監督 ジャン=ピエール&リュック・ダルデンヌ 出演 アルタ・ドブロシ、ジェレミー・レニエ、ファブリツィオ・ロンジョーネ
偽装結婚をすることでベルギー国籍を取得する女性。そして、その偽装結婚の相手の男を殺し、新たな偽装結婚でビジネスを展開しようとする組織……。実際にそういう「事件」が起きているのだと思うけれど、そうしたヨーロッパの内部をていねいに描写した映画である。
1か所、とても印象に残るシーンがある。主役のアルタ・ドブロシが一瞬だけ、とても美しい笑顔を見せる。自転車を買って、街中へこぎだす男に、「またね」というために追いかけるときの一瞬の笑顔だ。
この前日の夜、女と男ははじめてのセックスをしている。女の偽装結婚相手は薬物中毒である。彼が病院から退院したその日、再び薬物に手を出そうとする。それを文字通り肉体をつかって阻止するアルタ・ドブロシ。薬物への関心をセックスでまぎらわせる。その翌日、二人は合鍵屋へ行く。そこで男は自転車を買う。「乗り回していれば、薬物中毒の苦しみを忘れられるから」と。そして、女は仕事場へ、男は街中へ。その別れ際の短い時間。女が、自転車の男を追いかけ、それに気づき男がペダルをこぐをのやめるほんの一瞬のできごとである。
その瞬間、ふっと、あれっ、これは偽装結婚の暗い話ではなかったのか、とストーリーを忘れる。偽装結婚ビジネスの暗部を描いた作品ではなかったのか。偽装結婚の、偽装を乗り越えて、愛をつかむ話だったのか……と錯覚する。
錯覚は、しかし、私だけのことではないのだ。
この映画の主人公、アルタ・ドブロシも「愛」と錯覚する。あるいは、その瞬間、そこに愛があったというべきなのか。
このあと、映画は一転する。
薬物中毒の男は殺される。女はロシア人を相手に偽装結婚話を進める。そして大金を手に入れる。アルバニアから夫を呼び寄せ、いっしょに開くはずの店、空き家を買いに行く。そして、空き家の内部を電話で夫に報告しながら、歩き回る。「ここにカウンターをおいて、ここにテーブルをおいて」。そして「3階はきっと寝室」といいながら階段を上ろうとして、ふいに体調の変化に気がつく。崩れるように、階段に座り込む。
妊娠している。父親は、殺された男、最初の偽装結婚の相手、あの薬物中毒の男。一晩かぎりの、あのセックスのときの証……。
この妊娠は、この映画では真実なのか、錯覚なのか、明確にはされていない。最初の検診はきちんと受けていない。2度目、偽装結婚ビジネスの首謀者の男に連れられていった病院では「妊娠していない」という。それは真実なのか。女は、男が仕組んで、そう言わせているのだと思う。偽装結婚ビジネスの相手であるロシア人との関係は破綻する。違約金をとられる。買ったはずの店も手放した。女は、自分が殺されるのだと思う。薬物中毒の男が殺されたように、女は殺されるのだ。胎内の赤ん坊といっしょに殺されるのだと思う。
女は、車で移動中、運転している組織の男を石でなく殴り殺して森の中へ逃げる。そして、新しいいのちは絶対に殺させない。生き延びよう、と決意する。そこで映画はおわる。いのちに目覚めて、そこで映画はおわるのである。
そして、このとき、やはりあの別れ際の笑顔、あれは本物の笑顔だったのだと気づく。女は、偽装で結婚した相手、単に国籍を手に入れるために結婚を装った男を、あの晩、愛してしまった。自分に助けを求めてくる男、その必死の叫びを聞いて、受け入れたとき、そこに愛があったと、ふいに気がつく。女の妊娠は錯覚かもしれない。それはしかし、錯覚したいほどの、真実の愛がそこにあったということだろう。女が買った空き家で体調の変化に気がつくのも、寝室を見に行こうとする階段で、である。寝室は、彼女にとって、特別な意味を持っているのだ。相手が殺されたいま、殺すことに加担してしまったいま、女は偽装ではない愛にたどりついたのである。
人間は何でもできる。その凶暴さ。そして、その凶暴さの一瞬でさえ、人間のいのちは、その当人をも裏切ってあたらしく生き延びることがある。その不思議さ。そういうものを、この映画は、まっすぐに投げかけてくる。
最後の森のシーン、女が独り言を、声に出していう。その、わざわざ声に出していう部分は、映画そのものとしては不自然であるけれど、映画が投げかけているものをくっきりと浮かびあがらせるためには必要なものだったかもしれない。
*
この映画は、ドキュメンタリーのようなタッチの映像でつくられている。その細部もなかなかていねいである。とくにアルバニアからベルギーにでてきた女、主役の身につけているブラジャーやパンティー、服装の安っぽい感じがリアルで、ぐいと引きつけられる。ブラジャーやパンティーが「柄物」なのである。その布が、肌触りのいいものではなく、ただ形だけのものであることが、スクリーンからもわかる。そして、その女の肉体もまたおどろくほど貧弱である。腰はどっしりと大きく、ももも太い。頑丈な女、という感じだが、乳房が小さい。しかも垂れている。あ、肉体というのも、また制度のなかで、社会のなかでつくられるのだと気がつく。現実に、こういう腰と胸(乳房)の組み合わせをした女性は、アメリカにも日本にも、たぶんいない。暮らしのなか「美意識」が肉体そのものにも作用する。どんな下着を身につけるかということをとおして肉体そのものも変わるのだと思った。
--これは、女の妊娠と同じように、誤解かもしれない。私の錯覚かもしれない。アルバニアの女性もハリウッドの女優のように形のいい乳房と、肉体訓練で引き締まった腰をしているかもしれない。
しかし、そういう誤解、錯覚を、それが「事実」であると思わせるほどの、不思議な力に満ちた映画だった。
偽装結婚をすることでベルギー国籍を取得する女性。そして、その偽装結婚の相手の男を殺し、新たな偽装結婚でビジネスを展開しようとする組織……。実際にそういう「事件」が起きているのだと思うけれど、そうしたヨーロッパの内部をていねいに描写した映画である。
1か所、とても印象に残るシーンがある。主役のアルタ・ドブロシが一瞬だけ、とても美しい笑顔を見せる。自転車を買って、街中へこぎだす男に、「またね」というために追いかけるときの一瞬の笑顔だ。
この前日の夜、女と男ははじめてのセックスをしている。女の偽装結婚相手は薬物中毒である。彼が病院から退院したその日、再び薬物に手を出そうとする。それを文字通り肉体をつかって阻止するアルタ・ドブロシ。薬物への関心をセックスでまぎらわせる。その翌日、二人は合鍵屋へ行く。そこで男は自転車を買う。「乗り回していれば、薬物中毒の苦しみを忘れられるから」と。そして、女は仕事場へ、男は街中へ。その別れ際の短い時間。女が、自転車の男を追いかけ、それに気づき男がペダルをこぐをのやめるほんの一瞬のできごとである。
その瞬間、ふっと、あれっ、これは偽装結婚の暗い話ではなかったのか、とストーリーを忘れる。偽装結婚ビジネスの暗部を描いた作品ではなかったのか。偽装結婚の、偽装を乗り越えて、愛をつかむ話だったのか……と錯覚する。
錯覚は、しかし、私だけのことではないのだ。
この映画の主人公、アルタ・ドブロシも「愛」と錯覚する。あるいは、その瞬間、そこに愛があったというべきなのか。
このあと、映画は一転する。
薬物中毒の男は殺される。女はロシア人を相手に偽装結婚話を進める。そして大金を手に入れる。アルバニアから夫を呼び寄せ、いっしょに開くはずの店、空き家を買いに行く。そして、空き家の内部を電話で夫に報告しながら、歩き回る。「ここにカウンターをおいて、ここにテーブルをおいて」。そして「3階はきっと寝室」といいながら階段を上ろうとして、ふいに体調の変化に気がつく。崩れるように、階段に座り込む。
妊娠している。父親は、殺された男、最初の偽装結婚の相手、あの薬物中毒の男。一晩かぎりの、あのセックスのときの証……。
この妊娠は、この映画では真実なのか、錯覚なのか、明確にはされていない。最初の検診はきちんと受けていない。2度目、偽装結婚ビジネスの首謀者の男に連れられていった病院では「妊娠していない」という。それは真実なのか。女は、男が仕組んで、そう言わせているのだと思う。偽装結婚ビジネスの相手であるロシア人との関係は破綻する。違約金をとられる。買ったはずの店も手放した。女は、自分が殺されるのだと思う。薬物中毒の男が殺されたように、女は殺されるのだ。胎内の赤ん坊といっしょに殺されるのだと思う。
女は、車で移動中、運転している組織の男を石でなく殴り殺して森の中へ逃げる。そして、新しいいのちは絶対に殺させない。生き延びよう、と決意する。そこで映画はおわる。いのちに目覚めて、そこで映画はおわるのである。
そして、このとき、やはりあの別れ際の笑顔、あれは本物の笑顔だったのだと気づく。女は、偽装で結婚した相手、単に国籍を手に入れるために結婚を装った男を、あの晩、愛してしまった。自分に助けを求めてくる男、その必死の叫びを聞いて、受け入れたとき、そこに愛があったと、ふいに気がつく。女の妊娠は錯覚かもしれない。それはしかし、錯覚したいほどの、真実の愛がそこにあったということだろう。女が買った空き家で体調の変化に気がつくのも、寝室を見に行こうとする階段で、である。寝室は、彼女にとって、特別な意味を持っているのだ。相手が殺されたいま、殺すことに加担してしまったいま、女は偽装ではない愛にたどりついたのである。
人間は何でもできる。その凶暴さ。そして、その凶暴さの一瞬でさえ、人間のいのちは、その当人をも裏切ってあたらしく生き延びることがある。その不思議さ。そういうものを、この映画は、まっすぐに投げかけてくる。
最後の森のシーン、女が独り言を、声に出していう。その、わざわざ声に出していう部分は、映画そのものとしては不自然であるけれど、映画が投げかけているものをくっきりと浮かびあがらせるためには必要なものだったかもしれない。
*
この映画は、ドキュメンタリーのようなタッチの映像でつくられている。その細部もなかなかていねいである。とくにアルバニアからベルギーにでてきた女、主役の身につけているブラジャーやパンティー、服装の安っぽい感じがリアルで、ぐいと引きつけられる。ブラジャーやパンティーが「柄物」なのである。その布が、肌触りのいいものではなく、ただ形だけのものであることが、スクリーンからもわかる。そして、その女の肉体もまたおどろくほど貧弱である。腰はどっしりと大きく、ももも太い。頑丈な女、という感じだが、乳房が小さい。しかも垂れている。あ、肉体というのも、また制度のなかで、社会のなかでつくられるのだと気がつく。現実に、こういう腰と胸(乳房)の組み合わせをした女性は、アメリカにも日本にも、たぶんいない。暮らしのなか「美意識」が肉体そのものにも作用する。どんな下着を身につけるかということをとおして肉体そのものも変わるのだと思った。
--これは、女の妊娠と同じように、誤解かもしれない。私の錯覚かもしれない。アルバニアの女性もハリウッドの女優のように形のいい乳房と、肉体訓練で引き締まった腰をしているかもしれない。
しかし、そういう誤解、錯覚を、それが「事実」であると思わせるほどの、不思議な力に満ちた映画だった。