詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

ジョン・ウー監督「レッドクリフPart2」(★★★)

2009-04-12 21:46:26 | 映画
監督 ジョン・ウー 出演 トニー・レオン、金城武、チャン・フォンイー

 「Part1」に比較すると格段におもしろい。これはあたりまえのことかもしれない。「Part1」は人物紹介に忙しくて映画になっていない。長いだけの予告編だった。予告編が終わって、やっと本編になった。
 「Part2」が「Part1」よりはるかに優れていた点がふたつ。ひとつはトニー・レオンと金城武の琴セッション。「Part1」では、ふたりが琴を弾き終わったあと、ことばで何があったのか、ふたりはどんなことを感じあったのか、わざわざことばで解説していた。観客は映像と音から何かを感じ取る必要はなかった。ことばを聞けばよかった。これでは映画ではない。「読み物」である。映画は、映像と音楽であって、ことばはいらない。今回も二人が琴を弾くシーンがあるが、ことばによる説明はなにもない。かわりにトニー・レオンの妻の姿がぱっと挿入される。その瞬間に、トニー・レオンの苦悩が観客のものになる。ちゃんと映画になっている。
 ふたつめ。やはりことばが何もない。出陣の前、冬至なので、みんなで団子を食べる。トニー・レオンの器の中に、みんなが1個ずつ団子を入れていく。団欒ではなく、団結の印、いのちを捧げるという決意のようにして、団子を入れていく。この素朴な行為の描写がいい。これが映画だ。同じ映像が繰り返されて、それが観客のこころのなかで「意味」になる。ことばではなく、映像が「意味」を語る。
 しかし、余分なことばも、まだまだある。
 トニー・レオンが剣舞を舞う。それを妻が「解説」する。せっかくトニー・レオンがかっこよくポーズを決めているのに、そのひとつひとつの動きを「戦法」の解説にしてしまっては、映画がつまらなくなる。合戦の最中に、その動きのひとつでもフラッシュバックで見せれば、そのとき、観客は、あ、あれはこういう闘いのシーンで、こんな動きになるのかと感動するのに、そういう映像は見せずに、ただ「ことば」があるだけである。ことばが映像を壊してしまっている。
 ことばが唯一、有効な働きをしていたのは、トニー・レオンの幼友達が合戦前にトニー・レオンをたずねてきて、思い出話に花を咲かせるシーン。ここでは、トニー・レオンが友だちの筆跡をまねていたずらをしたことが話題にあがる。トニー・レオンは他人の筆跡を真似することができる。そして、その技術をつかって敵をあざむく。思い出話がなければ、その後のストーリーが成り立たない。あのシーン以外は、ことばはいらない。

 合戦のシーンも、特に新しい映像があるわけではないが、それなりに楽しめた。ことばがほとんどないのと、「Part1」であったような長尺の人物紹介がなく、集団の戦いにしてしまっているからである。戦争というのは、ようするに個人が個人ではなくなってしまう状態のことだから、そこではことばはいらない。ことばは無意味である。個人であることは無意味であり、また、戦争の敗北の引き金にもなる。チャン・フォンイーが負けたのは、結局、戦争に個人の感情(恋愛)を持ち込んだからである。実らぬ恋愛という個人的な事情が組織の動きをちぐはぐにしてしまった。判断の時期を誤ったからである。一方、トニー・レオン、金城武の連合が勝ったのは、集団だけではなく、天候さえも組織に組み込んだからである。天候は人間の事情などなにも考えない。そういう非情なものは、ことばで説得するのではなく、ただ自分たちが天候の側によりそうだけである。天候を味方につけるのではなく、天候の動きに人間の動きをあわせる。そして、ことばをもたぬ非情なもの、天候(霧や風)にかわって、霧や風のことばを語るのである。「霧で姿を隠します」「風の向きが逆転した一瞬に攻撃をします」。このときのことばは、説得のためのことばではない。たんなる補足である。言われなくても、その場にいる人には、霧の状態や風向きはわかっているのだから。わかっていることだけを語る時、ことばは映像のじゃまにはならない。

 それにしても、と考えてしまうのは、中国というのは、やっぱり「数」の国なのだ。「数」をそろえれば何でもできるという考えがどこかにあるのだと思う。北京オリンピックの開会式のセレモニーも「数」の力で映像を圧倒した。それは、ちょっと、こわい。この映画は、ある意味では「数」に対抗して勝った少数のことを描いているのだから、一見、数の否定にも見えるけれど--たぶん、それは映画とは無関係なものである。映画は、やはり「数」でスクリーンを圧倒する。大量の人、人、人。それがさーっと組織的に動くそのときのエネルギー。少数でさえ、万人単位なのだ。数の動きが見せ場なのだけれど、ちょっと、こわいものもある。



 登場人物の人間関係がわからないと映画が楽しめない--というひとは「part1」で予習(見たひとは復習)していくと都合がいいかもしれない。



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木村草弥「ヤコブの梯子(はしご)」ほか

2009-04-12 09:54:13 | 詩(雑誌・同人誌)
木村草弥「ヤコブの梯子(はしご)」、渡辺兼直「達磨 暁(キョウ)斎の眼力を睨む」、三井葉子「からす」ほか(「楽市」65、2009年04月01日発行)

 木村草弥「ヤコブの梯子(はしご)」はさまざまな「語り直し」である。

 或る日。
外がやかましいので出てみると
地上から一本の軌道が
エレベーターを載せて
天井の宇宙静止軌道の宇宙ステーションまで
伸びていた

それは
まるで「ジャックの豆の木」のように
亭々と立っていた
上の端は雲にかかって
よくは見えない高さだった。

 このあと、「聖書」から「ヤコブの梯子」が引用され、つづいて芥川龍之介「蜘蛛の糸」が要約される。さらにつづいて、

軌道エレベータの着想は
宇宙旅行の父-コンスタンチン・ツィオルコフスキーが
1895年に、すでに自著の中で記述している。

静止軌道の人工衛星から地上に達するチューブを垂らし
そのケーブルを伝って昇降することで地上と宇宙を往復するのだ。
全体の遠心力が重力を上回るように、反対側にも
ケーブルをのばして上端とする。
軌道エレベータを建設するために必要な強度を持つ
カーボンナノチューブが発見されたことにより実現したのだった。

 「夢」を、コンスタンチン・ツィオルコフスキーの夢が「スペースシャトル」という形で実現に近づいているいま、その彼の夢と重なり合うものを、「ジャックと豆の木」「聖書」「蜘蛛の糸」と重ねてみる。
 そうすると、そこに、人間の想像力の不思議さが見えてくる。
 ひとは、どれだけ突飛なこと(?)を考えようと、どこかでつながっている。なぜ、ひとは、そんなふうにして重なり合うのか。
 そのことを木村は、「解説」しようとはしない。そこが、おもしろい。
 木村は「解説」のかわりに、「重ね合わせ」をていねいにやる。人間のことばは、常に、誰かの語ったことばの語り直しであるということを知っている。語り直す時、そこはなんらかの個人の思い、体験がしのびこみ、ずれができるのだが、そのずれの存在が逆に、離れているものを引き寄せる。ずれているから重ならないのではなく、ずれているから重なっている部分があることがわかる。ずれが増えるたびに、重なり合う部分もまた増えるのである。
 私は不勉強なので木村の詩を読むのははじめてなのだが(だと思う)、とてもていねいな思索をもとにことばを動かしていく詩人なのだと思った。新しい哲学を作り上げるというよりも、すでに語られた哲学を、ていねいに自分自身のものに消化して、ことばを鍛える詩人なのだと思った。



 渡辺兼直「達磨 暁(キョウ)斎の眼力を睨む」も語り直してある。河鍋暁斎の「吉原遊宴図」をことばで語っている。
 その後半。

折しも
床の間にありて
達磨大師
画中より身をのりいだし
われ つまらぬ修行に熱中いたし
手足を失ひしかども
人間とは
げにおもしろき動物であることよ

 「達磨大師」が吉原の一情景を目撃して、そんなことを、いうかなあ。いわないね。これは達磨大師に託して語った渡辺自身の思いである。そして、そこには当然「ずれ」がはいってくる。「ずれ」は意識すると、つまり「わざと」書くと、批評になる。「われ つまらぬ修行に熱中いたし」というのは、いいなあ。思わず笑ってしまう批評である。そして、思わず笑ってしまう時、たぶん、達磨になれない多くの人間が重なり合うのである。つながるのである。
 渡辺のことばには、時間をかけて鍛え上げてきたスピードがある。漢文と俗語(口語)のすばやい行き来があり、思わず見とれてしまう。



 今回の号にかぎらず「楽市」ととても充実している。
 今号には、谷口謙「自宅の廊下」もとてもおもしろかった。検視医(という言い方でいいのだろうか)の体験を書いている。死亡時刻をつきつめていくと、どうも死者が死んだ時間が、家族が彼を自宅の廊下へ運ぶ前だったらしい。酔って帰って来たと、家族は思い、とりあえず自宅の廊下に寝かせたのだが……という体験を書いているようなのだが、そのことばが、実にていねいなので、まるで1回かぎりのことなのに、何度も何度も語られてきた人間の「運命」のような、不思議な強さを感じさせる。
 司茜「ポケットの中の」は梶井基次郎「檸檬」と「八百卯」のことを書いたものだが、そのことばも、「檸檬」の別の角度からの語り直しであり、やはりことばがていねいで時間の手触りを感じさせる。
 三井葉子「からす」はカラスの「かあかあ」という鳴き声をきいて、それを語り直しているうちに芭蕉へ「ずれ」ていく。

あかあかと日はつれなくもあきのかぜ
というけしきが好きだった

つれて行ってよ
あかあか

抱くふりをして
抱いているふりをして


なんミリかくらいのわたしを
そのなんミリかくらいの杖の先で
押さえて


そんなら
わたし

かあかあ

泣く。

 「あかあか」と「かあかあ」。音楽の中で出会う「いのち」がある。


茶の四季―木村草弥歌集
木村 草弥
角川書店

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花―句まじり詩集
三井 葉子
深夜叢書社

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『田村隆一全詩集』を読む(52)

2009-04-12 00:00:39 | 田村隆一

            (51、の補足として。あるいは51の最後の部分の改訂)

 <物>は「人間」である。というより、田村は「人間」を「物」としてとらえたい願望を持っている。「人間」を「物」としてとらえたい--というとき、それは「観念」に変質する前の状態としてとらえたいということである。
 人間は「肉体」と「観念」でできている。そこから観念をはぎりと、「人間」だけにしたい、という欲望を生きているということもできる。「肉体」に出会いたい。「肉眼」になりたい、という欲望を生きている、と言い換えることもできる。

 きのう読んだ「物」の最後の方の部分。

<物>に会いたくなったら
渋谷のパルコ通りへ行くことだ
銀山も葡萄畑もないかわりに
抽象的な情報市場だけはあふれていて
<物>の音と光りと色彩が沸きたっている

 この<物>は「人間」と置き換えることができる。

「人間」に会いたくなったら
渋谷のパルコ通りへ行くことだ
銀山も葡萄畑もないかわりに
抽象的な情報市場だけはあふれていて
「人間」の音と光りと色彩が沸きたっている

 そして、このとき「音と光りと色彩」は「観念」である。「抽象的な情報市場」の「情報」と呼ばれている「観念」、そのさまざまな形態。そこには「肉眼」と「肉体」がないのである。「肉体」「肉眼」の不在がある。
 けれど、その「肉体」「肉眼」の不在を通してしか、田村は「人間」そのものに会えない。出会えない。
 「肉体」「肉眼」の「不在」--その「不在」を破壊し、解体してしまうことが「肉眼」になることなのだ。そのために「詩」を書いている。
 いつでもそうなのだが、田村のことばは、「矛盾」のなかで輝いている。「不可能」のなかで爆発している。

 「物」の最終連。

昨夜は<物>のために詩を読んで聞かせてやったのに
きみの反応といったら遠いところを見るギリシャ奴隷の
あかるい目の色そっくり

 「詩」を「人間」のために読んでやる。「観念」に汚染された「きみ」のために詩を読んで聞かせる。すると、

きみの反応といったら遠いところを見るギリシャ奴隷の
あかるい目の色そっくり

 これは、実は逆説に満ちた「肯定」である。「きみ」の姿を肯定している。ここに田村の「夢」がある。田村は田村のことばを「ギリシャ奴隷」のように受け止めてもらいたいと夢見ている。「ギリシャ奴隷」と定義されているのは、「祝福」「罰」と無縁の、「鞭の痛みを感じられる」「皮膚」をもった「いのち」のことである。
 「きみ」は、「観念」とは無縁のまま、田村のことばと「交感」しているである。「あかるい目」で「交感」している。「肉体」「肉眼」で「交感」している。

 これが実際にあったことか、なかったことかわからないが、いずれにしろ、それが田村の至福の一瞬である。

 人間を「物」の状態に還元したい--人間を「物」として書きたいという欲望は、『奴隷の歓び』にあふれている。「帽子の下に顔がある」の書き出し。

<物>Aが
細くて暗い急階段をのぼって
<物>Rの寝室に入ってきたのは
昨日の夕方だった

 このときの<物>は書かれていなくても、その内容というか、書かれていることがらにかわりはない。「意味」にかわりはない。

Aが
細くて暗い急階段をのぼって
Rの寝室に入ってきたのは
昨日の夕方だった

 と書き直しても、「意味」にかわりはない。
 だからこそ、「わざと」書き加えられている<物>という表現に「詩」がある。田村の思想がある。
 なんとしてでも「人間」を「肉体」「肉眼」の状態に解体したいという欲望が、この<物>に潜んでいる。

おれたちは
あくまで天動説の世界を生きている
太陽は東から昇り西に沈む
肉眼で見えるものだけがおれたちの
論理の根拠だ

 「人間」は「観念」の操作で「真理」をつかみ取る。たとえば「地動説」。たしかに、それは「真理」である。だが、人間にとって必要なのは「真理」だけではないだろう。「真理」を超えた「誤謬」が人間には必要な時もあるだろう。
 「真理を超えた誤謬」というのは「矛盾」である。そんなものは存在しないのだけれど、そういう矛盾でしかいいあらわせないなにかが人間を突き動かす。そしてその「真理を超えた誤謬」をつかみ取るのが「肉眼」「肉体」なのだ。
 「真理を超えた誤謬」にたえとば、「恋」がある。「恋歌」のなかの、「男奴隷の歌」の最後の部分。

それでも
恋がしてみたい
それでも愛をささやきたい
言葉なんか無用のもの
目と目で
生命が誕生するだけ

 「目と目で」は「肉眼」と「肉眼」の出会いである。そこから「生命」が誕生する。「肉体」が交わる時、「肉体」を超越した「交感」がある。それは「生命の誕生」という「真理」に結びつくのだが、その前に、「肉体を超越した交感」という「誤謬」がある。その「誤謬」なしに、いのちは誕生しない。

 詩に悲しみがあるとすれば、それは、ことばでことばを否定しないことにはことばにたどりつけない、ことばの「肉体」、ことばの「肉眼」にたどりつけない、という「矛盾」を生きるしかないということだ。
 「言葉なんか無用」と、詩人はことばでいうしかないのである。


毒杯―田村隆一詩集
田村 隆一
河出書房新社

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