中本道代「帰郷者」、財部鳥子「航海日誌 某月某日」(「鶺鴒通信」春、2009年03月30日発行)
中本道代「帰郷者」にイノシシが出てくる。
最近は、自然破壊が進み、山の中ではイノシシも生きていけなくなって、街に出てくる。近くにある動物園の裏山の公園を犬を散歩させていたら、イノシシが山を駆け抜け、周り中の犬が急に色めきだった(?)ときがあった。
中本の書くイノシシはそれとは、ずいぶん違う。
ここに描かれているのは「猪」でありながら「人間」である。猪と人間が共存している。共存しているからこそ、「睦みあう」姿を猪は人間には見せない。見せないことによって、互いに、暗黙の領域を守るのである。共存とは、そういう不可侵の領域を互いに認め合うことだろう。
現代の、たとえば私が動物園の裏山の公園で見たイノシシは、そういう不可侵の領域を失っている。したがって、そのとき、人間とイノシシは共存はしていない。ただ、同時に、そこに立ち会っているだけである。
不可侵の領域を互いにもつとき、そこには不思議な「いのち」の交流がうまれる。
不可侵の領域。そこは「睦み合う」領域、セックスの場である。時間である。人間も動物も、その瞬間、自分でありながら自分ではなくなる。(イノシシではないから、イノシシ猪がどう感じるかは、私にははっきりとはわからないが、きっとそうだと思う。)それは、自分ではない何かを呼ぶ、呼びせるということでもある。それが「血」の「魔」というものだろう。
そういうものを抒情で言い換えれば「秘密」になるかもしれない。人間の、人間的な、あまりにも人間的なことばで言い換えれば、きっと「秘密」になるだろう。
そういう領域が、たしかに、かつてはあったのだ。人間の暮らしに。中本は「帰郷者」となって、その「領域」へ帰っていく。帰っていこうとしている。
不思議な、「いのち」の透明さを感じた。
*
財部鳥子「航海日誌 某月某日」に、大型客船で旅行している「雪子さん」が登場する。その雪子さんが、おもしろい。こころにひっかかる。コーヒーを飲む時、クッキーをいっしょに注文する。
「唾液を誘い出す」--このことばが、なぜか、中本の書いている「猪」に私には見えるのだ。
人間には不可侵の領域がある。自分自身の肉体のなかにも不可侵のものがある。いのちがかってに動いている部分がある。そこから、いのちのうごめきのようなものをひっぱりだす。自分がそのなかへ入っていくのではなく、不可侵のものが、その境界線を破ってでてきてくれるのをまって、その力を借りて、何かをする。
中本が猪に期待(?)しているのも、きっとそういうものだろう。猪が睦み合う、セックスする(中本は、セックスとは別のむつまじさを書いているかもしれないけれど)、そのときのいのちの力、それを遠くに感じながら人間は生きる。猪の力が、夜、猪としてではなく、そのセックスする力として人間の暮らしに押し寄せてくる--そういう交流のあった世界を中本は描いているように、私には思えた。
唾液は、たぶん雪子さんにとって、そういう力なのだ。肉体のなかにある、自分でも触れることのできない不可侵のもの、その力が、不思議な形で人間を、雪子さんを励ましにでてきてくれる--そういう至福。
似たような部分が、もう一箇所ある。
潮とエンジンの合奏、その音楽--それを自分の関係でとらえる。「心のなか」をさがす。何を? その音楽の秘密を。それは、やはりこころの不可侵の領域にあるのだ。自分のこころのなかにも不可侵のものがある。
この自覚は美しい。
それは一匹の「猪」かもしれない。「猪」の睦み合う領域かもしれない。
私は、そう思って読んだ。
中本道代「帰郷者」にイノシシが出てくる。
最近は、自然破壊が進み、山の中ではイノシシも生きていけなくなって、街に出てくる。近くにある動物園の裏山の公園を犬を散歩させていたら、イノシシが山を駆け抜け、周り中の犬が急に色めきだった(?)ときがあった。
中本の書くイノシシはそれとは、ずいぶん違う。
山すその傾斜地はきちんと区分けされていたのに
田畑の境界があいまいに崩れ
崖の道は尖りを失い
なだれ始めている
夜には猪が押し寄せてくる
猪たちの棲みかは見たことがない
山の奥の人知れぬところ
猪の家族は睦みあうのか
ここに描かれているのは「猪」でありながら「人間」である。猪と人間が共存している。共存しているからこそ、「睦みあう」姿を猪は人間には見せない。見せないことによって、互いに、暗黙の領域を守るのである。共存とは、そういう不可侵の領域を互いに認め合うことだろう。
現代の、たとえば私が動物園の裏山の公園で見たイノシシは、そういう不可侵の領域を失っている。したがって、そのとき、人間とイノシシは共存はしていない。ただ、同時に、そこに立ち会っているだけである。
不可侵の領域を互いにもつとき、そこには不思議な「いのち」の交流がうまれる。
吊り橋の下を谷川が流れ
水音が夕暮れを呼び続けている
冷えていく血族の魔
空ばかり明るい夕暮れの下で
追いかけてくる人の瞳が
猪の色をしている
振り向いたこちらの眼は
猿の色をしているだろうか
ぶどうの果汁を叔父と
風の吹く野原で飲んだ
遠い日
谷川の石の下に埋めたノートから
小さな秘密の文字の群れは流れ果てていったか
不可侵の領域。そこは「睦み合う」領域、セックスの場である。時間である。人間も動物も、その瞬間、自分でありながら自分ではなくなる。(イノシシではないから、イノシシ猪がどう感じるかは、私にははっきりとはわからないが、きっとそうだと思う。)それは、自分ではない何かを呼ぶ、呼びせるということでもある。それが「血」の「魔」というものだろう。
そういうものを抒情で言い換えれば「秘密」になるかもしれない。人間の、人間的な、あまりにも人間的なことばで言い換えれば、きっと「秘密」になるだろう。
そういう領域が、たしかに、かつてはあったのだ。人間の暮らしに。中本は「帰郷者」となって、その「領域」へ帰っていく。帰っていこうとしている。
不思議な、「いのち」の透明さを感じた。
*
財部鳥子「航海日誌 某月某日」に、大型客船で旅行している「雪子さん」が登場する。その雪子さんが、おもしろい。こころにひっかかる。コーヒーを飲む時、クッキーをいっしょに注文する。
まず口のなかに唾液を誘い出さなければコーヒーは飲めないと雪子さんは頑固に信じているのだった。
「唾液を誘い出す」--このことばが、なぜか、中本の書いている「猪」に私には見えるのだ。
人間には不可侵の領域がある。自分自身の肉体のなかにも不可侵のものがある。いのちがかってに動いている部分がある。そこから、いのちのうごめきのようなものをひっぱりだす。自分がそのなかへ入っていくのではなく、不可侵のものが、その境界線を破ってでてきてくれるのをまって、その力を借りて、何かをする。
中本が猪に期待(?)しているのも、きっとそういうものだろう。猪が睦み合う、セックスする(中本は、セックスとは別のむつまじさを書いているかもしれないけれど)、そのときのいのちの力、それを遠くに感じながら人間は生きる。猪の力が、夜、猪としてではなく、そのセックスする力として人間の暮らしに押し寄せてくる--そういう交流のあった世界を中本は描いているように、私には思えた。
唾液は、たぶん雪子さんにとって、そういう力なのだ。肉体のなかにある、自分でも触れることのできない不可侵のもの、その力が、不思議な形で人間を、雪子さんを励ましにでてきてくれる--そういう至福。
似たような部分が、もう一箇所ある。
足萎えの老女といえども風の強い十一階の甲板を横切って十二階に聳えているガラス箱のようなバーによじ登り、大きな窓から少し酔いながら眺める海のほうがいい。そこでは潮流と船のエンジンの震えが合奏しているような音楽的な揺れを見せてくれる。これは自分に深い関係があるのだ。いつも雪子さんは心のなかを探してしまう。
潮とエンジンの合奏、その音楽--それを自分の関係でとらえる。「心のなか」をさがす。何を? その音楽の秘密を。それは、やはりこころの不可侵の領域にあるのだ。自分のこころのなかにも不可侵のものがある。
この自覚は美しい。
それは一匹の「猪」かもしれない。「猪」の睦み合う領域かもしれない。
私は、そう思って読んだ。
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