松浦成友「万華鏡」、金井雄二「ひとつのしろいぼーる」(「独合点」98、2009年04月05日発行)
松浦成友「万華鏡」、金井雄二「ひとつのしろいぼーる」はともに、全部ひらがなで書かれた作品である。しかし書き方は違う。
松浦の「万華鏡」。
ここに書かれている色は「赤/青/黄/緑」だろうか。それとも「赤/青/黄緑」だろうか。たぶん、前者なのだろうけれど、私はなぜか「黄緑」と読んでしまう。そう読みたい欲望がある。
その欲望を知っているのだろうか。
という行が、3連目に登場してくる。「万華鏡」のなかの色は、ほんらい一つずつ独立している。けれど、それは互いに作用して「変化」し、「新たな結晶を生んでいく」。その生むというのが「黄/緑」であると同時に「黄緑」でもあるという現象なのだと思う。
ひらがなの、ひらがな特有のくぐりぬけて、ことばが新しくなる。その動きのなかに詩がある。
この変化は、もう一度、とてもおもしろい行を生み出す。
「無花果の実」。そこに漢字は書かれていないが、私は、ひらがなが一瞬漢字に結晶し、それから再びばらばらに砕け散っていくのを見てしまう。「無花果」という文字のなかにある「無」「花」「果」という組み合わせが、万華鏡の三要素のように思えてくるのだ。
松浦は、それを狙って書いているのか、それとも「黄緑」と同じように、私の勝手な誤読なのか。
どちらでもかまわない。
ひらがなはひらがなであると同時に、そのことばを追う読者にとっては「漢字」でもある。読みながら、どうしても、意識が「漢字」を通してことばを追っている。そして、そこに「無花果」がまぎれこむ。ひらがなが、遠いところにある「無花果」をひっぱりあげ、それから、「無」「花」「果」にかえる。
この変化を、松浦は「とかして」(溶かして)と書いている。
この「溶解」もとてもおもしろい。
最後に、もう一度「花」が出てくる。「無花果」が一瞬よみがえる。そのとき、「くるしみ」「いのち」は、聖書のアダムとイブを思い出させる。セックスを知ってしまった「いのち」。「最後の火」なのか「最後の日」なのか。私は、誤読に誤読をかさね「最後の日」と読みたいのだ。時間そのものと読みたいのだ。時間が開いて、そのときに「果」(はて)が「無」のなかで「花」そのものになる。
この錯乱。
きっと、私の錯乱なのだろうけれど、私は、いつでもそんなふうにして、詩人のことばのなかで錯乱することを夢見ている。
*
金井の「ひとつのしろいぼーる」は少年時代の思い出を書いている。
最後に、金井少年は黒い畑で、それをバットで飛ばす。
それは、文字通りに読めば、たしかにどれだけボールを打ち飛ばすことができるか、ということを書いている詩になるのだが、私は、やはりここでも誤読したい。
最初に引用した部分、「当たっても子供が死んでしまわないように、ゴムでつくられた軟球というボールなのです。」その、「死」ということば。それに、とても強くひかれる。ここでは、金井少年は、ひそかに「死」を体験しているのである。
それはことばをかえて、たとえばボールがつるつるになってしまう。なくす。(なくしたら、おしまい。)グローブもバットも大事に大事につかう。失ってしまったら、もう野球ができないからである。--野球ができないという世界、「死後」の世界があることを、少年は知っているのである。
なくしてはいけない、だから、なくしてもみたい。
ボールをどこまでもどこまでも遠くへ飛ばす--そのとき、そのボールが落ちた「場」が「死」の領域である。それは、黒い畑とつながっている。いま、少年がいる日常とつながっている。
そのつながりは、どこでつながっているのか、その境界線がよくわからない。すぐとなりかもしれない。遠くかもしれない。あるいは、いま、ここ、のはるかな地下かもしれない。どこかわからないが、どこへでもつながる不思議な「死」の力--それが、漢字交じりではなく、ひらがなだけで書かれると、その接点(境界線)のなさが、とてもリアルにつたわってくるのである。
私の書いている感想は、誤読を通り越してしまっているかもしれない。しかし、私はいつでも誤読したい。誤読したいから、ことばを読んでいる。誤読を誘ってくれることばが大好きである。
松浦成友「万華鏡」、金井雄二「ひとつのしろいぼーる」はともに、全部ひらがなで書かれた作品である。しかし書き方は違う。
松浦の「万華鏡」。
にじ が はな に なって しずかに まう
あか
あお
き
みどり
いろとりどり の はな が さきみだれる
ここに書かれている色は「赤/青/黄/緑」だろうか。それとも「赤/青/黄緑」だろうか。たぶん、前者なのだろうけれど、私はなぜか「黄緑」と読んでしまう。そう読みたい欲望がある。
その欲望を知っているのだろうか。
かたち は つねに へんかし
あらたな けっしょう を うんでいく
という行が、3連目に登場してくる。「万華鏡」のなかの色は、ほんらい一つずつ独立している。けれど、それは互いに作用して「変化」し、「新たな結晶を生んでいく」。その生むというのが「黄/緑」であると同時に「黄緑」でもあるという現象なのだと思う。
ひらがなの、ひらがな特有のくぐりぬけて、ことばが新しくなる。その動きのなかに詩がある。
この変化は、もう一度、とてもおもしろい行を生み出す。
あさ の ひかり の なか で
いろ と いろ が かさなりながら
このよ の すべて を とかして
えめらるど さふぁいあ そして いちじくのみ
「無花果の実」。そこに漢字は書かれていないが、私は、ひらがなが一瞬漢字に結晶し、それから再びばらばらに砕け散っていくのを見てしまう。「無花果」という文字のなかにある「無」「花」「果」という組み合わせが、万華鏡の三要素のように思えてくるのだ。
松浦は、それを狙って書いているのか、それとも「黄緑」と同じように、私の勝手な誤読なのか。
どちらでもかまわない。
ひらがなはひらがなであると同時に、そのことばを追う読者にとっては「漢字」でもある。読みながら、どうしても、意識が「漢字」を通してことばを追っている。そして、そこに「無花果」がまぎれこむ。ひらがなが、遠いところにある「無花果」をひっぱりあげ、それから、「無」「花」「果」にかえる。
この変化を、松浦は「とかして」(溶かして)と書いている。
この「溶解」もとてもおもしろい。
くるしみ を ろか して
いのち の さいご の ひ が
かがみ の なか で うつくしく はな ひらく
最後に、もう一度「花」が出てくる。「無花果」が一瞬よみがえる。そのとき、「くるしみ」「いのち」は、聖書のアダムとイブを思い出させる。セックスを知ってしまった「いのち」。「最後の火」なのか「最後の日」なのか。私は、誤読に誤読をかさね「最後の日」と読みたいのだ。時間そのものと読みたいのだ。時間が開いて、そのときに「果」(はて)が「無」のなかで「花」そのものになる。
この錯乱。
きっと、私の錯乱なのだろうけれど、私は、いつでもそんなふうにして、詩人のことばのなかで錯乱することを夢見ている。
*
金井の「ひとつのしろいぼーる」は少年時代の思い出を書いている。
ひとつのしろいぼーるをどこまでとばせることができるのか、ぼくはためしてみたかったのです。ぼーるはおとながつかうこうきぼーるではなくて、あたってもこどもがしんでしまわないように、ごむでつくられたなんきゅうというぼーるなのです。
最後に、金井少年は黒い畑で、それをバットで飛ばす。
たいせつな、ひとつのぼーるをどこまでとばせることができるのか、ぼくはためしてみたかったのです。
それは、文字通りに読めば、たしかにどれだけボールを打ち飛ばすことができるか、ということを書いている詩になるのだが、私は、やはりここでも誤読したい。
最初に引用した部分、「当たっても子供が死んでしまわないように、ゴムでつくられた軟球というボールなのです。」その、「死」ということば。それに、とても強くひかれる。ここでは、金井少年は、ひそかに「死」を体験しているのである。
それはことばをかえて、たとえばボールがつるつるになってしまう。なくす。(なくしたら、おしまい。)グローブもバットも大事に大事につかう。失ってしまったら、もう野球ができないからである。--野球ができないという世界、「死後」の世界があることを、少年は知っているのである。
なくしてはいけない、だから、なくしてもみたい。
ボールをどこまでもどこまでも遠くへ飛ばす--そのとき、そのボールが落ちた「場」が「死」の領域である。それは、黒い畑とつながっている。いま、少年がいる日常とつながっている。
そのつながりは、どこでつながっているのか、その境界線がよくわからない。すぐとなりかもしれない。遠くかもしれない。あるいは、いま、ここ、のはるかな地下かもしれない。どこかわからないが、どこへでもつながる不思議な「死」の力--それが、漢字交じりではなく、ひらがなだけで書かれると、その接点(境界線)のなさが、とてもリアルにつたわってくるのである。
私の書いている感想は、誤読を通り越してしまっているかもしれない。しかし、私はいつでも誤読したい。誤読したいから、ことばを読んでいる。誤読を誘ってくれることばが大好きである。
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