詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

白鳥信也「ためいき道場」、細見和之「かたつむりの話」

2009-04-18 09:47:24 | 詩(雑誌・同人誌)
白鳥信也「ためいき道場」、細見和之「かたつむりの話」(「庭園詩華集二〇〇九」2009年04月05日)

 白鳥信也「ためいき道場」。ずるずると、ことばが動いていく。書き出し。

いつもの道を散歩していたら
電柱に大きな犬がつながれ
牙をむいて吠えている
犬の脇を通るのはやめて左折する
はじめての道を歩いていると
こんどは茶色のやっぱり大きな犬がいるので
曲り角をみつけて迂回する
まっすぐの道の奥に大きな木造の建物があって
だいぶ古いのだろう少し傾いている
道路に面した太い門には板が打ち付けられていて
墨跡が涙のように垂れている文字で
ためいき道場
どうぞご自由に見学を
と書かれている

 1行1行が独立していない。そのため、詩、という感じがしない。童話(?)のようなリズムもない。ずるずるっ。そういう感じ。だが、このずるずるとした感じが、この詩のいいところである。
 「墨跡が涙のように垂れている文字で」の「涙のように」という比喩が、この詩の場合、とてもよくあっている。ふつうなら(「現代詩」なら、という意味である)誰も書かない。古くさい。手垢にまみれている。ところが、この詩では、それがいい。
 こんなことは知っている、という印象がいい。
 詩のつづき。

引き戸の扉にはガムテープで紙が貼られている
「本日の標語 犬に出会ったら、ためいきをする」
本当にそうだと深くうなずいて扉をそろそろ開けてみる

 この「引き戸」も「ガムテープ」も「本日の標語」も、古くさい風景である。そして、それは古くさいがゆえに「見たことがある」という印象を呼び覚ます。そういう印象を利用して、どこにもなかったことをつけくわえる。「犬に出会ったら、ためいきをする」。古くさい印象--全部知っていること、という印象のなかに、その奇妙なものがまじり込み、不思議なことに、古くさいものが古くさいではなく、なつかしい何かに変わる。
 「本当にそうだと深くうなずいて」が、それを念押しする。「深く」は単に「うなずく」という首の運動ではなく、「本当にそうだと」肉体の「深いところで」 納得して、ということである。肉体の深いところには、古い記憶が積み重なって、なにかひとつのもの(共通のもの)をつくっている。
 この、古い記憶、というか、知っている、という感覚が重要なのである。

思ったりよりも明るい空間で
まん前の受付のテーブルには男が一人
お待ちしていましたと小声で言う

 「思ったよりも」という、この「裏切り」もずるずるという感じにつながる。「思った通り」よりも、「思ったよりも」という裏切りがある方が「深く」に響いてくるのである。「思ったよりも」に酔って、記憶が掘り起こされる。知っているのはずなのに、その知っていることが「新鮮」になる。
 そうしておいて、書かれていないけれど、「思った通り」まん前のテーブルには男がいて、「思った通り」、お待ちしていましたというのだ。
 
 「ためいき道場」自体は、「思った通り」のものではない。というか、誰も「思ったことのない」ものである。それが「思った通り」という印象を揺さぶりながら動いていく。こういうとき、文体は過激であっては行けない。スピードがあってはいけない。あくまで、ずるずると動いていかなくてはいけない。
 こんなにずるずる、ゆっくり動くのだから、いつだって引き返せる--そう思わせる文体でないと、ことは運んで行かない。
 ずるずるずると、どこまで行くか。それは、「庭園」で確かめてください。



 細見和之「かたつむりの話」も文体に特徴がある。

あじさいの花のかたわらで
静かな雨にうたれているかたつむり
どこから現われたのか、かたつむり
わたしはその姿を見るのがとても好き

 2行目、3行目で繰り返される「かたつむり」。せっかく繰り返したのに(?)、4行目で大きく飛躍するわけではない。繰り返したことばが、繰り返しによって変質しない。「変わりませんよ」と、読者に言い聞かせているのである。これは、もちろん、このあと、なにか変わったことがありますよ、という前置きでもある。昔話(童話)が、必ず「昔むかし、あるところに」ではじまるのと同じである。
 ごていねいにも、末尾に「これは絵本のための作品です。どなたか絵を描いてくださいませんか。」という注釈がついているが、これはようするに、童話のような文体なのである。細見は、その文体をきちんと踏襲しているのである。
 途中、

   (ここはソウル
   (ここはバグダッド
   (ここはカシオペア流星群の真っ暗な一角

 という魅力的な3行、絵本でしかありえないような飛躍があって、あ、これはおもしろいなあと思ったが、その後、急速に失速し、最後が非常につまらない。

かたつむりを見ていると
こんなふうに思えてきませんか
知性のはじまり
反省ではなく
好奇心なのだ、と

 私は天の邪鬼な子供なので、そんなふうに書かれてしまうと、「そんなふうには思えません」と大声をあげるだろうなあ。
 「絵本」といいながら、細見のことばは、「絵」を最後に破壊しているし、
「絵本」を読む「読者」の設定も間違えているように思う。

響音遊戯 1 (1)

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『田村隆一全詩集』を読む(58)

2009-04-18 01:18:39 | 田村隆一

 『毒杯』(1986年)の最後のページは「まだ目が見えるうちに」という作品である。その後半。

「時が過ぎるのではない
人が過ぎるのだ」

ぼくは書いたことがあったっけ
その過ぎて行く人を何人も見た
ぼくも
やがては過ぎて行くだろう

眼が見える
いったい
その眼は何を見た

「時」を見ただけだ

 この詩は二つの点でおもしろい。ひとつは

「時」を見ただけだ

 と直接、「時」に言及していることだ。「時」はもちろんふつうは目には見えない。どんな視力のいいひとでも「時」を見たひとはいないはずである。それは「物体」ではないからだ。では、何か。存在の「形式」である。ものが存在する時の、在り方である。それは、いわば「観念」に属する。
 しかし、それを田村は「見た」という。
 何で見るのか。「眼」。ただし「肉眼」である。「肉眼」とは「肉体」であるけれど、その「肉体」というのは、「存在の在り方」なのである。「存在の在り方」としての「眼」が、つまり、そこに「思想」がかかわっているとき、「眼」は「肉眼」になる。
 そして、ややこしいことだが、その「思想」というのは、たとえばマルクス哲学であるとか、フランス現代思想であるとか、いわば「借り物」のであってはいけない。そういうもの、「頭」で学んだものを、切り捨てたときに残るもの、自分の「いのち」にからみついた、まだことばにならないもののことである。ことばにならない何か--それをくぐり抜けたとき、そのことばは「肉体」になり、そのとき、その「肉体」は「思想」になり、その結果として「肉眼」が、いままでは見えなかったものを見るのだ。ことばの力によって、それを存在させるのだ。「見る」とは「見える」ではなく、「見える状態」にさせることである。ことばをつかって、ふつうは見えないものをみえる状態にする。それが「肉眼」で「見る」ということである。
 
 もうひとつの興味深い点。

「時が過ぎるのではない
人が過ぎるのだ」

ぼくは書いたことがあったっけ

 この「あったっけ」。それがおもしろい。
 「肉眼」で「見たもの」--それが「思想」である。それは確かにそうなのだが、ある種の特別な人間は「肉眼」が形成される前に、何かを見てしまう。啓示。インスピレーション。見てしまう、というより、見えてしまう。
 「時が過ぎるのではない/人が過ぎるのだ」が、それにあたる。
 「思想」になる前に、ことばが、特別な人間--詩人にやってくるのだ。
 詩人は、その「見えた」ものを、自分の力で見るために「肉眼」を鍛える。いま「見えたもの」がほんとうに存在するのか。それとも、錯覚なのか。それを見極めるために、詩人はことばを動かす。
 田村だけにかぎったことではない。多くの詩人は、あるいはことばに携わる多くのひとは、何度でも同じことを書く。同じことばを書く。それは、それがほんとうに自分の「肉眼」が見たものなのか、そうではなく錯覚なのか確かめると同時に、もう一度、「肉眼」を意識してもそれが「見える」かどうか確かめるためでもある。

 ことばを反復する--そのとき、ふたつのことばの間に「間(ま)」が生まれる。その「間」は「時間」につながる。
 そして、そのことばの反復というとき、詩人は、自分のことばだけを反復するのではない。
 田村は、これまで書いてきた詩のなかで、多くの人のことばを引用している。西脇順三郎のような有名な詩人のことばだけではなく、街で出会った(外国で出会った)市井のひとのことばも引用している。たとえばアメリカ大陸を横断する列車の車掌のことばを。
 ことばを反復するとき、そこに「間」が生まれる。その「間」は「いま」と「過去」、あるいは「田村」と「他人」の「差異」でもある。その「差異」のなかに「時間」にかかわることがひそんでいる。「思想」の違い--そして「思想」の共通性がひそんでいる。それを見る、それをことばとして存在させるのが「肉眼」である。

 「まだ眼が見えるうちに」というタイトルは、田村の、まだ「肉眼」がとらえたものを書きつづけるという「詩人宣言」なのである。



ぼくの人生案内
田村 隆一
小学館

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