山岸光人「ウキナ石鹸」、渡辺洋「しずかな歌」(「雨期」52、2009年02月25日発行)
山岸光人「ウキナ石鹸」。恋人か、友人か。親しいひとを失なったあと、その人の部屋を整理しにきたふたり。「私」と「きみの姉さん」。私にとっては、この詩は、好きな部分と、ぎょっとしてしまう部分が同居している。
最後に突然出てくる「ウキナ石鹸」が魅力的である。ウキナが「浮名」に似ているのはちょっと残念なのだけれど、その「石鹸」という「もの」が魅力的である。
途中に出てくるのは、「網膜の淡い」「きらめいていた」「目蓋のふち」「ゆれていた」「消されていく住所」など、抒情的なものである。特に、「網膜の淡い」の「あわい」は、「間」の誤植だろうけれど、その誤植のなかにある「きらめき」「ゆれる」「消される」と通い合うセンチメンタルが、うるさい。
その「うるささ」を石鹸が石鹸がきれいに洗う。花王石鹸とかなんとか石鹸とか、ほんとうは、なれ親しんだ石鹸の方が魅力的だとは思うけれど、名前の聞いたことのない「ウキナ石鹸」でも、抒情をいくぶんかは洗浄できる。その「石鹸」が単にものだけであるのではなく、
この「肉体」への接近が、「もの」を輝かすのである。部屋を整理する。そのとき手は汚れる。その手を洗う。その一連の「暮らし」のなかに「肉体の思想」がある。それを「石鹸」はくっきりと浮かび上がらせる。
皮の手帳、ボルドーのインクというような、きどった、「頭の世界」を拒否し、「肉体」にかえっていく力がここにある。
それにしてもなぜ「ウキナ石鹸」なのだろうか。とてもいい部分なのに、「ウキナ」が「浮名」を連想させるだけに、とても残念だ。せっかくセンチメタルを洗い流す石鹸なのに、逆に、演歌的未練の強い強い匂いが残ってしまう。石鹸の匂いならいつでも清潔、というわけではないだろう、と思う。
*
渡辺洋「しずかな歌」は、もしかすると、とても美しい詩なのかもしれない。渡辺は美しいものを書こうとして書いたのかもしれない。そして、山岸の詩とならべて読まなければ、ああ、きちんとした詩だなあ、という印象を残す詩かもしれない。けれど、私は、つづけて読んでしまった。正確には渡辺の詩、山岸の詩という順序で読んだのだけれど、山岸の詩を読んだあと、記憶の奥から渡辺のことばが、ふわっと浮いてきたのである。
そんなふうに、誰か別の人の作品を読んだあとでも、その記憶の底からことばがよみがえってくるのだから、渡辺の詩は、きちんと完成された作品だとは思うのだが……。
あまりにも「美しく」、同時に抒情的すぎる。そして、その美しさ、抒情は、「もの」を排除してなりなっている。
1連目。
「一番よごれていないきみ」「誰からも思い出されなくなったきみ」「悲鳴」。ことばをつらぬくものはまっすぐである。このゲシュタルトの、あまりにも美しすぎる直線は、ことばを何度も何度も「頭」で整理した結果の美しさである。(清水哲男なら、ここにほんの少し「俗」をまぎれこませるはずである。ことばをつまずかせることで、まっすぐさを逆に浮き彫りにするはずである。)
この美しさは、どんどん加速して行く。そして、その加速に、たぶん渡辺自身が酔っている。快感のなかで、忘我のなかで、つまり、「他人」をすっかり排除した「場」で、次のように飛躍する。
この美しさを、どれだけ、受け止めることができるか。
私は、閉口してしまう。投げ出してしまう。
私は、音痴なこともあって、カラオケなんて大嫌いだが、渡辺のこの美声に酔いしれ、この旋律美しいでしょと聴衆に向かって朗々と張り上げる「歌」を聞いていいるくらいなら、自分勝手なキーで歌うカラオケ演歌でも聞いていた方がさっぱりした気分になる。
だろう、と思う。
山岸光人「ウキナ石鹸」。恋人か、友人か。親しいひとを失なったあと、その人の部屋を整理しにきたふたり。「私」と「きみの姉さん」。私にとっては、この詩は、好きな部分と、ぎょっとしてしまう部分が同居している。
扉を開けると
きれいに片づいている
来なくてもよかったね
きみの姉さんがふりむく
(略)
きみが
最後にみたものを
おしえてほしい
眠るまえの
網膜の淡いで
きらめいていたもの
眠ったあとも
目蓋のふちで
ゆれていたもの
たとえば、皮の手帳
たとえば、ボルドーのインク
たとえば、それで消されたいくつもの住所
はじめようか
きみの姉さんが部屋にあがる
かたわらの流しに
ポツンと石鹸がころがっている
部屋を片づけて
手を洗ったのだろうか
消えそうに
ウキナ石鹸とある
聞いたこともないこの石鹸を
きみはいったい
どこで
手にいれたのだろう
最後に突然出てくる「ウキナ石鹸」が魅力的である。ウキナが「浮名」に似ているのはちょっと残念なのだけれど、その「石鹸」という「もの」が魅力的である。
途中に出てくるのは、「網膜の淡い」「きらめいていた」「目蓋のふち」「ゆれていた」「消されていく住所」など、抒情的なものである。特に、「網膜の淡い」の「あわい」は、「間」の誤植だろうけれど、その誤植のなかにある「きらめき」「ゆれる」「消される」と通い合うセンチメンタルが、うるさい。
その「うるささ」を石鹸が石鹸がきれいに洗う。花王石鹸とかなんとか石鹸とか、ほんとうは、なれ親しんだ石鹸の方が魅力的だとは思うけれど、名前の聞いたことのない「ウキナ石鹸」でも、抒情をいくぶんかは洗浄できる。その「石鹸」が単にものだけであるのではなく、
部屋を片づけて
手を洗ったのだろうか
この「肉体」への接近が、「もの」を輝かすのである。部屋を整理する。そのとき手は汚れる。その手を洗う。その一連の「暮らし」のなかに「肉体の思想」がある。それを「石鹸」はくっきりと浮かび上がらせる。
皮の手帳、ボルドーのインクというような、きどった、「頭の世界」を拒否し、「肉体」にかえっていく力がここにある。
それにしてもなぜ「ウキナ石鹸」なのだろうか。とてもいい部分なのに、「ウキナ」が「浮名」を連想させるだけに、とても残念だ。せっかくセンチメタルを洗い流す石鹸なのに、逆に、演歌的未練の強い強い匂いが残ってしまう。石鹸の匂いならいつでも清潔、というわけではないだろう、と思う。
*
渡辺洋「しずかな歌」は、もしかすると、とても美しい詩なのかもしれない。渡辺は美しいものを書こうとして書いたのかもしれない。そして、山岸の詩とならべて読まなければ、ああ、きちんとした詩だなあ、という印象を残す詩かもしれない。けれど、私は、つづけて読んでしまった。正確には渡辺の詩、山岸の詩という順序で読んだのだけれど、山岸の詩を読んだあと、記憶の奥から渡辺のことばが、ふわっと浮いてきたのである。
そんなふうに、誰か別の人の作品を読んだあとでも、その記憶の底からことばがよみがえってくるのだから、渡辺の詩は、きちんと完成された作品だとは思うのだが……。
あまりにも「美しく」、同時に抒情的すぎる。そして、その美しさ、抒情は、「もの」を排除してなりなっている。
1連目。
眠るな
一番よごれていないきみを思い出す前に
眠ってしまえば
誰からも思い出されなくなったきみが
夢のなかで
悲鳴のようにあばれだすだけじゃないか
「一番よごれていないきみ」「誰からも思い出されなくなったきみ」「悲鳴」。ことばをつらぬくものはまっすぐである。このゲシュタルトの、あまりにも美しすぎる直線は、ことばを何度も何度も「頭」で整理した結果の美しさである。(清水哲男なら、ここにほんの少し「俗」をまぎれこませるはずである。ことばをつまずかせることで、まっすぐさを逆に浮き彫りにするはずである。)
この美しさは、どんどん加速して行く。そして、その加速に、たぶん渡辺自身が酔っている。快感のなかで、忘我のなかで、つまり、「他人」をすっかり排除した「場」で、次のように飛躍する。
歌おうよ
歌がすきなきみをわすれないように
歌をすきじゃないやつらが
歌う歌であふれている街で
この美しさを、どれだけ、受け止めることができるか。
私は、閉口してしまう。投げ出してしまう。
私は、音痴なこともあって、カラオケなんて大嫌いだが、渡辺のこの美声に酔いしれ、この旋律美しいでしょと聴衆に向かって朗々と張り上げる「歌」を聞いていいるくらいなら、自分勝手なキーで歌うカラオケ演歌でも聞いていた方がさっぱりした気分になる。
だろう、と思う。
少年日記渡辺 洋書肆山田このアイテムの詳細を見る |