豊原清明「さえない奴がなぜ恋に」(「白黒目」16、2009年03月発行)
豊原清明「さえない奴がなぜ恋に」は「自主製作映画ノート」という説明がついている。映画の脚本である。いつものことながら、とてもおもしろい。映画そのものである。
そのなかほど。
リズムがすばらしい。映像を見ていないが、映像が、そして音が、せりふというより、ことばが「意味」にならずに、音としてスクリーンに飛び散る。その映像と音が「音楽」のように、感覚の防御壁のようなものを解体してしまう。つまり、引き込まれてしまう。映像を見ているわけではない。実際に、映画を見ているわけではない。けれど、そういう錯覚に陥る。完璧な脚本だ。
どこに秘密があるのか。
この場所と時間の指定。その指定する「感覚」にある。「現在」という「特定」の仕方というか、表現に、とても特徴がある。
映画というのは、特に断りがないかぎり、そこに起きていることがらは「現在」である。それはふつうは省略し、過去や未来を描く時、たとえば「1週間前」、あるいは「3時間後」ということわりがはいる。
豊原の、この作品でも、引用しなかった前の部分では、
という「日時」の指定がある。カメラは、その後1月17のノート、1月18日のノートという具合に、「現在」へ向かって、映像をかえるから、時間は、その映像とともに動いていることになる。そして、(夕食・現在)という「いま」へたどりつき、そこから映画が映画としてほんとうにはじまるのだが、この「現在」のあらわしかたが特徴的である。
どのような「いま」も過去を持っている。そして、その過去は常に「いま」という時間のなかに姿をあらわす。映画は、そういう「過去」を役者の「肉体」に語らせる。それぞれの「肉体」がかかえこむ「過去」という時間を出現させることで、この映画には、実は「過去」があるということ、暮らしの背景があるということを明らかにする。「いま」からはじまっているけれど、この人たちは、それぞれ何十年と生きてきて、「いま」「ここ」にいるのだということを、役者の「肉体」のちからを借りて言わせる。
豊原の脚本では、豊原自身の「過去」は「詩のノート」の映像で浮かび上がるのだが、「父」と「母」はその「過去」なしにはじまる。そして、
というたった3行で、ふたりの「過去」、ふたりのというのは、「ぼく」を含め、実は3人の過去なのだが、それを瞬時にスクリーンに定着させる。
の「なっ。」は念押しの「なっ。」である。このひとことによって「ぼく」は何度が「人の嫌がること」をしてきたのだとわかる。父はそのたびに「何やっとんや」と一括する。母は、そういうことをしてはいけないということを、説明する。その繰り返しが、何度もあったはずであるということが、この一瞬でわかる。
「現在」と豊原は書いているが、そこには「現在」よりも「過去」がしっかりと描かれている。「現在」を突き破って、「過去」があらわれ、その出現によって、「いま」が「未来」へと突き動かされていく--その運動が、くっきりと描かれている。
役者の「肉体」、父と母を演じる役者の「肉体」によって。そして、「ぼく」の存在によって。「肉体」のことはなにも書かれていないが、そこには「役者」の「肉体」がすでに存在している。
これは別の言い方をすれば、豊原のことばは、いつも「過去」を持っていて、その「過去」が「いま」、「ここ」に噴出してきて、ことば自体が動いていくということになる。詩の場合もそういう運動の方程式を撮るが、映画でも、それは同じである。
「いま」という時間のなかに、常に「過去」が「肉体」として存在し、それが「未来」を蹴破るのである。
この映画では、それは、どこへ動いていくか。ラストシーン。
俳句は、「いま」という時間をもたない。いや、「いま」という「時間」のなかで、「過去」と「未来」がしっかりむすびついて、「いま」が無・時間になる。時間が消滅する。空間もひろがりと一点が連結し、無・場(空間)になる。
「僕」は「父」「母」の「過去」から噴出してくる力と向き合って、「僕」自身の「過去」をさっさと洗い流すのだ。そして、その洗い流した「時間」そのものを「俳句」のなかに投げ込み、「いま」でも「過去」でも「未来」でもない時間に、なってしまう。
「一月一日」と書かれているけれど、その「時間」の刻印は、意味がない。暦の「一月一日」としっかり結びついているが、強すぎて「一月一日」を超越してしまっている。それは「一月一日」であって、「一月一日」という24時間ではない。「一月一日」ということばが存在する瞬間だけ、そこにある「一月一日」なのだ。
「いま」が「過去」と「未来」によって突き破られ、貫かれることによって、「いま」ではなくなってしまう。--そういう俳句的「現在」の時間感覚が、豊原のことばを動かしている。
豊原のことばは、詩も俳句もおもしろい。そして映画の脚本もおもしろい。それは、豊原が、いつでもことばのなかに「過去」を持っていて、その力で「いま」を突き破るからである。
--逆に言い直した方がいいのかもしれない。
私たちはだれでも「過去」を持っているが、「いま」を生きるというとき、実は「過去」をそれほど意識しない。意識するのは「未来」である。「未来」のある姿にむけて、「いま」をととのえていく。「未来」の時間に「いま」を奉仕させる、といえばいいだろうか。
ところが、豊原はそういうことをしない。「いま」は「未来」の「奴隷」ではない。「未来」がどういうものであるかは考慮に入れない。ただ、「過去」の力で「いま」を突き破る--そのときに出現するのが「未来」である、と信じているだけである。いや、「未来」をもつきぬけた「無・時間」であると知っている。
本能として。
豊原のことばを動かしているのは「頭」ではなく、本能なのだ、と思う。
豊原清明「さえない奴がなぜ恋に」は「自主製作映画ノート」という説明がついている。映画の脚本である。いつものことながら、とてもおもしろい。映画そのものである。
そのなかほど。
○居間(夕食・現在)
父と母がすき焼きを食べている。
母「撮らんとって! やめてー」
父「何やっとんや」
母「人の嫌がることしたらあかん、なっ。」
カメラ、ぱたっと切れる。
○僕の部屋
僕の声「けっきょく、撮れんかった~。」
○タイトル「さえない奴がなぜ恋に」
○僕の部屋
勉強椅子にビデオカメラを置き、
悶々としている姿。
録画ボタンを押し、カメラに顔がはいれるように
自分で自分を撮影している姿。
リズムがすばらしい。映像を見ていないが、映像が、そして音が、せりふというより、ことばが「意味」にならずに、音としてスクリーンに飛び散る。その映像と音が「音楽」のように、感覚の防御壁のようなものを解体してしまう。つまり、引き込まれてしまう。映像を見ているわけではない。実際に、映画を見ているわけではない。けれど、そういう錯覚に陥る。完璧な脚本だ。
どこに秘密があるのか。
○居間(夕食・現在)
この場所と時間の指定。その指定する「感覚」にある。「現在」という「特定」の仕方というか、表現に、とても特徴がある。
映画というのは、特に断りがないかぎり、そこに起きていることがらは「現在」である。それはふつうは省略し、過去や未来を描く時、たとえば「1週間前」、あるいは「3時間後」ということわりがはいる。
豊原の、この作品でも、引用しなかった前の部分では、
○今年の一月十六日の詩のノートを映す(カメラ)
という「日時」の指定がある。カメラは、その後1月17のノート、1月18日のノートという具合に、「現在」へ向かって、映像をかえるから、時間は、その映像とともに動いていることになる。そして、(夕食・現在)という「いま」へたどりつき、そこから映画が映画としてほんとうにはじまるのだが、この「現在」のあらわしかたが特徴的である。
どのような「いま」も過去を持っている。そして、その過去は常に「いま」という時間のなかに姿をあらわす。映画は、そういう「過去」を役者の「肉体」に語らせる。それぞれの「肉体」がかかえこむ「過去」という時間を出現させることで、この映画には、実は「過去」があるということ、暮らしの背景があるということを明らかにする。「いま」からはじまっているけれど、この人たちは、それぞれ何十年と生きてきて、「いま」「ここ」にいるのだということを、役者の「肉体」のちからを借りて言わせる。
豊原の脚本では、豊原自身の「過去」は「詩のノート」の映像で浮かび上がるのだが、「父」と「母」はその「過去」なしにはじまる。そして、
母「撮らんとって! やめてー」
父「何やっとんや」
母「人の嫌がることしたらあかん、なっ。」
というたった3行で、ふたりの「過去」、ふたりのというのは、「ぼく」を含め、実は3人の過去なのだが、それを瞬時にスクリーンに定着させる。
母「人の嫌がることしたらあかん、なっ。」
の「なっ。」は念押しの「なっ。」である。このひとことによって「ぼく」は何度が「人の嫌がること」をしてきたのだとわかる。父はそのたびに「何やっとんや」と一括する。母は、そういうことをしてはいけないということを、説明する。その繰り返しが、何度もあったはずであるということが、この一瞬でわかる。
「現在」と豊原は書いているが、そこには「現在」よりも「過去」がしっかりと描かれている。「現在」を突き破って、「過去」があらわれ、その出現によって、「いま」が「未来」へと突き動かされていく--その運動が、くっきりと描かれている。
役者の「肉体」、父と母を演じる役者の「肉体」によって。そして、「ぼく」の存在によって。「肉体」のことはなにも書かれていないが、そこには「役者」の「肉体」がすでに存在している。
これは別の言い方をすれば、豊原のことばは、いつも「過去」を持っていて、その「過去」が「いま」、「ここ」に噴出してきて、ことば自体が動いていくということになる。詩の場合もそういう運動の方程式を撮るが、映画でも、それは同じである。
「いま」という時間のなかに、常に「過去」が「肉体」として存在し、それが「未来」を蹴破るのである。
この映画では、それは、どこへ動いていくか。ラストシーン。
○子供が一人もいない遊び広場
松林のすぐ向こうの高速道路がちらっと、映る。
山ほどの車が走っている、音が聞こえる。
僕の声、一句「孤独といふ入れ墨彫って一月一日」
俳句は、「いま」という時間をもたない。いや、「いま」という「時間」のなかで、「過去」と「未来」がしっかりむすびついて、「いま」が無・時間になる。時間が消滅する。空間もひろがりと一点が連結し、無・場(空間)になる。
「僕」は「父」「母」の「過去」から噴出してくる力と向き合って、「僕」自身の「過去」をさっさと洗い流すのだ。そして、その洗い流した「時間」そのものを「俳句」のなかに投げ込み、「いま」でも「過去」でも「未来」でもない時間に、なってしまう。
「一月一日」と書かれているけれど、その「時間」の刻印は、意味がない。暦の「一月一日」としっかり結びついているが、強すぎて「一月一日」を超越してしまっている。それは「一月一日」であって、「一月一日」という24時間ではない。「一月一日」ということばが存在する瞬間だけ、そこにある「一月一日」なのだ。
「いま」が「過去」と「未来」によって突き破られ、貫かれることによって、「いま」ではなくなってしまう。--そういう俳句的「現在」の時間感覚が、豊原のことばを動かしている。
豊原のことばは、詩も俳句もおもしろい。そして映画の脚本もおもしろい。それは、豊原が、いつでもことばのなかに「過去」を持っていて、その力で「いま」を突き破るからである。
--逆に言い直した方がいいのかもしれない。
私たちはだれでも「過去」を持っているが、「いま」を生きるというとき、実は「過去」をそれほど意識しない。意識するのは「未来」である。「未来」のある姿にむけて、「いま」をととのえていく。「未来」の時間に「いま」を奉仕させる、といえばいいだろうか。
ところが、豊原はそういうことをしない。「いま」は「未来」の「奴隷」ではない。「未来」がどういうものであるかは考慮に入れない。ただ、「過去」の力で「いま」を突き破る--そのときに出現するのが「未来」である、と信じているだけである。いや、「未来」をもつきぬけた「無・時間」であると知っている。
本能として。
豊原のことばを動かしているのは「頭」ではなく、本能なのだ、と思う。
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