詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

松浦成友「万華鏡」、金井雄二「ひとつのしろいぼーる」

2009-04-11 07:45:16 | 詩(雑誌・同人誌)
松浦成友「万華鏡」、金井雄二「ひとつのしろいぼーる」(「独合点」98、2009年04月05日発行)

 松浦成友「万華鏡」、金井雄二「ひとつのしろいぼーる」はともに、全部ひらがなで書かれた作品である。しかし書き方は違う。
 松浦の「万華鏡」。

にじ が はな に なって しずかに まう
 あか
   あお
     き
      みどり
         いろとりどり の はな が さきみだれる

 ここに書かれている色は「赤/青/黄/緑」だろうか。それとも「赤/青/黄緑」だろうか。たぶん、前者なのだろうけれど、私はなぜか「黄緑」と読んでしまう。そう読みたい欲望がある。
 その欲望を知っているのだろうか。

かたち は つねに へんかし
あらたな けっしょう を うんでいく

という行が、3連目に登場してくる。「万華鏡」のなかの色は、ほんらい一つずつ独立している。けれど、それは互いに作用して「変化」し、「新たな結晶を生んでいく」。その生むというのが「黄/緑」であると同時に「黄緑」でもあるという現象なのだと思う。
 ひらがなの、ひらがな特有のくぐりぬけて、ことばが新しくなる。その動きのなかに詩がある。
 この変化は、もう一度、とてもおもしろい行を生み出す。

あさ の ひかり の なか で
   いろ と いろ が かさなりながら
このよ の すべて を とかして
   えめらるど さふぁいあ そして いちじくのみ

 「無花果の実」。そこに漢字は書かれていないが、私は、ひらがなが一瞬漢字に結晶し、それから再びばらばらに砕け散っていくのを見てしまう。「無花果」という文字のなかにある「無」「花」「果」という組み合わせが、万華鏡の三要素のように思えてくるのだ。
 松浦は、それを狙って書いているのか、それとも「黄緑」と同じように、私の勝手な誤読なのか。
 どちらでもかまわない。
 ひらがなはひらがなであると同時に、そのことばを追う読者にとっては「漢字」でもある。読みながら、どうしても、意識が「漢字」を通してことばを追っている。そして、そこに「無花果」がまぎれこむ。ひらがなが、遠いところにある「無花果」をひっぱりあげ、それから、「無」「花」「果」にかえる。
 この変化を、松浦は「とかして」(溶かして)と書いている。
 この「溶解」もとてもおもしろい。

くるしみ を ろか して
いのち の さいご の ひ が
かがみ の なか で うつくしく はな ひらく

 最後に、もう一度「花」が出てくる。「無花果」が一瞬よみがえる。そのとき、「くるしみ」「いのち」は、聖書のアダムとイブを思い出させる。セックスを知ってしまった「いのち」。「最後の火」なのか「最後の日」なのか。私は、誤読に誤読をかさね「最後の日」と読みたいのだ。時間そのものと読みたいのだ。時間が開いて、そのときに「果」(はて)が「無」のなかで「花」そのものになる。
 この錯乱。
 きっと、私の錯乱なのだろうけれど、私は、いつでもそんなふうにして、詩人のことばのなかで錯乱することを夢見ている。



 金井の「ひとつのしろいぼーる」は少年時代の思い出を書いている。

ひとつのしろいぼーるをどこまでとばせることができるのか、ぼくはためしてみたかったのです。ぼーるはおとながつかうこうきぼーるではなくて、あたってもこどもがしんでしまわないように、ごむでつくられたなんきゅうというぼーるなのです。

 最後に、金井少年は黒い畑で、それをバットで飛ばす。

たいせつな、ひとつのぼーるをどこまでとばせることができるのか、ぼくはためしてみたかったのです。

 それは、文字通りに読めば、たしかにどれだけボールを打ち飛ばすことができるか、ということを書いている詩になるのだが、私は、やはりここでも誤読したい。
 最初に引用した部分、「当たっても子供が死んでしまわないように、ゴムでつくられた軟球というボールなのです。」その、「死」ということば。それに、とても強くひかれる。ここでは、金井少年は、ひそかに「死」を体験しているのである。
 それはことばをかえて、たとえばボールがつるつるになってしまう。なくす。(なくしたら、おしまい。)グローブもバットも大事に大事につかう。失ってしまったら、もう野球ができないからである。--野球ができないという世界、「死後」の世界があることを、少年は知っているのである。
 なくしてはいけない、だから、なくしてもみたい。
 ボールをどこまでもどこまでも遠くへ飛ばす--そのとき、そのボールが落ちた「場」が「死」の領域である。それは、黒い畑とつながっている。いま、少年がいる日常とつながっている。
 そのつながりは、どこでつながっているのか、その境界線がよくわからない。すぐとなりかもしれない。遠くかもしれない。あるいは、いま、ここ、のはるかな地下かもしれない。どこかわからないが、どこへでもつながる不思議な「死」の力--それが、漢字交じりではなく、ひらがなだけで書かれると、その接点(境界線)のなさが、とてもリアルにつたわってくるのである。

 私の書いている感想は、誤読を通り越してしまっているかもしれない。しかし、私はいつでも誤読したい。誤読したいから、ことばを読んでいる。誤読を誘ってくれることばが大好きである。




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『田村隆一全詩集』を読む(51)

2009-04-11 00:02:39 | 田村隆一
 『奴隷の歓び』(1984年)に「物」という作品がある。「奴隷」を「物」と定義している。「奴隷」とは何か。「物」とは何か。田村の「定義」は何を言おうとしているのか。

神は
奴隷を人の子として創造しなかったから
祝福も罪もあたえはしない
都市(ポリス)は
奴隷に市民権をあたえるなど夢にも考えつかないから
物量として扱う

 「祝福も罰もあたえはしない」。「祝福」「罪」と無関係なもの、断絶した存在が「奴隷」であり、「物」ということになる。
 この「祝福」と「罪」は別なことばでも書かれている。

紀元一世紀から奴隷社会の崩壊がはじまる
奴隷から濃度へ
物から人へ
物だけが所有していた純粋な歓びも涙も
政治的社会的存在の複合観念に変質する
物が歓びの声を出すのではない
観念が音を出し
水のようなものを目から流すのだ

 「祝福」「罪」と無関係なもの、「純粋な歓び」「涙」。この「純粋な」ということばは、それが「神」からあたえられたものより上位である、絶対的であるということをあらわす。その「純粋」な歓びと涙が「人」になったとたんに消えてしまう。
 「人」と「物」を区別するのは「観念」である。「物」は「観念」をもたないのに対し、「人」は「観念」をもつ。そして「観念」をもったときから「純粋」ではなくなる。「観念」が歓び、「観念」が涙を流す、つまり悲しむ。
 田村は、「観念」に汚染されない(?)状態を「理想」としている。
 「奴隷」「物」は、「観念」に汚染されていない純粋な何かの象徴である。「観念」に汚染されない状態とは「肉体」(肉眼)のことである。
 弁証法は矛盾→止揚→発展という運動の軌跡を描くが、田村は、矛盾→解体→未分化という運動を描こうとしている。未分化の状態に人間を立ち返らせるために、ことばを動かしている。未分化の状態のひとつが「肉眼」であった。
 「奴隷」「物」の礼賛は「肉体・肉眼」の礼賛と同じ意味になる。

 「物」であること、「肉眼」であることとは、どういうことか。それは、いったいどんな関係をつくりあげることができるというのか。田村は何を夢見ているか。

ヘレニズム時代のギリシャ奴隷のテラコッタ像の写真を見た
(略)
この立像の側面からは
<物>の両眼は見えないが
遠くを見つめている感じだけは分る
いったい何を見つめているのか
何が見えたのか
無名の<物><物>との交感は
可能なのか

 「交感」。しかも「物と物との交感」。
 田村は、観念によって人間と人間が、その間に何かを作り上げるということをめざしていない。「交感」すればいいのである。「交感」が夢なのである。「交感」こそが「祝福」と「罪」の入り交じったものなのだ。歓びの瞬間、歓びの時間なのだ。(ここから、セックスの意味も出てくるが、ここでは省略する。)
 現代人は観念によって「人」と「人」が交流するのに必要なものを生み出し、その新しい物によって人間関係を強固にする。しかし、田村は、あるいは詩はといった方がいいのか、詩は、交流ではない。交感なのだ。田村は、交感へ向けてことばを動かす。そのためにあらゆる既存の「交流」を破壊しようとする。
 田村が常に矛盾を利用し、その矛盾そのもの、矛盾をつくりあけている存在と、その存在形式を解体しようとするのは、交流ではなく、交感を理想としているからだ。交感は、未分化の領域でおきる。交感とは、互いの越境、侵入のことである。それが可能なのは、未分化の領域においてである。

 だが、これは現代においては非常に難しい仕事だ。すでに「物」が大量にあふさ、「物」を媒介にして「交流」のしっかり築き上げられているからである。「物」は「奴隷時代」とは変質してしまっている。

<物>に会いたくなったら
渋谷のパルコ通りへ行くことだ
銀山も葡萄畑もないかわりに
抽象的な情報市場だけはあふれていて
<物>の音と光りと色彩が沸きたっている

昨夜は<物>のために詩を読んで聞かせてやったのに
きみの反応といったら遠いところを見るギリシャ奴隷の
あかるい目の色そっくり

 この「物」の変質があるからこそ、田村は「奴隷」を引き合いに出してきたのである。「奴隷」という現代では否定されているものを通ることで、矛盾→解体→未分化という運動を描こうとしているのである。「奴隷礼賛」はあくまで、現代の「変質した物」を解体するための起爆剤である。

奴隷の歓び―田村隆一詩集
田村 隆一
河出書房新社

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