白鳥信也「ためいき道場」、細見和之「かたつむりの話」(「庭園詩華集二〇〇九」2009年04月05日)
白鳥信也「ためいき道場」。ずるずると、ことばが動いていく。書き出し。
1行1行が独立していない。そのため、詩、という感じがしない。童話(?)のようなリズムもない。ずるずるっ。そういう感じ。だが、このずるずるとした感じが、この詩のいいところである。
「墨跡が涙のように垂れている文字で」の「涙のように」という比喩が、この詩の場合、とてもよくあっている。ふつうなら(「現代詩」なら、という意味である)誰も書かない。古くさい。手垢にまみれている。ところが、この詩では、それがいい。
こんなことは知っている、という印象がいい。
詩のつづき。
この「引き戸」も「ガムテープ」も「本日の標語」も、古くさい風景である。そして、それは古くさいがゆえに「見たことがある」という印象を呼び覚ます。そういう印象を利用して、どこにもなかったことをつけくわえる。「犬に出会ったら、ためいきをする」。古くさい印象--全部知っていること、という印象のなかに、その奇妙なものがまじり込み、不思議なことに、古くさいものが古くさいではなく、なつかしい何かに変わる。
「本当にそうだと深くうなずいて」が、それを念押しする。「深く」は単に「うなずく」という首の運動ではなく、「本当にそうだと」肉体の「深いところで」 納得して、ということである。肉体の深いところには、古い記憶が積み重なって、なにかひとつのもの(共通のもの)をつくっている。
この、古い記憶、というか、知っている、という感覚が重要なのである。
「思ったよりも」という、この「裏切り」もずるずるという感じにつながる。「思った通り」よりも、「思ったよりも」という裏切りがある方が「深く」に響いてくるのである。「思ったよりも」に酔って、記憶が掘り起こされる。知っているのはずなのに、その知っていることが「新鮮」になる。
そうしておいて、書かれていないけれど、「思った通り」まん前のテーブルには男がいて、「思った通り」、お待ちしていましたというのだ。
「ためいき道場」自体は、「思った通り」のものではない。というか、誰も「思ったことのない」ものである。それが「思った通り」という印象を揺さぶりながら動いていく。こういうとき、文体は過激であっては行けない。スピードがあってはいけない。あくまで、ずるずると動いていかなくてはいけない。
こんなにずるずる、ゆっくり動くのだから、いつだって引き返せる--そう思わせる文体でないと、ことは運んで行かない。
ずるずるずると、どこまで行くか。それは、「庭園」で確かめてください。
*
細見和之「かたつむりの話」も文体に特徴がある。
2行目、3行目で繰り返される「かたつむり」。せっかく繰り返したのに(?)、4行目で大きく飛躍するわけではない。繰り返したことばが、繰り返しによって変質しない。「変わりませんよ」と、読者に言い聞かせているのである。これは、もちろん、このあと、なにか変わったことがありますよ、という前置きでもある。昔話(童話)が、必ず「昔むかし、あるところに」ではじまるのと同じである。
ごていねいにも、末尾に「これは絵本のための作品です。どなたか絵を描いてくださいませんか。」という注釈がついているが、これはようするに、童話のような文体なのである。細見は、その文体をきちんと踏襲しているのである。
途中、
という魅力的な3行、絵本でしかありえないような飛躍があって、あ、これはおもしろいなあと思ったが、その後、急速に失速し、最後が非常につまらない。
私は天の邪鬼な子供なので、そんなふうに書かれてしまうと、「そんなふうには思えません」と大声をあげるだろうなあ。
「絵本」といいながら、細見のことばは、「絵」を最後に破壊しているし、
「絵本」を読む「読者」の設定も間違えているように思う。
白鳥信也「ためいき道場」。ずるずると、ことばが動いていく。書き出し。
いつもの道を散歩していたら
電柱に大きな犬がつながれ
牙をむいて吠えている
犬の脇を通るのはやめて左折する
はじめての道を歩いていると
こんどは茶色のやっぱり大きな犬がいるので
曲り角をみつけて迂回する
まっすぐの道の奥に大きな木造の建物があって
だいぶ古いのだろう少し傾いている
道路に面した太い門には板が打ち付けられていて
墨跡が涙のように垂れている文字で
ためいき道場
どうぞご自由に見学を
と書かれている
1行1行が独立していない。そのため、詩、という感じがしない。童話(?)のようなリズムもない。ずるずるっ。そういう感じ。だが、このずるずるとした感じが、この詩のいいところである。
「墨跡が涙のように垂れている文字で」の「涙のように」という比喩が、この詩の場合、とてもよくあっている。ふつうなら(「現代詩」なら、という意味である)誰も書かない。古くさい。手垢にまみれている。ところが、この詩では、それがいい。
こんなことは知っている、という印象がいい。
詩のつづき。
引き戸の扉にはガムテープで紙が貼られている
「本日の標語 犬に出会ったら、ためいきをする」
本当にそうだと深くうなずいて扉をそろそろ開けてみる
この「引き戸」も「ガムテープ」も「本日の標語」も、古くさい風景である。そして、それは古くさいがゆえに「見たことがある」という印象を呼び覚ます。そういう印象を利用して、どこにもなかったことをつけくわえる。「犬に出会ったら、ためいきをする」。古くさい印象--全部知っていること、という印象のなかに、その奇妙なものがまじり込み、不思議なことに、古くさいものが古くさいではなく、なつかしい何かに変わる。
「本当にそうだと深くうなずいて」が、それを念押しする。「深く」は単に「うなずく」という首の運動ではなく、「本当にそうだと」肉体の「深いところで」 納得して、ということである。肉体の深いところには、古い記憶が積み重なって、なにかひとつのもの(共通のもの)をつくっている。
この、古い記憶、というか、知っている、という感覚が重要なのである。
思ったりよりも明るい空間で
まん前の受付のテーブルには男が一人
お待ちしていましたと小声で言う
「思ったよりも」という、この「裏切り」もずるずるという感じにつながる。「思った通り」よりも、「思ったよりも」という裏切りがある方が「深く」に響いてくるのである。「思ったよりも」に酔って、記憶が掘り起こされる。知っているのはずなのに、その知っていることが「新鮮」になる。
そうしておいて、書かれていないけれど、「思った通り」まん前のテーブルには男がいて、「思った通り」、お待ちしていましたというのだ。
「ためいき道場」自体は、「思った通り」のものではない。というか、誰も「思ったことのない」ものである。それが「思った通り」という印象を揺さぶりながら動いていく。こういうとき、文体は過激であっては行けない。スピードがあってはいけない。あくまで、ずるずると動いていかなくてはいけない。
こんなにずるずる、ゆっくり動くのだから、いつだって引き返せる--そう思わせる文体でないと、ことは運んで行かない。
ずるずるずると、どこまで行くか。それは、「庭園」で確かめてください。
*
細見和之「かたつむりの話」も文体に特徴がある。
あじさいの花のかたわらで
静かな雨にうたれているかたつむり
どこから現われたのか、かたつむり
わたしはその姿を見るのがとても好き
2行目、3行目で繰り返される「かたつむり」。せっかく繰り返したのに(?)、4行目で大きく飛躍するわけではない。繰り返したことばが、繰り返しによって変質しない。「変わりませんよ」と、読者に言い聞かせているのである。これは、もちろん、このあと、なにか変わったことがありますよ、という前置きでもある。昔話(童話)が、必ず「昔むかし、あるところに」ではじまるのと同じである。
ごていねいにも、末尾に「これは絵本のための作品です。どなたか絵を描いてくださいませんか。」という注釈がついているが、これはようするに、童話のような文体なのである。細見は、その文体をきちんと踏襲しているのである。
途中、
(ここはソウル
(ここはバグダッド
(ここはカシオペア流星群の真っ暗な一角
という魅力的な3行、絵本でしかありえないような飛躍があって、あ、これはおもしろいなあと思ったが、その後、急速に失速し、最後が非常につまらない。
かたつむりを見ていると
こんなふうに思えてきませんか
知性のはじまり
反省ではなく
好奇心なのだ、と
私は天の邪鬼な子供なので、そんなふうに書かれてしまうと、「そんなふうには思えません」と大声をあげるだろうなあ。
「絵本」といいながら、細見のことばは、「絵」を最後に破壊しているし、
「絵本」を読む「読者」の設定も間違えているように思う。
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