詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

水野るり子「ラプンツェルの鐘」

2009-04-02 09:57:53 | 詩(雑誌・同人誌)
水野るり子「ラプンツェルの鐘」(「ラプンツェルのレシピ」2009年03月27日発行)

 水野るり子「ラプンツェルの鐘」はグリム童話を題材に9人が詩を書いているなかの1篇である。「ラプンツェル」をどう料理できるか--という競作のようである。
 私は、水野の作品がいちばん気に入った。そこには音楽があったからである。

口のなかで
飴玉をころがすように
呼びかけてみる
ラプンツェル…
ラプンツェル…って
ほら、鐘の音が響いてくる
クラン クラン マリーン
 …呼ぶのは
 だれだい
 だれなの
 かわいい娘なの
クラン クラン マリーン
 ちがうわ、それはわたしじゃない
でも、空の水たまりに
息を潜めていた水夫たちが
ぬきあし さしあし
耳のおくの塔に降りてきて
クラン クラン マリーン…
こっそり鐘を突きはじめる

 童話をどうとらえるか。それは人によって違うだろう。私は、それは「読む」というより「聞く」ものだと感じている。聞きながら、消えていくことばを追いかけるように、想像力が逸脱していく。そのときのリズムが(音楽が)童話だと思う。「意味」ではなく、ことばが自在に動く、その一種のでたらめさのなかにある何か--ことばをつらぬく音楽がないと、童話は、どうしても「教訓」になってしまう。「教訓」ではおもしろくない。楽しくて、こわくて、こわいことが楽しくて、ついつい想像してしまう何か。あるいは、楽しくて、でも泣きたくて、その矛盾が好きで、ついつい想像してしまう何か。水野のことばのリズムは、そういうものをつかんでいるように感じられる。
 「空の水たまり」というありえないものが楽しい。「息を潜めていた水夫たちが/ぬきあし さしあし/耳のおくの塔に降りてきて」と肉体に迫るこわさが気持ちがいい。「耳のおく」から入ってくる音が「こころ」を乱暴につかんでゆく。その乱暴さに、なんだか、わくわくする。
 後半も、童話のお手本通り、こどもなら思わず目をつむりながらはっきり見てしまう何かが、音楽のままつづいていく。

ひややかな月の色に染まって
かたむいている
とんがり帽子の塔をむずむずさせて
ねえ、ねえ、きいてよ
お母さん
ラプンツェルって
魔女に食べられてしまった娘?
さあどうだかね
台所で長い竹箸を
リンゴに
突き刺したまま
振り向いたお母さんの口が
耳まで裂けている



ラプンツェルの馬
水野 るり子
思潮社

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『田村隆一全詩集』を読む(42)

2009-04-02 00:21:57 | 田村隆一

 「ぼくは人間である」のでは「ない」。人間に「なる」。では、その人間に「なった」ぼくとはだれのことだろうか。「他人」である。
 「夜明けに目ざめ身を清めてから」に「他人」ということばが括弧付きで出てくる。1連目である。

人間の悲惨の証人は
軍人と僧侶と医師である
というのが
フランスの「さかしま」の作者の意見だが
それでは
人間の心と頭脳の秘密を盗むのは
探偵とスパイと詩人の仕事ということになる
軍人と僧侶と石は
固有のユニフォームに身を固めているがゆえに
見えない人である
探偵とスパイと詩人は
「他人」の服装をしているからこれもまた
見えない人である

 「見えない人」。軍人、僧侶、医師--それは「職業」として存在する。彼らと接するとき、人は、彼らを職業としてしか見ない。彼ら自身の精神的事情、感情的事情を配慮しない。そういうものは「見ない」。そして「見えない」
 一方、探偵やスパイは、その職業を知られると仕事にならない。彼らは「職業」を隠し、まったく未知の「他人」でなければならない。田村は、これに詩人もつけくわえている。人にとって、常に未知の存在であること。それが詩人の場合も存在意義なのである。「他人」であり、個人として理解されないこと、特定されないことが詩人の条件なのである。
 これは「個性」こそが詩人の条件という定義(そういうものがあると仮定しての話だけれど)からは、はるかに遠い考え方である。しかし、田村は、たしかにそういうものを詩人に求めている。「個性」であってはならない。「固有名詞」であってはならない。「固有名詞」としての存在であってはならない。「固有名詞」の「固」は「固定」の「固」に通じる。詩は、固定された世界であってはならないからだ。
 「ある」のではなく「なる」。「固有」のものを破壊し、「固有」ではななくする。そして、そこからあらたに「他」として生まれ変わる。その運動が詩だからである。
 2連目に書かれていることは、この補足である。

ヒゲやカツラとおなじように
思想も観念も偽装にはきわめて有効である
その点
感情はきわめて危険である
とくに憐れみの感情の危機的な
破滅的な暴力を描いたのはイギリスのカトリック作家である
したがって
感情的な人は詩人とはもっとも遠いところにいるものだ

 詩人は感情をもっていてはいけない。これは、持続した感情をもっていたはいけない。持続した感情として「固有の存在」であることを証明してはいけないという意味である。持続した感情は、「個人」が「他人」に生まれ変わることを邪魔する。とくに「憐れみ」は「個人」と別の「個人」を強く結びつけ、「他人」を排斥する。「憐れみ」は「個人」を「隣人」にしてしまう。「憐」と「隣」という文字が似ているからいうわけではないが、それは深いところで強くつながっている。
 それは詩から、たしかに、遠い。
 詩は常に固く結びついた世界の絆を切り離し、人間を自由にするものだからである。人間を世界に結びつけるあらゆるものは詩からは遠い。少なくとも、現代詩からは遠い。現代詩とは世界からことばを解放する、そして人間を自由にするものだからである。

 この作品には「個人」ということばも、「他人」と同じように括弧つきでつかわれている。

人間の典型は十九世紀的概念だが
その概念が破産すれば
意識の流れのなかに
諸断片となった人間は
金色のウイスキーをのみながら漂うだけにすぎない
スコットランドの地酒が欧米で国際化されたのは
第一次世界大戦後のことだ
まるで薬物を飲むように
ウイスキーを飲むようになったのは
「個人」がいなくなってからのことだ

 この「個人」とは「他人としての個人」である。第二次大戦という悲惨以前には、「個人」とは常に「他人」と同義であった。しかし、第二次大戦の悲惨が「他人」を「個人」として認めなくなった。「他人」のままでは「悲惨」な状況をのりこえることができない。連携が必要である。たとえば「軍人」「僧侶」「医師」というような「職業」の分担が必要である。

 人はウイスキーを飲む。田村はウイスキーを飲む。その理由を、田村は、ここに書いている。「個人」から「他人」にもどるためである。「個人」は特定の世界に結びついている。そういう拘束を断ち切り、「他人」になって世界を漂うためである。
 詩のなかで、田村は、「他人」になる。だれでもない存在になる。そして、世界を存分に、自由に味わう。そのために、ことばを、詩を書く。書きつづける。



インド酔夢行 (1981年) (集英社文庫)
田村 隆一
集英社

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