詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

豊原清明「さえない奴がなぜ恋に」

2009-04-14 11:56:25 | 詩(雑誌・同人誌)
豊原清明「さえない奴がなぜ恋に」(「白黒目」16、2009年03月発行)

 豊原清明「さえない奴がなぜ恋に」は「自主製作映画ノート」という説明がついている。映画の脚本である。いつものことながら、とてもおもしろい。映画そのものである。
 そのなかほど。

○居間(夕食・現在)
   父と母がすき焼きを食べている。
母「撮らんとって! やめてー」
父「何やっとんや」
母「人の嫌がることしたらあかん、なっ。」
   カメラ、ぱたっと切れる。

○僕の部屋
僕の声「けっきょく、撮れんかった~。」

○タイトル「さえない奴がなぜ恋に」

○僕の部屋
   勉強椅子にビデオカメラを置き、
   悶々としている姿。
   録画ボタンを押し、カメラに顔がはいれるように
   自分で自分を撮影している姿。

 リズムがすばらしい。映像を見ていないが、映像が、そして音が、せりふというより、ことばが「意味」にならずに、音としてスクリーンに飛び散る。その映像と音が「音楽」のように、感覚の防御壁のようなものを解体してしまう。つまり、引き込まれてしまう。映像を見ているわけではない。実際に、映画を見ているわけではない。けれど、そういう錯覚に陥る。完璧な脚本だ。
 どこに秘密があるのか。

○居間(夕食・現在)

 この場所と時間の指定。その指定する「感覚」にある。「現在」という「特定」の仕方というか、表現に、とても特徴がある。
 映画というのは、特に断りがないかぎり、そこに起きていることがらは「現在」である。それはふつうは省略し、過去や未来を描く時、たとえば「1週間前」、あるいは「3時間後」ということわりがはいる。
 豊原の、この作品でも、引用しなかった前の部分では、

○今年の一月十六日の詩のノートを映す(カメラ)

 という「日時」の指定がある。カメラは、その後1月17のノート、1月18日のノートという具合に、「現在」へ向かって、映像をかえるから、時間は、その映像とともに動いていることになる。そして、(夕食・現在)という「いま」へたどりつき、そこから映画が映画としてほんとうにはじまるのだが、この「現在」のあらわしかたが特徴的である。

 どのような「いま」も過去を持っている。そして、その過去は常に「いま」という時間のなかに姿をあらわす。映画は、そういう「過去」を役者の「肉体」に語らせる。それぞれの「肉体」がかかえこむ「過去」という時間を出現させることで、この映画には、実は「過去」があるということ、暮らしの背景があるということを明らかにする。「いま」からはじまっているけれど、この人たちは、それぞれ何十年と生きてきて、「いま」「ここ」にいるのだということを、役者の「肉体」のちからを借りて言わせる。
 豊原の脚本では、豊原自身の「過去」は「詩のノート」の映像で浮かび上がるのだが、「父」と「母」はその「過去」なしにはじまる。そして、

母「撮らんとって! やめてー」
父「何やっとんや」
母「人の嫌がることしたらあかん、なっ。」

 というたった3行で、ふたりの「過去」、ふたりのというのは、「ぼく」を含め、実は3人の過去なのだが、それを瞬時にスクリーンに定着させる。

母「人の嫌がることしたらあかん、なっ。」

 の「なっ。」は念押しの「なっ。」である。このひとことによって「ぼく」は何度が「人の嫌がること」をしてきたのだとわかる。父はそのたびに「何やっとんや」と一括する。母は、そういうことをしてはいけないということを、説明する。その繰り返しが、何度もあったはずであるということが、この一瞬でわかる。
 「現在」と豊原は書いているが、そこには「現在」よりも「過去」がしっかりと描かれている。「現在」を突き破って、「過去」があらわれ、その出現によって、「いま」が「未来」へと突き動かされていく--その運動が、くっきりと描かれている。
 役者の「肉体」、父と母を演じる役者の「肉体」によって。そして、「ぼく」の存在によって。「肉体」のことはなにも書かれていないが、そこには「役者」の「肉体」がすでに存在している。
 これは別の言い方をすれば、豊原のことばは、いつも「過去」を持っていて、その「過去」が「いま」、「ここ」に噴出してきて、ことば自体が動いていくということになる。詩の場合もそういう運動の方程式を撮るが、映画でも、それは同じである。
 「いま」という時間のなかに、常に「過去」が「肉体」として存在し、それが「未来」を蹴破るのである。

 この映画では、それは、どこへ動いていくか。ラストシーン。

○子供が一人もいない遊び広場
   松林のすぐ向こうの高速道路がちらっと、映る。
   山ほどの車が走っている、音が聞こえる。
僕の声、一句「孤独といふ入れ墨彫って一月一日」

 俳句は、「いま」という時間をもたない。いや、「いま」という「時間」のなかで、「過去」と「未来」がしっかりむすびついて、「いま」が無・時間になる。時間が消滅する。空間もひろがりと一点が連結し、無・場(空間)になる。
 「僕」は「父」「母」の「過去」から噴出してくる力と向き合って、「僕」自身の「過去」をさっさと洗い流すのだ。そして、その洗い流した「時間」そのものを「俳句」のなかに投げ込み、「いま」でも「過去」でも「未来」でもない時間に、なってしまう。
 「一月一日」と書かれているけれど、その「時間」の刻印は、意味がない。暦の「一月一日」としっかり結びついているが、強すぎて「一月一日」を超越してしまっている。それは「一月一日」であって、「一月一日」という24時間ではない。「一月一日」ということばが存在する瞬間だけ、そこにある「一月一日」なのだ。

 「いま」が「過去」と「未来」によって突き破られ、貫かれることによって、「いま」ではなくなってしまう。--そういう俳句的「現在」の時間感覚が、豊原のことばを動かしている。
 豊原のことばは、詩も俳句もおもしろい。そして映画の脚本もおもしろい。それは、豊原が、いつでもことばのなかに「過去」を持っていて、その力で「いま」を突き破るからである。
 --逆に言い直した方がいいのかもしれない。
 私たちはだれでも「過去」を持っているが、「いま」を生きるというとき、実は「過去」をそれほど意識しない。意識するのは「未来」である。「未来」のある姿にむけて、「いま」をととのえていく。「未来」の時間に「いま」を奉仕させる、といえばいいだろうか。
 ところが、豊原はそういうことをしない。「いま」は「未来」の「奴隷」ではない。「未来」がどういうものであるかは考慮に入れない。ただ、「過去」の力で「いま」を突き破る--そのときに出現するのが「未来」である、と信じているだけである。いや、「未来」をもつきぬけた「無・時間」であると知っている。
 本能として。
 豊原のことばを動かしているのは「頭」ではなく、本能なのだ、と思う。



夜の人工の木
豊原 清明
青土社

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エラン・リクリス監督「シリアの花嫁」(★★★★)

2009-04-14 09:53:04 | 映画
監督 エラン・リクリス 出演 ヒアム・アッバス、アクラム・J・フーリ、クララ・フーリ

 イスラエル占領下のゴラン高原。小さな村。ひとりの女性がシリアの男性と結婚する、その当日の様子を描いている。一度、国境を越えシリアに入ってしまうと、もう二度と故郷へもどってくることはできない。それでも国境を越えていく……。
 これは、とても悲痛な話である。
 はずである。
 ところが、とても明るい。希望に満ちている。
 花嫁の一家は、イスラエル占領下のゴラン高原そのままに、複雑である。父は政治運動が原因で投獄されたことがあり、いまは仮釈放中である。中間地帯まで花嫁を見送りに行くことはできない。長男(花嫁の兄)はロシアで結婚し、国を見捨てたと批判されている。次男は各国をまわり(?)よくわからないビジネスをしているプレイボーイである。三男はシリアにいてゴラン高原へは帰って来ることができない。長女は結婚しているが夫との関係がうまくいっていない。そういう一家が、結婚式の前、一同に集まる。家族なのに、わだかまりがあり、しっくりいかない。
 それなのに、とても明るい。希望に満ちている。
 登場人物のひとりひとりが「信念」を持っている。他人のことばには耳を傾ける。しかし、それはあくまで他人の主張を聞くためであって、他人の主張にそって自分の考えをかえるためではない。他人の考えをかえさせるためには、まず、他人のことばも聞かなければならない。それだけである。けっして、自己の考えを曲げない。曲げない、ということを明確に主張するために、他人の考えも聞くのである。
 それはどうしても衝突を招いてしまうが、それがどうした、という図太さがある。
 戦時下を生きるとは、こういうことなのだと思う。衝突がある。それが、どうした。私には私の信念がある。信念があるところ、衝突があるのはあたりまえ。衝突は悲しいけれど、悲しいくらいでは、ひとは死ぬことはない。そういう度胸が、全員にある。全員が、度胸が据わっている。
 全員が、そういう演技をして、この映画の、一種の「非日常」を日常にかえてしまっている。日常というのは、どうしたって、どこかに叩いても壊れないような頑丈なものがあり、それが時間を支えているものである。
 特に、長女役の女優がすばらしい。倍賞美津子のような雰囲気なのだが、彼女の強さが、心底、すごい。悲しみでいらいらしながら、その悲しみを肉体のなかになだめ、妹といっしょに美容院へゆき、ドレスアップを手伝い、父を説得しようとし、警官を説得しようとし、と、じっくりと物事を進めていく。自分は不幸な結婚生活をおくっている。けれど、妹には幸せになってもらいたい、その一念で、結婚式をきちんとしたものにしようと頑張る。 
 映画のハイライト。
 トラブルにトラブルが重なり、いざ国境を越えようとすると、「イスラエル出国」というパスポートにおされたスタンプが問題になり、シリアに入れない。シリアにしてみればゴラン高原はシリアである。「イスラエル出国」ということを認めれば、ゴラン高原がイスラエルになってしまうからである。そのトラブルの最中に、父親が政治活動をした(デモに参加した、軍事中間地帯へきた)という理由で逮捕されそうにもなる。状況はますます閉塞したものになっていく。
 ここで、父親から嫌われていた長男が思いがけない活躍をする。父を助けるために、彼自身ができることをする。さりげなく描かれているが、この自分にできることをする、というのが、「信念」を揺るぎないものにしている。ゴラン高原を生きる人々をたくましくしている。プレイボーイの次男でさえ、自分にできることをしている。
 そして、ほんとうのほんとうのハイライト。
 パスポートの「出国証明」のためにシリアへゆけない花嫁。彼女は、どうするか。彼女にできることは何か。
 シリアから占領地へ車が入ってくる。そのときゲートがあく。その開いたすきを利用して、彼女はひとりでシリアへ歩きだすのだ。自分の足で、自分の決めた方向へ、だれにもたよらずに。パスポートにも、軍人にも、国連職員にも、家族にもたよらずに。結婚するとは、そういうことだ。そういう「信念」が彼女のなかで、そのとき確立する。
 それにあわせるように、長女は、逆方向へひとりで歩きはじめる。花嫁を見送る家族から離れ、花嫁の歩みにあわせるように、反対方向へ。彼女には夢がある。大学で勉強するという夢がある。その夢のためには、夫を捨て、二人の娘も捨てることになる。けれど、花嫁がひとりで歩きはじめたように、彼女もひとりで歩きはじめる。だれかのためではなく、自分のために。
 みんなが自分のために生きる、自分の信念のために生きる。
 その揺るぎのない強さによって、この映画はとても明るくなっている。この強さ、この明るさ。この明るさは、近年なかった明るさである。まぶしいきらめきではなく、けっして消えない火という、強い明るさである。そして、それは「政治主張」をきっと叩き壊す明るさ、強さであるとも思う。
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『田村隆一全詩集』を読む(54)

2009-04-14 00:38:51 | 田村隆一

 「待合室にて」には未消化のことばがある。人間の<物>性について考えつづける田村が、語ろうとして語りきれていない奇妙なことばがある。<物>の対極にあることば。「時間」。
 最後の方の部分。

「うがいをしてください」
ぼくは治療酔うの寝椅子からとびおりると
「時間」のなかに帰って行く
「つぎの月曜日の午後三時においでください」

 ここに書かれる「時間」は単なる「日時」である。だが、田村の書きたいのは「日時」ではない。「日時」ではないのに、「日時」から書きはじめるしかなったのは、田村の「時間」思想が<物>思想ほど鍛練されていないということだと思う。
 田村は、診察室から待合室に戻り、「大型の画報」にふたたび見入る。そして、

飛行機事故もホテルの大火災もテロも暴動も
飢えも貧困も
多色刷りの絵にすぎない
ここには「時間」が欠けている
「時間」が欠けているなら
「時間」から脱出することも追跡されることもないわけだ
白い空間と
縞模様のラテン音楽

 ここに書かれている「時間」は「日時」ではないか田村は「日時」ではない「時間」について語ろうとしているが、「日時」からはじめたために、奇妙にずれてしまっている。「時間」が未消化のまま、放り出されている。

飛行機事故もホテルの大火災もテロも暴動も
飢えも貧困も
多色刷りの絵にすぎない
ここには「時間」が欠けている

 もし、この「多色刷りの絵」が「時間」をもっていたら何になるか。それはきっと<物>である。<物>から「時間」が欠け落ちると、それは「絵」になってしまう。
 「時間」は<物>のなかにあって、<物>はまた「時間」のなかにある。<物>は「時間」を超越して全体的な<物>、つまり詩になる。そのときの「時間」というのは「日時」ではない。<物>の運動の領域のことである。運動にはかならず「時間」が必要である。運動することによって「時間」は広がる(数えられるものになる)が、同時に「時間」は運動のなかで凝縮もする。運動が加速すると「時間」はどんどん短縮する。<物>は時間のなかではげしく運動し、時間そのものを無限からゼロに還元し、それはゼロになった瞬間に無限になる。
 そういう矛盾→解体→生成が「時間」の本質だが、田村は、この詩ではまだきちんとことばにできていない。ただ「時間」というものを抜きにして、人間存在の思想は語れないと気づき、それに手をかけている--という感じである。

 最終連に

ぼくは「時間」を所有するために
あるいは「時間」に所有されるために

 という2行がある。
 この「あるいは」は、所有することとと、所有されることの間に区別がないことを証明している。無時間と無限が<物>の運動によって、ひとつになる。
 だが、田村は、まだそれをどう書いていいのかわからない。だから、「笑い話」のようにして詩をとじている。

ぼくは「時間」を所有するために
あるいは「時間」に所有されるために
ゆっくりとソファから立ち上がり
何気なくふり返ると
待合室の隅でうずくまっていた
暗緑色の<物>が
車輪のごとくはげしく回転しながら
治療室のなかに飛びこんでいった

 <物>とは絶対的な人間、詩人、詩であったはずだが、ここでは単なる凡人として描かれている。凡人の比喩になっている。<物>がそういう状態になっているのは、実は「時間」がまだ「思想」になっていないためである。思想になっていない「時間」に影響されて、<物>も思想以前に引き戻され、カリカチュアされているである。
 
 すべては、未消化の思想が引き起こしたことばの乱れである。




砂上の会話―田村隆一対談 (1978年)
田村 隆一
実業之日本社

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