詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

ジャン=ピエール&リュック・ダルデンヌ監督「ロルナの祈り」(★★★★)

2009-04-04 09:24:25 | 映画
監督 ジャン=ピエール&リュック・ダルデンヌ 出演 アルタ・ドブロシ、ジェレミー・レニエ、ファブリツィオ・ロンジョーネ

 偽装結婚をすることでベルギー国籍を取得する女性。そして、その偽装結婚の相手の男を殺し、新たな偽装結婚でビジネスを展開しようとする組織……。実際にそういう「事件」が起きているのだと思うけれど、そうしたヨーロッパの内部をていねいに描写した映画である。
 1か所、とても印象に残るシーンがある。主役のアルタ・ドブロシが一瞬だけ、とても美しい笑顔を見せる。自転車を買って、街中へこぎだす男に、「またね」というために追いかけるときの一瞬の笑顔だ。
 この前日の夜、女と男ははじめてのセックスをしている。女の偽装結婚相手は薬物中毒である。彼が病院から退院したその日、再び薬物に手を出そうとする。それを文字通り肉体をつかって阻止するアルタ・ドブロシ。薬物への関心をセックスでまぎらわせる。その翌日、二人は合鍵屋へ行く。そこで男は自転車を買う。「乗り回していれば、薬物中毒の苦しみを忘れられるから」と。そして、女は仕事場へ、男は街中へ。その別れ際の短い時間。女が、自転車の男を追いかけ、それに気づき男がペダルをこぐをのやめるほんの一瞬のできごとである。
 その瞬間、ふっと、あれっ、これは偽装結婚の暗い話ではなかったのか、とストーリーを忘れる。偽装結婚ビジネスの暗部を描いた作品ではなかったのか。偽装結婚の、偽装を乗り越えて、愛をつかむ話だったのか……と錯覚する。
 錯覚は、しかし、私だけのことではないのだ。
 この映画の主人公、アルタ・ドブロシも「愛」と錯覚する。あるいは、その瞬間、そこに愛があったというべきなのか。
 このあと、映画は一転する。
 薬物中毒の男は殺される。女はロシア人を相手に偽装結婚話を進める。そして大金を手に入れる。アルバニアから夫を呼び寄せ、いっしょに開くはずの店、空き家を買いに行く。そして、空き家の内部を電話で夫に報告しながら、歩き回る。「ここにカウンターをおいて、ここにテーブルをおいて」。そして「3階はきっと寝室」といいながら階段を上ろうとして、ふいに体調の変化に気がつく。崩れるように、階段に座り込む。
 妊娠している。父親は、殺された男、最初の偽装結婚の相手、あの薬物中毒の男。一晩かぎりの、あのセックスのときの証……。
 この妊娠は、この映画では真実なのか、錯覚なのか、明確にはされていない。最初の検診はきちんと受けていない。2度目、偽装結婚ビジネスの首謀者の男に連れられていった病院では「妊娠していない」という。それは真実なのか。女は、男が仕組んで、そう言わせているのだと思う。偽装結婚ビジネスの相手であるロシア人との関係は破綻する。違約金をとられる。買ったはずの店も手放した。女は、自分が殺されるのだと思う。薬物中毒の男が殺されたように、女は殺されるのだ。胎内の赤ん坊といっしょに殺されるのだと思う。
 女は、車で移動中、運転している組織の男を石でなく殴り殺して森の中へ逃げる。そして、新しいいのちは絶対に殺させない。生き延びよう、と決意する。そこで映画はおわる。いのちに目覚めて、そこで映画はおわるのである。
 そして、このとき、やはりあの別れ際の笑顔、あれは本物の笑顔だったのだと気づく。女は、偽装で結婚した相手、単に国籍を手に入れるために結婚を装った男を、あの晩、愛してしまった。自分に助けを求めてくる男、その必死の叫びを聞いて、受け入れたとき、そこに愛があったと、ふいに気がつく。女の妊娠は錯覚かもしれない。それはしかし、錯覚したいほどの、真実の愛がそこにあったということだろう。女が買った空き家で体調の変化に気がつくのも、寝室を見に行こうとする階段で、である。寝室は、彼女にとって、特別な意味を持っているのだ。相手が殺されたいま、殺すことに加担してしまったいま、女は偽装ではない愛にたどりついたのである。

 人間は何でもできる。その凶暴さ。そして、その凶暴さの一瞬でさえ、人間のいのちは、その当人をも裏切ってあたらしく生き延びることがある。その不思議さ。そういうものを、この映画は、まっすぐに投げかけてくる。
 最後の森のシーン、女が独り言を、声に出していう。その、わざわざ声に出していう部分は、映画そのものとしては不自然であるけれど、映画が投げかけているものをくっきりと浮かびあがらせるためには必要なものだったかもしれない。



 この映画は、ドキュメンタリーのようなタッチの映像でつくられている。その細部もなかなかていねいである。とくにアルバニアからベルギーにでてきた女、主役の身につけているブラジャーやパンティー、服装の安っぽい感じがリアルで、ぐいと引きつけられる。ブラジャーやパンティーが「柄物」なのである。その布が、肌触りのいいものではなく、ただ形だけのものであることが、スクリーンからもわかる。そして、その女の肉体もまたおどろくほど貧弱である。腰はどっしりと大きく、ももも太い。頑丈な女、という感じだが、乳房が小さい。しかも垂れている。あ、肉体というのも、また制度のなかで、社会のなかでつくられるのだと気がつく。現実に、こういう腰と胸(乳房)の組み合わせをした女性は、アメリカにも日本にも、たぶんいない。暮らしのなか「美意識」が肉体そのものにも作用する。どんな下着を身につけるかということをとおして肉体そのものも変わるのだと思った。
 --これは、女の妊娠と同じように、誤解かもしれない。私の錯覚かもしれない。アルバニアの女性もハリウッドの女優のように形のいい乳房と、肉体訓練で引き締まった腰をしているかもしれない。
 しかし、そういう誤解、錯覚を、それが「事実」であると思わせるほどの、不思議な力に満ちた映画だった。

 
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鶴見忠良『つぶやくプリズム』(2)

2009-04-04 01:00:51 | 詩集
鶴見忠良『つぶやくプリズム』(2)(沖積舎、2009年03月10日発行)

 きのうの「日記」に書いた鶴見の「桜」の「黄金の雫」。それを味わいたくて、公園へ桜を見に行った。今年の桜はもう満開をすぎていた。桜には申し訳ないが、花びらをちぎってなめてみた。食べてみた。
 私の肉体はぼんくらで、なまけもので、桜の花びらから感じることができたのは、かすかな甘さである。そして、その甘さは、木の低い方のことろの花びらよりも、高いところの方がすこし甘味が強い。ちらちらと梢から落ちてくる花びらは、さらに甘かった。
 「黄金の雫」は感じられないけれど、いや、「黄金の雫」を自分の肉体で感じられなかったがゆえに、鶴見のことばが私にとっては「黄金の雫」である。いっそう、美しく、貴重なものになった。



 「闇の花火」にも、鶴見の「肉眼」の強靱さがあらわれている。全行。

花火は
闇に甘えている

闇は
性懲りもなく
花火を掴みそこねている

闇と花火
どちらが奴隷だ

闇の襞をひき裂いて
血に濡れながら
私達子供は
生まれて来たのではないか

遠く歓声があがる
まぬけな大砲が鳴っている

闇には
闇の腹腸(はらわた)から絞り出す

闇の花火が
あるのではないか

 鶴見が失明していることは、きのう書いた。そして、その失明している「肉眼」が「闇の花火が/あるのではないか」という時、それは、私に対して「闇の花火が見えますか」と問いかけているのにひとしい。「見たことがありますか? 私は失明しているので見えないけれど、それを実感できる。教えてください。闇の花火はどんな形をしていますか?」鶴見に、そう質問されたような気持ちになった。私はそれに対して答えることができない。私の目は甘ったれていて、「闇の花火」を見て来なかった。
 夏、夏の終わりに花火大会がある。そのときは見に行こうと思う。「闇の花火」が見えるか、鶴見に答えることができるものを私は見ることができる。見に行かなければ、と思う。

 それにしても、(それにしても、というのは変な表現であるけれど)、「闇には/闇の腹腸から絞り出す」とは、なんと強いことばだろうか。「闇の花火」も強いことばだが「闇の腹腸から絞り出す」も強い。
 このことばは、それに先だつ「闇の襞をひき裂いて/血に濡れながら/私達子供は/生まれて来たのではないか」と向き合っている。母は子を生む。「はらわた」から「子」を「絞り出す」。きっと、そうである。私たちは、その「絞り出す」力をかりながら、「闇をひき裂いて」生まれてきたのである。そこには「血」があふれている。
 このなまなましい誕生のドラマ。
 きのうの「桜」のなかにも「嬰児」がいたが、鶴見の詩は、人間の再生、新しい誕生を描いている。鶴見が生まれ変わった瞬間を、なまなましく伝えることばをもっている。
 花火大会に行く。そこで鶴見の「肉眼」は花火と闇の戦いを見る。いや、「闇の花火」が炸裂し輝くのを見る。そして、生まれ変わる。赤ん坊となって、母親の胎内からこの世界に飛び出してきたときのように、「血」に濡れて、最初の空気に触れたときのように、力のかぎりに叫ぶ。
 ああ、すごいなあ。間抜けなのは「大砲」ではなく、遠くであがる「歓声」かもしれない。

 作品のなかで生まれ変わる鶴見。ことばは、鶴見にとって「肉眼」そのものである。その誕生、あたらしい「いのち」の叫びと向き合えるよろこびほど、うれしいものはない。

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『田村隆一全詩集』を読む(44)

2009-04-04 00:20:11 | 田村隆一
 「暁の死線」の「泉」は何によって見るのだろうか。「肉眼」を超える「肉眼」でるあ。「肉眼」は、田村の詩にたくさん出てくる。「目」そのものがたくさん出てくる。
 「眠れ」には、田村が繰り返し書いていることばがある。

 病院からの帰り道 武蔵野の雑木林のなか
を歩いた 大きな木に出会うとおれは立ちど
まってしまう癖がある おれの目には見えな
い地下の根のひろがりがそのときにかぎって
見えてくるのだ 肉眼とはいったいなにか

 見えるものを見るのが「目」、見えないものを見るのが「肉眼」である。そのとき「肉」とは、深く意識とかかわっている。木の根についていえば、木の根が土のなかにあることを田村は知っている。それがどれだけのひろがりをもっているかは知らないが、その根はたしかに地下にある。その知識として知っているものを「肉眼」はすくいだすのである。田村の「肉体」のなかから。「肉体」のなかからすくいだし、それを見るのが「肉眼」ということになる。
 「死線」の「線」から「泉」をすくいあげ、それを見てしまうのは、「頭脳」ではなく「肉眼」である。肉眼であるからこそ、それは「夜明け」か「日暮れ」を求める。具体的な時間を求める。そして、その時間も、実は田村の「肉体」のなかにある。

 「指と手」には、次のことばがある。

困ったな つまりぼくが云いたいのは ほ
  んとうにものを見るのには工夫がいる
  眼だけひらいていたって見えるはずが
  ないんだ

きみにとっちゃ針の穴かもしれないけど
  ぼくにとっちゃ覗きからくりみたいな
  ものだ しかも故障だらけでさ もの
  が見たかったら 手を動かすんだ 指
  をふるわせるんだ

すると 五本の指には五つの眼が 一本の
  手には針の穴よりももっと小さい穴が
  ついていると云うんですね

や きみにしては巧いことを云ったよ 五
  本の指には五つの眼 それも眼だけじ
  ゃない 鼻も耳も舌もついているんだ
  よ 波に消えさる砂の上の文字も解読
  できるし 猫が夢見る夢だってぼくの
  手は見られるんだ 風の匂い 水の味

 「手を動かす」「指を動かす」--それが見ることにつながる。すべては「肉体」をとおって、はじめて「肉体」のなかで見えてくる。
 「肉体」が「混沌」の「場」である。混沌のなかから、「肉体」が現実をすくいとる。「肉体」のなかの存在と、世界のなかの存在が呼応し合うとき、目が「肉眼」にかわるのだ。
 そして、そのとき、「肉体」と「精神」はまた融合したものになる。

 波に消えさる砂の上の文字も解読できるし

 この1行。「解読」ということば。
 「解読」は単に「文字」を見ているのではない。「これは水であり、氷ではない」というふうに「見て」その形を読んでいるのではない。「文字」には「文字」をこえるものがある。それを把握することが「解読」でである。
 この「解読」を「肉体」にあてはめると……。

 目が見る、目が見た表面的(?)な存在を、鼻、耳、舌、手、指のなかをくぐらせ、鼻、耳、舌、手、指にもわかるようにすることを「解読」というのだ。全身で「解読」する。そのとき、目は、いまそこにある存在を自分の「肉体」の内部に見ることになる。
 「肉体」の内部にあるものは、世界の「内部」にあるものと呼応する。
 たとえば木。大きな木。それは地中に根をひろげている。その根は、人間でいえば、肉眼とつながっている鼻、耳、舌、手、指なのである。大地のなかに木が根をひろげていると「解読」するのは、目だけの力ではない。

 

 

砂上の会話―田村隆一対談 (1978年)
田村 隆一
実業之日本社

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