監督 ジョン・ウー 出演 トニー・レオン、金城武、チャン・フォンイー
「Part1」に比較すると格段におもしろい。これはあたりまえのことかもしれない。「Part1」は人物紹介に忙しくて映画になっていない。長いだけの予告編だった。予告編が終わって、やっと本編になった。
「Part2」が「Part1」よりはるかに優れていた点がふたつ。ひとつはトニー・レオンと金城武の琴セッション。「Part1」では、ふたりが琴を弾き終わったあと、ことばで何があったのか、ふたりはどんなことを感じあったのか、わざわざことばで解説していた。観客は映像と音から何かを感じ取る必要はなかった。ことばを聞けばよかった。これでは映画ではない。「読み物」である。映画は、映像と音楽であって、ことばはいらない。今回も二人が琴を弾くシーンがあるが、ことばによる説明はなにもない。かわりにトニー・レオンの妻の姿がぱっと挿入される。その瞬間に、トニー・レオンの苦悩が観客のものになる。ちゃんと映画になっている。
ふたつめ。やはりことばが何もない。出陣の前、冬至なので、みんなで団子を食べる。トニー・レオンの器の中に、みんなが1個ずつ団子を入れていく。団欒ではなく、団結の印、いのちを捧げるという決意のようにして、団子を入れていく。この素朴な行為の描写がいい。これが映画だ。同じ映像が繰り返されて、それが観客のこころのなかで「意味」になる。ことばではなく、映像が「意味」を語る。
しかし、余分なことばも、まだまだある。
トニー・レオンが剣舞を舞う。それを妻が「解説」する。せっかくトニー・レオンがかっこよくポーズを決めているのに、そのひとつひとつの動きを「戦法」の解説にしてしまっては、映画がつまらなくなる。合戦の最中に、その動きのひとつでもフラッシュバックで見せれば、そのとき、観客は、あ、あれはこういう闘いのシーンで、こんな動きになるのかと感動するのに、そういう映像は見せずに、ただ「ことば」があるだけである。ことばが映像を壊してしまっている。
ことばが唯一、有効な働きをしていたのは、トニー・レオンの幼友達が合戦前にトニー・レオンをたずねてきて、思い出話に花を咲かせるシーン。ここでは、トニー・レオンが友だちの筆跡をまねていたずらをしたことが話題にあがる。トニー・レオンは他人の筆跡を真似することができる。そして、その技術をつかって敵をあざむく。思い出話がなければ、その後のストーリーが成り立たない。あのシーン以外は、ことばはいらない。
合戦のシーンも、特に新しい映像があるわけではないが、それなりに楽しめた。ことばがほとんどないのと、「Part1」であったような長尺の人物紹介がなく、集団の戦いにしてしまっているからである。戦争というのは、ようするに個人が個人ではなくなってしまう状態のことだから、そこではことばはいらない。ことばは無意味である。個人であることは無意味であり、また、戦争の敗北の引き金にもなる。チャン・フォンイーが負けたのは、結局、戦争に個人の感情(恋愛)を持ち込んだからである。実らぬ恋愛という個人的な事情が組織の動きをちぐはぐにしてしまった。判断の時期を誤ったからである。一方、トニー・レオン、金城武の連合が勝ったのは、集団だけではなく、天候さえも組織に組み込んだからである。天候は人間の事情などなにも考えない。そういう非情なものは、ことばで説得するのではなく、ただ自分たちが天候の側によりそうだけである。天候を味方につけるのではなく、天候の動きに人間の動きをあわせる。そして、ことばをもたぬ非情なもの、天候(霧や風)にかわって、霧や風のことばを語るのである。「霧で姿を隠します」「風の向きが逆転した一瞬に攻撃をします」。このときのことばは、説得のためのことばではない。たんなる補足である。言われなくても、その場にいる人には、霧の状態や風向きはわかっているのだから。わかっていることだけを語る時、ことばは映像のじゃまにはならない。
それにしても、と考えてしまうのは、中国というのは、やっぱり「数」の国なのだ。「数」をそろえれば何でもできるという考えがどこかにあるのだと思う。北京オリンピックの開会式のセレモニーも「数」の力で映像を圧倒した。それは、ちょっと、こわい。この映画は、ある意味では「数」に対抗して勝った少数のことを描いているのだから、一見、数の否定にも見えるけれど--たぶん、それは映画とは無関係なものである。映画は、やはり「数」でスクリーンを圧倒する。大量の人、人、人。それがさーっと組織的に動くそのときのエネルギー。少数でさえ、万人単位なのだ。数の動きが見せ場なのだけれど、ちょっと、こわいものもある。
*
登場人物の人間関係がわからないと映画が楽しめない--というひとは「part1」で予習(見たひとは復習)していくと都合がいいかもしれない。
「Part1」に比較すると格段におもしろい。これはあたりまえのことかもしれない。「Part1」は人物紹介に忙しくて映画になっていない。長いだけの予告編だった。予告編が終わって、やっと本編になった。
「Part2」が「Part1」よりはるかに優れていた点がふたつ。ひとつはトニー・レオンと金城武の琴セッション。「Part1」では、ふたりが琴を弾き終わったあと、ことばで何があったのか、ふたりはどんなことを感じあったのか、わざわざことばで解説していた。観客は映像と音から何かを感じ取る必要はなかった。ことばを聞けばよかった。これでは映画ではない。「読み物」である。映画は、映像と音楽であって、ことばはいらない。今回も二人が琴を弾くシーンがあるが、ことばによる説明はなにもない。かわりにトニー・レオンの妻の姿がぱっと挿入される。その瞬間に、トニー・レオンの苦悩が観客のものになる。ちゃんと映画になっている。
ふたつめ。やはりことばが何もない。出陣の前、冬至なので、みんなで団子を食べる。トニー・レオンの器の中に、みんなが1個ずつ団子を入れていく。団欒ではなく、団結の印、いのちを捧げるという決意のようにして、団子を入れていく。この素朴な行為の描写がいい。これが映画だ。同じ映像が繰り返されて、それが観客のこころのなかで「意味」になる。ことばではなく、映像が「意味」を語る。
しかし、余分なことばも、まだまだある。
トニー・レオンが剣舞を舞う。それを妻が「解説」する。せっかくトニー・レオンがかっこよくポーズを決めているのに、そのひとつひとつの動きを「戦法」の解説にしてしまっては、映画がつまらなくなる。合戦の最中に、その動きのひとつでもフラッシュバックで見せれば、そのとき、観客は、あ、あれはこういう闘いのシーンで、こんな動きになるのかと感動するのに、そういう映像は見せずに、ただ「ことば」があるだけである。ことばが映像を壊してしまっている。
ことばが唯一、有効な働きをしていたのは、トニー・レオンの幼友達が合戦前にトニー・レオンをたずねてきて、思い出話に花を咲かせるシーン。ここでは、トニー・レオンが友だちの筆跡をまねていたずらをしたことが話題にあがる。トニー・レオンは他人の筆跡を真似することができる。そして、その技術をつかって敵をあざむく。思い出話がなければ、その後のストーリーが成り立たない。あのシーン以外は、ことばはいらない。
合戦のシーンも、特に新しい映像があるわけではないが、それなりに楽しめた。ことばがほとんどないのと、「Part1」であったような長尺の人物紹介がなく、集団の戦いにしてしまっているからである。戦争というのは、ようするに個人が個人ではなくなってしまう状態のことだから、そこではことばはいらない。ことばは無意味である。個人であることは無意味であり、また、戦争の敗北の引き金にもなる。チャン・フォンイーが負けたのは、結局、戦争に個人の感情(恋愛)を持ち込んだからである。実らぬ恋愛という個人的な事情が組織の動きをちぐはぐにしてしまった。判断の時期を誤ったからである。一方、トニー・レオン、金城武の連合が勝ったのは、集団だけではなく、天候さえも組織に組み込んだからである。天候は人間の事情などなにも考えない。そういう非情なものは、ことばで説得するのではなく、ただ自分たちが天候の側によりそうだけである。天候を味方につけるのではなく、天候の動きに人間の動きをあわせる。そして、ことばをもたぬ非情なもの、天候(霧や風)にかわって、霧や風のことばを語るのである。「霧で姿を隠します」「風の向きが逆転した一瞬に攻撃をします」。このときのことばは、説得のためのことばではない。たんなる補足である。言われなくても、その場にいる人には、霧の状態や風向きはわかっているのだから。わかっていることだけを語る時、ことばは映像のじゃまにはならない。
それにしても、と考えてしまうのは、中国というのは、やっぱり「数」の国なのだ。「数」をそろえれば何でもできるという考えがどこかにあるのだと思う。北京オリンピックの開会式のセレモニーも「数」の力で映像を圧倒した。それは、ちょっと、こわい。この映画は、ある意味では「数」に対抗して勝った少数のことを描いているのだから、一見、数の否定にも見えるけれど--たぶん、それは映画とは無関係なものである。映画は、やはり「数」でスクリーンを圧倒する。大量の人、人、人。それがさーっと組織的に動くそのときのエネルギー。少数でさえ、万人単位なのだ。数の動きが見せ場なのだけれど、ちょっと、こわいものもある。
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登場人物の人間関係がわからないと映画が楽しめない--というひとは「part1」で予習(見たひとは復習)していくと都合がいいかもしれない。
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