詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

山岸光人「ウキナ石鹸」、渡辺洋「しずかな歌」

2009-04-10 10:51:31 | 詩(雑誌・同人誌)
山岸光人「ウキナ石鹸」、渡辺洋「しずかな歌」(「雨期」52、2009年02月25日発行)

山岸光人「ウキナ石鹸」。恋人か、友人か。親しいひとを失なったあと、その人の部屋を整理しにきたふたり。「私」と「きみの姉さん」。私にとっては、この詩は、好きな部分と、ぎょっとしてしまう部分が同居している。

扉を開けると
きれいに片づいている

来なくてもよかったね
きみの姉さんがふりむく

(略)

きみが
最後にみたものを
おしえてほしい

眠るまえの
網膜の淡いで
きらめいていたもの

眠ったあとも
目蓋のふちで
ゆれていたもの

たとえば、皮の手帳
たとえば、ボルドーのインク
たとえば、それで消されたいくつもの住所

はじめようか
きみの姉さんが部屋にあがる

かたわらの流しに
ポツンと石鹸がころがっている
部屋を片づけて
手を洗ったのだろうか
消えそうに
ウキナ石鹸とある
聞いたこともないこの石鹸を
きみはいったい
どこで
手にいれたのだろう

 最後に突然出てくる「ウキナ石鹸」が魅力的である。ウキナが「浮名」に似ているのはちょっと残念なのだけれど、その「石鹸」という「もの」が魅力的である。
 途中に出てくるのは、「網膜の淡い」「きらめいていた」「目蓋のふち」「ゆれていた」「消されていく住所」など、抒情的なものである。特に、「網膜の淡い」の「あわい」は、「間」の誤植だろうけれど、その誤植のなかにある「きらめき」「ゆれる」「消される」と通い合うセンチメンタルが、うるさい。
 その「うるささ」を石鹸が石鹸がきれいに洗う。花王石鹸とかなんとか石鹸とか、ほんとうは、なれ親しんだ石鹸の方が魅力的だとは思うけれど、名前の聞いたことのない「ウキナ石鹸」でも、抒情をいくぶんかは洗浄できる。その「石鹸」が単にものだけであるのではなく、

部屋を片づけて
手を洗ったのだろうか

 この「肉体」への接近が、「もの」を輝かすのである。部屋を整理する。そのとき手は汚れる。その手を洗う。その一連の「暮らし」のなかに「肉体の思想」がある。それを「石鹸」はくっきりと浮かび上がらせる。
 皮の手帳、ボルドーのインクというような、きどった、「頭の世界」を拒否し、「肉体」にかえっていく力がここにある。

 それにしてもなぜ「ウキナ石鹸」なのだろうか。とてもいい部分なのに、「ウキナ」が「浮名」を連想させるだけに、とても残念だ。せっかくセンチメタルを洗い流す石鹸なのに、逆に、演歌的未練の強い強い匂いが残ってしまう。石鹸の匂いならいつでも清潔、というわけではないだろう、と思う。



 渡辺洋「しずかな歌」は、もしかすると、とても美しい詩なのかもしれない。渡辺は美しいものを書こうとして書いたのかもしれない。そして、山岸の詩とならべて読まなければ、ああ、きちんとした詩だなあ、という印象を残す詩かもしれない。けれど、私は、つづけて読んでしまった。正確には渡辺の詩、山岸の詩という順序で読んだのだけれど、山岸の詩を読んだあと、記憶の奥から渡辺のことばが、ふわっと浮いてきたのである。
 そんなふうに、誰か別の人の作品を読んだあとでも、その記憶の底からことばがよみがえってくるのだから、渡辺の詩は、きちんと完成された作品だとは思うのだが……。
 あまりにも「美しく」、同時に抒情的すぎる。そして、その美しさ、抒情は、「もの」を排除してなりなっている。
 1連目。

眠るな
一番よごれていないきみを思い出す前に
眠ってしまえば
誰からも思い出されなくなったきみが
夢のなかで
悲鳴のようにあばれだすだけじゃないか

 「一番よごれていないきみ」「誰からも思い出されなくなったきみ」「悲鳴」。ことばをつらぬくものはまっすぐである。このゲシュタルトの、あまりにも美しすぎる直線は、ことばを何度も何度も「頭」で整理した結果の美しさである。(清水哲男なら、ここにほんの少し「俗」をまぎれこませるはずである。ことばをつまずかせることで、まっすぐさを逆に浮き彫りにするはずである。)
 この美しさは、どんどん加速して行く。そして、その加速に、たぶん渡辺自身が酔っている。快感のなかで、忘我のなかで、つまり、「他人」をすっかり排除した「場」で、次のように飛躍する。

歌おうよ
歌がすきなきみをわすれないように
歌をすきじゃないやつらが
歌う歌であふれている街で

 この美しさを、どれだけ、受け止めることができるか。
 私は、閉口してしまう。投げ出してしまう。
 私は、音痴なこともあって、カラオケなんて大嫌いだが、渡辺のこの美声に酔いしれ、この旋律美しいでしょと聴衆に向かって朗々と張り上げる「歌」を聞いていいるくらいなら、自分勝手なキーで歌うカラオケ演歌でも聞いていた方がさっぱりした気分になる。
 だろう、と思う。

少年日記
渡辺 洋
書肆山田

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『田村隆一全詩集』を読む(50)

2009-04-10 01:08:54 | 田村隆一


 「悲しきサムのための酒場」。この詩のなかで、「場」は大きく変わる。1連目の書き出し。

もう十年以上になる
ホノルルのシナ人の町を歩いていたら
酔っぱらった水兵たちが
三階建ての淫売屋から出てきた
ウイスキーをラッパ飲みしながら
女たちにキスをしてさ

 そこから

生殖そのものは商品にならないが
生殖器だけは商品になる

 というようなことを考え、歩いているうちに「悲しきサムのための酒場」というバーを見つける。だが、そのバーはしまっている。
 そういうことを書いたあと、連がかわって、酒場は日本の「未来」という店になる。「場」が変わっていく。そこでは田村は階段を二度転げ落ちた友人のことを書いている。そして、そのあと「風雅」にいて書き、定家の『明月記』を見よ、と書いて、もう一度「場」が変化する。

昨夜 夕刊の文化欄のコラムを読んだら
ポール・ヴァレリイ晩年の未発表の書簡が約千点 モンテカルロで競売された
スイスのベルン大学バルツェル教授が確認したというヴァレリイ書簡の四分の三は
ジャンヌ・ロヴィトン夫人宛のもので
フランス国立図書館とヴァレリイの生れ故郷
地中海にのぞむセートの市立図書館が落札したという

 この変化が、突然、ヴァレリイが出てくる変化が、私はとても好きである。
 それまでの各連には「酒」あるいは「酒場」という共通項がある。「場」は変化しているが、そこには「共通」するものがある。ウィスキー。酔うしかない人間の肉体と精神の拮抗がある。肉体と精神は、もしかすると田村のなかでは、矛盾→止揚→発展という運動ではなく、解体・和解という運動の補助線のようなものなのかもしれない。
 世界があり、現実があり、そこに肉体がある。そして、そのとき動く精神が、肉体とうまく和解しない。肉体と精神をわけているものが(対立、矛盾させているものが)なんなのかわからないが、その対立を解体するものとしてウィスキーがある。ウィスキーによって、田村は肉体も精神も蕩尽させる。その瞬間に、場が融通無碍に動き、ベクトルだけが残る。
 その蕩尽の果て、ウイスキーが消え、突然、ヴァレリイが登場する。
 このとき、蕩尽したのは、「肉体」であろうか。「精神」であろうか。
 ヴァレリイに引きつけられると「精神」という「答え」(?)に落ち着きたくなる。田村は、ヴァレリイを描写して、あるいはヴァレリイの書いた『テスト氏との一夜』を批評して、

自意識の純結晶
知性の極北

 という行も書いている。
 人間のことばの運動のあとには純粋な精神が残るのだ。精神こそがベクトルのエネルギーである、という結論をひきだしたくなる。
 でも、ほんとうなのだろうか。
 落札された書簡はラブレターだったと紹介したあと、詩は、もう一度突然、変化する。突然、マラルメのことばが引用される。

ヴァレリイの悪魔の師マラルメは歌った--
「肉体は悲しい」

 この、唐突の飛躍と、中断。(詩は、ここで終わる)。
 「肉体は精神に捨てられる」から「悲しい」と、マラルメは言ったのか。--いや、マラルメがどういったかではなく、田村が、そのことばをどうつかみ取っているのか、それが問題なのだ。
 「肉体は悲しい」。それは精神に捨てられるからか。あるいは、精神を捨てても捨てても、精神は生き残りつづける。だから、いつまで経っても肉体と精神の矛盾、対立、解体・破壊しながら「いのち」へ逆流する運動は終わらない。だから、「悲しい」と言ったのか。
 後者である。
 精神は蕩尽しつくせない。「肉体」は純粋に「肉体」そのものにはなれない。その悲しみ。いつも精神に汚染されるしかない「肉体」の悲しみ。田村の詩をつらぬくものは、その悲しみである。「肉眼」になりたいと渇望するが、「肉眼」にはなりきれない。かならず、そこに「精神」が入り込む。
 その「精神」を捨てるために、田村はことばを書いている。詩を書いている。私には、そんなふうに思える。



あたかも風のごとく―田村隆一対談集 (1976年)
田村 隆一
風濤社

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