望月遊馬「はじける豆たち」、河野聡子「ポチピ」(「ガニメデ」45、2009年04月01日発行)
望月遊馬「はじける豆たち」は「にぎりめし」「しめじ」「とうふ」という連作が並んでいる。ことばが、とても静かである。
「とうふ」という作品がとてもいい。
冷や奴。薬味はねぎ、オクラ、削り節。それを食べる時の感じを、人間の側ととうふの側から書いている。人間の側から書きはじめている。だが、実際に、食べはじめるとなると、人間の側ととうふの側という境界線が揺らぐ。「手をかさねると白くあえぐので」がとてもおもしろい。とうふから滲み出る水分を、手をとうふの肌にそえるようにして、器から逃がす瞬間のことなのだと思うのだが、実際に手がとうふにふれることで、とうふの声を聞く。とうふの肉体を感じる。「手をかさねる」の静かさと「あえぐ」の深さが、触れ得ぬもに触れる禁忌のようなまぶしさに輝く。
この深さに触れてしまえば、もう、人間の側にとどまりつづけることはできない。
「とうふのうちがわ」に入り込んで、そこから世界をみつめなおすことになる。
もし、あなたがとうふの内側にいたら、何が見えるだろう。何を感じるだろう。降りしきる雪のなかにひとりとじこめられている。その雪が、外側から、「羽織」でも脱がすように、「白」を脱がされる。脱がされても、どこまでいっても「白」なのだけれど、内部の「白」は、やっぱり「あられもない」。
この瞬間を、とうふは「くやしい」と感じている。
いいなあ、とうふになってみたいなあ、と思った。とうふになって、ここに書かれている「くやしさ」を味わってみたい。
*
河野聡子「ポチピ」は、ちょっとわからない。そして、おかしい。前半の2連。
望月の詩では「手」が「人間」と「とうふ」を分け、同時に接点になっていた。「手」でふれることをとおして、人間の側からとうふの側へと視点が移っていった。
そういう移行の分岐点が、河野の作品では何にあたるのか、私にはわからない。
わからないのだけれど、不思議に魅力的である。
だいたい「ポチ」がわからない。「犬」のようなのだが、「犬」そのものというよりも、人間と犬との関係を「ポチ」と呼んでいるような感じがする。
対象があって、私がある、という感じでことばが動いていっているわけではないのだと思う。対象、私という分離は、「客観」の問題なのだが、河野のことばはこの「客観」を欠いている。そして、そこからおもしろいことがはじまるのだ。
カガミヤシの部分に、わかりやすい形で「客観」の欠如(排除、といいなおすと、たぶん河野の思想を明確にできると思う)のおもしろさがでている。「カガミヤシはカガミでもなければ、ヤシでもなく」。わざわざ、どうでもいい(?)といえば語弊があるかもしれないけれど、わざわざ「客観」をことばのなかに持ち込んでいる。それも「客観」と呼ぶにはあまりにもばかばかしい「客観」である。そんなことは言われなくても誰もが知っている。いや、知らなくても見当がつく。それをわざわざ書く。
詩は、いつでも、こういう「わざと」のなかにある。「わざと」から出発する。
この詩、「カガミヤシ」の詩だっけ? 違うね。
ことばは「わざと」違う方向へ動いているのだ。違う方向へ動いていくことで、「ポチ」と「私」と「サトウさんのビル」「海」のあいだに、距離をつくりだす。それを「わざと」離して見せる。--対象からの「分離」が「客観性」の土台だが、そういう土台を「わざと」つくりだし、「客観性」なんて、わざとらしいものであって、重要ではない、というのだ。
そんなものは、どうでもよくて、「ポチ」「私」「サトウさんのビル」「海」の関係、どうやったらその距離を縮め、「ひとつ」になれるかを河野は考えている。
そして、その「ひとつ」というのは、「場」のことであるよりも、関係そのもののことである。離れていても「ひとつ」、いっしょにいても「複数」ということはあるのだ。そして、離れていても「ひとつ」ということは、別なことばで言えば、「ひとつ」の感じ・考えを共有するということでもある。関係は、「感じ・考え」の共有のなかにある。「感じ・考え」の共有が「関係」である。
カガミヤシのくだりは、そういう「感じ・考え」の共有を「わざと」つくりだすためのものである。「カガミヤシはカガミでもなければヤシでもなく」というどうでもいい「事実」の「共有」が、この作品の全体の、あるかないかわからないような「関係」(ポチ、ポチピって何なのさ)を「ほんもの」に変えていくのだ。「ほんもの」の土台として、ほかの部分をささえるのだ。
「繊維強化プラスチック、液晶ポリマー、ナノうんたら」「バナナの皮と牛乳パック」「二十五分の一」。わざと導入された「客観」が「関係」という主観的なものをささえる「共有」基盤になるという、ブラックな笑い。
もしかすると、河野は「共有」すべき「客観」はとっくのむかしに崩壊している、と、笑い、そういうものを必要としない「関係」を探しているのかもしれない。
望月遊馬「はじける豆たち」は「にぎりめし」「しめじ」「とうふ」という連作が並んでいる。ことばが、とても静かである。
「とうふ」という作品がとてもいい。
白く、ねぎと、オクラと、削り節がそえてある。わかれながら、みちている。手をかさねると白くあえぐので、ねぎをかけてなだめると静かになる。流れるようにふれると、オクラや、削り節がふってくる。とうふのうちがわに眼がある。季節はずれの雪があわいのなかを抜けていく。羽織りが、とうふをまもっている。はがしていくとあられもない、くやしさが、ぶらさがっている。
冷や奴。薬味はねぎ、オクラ、削り節。それを食べる時の感じを、人間の側ととうふの側から書いている。人間の側から書きはじめている。だが、実際に、食べはじめるとなると、人間の側ととうふの側という境界線が揺らぐ。「手をかさねると白くあえぐので」がとてもおもしろい。とうふから滲み出る水分を、手をとうふの肌にそえるようにして、器から逃がす瞬間のことなのだと思うのだが、実際に手がとうふにふれることで、とうふの声を聞く。とうふの肉体を感じる。「手をかさねる」の静かさと「あえぐ」の深さが、触れ得ぬもに触れる禁忌のようなまぶしさに輝く。
この深さに触れてしまえば、もう、人間の側にとどまりつづけることはできない。
「とうふのうちがわ」に入り込んで、そこから世界をみつめなおすことになる。
もし、あなたがとうふの内側にいたら、何が見えるだろう。何を感じるだろう。降りしきる雪のなかにひとりとじこめられている。その雪が、外側から、「羽織」でも脱がすように、「白」を脱がされる。脱がされても、どこまでいっても「白」なのだけれど、内部の「白」は、やっぱり「あられもない」。
この瞬間を、とうふは「くやしい」と感じている。
いいなあ、とうふになってみたいなあ、と思った。とうふになって、ここに書かれている「くやしさ」を味わってみたい。
*
河野聡子「ポチピ」は、ちょっとわからない。そして、おかしい。前半の2連。
サトウさんのビルに行きたい、何度かそういった
サトウさんのビルはすこし離れた海に立って入り口に波が打ち寄せている
まだポチに乗れないから駄目、いつでもポチといっしょじゃないと駄目、ポチと海に出れる日が来たらサトウさんちにいってもいい、といわれた
その日からポチ改造に取り組むときめた、ポチと海に出られるほど大きくなればサトウさんのビルに行く、海は青と灰色でうねる、海から突っ立つビル群の屋上からカガミヤシの胞子が飛んで行くのをみる、光をはねかえしている、半月のかたちをしたカガミヤシの胞子の群れが波に乗る、カガミヤシはカガミでもなければヤシでもなく、胞子はイチョウの葉に似ている、海はビルの入口ドアから三段下で、大きなからだの端っこを波うたせている、カガミヤシの半月は波に乗ってすぐ先の、サトウさんのビルへたどりつく、いまにもたどりつく
望月の詩では「手」が「人間」と「とうふ」を分け、同時に接点になっていた。「手」でふれることをとおして、人間の側からとうふの側へと視点が移っていった。
そういう移行の分岐点が、河野の作品では何にあたるのか、私にはわからない。
わからないのだけれど、不思議に魅力的である。
だいたい「ポチ」がわからない。「犬」のようなのだが、「犬」そのものというよりも、人間と犬との関係を「ポチ」と呼んでいるような感じがする。
対象があって、私がある、という感じでことばが動いていっているわけではないのだと思う。対象、私という分離は、「客観」の問題なのだが、河野のことばはこの「客観」を欠いている。そして、そこからおもしろいことがはじまるのだ。
カガミヤシの部分に、わかりやすい形で「客観」の欠如(排除、といいなおすと、たぶん河野の思想を明確にできると思う)のおもしろさがでている。「カガミヤシはカガミでもなければ、ヤシでもなく」。わざわざ、どうでもいい(?)といえば語弊があるかもしれないけれど、わざわざ「客観」をことばのなかに持ち込んでいる。それも「客観」と呼ぶにはあまりにもばかばかしい「客観」である。そんなことは言われなくても誰もが知っている。いや、知らなくても見当がつく。それをわざわざ書く。
詩は、いつでも、こういう「わざと」のなかにある。「わざと」から出発する。
この詩、「カガミヤシ」の詩だっけ? 違うね。
ことばは「わざと」違う方向へ動いているのだ。違う方向へ動いていくことで、「ポチ」と「私」と「サトウさんのビル」「海」のあいだに、距離をつくりだす。それを「わざと」離して見せる。--対象からの「分離」が「客観性」の土台だが、そういう土台を「わざと」つくりだし、「客観性」なんて、わざとらしいものであって、重要ではない、というのだ。
そんなものは、どうでもよくて、「ポチ」「私」「サトウさんのビル」「海」の関係、どうやったらその距離を縮め、「ひとつ」になれるかを河野は考えている。
そして、その「ひとつ」というのは、「場」のことであるよりも、関係そのもののことである。離れていても「ひとつ」、いっしょにいても「複数」ということはあるのだ。そして、離れていても「ひとつ」ということは、別なことばで言えば、「ひとつ」の感じ・考えを共有するということでもある。関係は、「感じ・考え」の共有のなかにある。「感じ・考え」の共有が「関係」である。
カガミヤシのくだりは、そういう「感じ・考え」の共有を「わざと」つくりだすためのものである。「カガミヤシはカガミでもなければヤシでもなく」というどうでもいい「事実」の「共有」が、この作品の全体の、あるかないかわからないような「関係」(ポチ、ポチピって何なのさ)を「ほんもの」に変えていくのだ。「ほんもの」の土台として、ほかの部分をささえるのだ。
ポチボートを作ろうよとポチにいった、材料がありません、繊維強化プラスチック、液晶ポリマー、ナノうんたらポチ用語が連発された、ポチをさえぎってバナナの皮と牛乳パックはどうよときいた、バナナの皮と牛乳パックで二十五分の一のポチボート模型を成型した、二十五分の一ポチと自分は消しゴムで削った、歩地はセンサーをかざして遠くを見る様子になった、ためらったふりをした
「繊維強化プラスチック、液晶ポリマー、ナノうんたら」「バナナの皮と牛乳パック」「二十五分の一」。わざと導入された「客観」が「関係」という主観的なものをささえる「共有」基盤になるという、ブラックな笑い。
もしかすると、河野は「共有」すべき「客観」はとっくのむかしに崩壊している、と、笑い、そういうものを必要としない「関係」を探しているのかもしれない。
![]() | 時計一族河野 聡子思潮社このアイテムの詳細を見る |