詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

鶴見忠良『つぶやくプリズム』(3)

2009-04-05 15:14:18 | 詩集
鶴見忠良『つぶやくプリズム』(3)(沖積舎、2009年03月10日発行)

 鶴見はことばのなかで生まれ変わる。新しい「いのち」になる。それはどんな形をしているか。「みかんの花」。その全行。

なんというすがすがしさ
なんどでもいおう
みかんの花の石鹸
これはもう
神様の石鹸です

さきみだれる花つぶたちのざわめき
洪水になって
夜空を越えてゆきます

いたるところでみかんの花がかおる
命がかおる
いい目ざめだ
二度とない深い目ざめ
青々とした命のしぶきが
ふりかかる

もうわたしのすがたは
だれにもみえない

 みかんの花の匂いがする石鹸。それをつかうと、みかんの花のにおいがどこまでもひろがっていく。その匂いを浴びて、なにかが鶴見のなかでめざめる。「目ざめ」とだけかかれているなにかが。
 石鹸ではなく、現実の花でもいい。みかんが咲いている。その匂いのシャワーを浴びる。そして生まれ変わった気持ちになる。
 「目ざめ」とは、生まれ変わりのことである。
 そのとき。

もうわたしのすがたは
だれにもみえない

 ほんとうに、そうだと思う。
 たとえば、この詩を読んでいるとき、私は鶴見の姿を思い浮かべない。鶴見が見えない。ただみかんの花の匂いがする。その匂いに洗われるときの新鮮な感じだけが、目の前にある。鶴見は、生まれ変わって、みかんの花の匂いになっているのだ。そこにはたしかに「人間」の姿はない。だから、見えない。
 生まれ変わる、新しいいのちとして誕生する。そのとき、鶴見は「人間」ではない。「人間」に固定されていない。「人間」ではなく、ほかのものになっている。生まれ変わるということは、なにかに「なる」ということなのだ。「人間」にこだわり、「人間」を探しているかぎり、その姿は見えない。 

 鶴見は「人間」という「枠」を超えるだけではない。「風」という作品。

風は
息づかいです
いまも生きようとしている言葉です
そよいでは吹きつのり
さわることで
うれしく
あるいはかなしくうたいながら
いのちのありかを
やさしくたしかめているのです
あー万物が風に共鳴している
この世もあの世も入りみだれて
吹きぬける吹きぬける
いずれはみな風になるのだ
つかれて重くなるばかりの日々
耳の奥の風のうた
光でもなく闇でもない……
ふと
風は眠る
ぼくの塒(ねぐら)で

 鶴見の「いのち」の理想形は「風」である。「風」は「息」である。「息」は「肉体」をとおるとき「声」になる。ことばになる。そのとき、ことばは、たとえ「うれしい」であっても「かなしい」であり、「かなしい」であっても「うれしい」である。等価である。なぜなら、それは「いのち」がどこにあるかを、そのありかを伝えるものだからである。「うれしい」も「かなしい」も、その他の感情も、すべて「いのち」の「共鳴」なのである。
 「共鳴」するとき、「人間」は「人間」ではなく、ひとつの「音楽」になる。いっしょに鳴り響く「音楽」そのものになる。「人間」は消え、見えなくなり、視力を超えた存在そのものになる。
 次の1行がすごい。

この世もあの世も入りみだれ

 私は絶句してしまう。
 私が思い描いていたのは、あくまで「この世」のことである。鶴見が「風」になるとき、「みかんの花の匂い」になるとき、それはあくまで現実の、「この世」の存在であった。
 ところが、鶴見は「この世」という枠を超越している。
 そんなことろまで、鶴見は「風」になって吹いていってしまうのである。
 そして、この行によって、私ははじめて「あの世」があるということが実感できた。
 それは遠いことろではない。「いま」「ここ」と共鳴している「場」であり、それは「いま」「ここ」といっしょに存在する。接しているのではない。重なっているのではない。いっしょになって、区別がつかないのである。
 
 あらゆるものに「区別」をつけるものが科学だとするなら、あらゆるものに「違い」を発見し、それぞれに固有の定義をするのが科学だとするなら、鶴見の「思想」は科学とはまったく別のところにある。
 鶴見は区別を取り除く。そしてほんらい区別すべきものとの区別そもののをなくし、「他者」といったい「なる」。

ふと
風は眠る
ぼくの塒で

 このとき「風」は「風」ではない。「ぼく」は「ぼく」ではない。そして、「風」は「風」であり、「ぼく」は「ぼく」でもある。矛盾しているだろうけれど、その矛盾。区別がなくなり、いったいになったものが「いのち」である。
 風がぼくの塒で眠るとき、ぼくは風の塒でおなじように眠り、おなじひとつの夢を見るのだ。


詩集 つぶやくプリズム
〓見 忠良
沖積舎

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谷川俊太郎「悲しみについて」

2009-04-05 02:48:15 | 詩(雑誌・同人誌)
谷川俊太郎「悲しみについて」(「朝日新聞」2009年04月04日夕刊)

 谷川俊太郎「悲しみについて」は最終連がおもしろい。全行。

舞台で涙を流しているとき
役者は決して悲しんではいない
観客の心を奪うために
彼は心を砕いているのだ

悲しみを書こうとするとき
作家は決して悲しんではいない
読者の心を掴(つか)むために
彼女は心を傾けているのだ

悲しげに犬が遠吠(とおぼ)えするとき
犬は決して悲しんではいない
なんのせいかも分からずに
彼は心を痛めているだけだ

 人間は「わざと」悲しみを作りだす。それも自分の感情ではなく、他人の悲しみを作りだす。そしてその、人口の悲しみが悲しみとして時間できるとき、それを観客(読者)は芸術として堪能する。
 犬の場合は、どうだろう。
 谷川は「なんのせいかも分からずに/彼は心を痛めているだけだ」と書いているが、これは真実だろうか。なんのせいか分からないのは谷川であって、犬にはその理由が分かっているかもしれない。
 そして、いま、私が書いたことはもちろん谷川には分かっている。分かっていて「わざと」犬は分からずに遠吠えをしていると書く。そのとき、分からないものがあるという事実が静かに浮かび上がってくる。分からないものがある、ということが、たぶん私たちの人生でいちばん重要なことなのだ。分からないものがあって、それを自分で受け止めて生きる――悲しみというものがあるとすれば、確かに、分からないものを分からないまま受け止めるしかない、対処のしようがない。
 そういう状態になったとき。
 ふいに、やはり「分からないもの」が近しい存在として、そばにあらわれる。犬。犬が「わけの分からないもの」もののために「心を痛めている」。そんなふうにしても、生きていける。不思議な安心感。
 同情されずに、ただ、いま、いっしょにここにいる不思議さと安心感。この「悲しみ」はなぜか「愛しい」につながる。谷川のことばは、そんなことを教えてくれる。


谷川俊太郎詩選集 1 (集英社文庫)
谷川 俊太郎
集英社

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『田村隆一全詩集』を読む(45)

2009-04-05 01:54:19 | 田村隆一
 「レインコート」という詩。レインコートは「肉体」ではないが、その詩に私は「肉体」を感じる。 

真夏だというのに
レインコートは壁にぶらさがったまま凍りついている。
枯葉色の皺だらけの

なにもしないくせに
袖口だけは擦り切れていて
糸が二、三本垂れさがっていて

ポケットには
ウイスキーの小瓶を入れた形がまだ残っていて
どこを探したって小銭も出てこない

タバコの吸い殻が曲った釘みたいに
ポケットの底にへばりついているだけ

 レインコートの描写が、そのコートを着ていた人間の「くせ」を残しているからだろうか。そして、その人間の「くせ」、たとえば、ポケットにウイスキーの小瓶を入れている、タバコの吸殻を入れているという「くせ」を残しているから、それが人間に見えるのか。あるいは、そのコートを着ていた人間を覚えているから、かれの「くせ」がコートにのこっているように見えるのか。
 いったん、コートをそんなふうに描写したあと、ことばは少し動く。

それに
レインコートの持ち主だって分からない
ただ壁にぶらさがっていて
顔もなければ足もない

肉体はとっくに消滅して
心だけが枯葉色になって
真夏の部屋のなかでふるえている

 この微妙な変化の前にそっと挿入された「それに」とはいったい何だろうか。「それに/レインコートの持ち主だって分からない」と田村は書いているが、「それに」が指し示すはずの、先行する「わからない」ものが、そこにはない。
 書かれていない。
 書かれていないものを受けて、「それに/レインコートの持ち主だって分からない」と田村は書く。
 「それに」が指し示すもの、それは「分からない」ではないのだ。
 「レインコート」はすでに「レインコート」ではなくなっている、と田村は書いているのである。そこにあるのは「外形」は「レインコート」であるけれど、「肉眼」で見れば「レインコート」ではない。「レインコート」は「消滅」してしまっている。消滅してしまっているけれど、「目」にはそれが見える。
 その不思議さを、田村は書いている。
 「レインコート」は「レインコート」であることをやめてしまっている。それを着る人間も、どこかへ消滅してしまっていて、「持ち主」などというものは存在しない。そこには、不在を証明する残像だけがある。

 世界には、目に見えるものと、「肉眼」に見えるものとがある。
 田村のことばは、つねに、そのふたつの間を行き来する。そして、その間は、いつもはっきりと論理的に区別されているわけではない。両方の「間」(ま)で、ベクトルとなって動くだけである。
 そのベクトルがどこへ行くかは重要ではなく、それを実感できるかどうかが、重要だ。どこへ行くということがきまっていて(わかっていて)、ことばは動くのではないのだから。

ぼくはベッドに横たわったまま
ぶらさがっているレインコートの運命を考えてみることだってある
たぶん

痩せた男
安タバコを吸いつづけてきた細い指
肋骨の数をかぞえたほうが早い薄い胸のなかに
どんな思想がやどっていたというのか

 田村(ぼく)が想像しているのは「レインコートの運命」なのか、それとも「レインコートを着ていた男の運命」なのか。区別がつかない。いや、区別をつけないのだ。「区別がない」というのは「未分化」と同義である。
 「肉体」は、そういう「区別のない領域」にいつも存在する。「肉」はいつでも「未分化」の領域に根をおろしているのだ。
 「肉眼」はからだの奥、たとえば、手や指や舌や鼻が「未分化」の領域を通るとき「肉眼」そのものになるように、男は「レインコート」をきて、「世界」の「未分化」の領域で「肉体」となる。
 それは、単純にことばにできない。「流通している言語」ではとらえられない世界である。つまり、詩の世界である。
 
 途中の引用は省略する。
 この詩の最後の部分。「ぼく」は「レインコート」を「きみ」と呼び、告げている。

傘も持たず帽子もかぶらない
きみの犯罪の成功を祈るよ
どんなことがあってもぼくはきみの
アリバイを証明しないからね

変な言葉だ
不在証明の証明
さよなら レインコート

 アリバイ、不在証明は、そこにいなかったことを証明するということだが、その証明はいつでも「そこにいなかった」という形ではなく、「別のところにいた」という形でしか証明できない。「別のところにいた、したがって、ここにはいなかった」。それは「不在証明」というよりも、単なる「論理」の証明である。そういう「論理」があるということの証明にすぎないかもしれない。
 田村は、本能的に、そういう証明を拒絶している。「別のところにいた、したがって、ここにはいなかった」という「頭脳」の証明を拒絶している。そうではなく「肉体」の証明を探している。
 それは「ぼくはここにいる、したがって、ここにはいない」という矛盾した証明のことである。「ここ」で「ここ」を超越する。「ぼく」は「ぼく」であることを拒絶し、「ぼく」ではないものになる。だからこそ「ぼく」は存在する。
 そういう存在のあり方を、「レインコート」と「ぼく」との関係で書こうとしている。




毒杯―田村隆一詩集
田村 隆一
河出書房新社

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