詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

一色真理「句読点」、松岡政則「平渓線老街散歩」

2009-04-08 11:44:23 | 詩(雑誌・同人誌)
一色真理「句読点」、松岡政則「平渓線老街散歩」(「交野が原」66、2009年05月01日発行)

 一色真理「句読点」に出てくる「弱く」(弱い)ということばを読みながら、「弱い」と書ける「強さ」を思った。

ぼくは体が弱くて
学校を休んでばかりいた
句読点のいっぱいある作文みたいに、

 「弱く」は1行目に出てくる。これは文字通り弱い、病弱、体力が弱いという意味だろう。その「弱さ」を「句読点」と一色は名付けている。
 息継ぎ、そして中断。それは、別の言い方をすると、呼吸をととのえるということかもしれない。「句読点」とは、そういう「中断」の比喩である。比喩であるかぎり、それは「わざと」書かれたものである。そこには、そうした「呼吸」「息のととのえ」「中断」というものが意識的におこなわれていることを意味する。
 自分は、いま、ここで、「わざと」休んでいる。そういう「意識」は「世界」をやはり「比喩」にかえて行く。現実が、一色自身の「わざと」に影響されて、「比喩」へとずれてゆく。
 この過程がおもしろい。
 2連目以降は、次の展開になる。

襖の向こうでは家族がにぎやかに
夕ご飯を食べている

蒲団をかぶってネタふりをしながら
作文を書いていると
枕元をごきぶりが
触覚をふりながら通りすぎた

真っ黒なつるつるした顔のごきぶり
よく見ると眼鏡をかけている

「バガ!」と叫んで
ぼくは書きかけの作文から
句読点をひとつつかんで
投げてやってた

ゴキブリの脚がもげた

句読点をもうひとつぶつけると
下腹がぱっくり裂けて
白いあぶらがいっぱい出た

ぼくはとても気持ちよくなり
満足して朝まで眠った

 「眼鏡をかけている」ゴキブリは、もちろん「比喩」である。「家族」という「文体」を、「句読点」となって、眺め直している一色。そのとき「家族」がゴキブリに見える。「家族」の「句読点」と一色の「句読点」が一致しているなら、そういう「ずれ」というか、「家族」がゴキブリに見えるということもないのだが、呼吸がずれているので、一色と「家族」は「異質」な生き物としてぶつかりあう。
 一色は、自分ではどうすることもできない「弱さ」を訴える。「句読点」をぶつける。こういう「文体」の違いに抵抗する方法は、一色を見守る家族にはない。異質の「句読点」を受け止めるだけである。異質の「句読点」を受け止めることが、たとえ、自分自身にとって不都合であっても。--それが、「親」というものだからである。
 こどもは、自分の、どうしようもない「呼吸」をぶつければ、それで満足する。そして、眠る。
 そういうことをしてきた、と、いま、思い出している。--この「強さ」は、たぶん、一色が「こども」ではなく「親」になった、いま、「親」であるということと関係しているのだと思う。
 こどもがこどもではなく、親になる--というのは自然なことだけれど、そういう自然を、ちょっと悲しいような(なつかしいような)感じで思い出している。そういう人間の自然な「強さ」がある。

ぼくが書いた一番最初の詩の題名がそれだ
「父を殺した小学生」

 そんなふうに思い出すことのできる「強さ」。自然さ。途中にはじめてのセックスのことがちらりと出てくる。この「句読点」にも、人生の、自然の「強さ」を感じる。



 松岡政則「平渓線老街散歩」の詩には「弱い」ではなく、「強い」が出てくる。

商店街の店先で、男がおもちゃのお札を燃やしていた。身ぶり手ぶ
りでたずねると、身ぶり手ぶりで神様へのおそなえものだという。
強い朝。どこからか臭豆腐を揚げる臭いがする。

臺北車站(台北駅)から瑞芳車站まで特急に乗る。指定席をみつけ
ると、もう誰かすわって目をつむっていた。行商風の老女だった。
床に置かれた荷物も膝に抱えた荷物も、どちらも善良だった。

(略)

終点は菁桐車站の改札口を抜ける。何かをあきらめたような、この
薄いひかりならよく知っている。どことはなしに近しい喉も感じる。
土の道もあった。濃い共同体のあることがわかった。

 「強い朝」。この対極にあるのが「薄いひかり」である。
 「強い」は個人的な強さ、ひとりひとりの強さ、競争社会(都会)を生き抜く強さが寄り集まったものだろう。2連目の、行商風の老女に通じる強さである。松岡は台北では、「強い」個人に出会っている。「強い文体」をもった人に出会っている。
 「薄いひかり」は「弱い」に通じる。個人が弱い。そのかわり「濃い共同体」がある。台北では身ぶり手ぶりで個人と対話するが、菁桐では写真を撮らせてくれと頼めば、手ぶりで拒まれ、そこで対話はおわる。個人ではなく、共同体が「強さ」として立ちふさがる。個人ではなく、「共同体」が文体をもっている。
 そういうものと向き合いながら、松岡は、松岡自身の「句読点」を探している。文体(思想)を探している。そして、最終行に、

暮れがたは鐡路の犬の舌もさみしい。

という美しいかなしみにたどりつく。
 旅行とは、さまざまな文体に出会い、自分の文体をあらいなおすことなのだと気づかされる。

 「文体探し」が、この作品では、形の上にもあらわれている。
 「強い朝」。この短いことばのなかにある「漢文体」。大胆な省略と凝縮。それによって、つぎのことばへの飛躍。森鴎外を思い出してしまう。いま、こういう素早い文体を書く詩人を私は知らない。台湾旅行、台湾という漢文の空気が影響して、たまたまこういう文体になったのかどうかわからないが、日本での暮らしも、この漢文体で書いてもらいたいなあ、どうなるかなあ、とふと思った。

詩集 元型
一色 真理
土曜美術社出版販売

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草の人
松岡 政則
思潮社

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トム・ティクヴァ監督「ザ・バンク-堕ちた巨像-」(★)

2009-04-08 10:41:44 | 映画
監督 トム・ティクヴァ 出演 クライヴ・オーウェン、ナオミ・ワッツ、アーミン・ミューラー=スタール

 巨大銀行の悪を暴く、というストーリーだが、ストーリーの消化に追われていて、一人一人の人間がぜんぜん変化しない。悩み、闘い、そのなかで成長する、というのがどんなストーリーにも不可欠なものだけれど、この映画には、それがない。唯一、アーミン・ミューラー=スタールが変化といえば変化するのだけれど、あくまで脇役だし、その変化も微妙。観客を納得させるというようなものではない。やはり、主役のクライヴ・オーウェンか、ナオミ・ワッツが変化しないと……。
 唯一の見せ場は、ゲッケンハイム美術館の銃撃戦。
 展示内容がモニターをつかった映像作品ということで、モニターが壁面、吹き抜けにいくつも展示してあり、それが鏡の役割をする。しかし、それが鏡の役割をする(してしまう)ということに気づく時の映像が間延びして、そこでいったん映画のテンポがずれる。その後の銃撃戦の前の一呼吸といえばいえるけれど、こういう間のもたせかたは私はどうも納得できない。この呼吸をぐいとつめれば、尾行→発覚→銃撃戦→銃撃の急拡大という動きがとてもよくなるのに。銃撃戦がゲッケンハイム美術館の螺旋形の構造をいかしていて、とてもおもしろかっただけに、とても残念。     
 このゲッケンハイム美術館には、すこし付録(?)があって、ニューヨーク市警が手帖を見せて、「警官だ、銃を持ち込んでいいか」と受け付けで聞くシーンや、銃撃戦で逃げそびれた市民が、壁の陰で暗殺グループと直面し「逃げ後れて、じゃましちゃって、ごめんなさい」と謝るという映画ならではのおもしろいシーンがある。
 いかにも「いま」という感じのシーンでは、ナオミ・ワッツが暗殺された被害者の妻と、携帯電話のショートメールで応答するという「小技」も見られる。電話が盗聴されているので、声では応答しないのである。テレビだと見づらいかもしれないが、映画のスクリーンでなら、その短いメールのやりとりはくっきり見れる。(読む、というより「見る」という感じが、映画的でとてもいい。)
 主役の2人のキャスティングにも問題があったかもしれない。クライヴ・オーウェンはどうみてもスケベな感じがするし、ナオミ・ワッツは童顔である。巨大な銀行組織の悪に頭脳と体力で向き合っていくという感じがしない。
パフューム スタンダード・エディション [DVD]

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『田村隆一全詩集』を読む(48)

2009-04-08 00:00:10 | 田村隆一
 「「つるべ落し」注釈」という作品がある。

「七里が浜より夕陽を見る」という
短詩を鎌倉のタウン誌に書いたことがある


 という2行ではじまる。長い詩である。そして、肝心の(?)「つるべ落し」は出てこない。
 2行のあと、ことばは夏にもどる。


夏には
諸生物の性の歓声で渚は満たされているばかり
おれは
足音をしのばせて古い民家の路地裏ばかりを歩いたものさ


 途中省略して、2連目の書き出し。

人間の精神はおれが生まれた一九二〇年代で崩壊しはじめている
小動物や海鳥や魚たちに歴史がないのは神のイロニイかもしれない
進化だけあって歴史がない
ということは
ダンテの「地獄篇」だけしか読まない青年にとって
すばらしい倦怠かもしれない。


 これが、「注釈」? 「つるべ落とし」となんの関係がある。ことばは方々動き回って、居酒屋で「ぼく」は老医師と出会う。


ふるえる手で安ウイスキーを飲んでいたっけ
あれでは静脈注射だって打てないだろう

 という感慨にまでたどりついて、そのあと、とつぜん「つるべ落し」が出てくる。そして、最後は、

つるべ落し
鎌倉には十二世紀以来の
十井があるけれど
どの井戸にも もう
つるべなんかはありはしない

ぼくは深い井戸をこわごわと覗くように
人間の魂の在りかに
触れてみたい
そこに
どんな夕陽が 赤光が
どんな炎が 沈黙が

つるべ落し 

 どこが「注釈」? 井戸が10ある、ということが?

 「注釈」の「意味」が違うのである。広辞苑では「注釈」を「注を入れて本文の意義を解きあかすこと」と解説しているが、田村にとって「注釈」とはそういうものではない。本文の意義を解きあかすというよりも、本文に近づかないまま、本文を解体することが注釈なのである。「意義」を解きあかすことではなく、「意義」を拒絶し、逸脱していくことが注釈なのである。
 「つるべ落し」から、いったいどれだけ遠くまでことばを動かすことができる。
 完全に離れししまったとき、それは実は「つるべ落し」の背後から、その内部を突き破っているということがあるかもしれない。田村は、そういう運動を狙っている。

悪はエロチックで肉感的だった
善はダイナミックで非実在だった

という箴言や、

ぼくらの世紀末には
精神も肉体も病むことを知らない
病めの花が「悪の華」という珍奇な題に訳されたのも
そのせいだ

 という感想が書かれる。
 「つるべ落し」とどれだけ「無関係」なことを、無関係なまま、ことばの運動として存在させることができるか。そのときの破壊の力、それが「注釈」である。「注釈」とは破壊する力のことなのである。
 あらゆることばとって、それが何を注釈するかはどうでもいいことである。何かを注釈すれば、ことばに意味が出てくるのではない。ことばは何かに従事してはいけない。従事することを拒絶し、それ自体で動いていかなければならない。
 じっさい、田村のこの作品のことばがおもしろいのは、それが「つるべ落し」を注釈しているからではなく、それとは無関係であるからだ。どこへ動いているのか、そのベクトルの方向さえわからない。けれども、そのエネルギーの炸裂の力自体は、どの行も非常に強い。この混沌とした矛盾--それが、田村の詩なのである。

あたかも風のごとく―田村隆一対談集 (1976年)
田村 隆一
風濤社

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