係」という主観的なものをささえる「共有」基盤になるという、ブラックな笑い。
 もしかすると、河野は「共有」すべき「客観」はとっくのむかしに崩壊している、と、笑い、そういうものを必要としない「関係」を探しているのかもしれない。



時計一族
河野 聡子
思潮社

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『田村隆一全詩集』を読む(63)

2009-04-23 00:00:26 | 田村隆一
 『新世界より』(1990年)を読む。
 田村は何度も同じことを書いている。同じことを書くのは田村だけにかぎらないから、田村もまた同じことを何度も書いている、というべきか。その繰り返しかいていることのひとつに「肉眼」ということばがある。
 「人が人になるのには」の「目」の部分。

目が肉眼になるまでは
五十年かかる
青年の時はイデオロギーや観念でしか
ものを見ていない
海の微風 木枯しの音
世界の影の部分が見えてくるまでには

 最後に「五十年かかる」という1行が省略されている。
 「肉眼」はここでは間接的に定義されている。青年の時は「肉眼」ではなく「イデオロギーや観念で」ものを、世界を見ていた。イデオロギーや観念を捨て去るのに人間は50年かかる、と田村は考えている。この50年というのは正確に「50年」というよりは、ばくぜんとした「おとな」になるまでの「間」のことである。
 なぜ、人間は、イデオロギーや観念でものを見るか。楽だからである。イデオロギーや観念は体系(思考の遠近法)を持っている。それを「もの」にあてはめると、きちんと遠近法ができあがるから、何かを見たような気持ちになる。これを捨てるのは、確かに、むずかしいことだと思う。
 だが、どうやればイデオロギーや観念を捨てることができるのか。
 「想像の舌」は、そのひとつのヒントである。

きみの舌をできるだけ長くのばせ
その舌が
どんな地平線
どんな水平線に
触れられるものか試してみるんだ

その苦さ
その痛み

想像の舌を長くのばせ
できるだけ

苦さと痛みの感触が
きみの味覚を刺戟したら

詩は
星の光り
あさぎ色の草原の風
黙りこくったまましずかに呼吸している
一本の木

 「想像の舌」で地平線、水平線に触れる。そのとき「詩」がやってくる。「詩」は「肉眼」で見るものである。「肉眼」でつかむものである。
 この詩でおもしろいのは、「肉眼」を「視力」ではなく、「味覚」と「触覚」で代弁していることである。「苦さ」は「味覚」、「痛み」は「触覚」。ふたつの感覚が融合している。感覚がひとつのものであることを超越した瞬間、その感覚器官は「肉眼」になる。「詩」をつかみとることができる「器官」になる。
 「肉眼」とは顔のなかほどにあるふたつの器官のことではなく、詩をつかみとる機能、運動のことである。「肉眼」を「もの」の名前ではなく、「運動」にあたえられた呼び名なのである。
 「感覚の融合」とは、別なことばでいえば、「感覚」の働きを定義している「固定観念」の否定である。破壊である。「舌は味をみるもの」という固定観念でとらえていては、その想像力をどれだけのばしてみても「地平線」「水平線」にとどかない。「味覚」だけであく、「触覚」もある、そのふたつがまじりあったものととらえるとき、舌は「味覚」を超越する、「味覚器官」という固定観念を破壊する。その破壊の果てに、新しい世界、詩がやってくる。

 「白の動き」という作品にも「肉眼」ということばが出てくる。ユトリロの絵から刺戟受けて書いた作品だ。

彼のオブジェは、教会であろうと、婦人のお尻であろうと、下地は「動いている白」である。
ぼくは、欧米の小さな美術館で、ユトリロに出会うと、わが灰色の青春がよみがえってくるのだ。ある特定の思想や、感情があったら、画家の手は動くまい。画家によって、ぼくらは肉眼をあたえられると思うべきだ。
画家もまた、手によって自分自身の肉眼を造形し、「白」の連動を体験するにちがいない。

 「イデオロギーや観念」は「特定の思想や、(特定の)感情」ということばで繰り返されている。「特定」のもの、「定められた」ものの拒絶がここでは、繰り返し書かれている。
 田村は、「肉眼」を「造形」するものととらえている。それは最初からある肉体の一部の器官ではなく、人間が「造形」する、つくりあげていくものなのである。だから「50年」かかる。最初から肉体に備わっているものなら、「50年」は不要である。
 田村は、そして、ユトリロの場合「手」で「肉眼」をつくると考えている。みている。「想像力の舌」ではなく、ユトリロは「手」を動かすことで「肉眼」を手にいれる。
 このとき、つまり、私たちがユトリロの絵をみて、そこに詩を感じるとき、私たちはユトリロの「肉眼」を体験していることになる。
 ひとは、他人の肉体を体験できる。--これは奇妙なことのようだが、実は日常的にありふれている。だれが見知らぬ人が道端でうずくまっている。そのとき、私たちは自分の腹が痛むわけでもないのに、彼は腹が痛いのだと想像の中で体験している。人間の肉体には、そういう「想像」を誘い込む力がある。ユトリロの「肉眼」がはっきり何かを見たのなら、その「肉眼」とまた絵を見る人の「肉眼」になる。「特定の思想、感情」にとらわれていない、まだ定まっていない(固定していない)何かにふれる。何かを見る。

 「白」の連動を体験する

 このことばのなかにある「連動」、そして「連動」のなかにある「動く」ということば。それは「固定観念」の「固定」を否定することばである。動くのだ。「白」がさまざまなものとつながり動く。連動する。それは「白」いがいのものをも揺さぶり、破壊し、動かすということである。
 「肉眼」が見る、とは「動き」を見るということである。この「動き」とは、これまで田村の思想を語るのにつかってきたことばで言い直せば、「生成」である。あるいは「誕生」である。





あたかも風のごとく―田村隆一対談集 (1976年)
田村 隆一
風濤社

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