詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

中本道代「帰郷者」、財部鳥子「航海日誌 某月某日」

2009-04-07 08:31:27 | 詩(雑誌・同人誌)
中本道代「帰郷者」、財部鳥子「航海日誌 某月某日」(「鶺鴒通信」春、2009年03月30日発行)

 中本道代「帰郷者」にイノシシが出てくる。
 最近は、自然破壊が進み、山の中ではイノシシも生きていけなくなって、街に出てくる。近くにある動物園の裏山の公園を犬を散歩させていたら、イノシシが山を駆け抜け、周り中の犬が急に色めきだった(?)ときがあった。
 中本の書くイノシシはそれとは、ずいぶん違う。

山すその傾斜地はきちんと区分けされていたのに
田畑の境界があいまいに崩れ
崖の道は尖りを失い
なだれ始めている
夜には猪が押し寄せてくる

猪たちの棲みかは見たことがない
山の奥の人知れぬところ
猪の家族は睦みあうのか

 ここに描かれているのは「猪」でありながら「人間」である。猪と人間が共存している。共存しているからこそ、「睦みあう」姿を猪は人間には見せない。見せないことによって、互いに、暗黙の領域を守るのである。共存とは、そういう不可侵の領域を互いに認め合うことだろう。
 現代の、たとえば私が動物園の裏山の公園で見たイノシシは、そういう不可侵の領域を失っている。したがって、そのとき、人間とイノシシは共存はしていない。ただ、同時に、そこに立ち会っているだけである。
 不可侵の領域を互いにもつとき、そこには不思議な「いのち」の交流がうまれる。

吊り橋の下を谷川が流れ
水音が夕暮れを呼び続けている
冷えていく血族の魔
空ばかり明るい夕暮れの下で
追いかけてくる人の瞳が
猪の色をしている
振り向いたこちらの眼は
猿の色をしているだろうか

ぶどうの果汁を叔父と
風の吹く野原で飲んだ

遠い日
谷川の石の下に埋めたノートから
小さな秘密の文字の群れは流れ果てていったか

 不可侵の領域。そこは「睦み合う」領域、セックスの場である。時間である。人間も動物も、その瞬間、自分でありながら自分ではなくなる。(イノシシではないから、イノシシ猪がどう感じるかは、私にははっきりとはわからないが、きっとそうだと思う。)それは、自分ではない何かを呼ぶ、呼びせるということでもある。それが「血」の「魔」というものだろう。
 そういうものを抒情で言い換えれば「秘密」になるかもしれない。人間の、人間的な、あまりにも人間的なことばで言い換えれば、きっと「秘密」になるだろう。
 そういう領域が、たしかに、かつてはあったのだ。人間の暮らしに。中本は「帰郷者」となって、その「領域」へ帰っていく。帰っていこうとしている。
 不思議な、「いのち」の透明さを感じた。



 財部鳥子「航海日誌 某月某日」に、大型客船で旅行している「雪子さん」が登場する。その雪子さんが、おもしろい。こころにひっかかる。コーヒーを飲む時、クッキーをいっしょに注文する。

まず口のなかに唾液を誘い出さなければコーヒーは飲めないと雪子さんは頑固に信じているのだった。

 「唾液を誘い出す」--このことばが、なぜか、中本の書いている「猪」に私には見えるのだ。
 人間には不可侵の領域がある。自分自身の肉体のなかにも不可侵のものがある。いのちがかってに動いている部分がある。そこから、いのちのうごめきのようなものをひっぱりだす。自分がそのなかへ入っていくのではなく、不可侵のものが、その境界線を破ってでてきてくれるのをまって、その力を借りて、何かをする。
 中本が猪に期待(?)しているのも、きっとそういうものだろう。猪が睦み合う、セックスする(中本は、セックスとは別のむつまじさを書いているかもしれないけれど)、そのときのいのちの力、それを遠くに感じながら人間は生きる。猪の力が、夜、猪としてではなく、そのセックスする力として人間の暮らしに押し寄せてくる--そういう交流のあった世界を中本は描いているように、私には思えた。
 唾液は、たぶん雪子さんにとって、そういう力なのだ。肉体のなかにある、自分でも触れることのできない不可侵のもの、その力が、不思議な形で人間を、雪子さんを励ましにでてきてくれる--そういう至福。
 似たような部分が、もう一箇所ある。

足萎えの老女といえども風の強い十一階の甲板を横切って十二階に聳えているガラス箱のようなバーによじ登り、大きな窓から少し酔いながら眺める海のほうがいい。そこでは潮流と船のエンジンの震えが合奏しているような音楽的な揺れを見せてくれる。これは自分に深い関係があるのだ。いつも雪子さんは心のなかを探してしまう。

 潮とエンジンの合奏、その音楽--それを自分の関係でとらえる。「心のなか」をさがす。何を? その音楽の秘密を。それは、やはりこころの不可侵の領域にあるのだ。自分のこころのなかにも不可侵のものがある。
 この自覚は美しい。
 それは一匹の「猪」かもしれない。「猪」の睦み合う領域かもしれない。
 私は、そう思って読んだ。

花と死王
中本 道代
思潮社

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天府 冥府
財部 鳥子
講談社

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『田村隆一全詩集』を読む(47)

2009-04-07 00:00:05 | 田村隆一
 
 『陽気な世紀末』(1983年)を読む。
 田村のことばは何かを目指さない。何度か書いてきたが、田村のことばは弁証法のような矛盾→止揚→発展という運動の軌跡を描かない。矛盾そのものを破壊する。矛盾というのは、それぞれにあるベクトルを持っているからこそ矛盾する。矛盾を破壊するとは、言い換えれば、存在をきまった方向のベクトルから解放することである。
 「個室113」には「個室113は鎌倉御成町の佐藤病院の部屋」という注釈がある。入院した時の田村の自画像が書かれている。

花は植物の生殖器である
蜂蜜が飛んでくるのはそのせいだ
ときには
黒い揚羽蝶がゆっくりと生殖器のまわりを旋回する
おれは植物ではない
かろうじて地の上に立っている小動物にすぎない
おれの願望は
蜜蜂になること
黒い揚羽蝶になることだ 

おれは
花の蜜のかわりに
トマト・ジュースを飲み
日が暮れるとギネスを飲む

 この書き出し。1連目と2連目。その連を区切る1行空きに、私は、田村の詩を感じる。その断絶に詩を感じる。
 1連目では、花の生殖のことが書かれている。蜜蜂や黒い揚羽蝶は花の生殖を媒介している。自然の摂理を「生殖器」ということばをつかって書くというのは、そんなに風変わりなことではない。1連目は、いわば「流通言語」ともいうべきものだ。この、いっしゅの安定した世界を田村は2連目で破壊する。
 「蜂蜜」は「花」と「生殖器」をひきずっている。「蜂蜜」から「トマト・ジュース」への動きも、なんとなく自然に感じる。蜜蜂や揚羽蝶が蜂蜜を飲むのに対して、田村はトマト・ジュースを飲む。朝の、病室の、ごくありふれた患者の生活である。
 そこへ、突然「日暮れになるとギネスを飲む」ということどはがやってくる。「ギネス」とはもちろんビールである。病院に入院している患者がビールを飲んではいけないということもないのかもしれないが、田村が病人ではないと仮定しても、このトマト・ジュースからギネスへのことばの動きはかなりかわっている。
 何かがいっきに逸脱する。

 書き直そう。
 1連目。
 花→生殖器、蜜蜂(黒揚羽蝶)→蜂蜜、生殖。この関係は、いわば、花と昆虫は互いに矛盾するもの(一方は蜂蜜をあたえ、他方は蜂蜜をもらう、という逆向きをベクトルで表現できる運動)である。その矛盾が出会い、止揚して、そこに「生殖」というものが誕生する。いわば弁証法の運動である。
 2連目は、その花とトマト・ジュースを下敷きにして、さらに自然の「生殖」に関する世界を描写するかというと、そうではなく、「生殖」に関することから一気に離れてしまう。花と昆虫の弁証法を書いてことなど忘れてしまったかのように、違うことを書きはじめる。
 こういう脱線というか、逸脱は、「科学」とは無縁である。そういう逸脱をした瞬間に、ことばの運動は「科学」から逸脱する。また、「散文」の運動からも逸脱する。つまり、詩になってしまう。
 ことばが描きはじめた弁証法を破壊するために、田村のことばを動きはじめる。
 詩は、つづく。

小動物のなかでも
おれくらい不器用なものはあるまい
ビールの栓はぬけるがワインのコルクは苦手だ
果物はバナナとミカン
これだったら不器用な手でも間に合う

 もう、「生殖」のことは、どこにも出てこない。しかし、田村が「生殖」のことを忘れてしまっているかというと、そうではない。
 2連目の最後の3行。

南半球へ逃げ込んだって
カトリックとイスラムの国が多いから
ヌードの写真にはお目にかかれないだろう

 生殖器は、生殖という機能(?)、弁証法的発展から解放されて、「ヌード」という性にかわっている。
 「生殖器」を「性」に解体してしまう、「いのち」の無軌道な放蕩、蕩尽へまで解体してしまう。その解体の過程にこそ、詩がある。そして、それは2連目の直前の「空白」という断絶、「ギネス」という田村特有の逸脱からはじまっているのである。
 だから、この逸脱は、意識的な逸脱であって、無意識な脱線ではない。

 2連目を、全部引用しよう。

おれは
花の蜜のかわりに
トマト・ジュースを飲み
日が暮れるとギネスを飲む
小動物のなかでも
おれくらい不器用なものはあるまい
ビールの栓はぬけるがワインのコルクは苦手だ
果物はバナナとミカン
これだったら不器用な手でも間に合う
小鳥だって不器用なのがいるのだから
おれだけを非難するのにはあたらない
おれの部屋に棲んでいる尾長のタケは悪夢にでもうなされたのか
小枝からころげ落ちて
あわてて這いあがったのを
この目でみた
この目は
世界の崩壊も見てきたはずだ
マルクスとケインズと
フロイトとキルケゴールと
この観念連合でどうにか崩壊のカルテを描いてきたが
この近代的な対処療法も
行きつくところは戦争と革命と反革命にすぎない
北半球も二十世紀末でロボットの焼畠農業に逆行するかもしれない
南半球へ逃げ込んだって
カトリックとイスラムの国が多いから
ヌードの写真にはお目にかかれないだろう

 ここで展開されるのは、いわゆる論理ではない。1行目を2行目が踏まえ、3行目に進む。3行目は、1行目と2行目を止揚→発展させたものではない。むしろ、そういう止揚→発展という運動の形を破壊して行くだけである。
 その破壊の過程に、どんなものを出してくるか。なんの力で止揚→発展という弁償を破壊するか。飼っている尾長鶏(?)、マルクス、フロイト、戦争、革命、ロボット、焼畠農業--まるで一貫性がない。田村という「肉体」のなからか、そういうことばがでてきたということ以外は、何の一貫性もない。そして、そこに「田村の肉体」という「個性」だけがある。
 「個性」によって、弁証法を破壊する--それが田村の詩である。

 「生殖器」から「性」の解放。この運動は、「個室」(3連目)や「浅草」「美しく汚れた町」(4連目)をとおって、次のようにおわる。

花は植物の生殖器だ
おれは小動物の観念形態だ
それで
蜜蜂も黒い揚羽蝶もやってきてくれないのだ
ブランデイと白い薬を飲んで冬の夜明けまで
固い木の寝台で獣のように眠ろう
性的な夢がおれの痩せた肉体に襲いかかってこないともかぎらない

木の寝台から突き出されているのは
二本の足 

 「生殖」から解放された「性」が「いのち」の蕩尽であるように、弁証法的発展(?)から解放されたことばも「いのち」の蕩尽であり、蕩尽しながら、なお、つきることなく存在するものが詩なのである。



砂上の会話―田村隆一対談 (1978年)
田村 隆一
実業之日本社

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