鶴見忠良『つぶやくプリズム』(沖積舎、2009年03月10日発行)
鶴見忠良の「つる」は正確には、「雨」冠、その下の左に「金」、右に「鳥」という漢字。表記できないので「鶴」で代用している。
いまは桜の季節。その「桜」を描いた詩。全行。
鶴見は失明している。花見を「つまらん」と拒絶していたのは、そのことと関係しているかもしれない。しかし、花は見るだけのものではない--と気がついたと、鶴見は書いている。
2連目が非常に美しい。
私は桜の花をなめてみたことがない。食べてみたこともない。だから、味を知らない。色とかすかな匂いしか知らない。だから、どぎまぎしてしまう。花に味がある、ということを知らされて、どぎまぎしてしまう。
しかも、その味は、光の当たり具合によってちがうという。たしかに、色も光の当たり具合、日向に咲く桜と日陰に咲く花ではちがうから、味もちがうだろう。それは、鶴見に言われて初めて知ることである。知る、と書いたが、実際は、私はまだ、その味を知らない。想像しているだけである。
そして、その想像のなかで、私はさらに驚く。
「苦い悔」とは、花見を拒絶しつづけ、その結果として、この詩を書くまで桜の「味」を知らなかった、知る機会を失ってきたということに対する「悔い」のことである。そして、その「悔い」があるからこそ、「黄金の雫」に鶴見の舌は触れる。舌だけではない、鶴見の内臓全部、からだ全部が、その内部から黄金の雫にあらわれて、美しくよみがえる。いや、新しく誕生する。
そのよろこび。
それが3連目だ。
「嬰児」ということばが出てくるが、これは、誕生したばかりの鶴見自身の姿である。鶴見は失明しているが、誕生したばかりの鶴見は、まぶたをとじて、黄金の雫が、まぶたの奥を流れていくのを感じる。せせらいでいるのを感じている。
それは、雪洞のようにあたたかな光を抱いている。無数の、ゆれる光。
鶴見は、それを「静寂」のなかで見ている。「静寂」のなか、というのは、全身が誕生したばかりの「目」になって、その光を見ているからである。聴覚は、そのとき、鶴見の肉体から身を引いている。
私は何度も何度もこの日記で、感覚の融合の美しさ、不思議さに肉体を感じると書いてきた。そういうものが感じられないと、そのことばが信じられないと書いてきた。鶴見のことばは、そういう働きとはまったく逆の肉体があることを教えてくれる。
あらゆる感覚が、たったひとつの感覚に統合されて、純粋に、その感覚自体になる。聴覚も、触覚も、味覚も消える。いま、鶴見は、純粋視覚になって花を見ている。あたらしく誕生した鶴見という嬰児が、まだだれもみたことのない花を見る視力そのものになっている。もし、そのとき音楽が聞こえたとしても、そしてそのとき鶴見が何かに触り、その感触をたとえばやわらかいとか、あたたかいとか感じたとしても、それは聴覚や触覚の仕事ではなく、彼の視覚の仕事だ。鶴見は、目で、音楽を見ている。小鳥の囀りを聞いている。目で、桜の花に触っている。目ですべてをとらえているので、そこにどんな音が存在しても「静寂」がみなぎっているとしか、言いようがない。書きようがない。
そういう「肉体」の一瞬があるのだ。
桜を見に行こう。いや、桜をなめに行こう。食べに行こう。今年の桜は開花がはやく、もうだいぶ散っているけれど、まだ間に合う。鶴見が味わった「黄金の雫」は私にはどんなふうに感じられるだろうか。
鶴見忠良の「つる」は正確には、「雨」冠、その下の左に「金」、右に「鳥」という漢字。表記できないので「鶴」で代用している。
いまは桜の季節。その「桜」を描いた詩。全行。
わたしはなぜこれまで桜の匂いに
気がつかなかったのだろう
花見時がやってくるたびに
「つまらん」と歎いては
そっぽを向いたもんだ
知命の年をはるかに越えた今
はっきりと桜の花を捉えることができる
さだめなく風のうねりに揺られゆれて
なんと清らかなパルファン
木の間を渡る小鳥たちの
鮮やかな囀り
青空をいっそう
底深いものにしている
なめる
食んでみる
光の当り具合によって
少しずつ 味がちがう
苦い悔の底に
黄金の雫が
こぼれている
花びらのもとに静寂が漲る
咲き乱れる嬰児の
まぶた
それは
せせらぐ
無数の雪洞(ぼんぼり)である
鶴見は失明している。花見を「つまらん」と拒絶していたのは、そのことと関係しているかもしれない。しかし、花は見るだけのものではない--と気がついたと、鶴見は書いている。
2連目が非常に美しい。
私は桜の花をなめてみたことがない。食べてみたこともない。だから、味を知らない。色とかすかな匂いしか知らない。だから、どぎまぎしてしまう。花に味がある、ということを知らされて、どぎまぎしてしまう。
しかも、その味は、光の当たり具合によってちがうという。たしかに、色も光の当たり具合、日向に咲く桜と日陰に咲く花ではちがうから、味もちがうだろう。それは、鶴見に言われて初めて知ることである。知る、と書いたが、実際は、私はまだ、その味を知らない。想像しているだけである。
そして、その想像のなかで、私はさらに驚く。
苦い悔の底に
黄金の雫が
こぼれている
「苦い悔」とは、花見を拒絶しつづけ、その結果として、この詩を書くまで桜の「味」を知らなかった、知る機会を失ってきたということに対する「悔い」のことである。そして、その「悔い」があるからこそ、「黄金の雫」に鶴見の舌は触れる。舌だけではない、鶴見の内臓全部、からだ全部が、その内部から黄金の雫にあらわれて、美しくよみがえる。いや、新しく誕生する。
そのよろこび。
それが3連目だ。
「嬰児」ということばが出てくるが、これは、誕生したばかりの鶴見自身の姿である。鶴見は失明しているが、誕生したばかりの鶴見は、まぶたをとじて、黄金の雫が、まぶたの奥を流れていくのを感じる。せせらいでいるのを感じている。
それは、雪洞のようにあたたかな光を抱いている。無数の、ゆれる光。
鶴見は、それを「静寂」のなかで見ている。「静寂」のなか、というのは、全身が誕生したばかりの「目」になって、その光を見ているからである。聴覚は、そのとき、鶴見の肉体から身を引いている。
私は何度も何度もこの日記で、感覚の融合の美しさ、不思議さに肉体を感じると書いてきた。そういうものが感じられないと、そのことばが信じられないと書いてきた。鶴見のことばは、そういう働きとはまったく逆の肉体があることを教えてくれる。
あらゆる感覚が、たったひとつの感覚に統合されて、純粋に、その感覚自体になる。聴覚も、触覚も、味覚も消える。いま、鶴見は、純粋視覚になって花を見ている。あたらしく誕生した鶴見という嬰児が、まだだれもみたことのない花を見る視力そのものになっている。もし、そのとき音楽が聞こえたとしても、そしてそのとき鶴見が何かに触り、その感触をたとえばやわらかいとか、あたたかいとか感じたとしても、それは聴覚や触覚の仕事ではなく、彼の視覚の仕事だ。鶴見は、目で、音楽を見ている。小鳥の囀りを聞いている。目で、桜の花に触っている。目ですべてをとらえているので、そこにどんな音が存在しても「静寂」がみなぎっているとしか、言いようがない。書きようがない。
そういう「肉体」の一瞬があるのだ。
桜を見に行こう。いや、桜をなめに行こう。食べに行こう。今年の桜は開花がはやく、もうだいぶ散っているけれど、まだ間に合う。鶴見が味わった「黄金の雫」は私にはどんなふうに感じられるだろうか。