鶴見忠良『つぶやくプリズム』(3)(沖積舎、2009年03月10日発行)
鶴見はことばのなかで生まれ変わる。新しい「いのち」になる。それはどんな形をしているか。「みかんの花」。その全行。
みかんの花の匂いがする石鹸。それをつかうと、みかんの花のにおいがどこまでもひろがっていく。その匂いを浴びて、なにかが鶴見のなかでめざめる。「目ざめ」とだけかかれているなにかが。
石鹸ではなく、現実の花でもいい。みかんが咲いている。その匂いのシャワーを浴びる。そして生まれ変わった気持ちになる。
「目ざめ」とは、生まれ変わりのことである。
そのとき。
ほんとうに、そうだと思う。
たとえば、この詩を読んでいるとき、私は鶴見の姿を思い浮かべない。鶴見が見えない。ただみかんの花の匂いがする。その匂いに洗われるときの新鮮な感じだけが、目の前にある。鶴見は、生まれ変わって、みかんの花の匂いになっているのだ。そこにはたしかに「人間」の姿はない。だから、見えない。
生まれ変わる、新しいいのちとして誕生する。そのとき、鶴見は「人間」ではない。「人間」に固定されていない。「人間」ではなく、ほかのものになっている。生まれ変わるということは、なにかに「なる」ということなのだ。「人間」にこだわり、「人間」を探しているかぎり、その姿は見えない。
鶴見は「人間」という「枠」を超えるだけではない。「風」という作品。
鶴見の「いのち」の理想形は「風」である。「風」は「息」である。「息」は「肉体」をとおるとき「声」になる。ことばになる。そのとき、ことばは、たとえ「うれしい」であっても「かなしい」であり、「かなしい」であっても「うれしい」である。等価である。なぜなら、それは「いのち」がどこにあるかを、そのありかを伝えるものだからである。「うれしい」も「かなしい」も、その他の感情も、すべて「いのち」の「共鳴」なのである。
「共鳴」するとき、「人間」は「人間」ではなく、ひとつの「音楽」になる。いっしょに鳴り響く「音楽」そのものになる。「人間」は消え、見えなくなり、視力を超えた存在そのものになる。
次の1行がすごい。
私は絶句してしまう。
私が思い描いていたのは、あくまで「この世」のことである。鶴見が「風」になるとき、「みかんの花の匂い」になるとき、それはあくまで現実の、「この世」の存在であった。
ところが、鶴見は「この世」という枠を超越している。
そんなことろまで、鶴見は「風」になって吹いていってしまうのである。
そして、この行によって、私ははじめて「あの世」があるということが実感できた。
それは遠いことろではない。「いま」「ここ」と共鳴している「場」であり、それは「いま」「ここ」といっしょに存在する。接しているのではない。重なっているのではない。いっしょになって、区別がつかないのである。
あらゆるものに「区別」をつけるものが科学だとするなら、あらゆるものに「違い」を発見し、それぞれに固有の定義をするのが科学だとするなら、鶴見の「思想」は科学とはまったく別のところにある。
鶴見は区別を取り除く。そしてほんらい区別すべきものとの区別そもののをなくし、「他者」といったい「なる」。
このとき「風」は「風」ではない。「ぼく」は「ぼく」ではない。そして、「風」は「風」であり、「ぼく」は「ぼく」でもある。矛盾しているだろうけれど、その矛盾。区別がなくなり、いったいになったものが「いのち」である。
風がぼくの塒で眠るとき、ぼくは風の塒でおなじように眠り、おなじひとつの夢を見るのだ。
鶴見はことばのなかで生まれ変わる。新しい「いのち」になる。それはどんな形をしているか。「みかんの花」。その全行。
なんというすがすがしさ
なんどでもいおう
みかんの花の石鹸
これはもう
神様の石鹸です
さきみだれる花つぶたちのざわめき
洪水になって
夜空を越えてゆきます
いたるところでみかんの花がかおる
命がかおる
いい目ざめだ
二度とない深い目ざめ
青々とした命のしぶきが
ふりかかる
もうわたしのすがたは
だれにもみえない
みかんの花の匂いがする石鹸。それをつかうと、みかんの花のにおいがどこまでもひろがっていく。その匂いを浴びて、なにかが鶴見のなかでめざめる。「目ざめ」とだけかかれているなにかが。
石鹸ではなく、現実の花でもいい。みかんが咲いている。その匂いのシャワーを浴びる。そして生まれ変わった気持ちになる。
「目ざめ」とは、生まれ変わりのことである。
そのとき。
もうわたしのすがたは
だれにもみえない
ほんとうに、そうだと思う。
たとえば、この詩を読んでいるとき、私は鶴見の姿を思い浮かべない。鶴見が見えない。ただみかんの花の匂いがする。その匂いに洗われるときの新鮮な感じだけが、目の前にある。鶴見は、生まれ変わって、みかんの花の匂いになっているのだ。そこにはたしかに「人間」の姿はない。だから、見えない。
生まれ変わる、新しいいのちとして誕生する。そのとき、鶴見は「人間」ではない。「人間」に固定されていない。「人間」ではなく、ほかのものになっている。生まれ変わるということは、なにかに「なる」ということなのだ。「人間」にこだわり、「人間」を探しているかぎり、その姿は見えない。
鶴見は「人間」という「枠」を超えるだけではない。「風」という作品。
風は
息づかいです
いまも生きようとしている言葉です
そよいでは吹きつのり
さわることで
うれしく
あるいはかなしくうたいながら
いのちのありかを
やさしくたしかめているのです
あー万物が風に共鳴している
この世もあの世も入りみだれて
吹きぬける吹きぬける
いずれはみな風になるのだ
つかれて重くなるばかりの日々
耳の奥の風のうた
光でもなく闇でもない……
ふと
風は眠る
ぼくの塒(ねぐら)で
鶴見の「いのち」の理想形は「風」である。「風」は「息」である。「息」は「肉体」をとおるとき「声」になる。ことばになる。そのとき、ことばは、たとえ「うれしい」であっても「かなしい」であり、「かなしい」であっても「うれしい」である。等価である。なぜなら、それは「いのち」がどこにあるかを、そのありかを伝えるものだからである。「うれしい」も「かなしい」も、その他の感情も、すべて「いのち」の「共鳴」なのである。
「共鳴」するとき、「人間」は「人間」ではなく、ひとつの「音楽」になる。いっしょに鳴り響く「音楽」そのものになる。「人間」は消え、見えなくなり、視力を超えた存在そのものになる。
次の1行がすごい。
この世もあの世も入りみだれ
私は絶句してしまう。
私が思い描いていたのは、あくまで「この世」のことである。鶴見が「風」になるとき、「みかんの花の匂い」になるとき、それはあくまで現実の、「この世」の存在であった。
ところが、鶴見は「この世」という枠を超越している。
そんなことろまで、鶴見は「風」になって吹いていってしまうのである。
そして、この行によって、私ははじめて「あの世」があるということが実感できた。
それは遠いことろではない。「いま」「ここ」と共鳴している「場」であり、それは「いま」「ここ」といっしょに存在する。接しているのではない。重なっているのではない。いっしょになって、区別がつかないのである。
あらゆるものに「区別」をつけるものが科学だとするなら、あらゆるものに「違い」を発見し、それぞれに固有の定義をするのが科学だとするなら、鶴見の「思想」は科学とはまったく別のところにある。
鶴見は区別を取り除く。そしてほんらい区別すべきものとの区別そもののをなくし、「他者」といったい「なる」。
ふと
風は眠る
ぼくの塒で
このとき「風」は「風」ではない。「ぼく」は「ぼく」ではない。そして、「風」は「風」であり、「ぼく」は「ぼく」でもある。矛盾しているだろうけれど、その矛盾。区別がなくなり、いったいになったものが「いのち」である。
風がぼくの塒で眠るとき、ぼくは風の塒でおなじように眠り、おなじひとつの夢を見るのだ。
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