詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

鶴見忠良『つぶやくプリズム』

2009-04-03 10:32:03 | 詩集
鶴見忠良『つぶやくプリズム』(沖積舎、2009年03月10日発行)

 鶴見忠良の「つる」は正確には、「雨」冠、その下の左に「金」、右に「鳥」という漢字。表記できないので「鶴」で代用している。
 いまは桜の季節。その「桜」を描いた詩。全行。

わたしはなぜこれまで桜の匂いに
気がつかなかったのだろう
花見時がやってくるたびに
「つまらん」と歎いては
そっぽを向いたもんだ
知命の年をはるかに越えた今
はっきりと桜の花を捉えることができる
さだめなく風のうねりに揺られゆれて
なんと清らかなパルファン
木の間を渡る小鳥たちの
鮮やかな囀り
青空をいっそう
底深いものにしている

なめる
食んでみる
光の当り具合によって
少しずつ 味がちがう
苦い悔の底に
黄金の雫が
こぼれている

花びらのもとに静寂が漲る
咲き乱れる嬰児の
まぶた
それは
せせらぐ
無数の雪洞(ぼんぼり)である

 鶴見は失明している。花見を「つまらん」と拒絶していたのは、そのことと関係しているかもしれない。しかし、花は見るだけのものではない--と気がついたと、鶴見は書いている。
 2連目が非常に美しい。
 私は桜の花をなめてみたことがない。食べてみたこともない。だから、味を知らない。色とかすかな匂いしか知らない。だから、どぎまぎしてしまう。花に味がある、ということを知らされて、どぎまぎしてしまう。
 しかも、その味は、光の当たり具合によってちがうという。たしかに、色も光の当たり具合、日向に咲く桜と日陰に咲く花ではちがうから、味もちがうだろう。それは、鶴見に言われて初めて知ることである。知る、と書いたが、実際は、私はまだ、その味を知らない。想像しているだけである。
 そして、その想像のなかで、私はさらに驚く。

苦い悔の底に
黄金の雫が
こぼれている

 「苦い悔」とは、花見を拒絶しつづけ、その結果として、この詩を書くまで桜の「味」を知らなかった、知る機会を失ってきたということに対する「悔い」のことである。そして、その「悔い」があるからこそ、「黄金の雫」に鶴見の舌は触れる。舌だけではない、鶴見の内臓全部、からだ全部が、その内部から黄金の雫にあらわれて、美しくよみがえる。いや、新しく誕生する。
 そのよろこび。
 それが3連目だ。
 「嬰児」ということばが出てくるが、これは、誕生したばかりの鶴見自身の姿である。鶴見は失明しているが、誕生したばかりの鶴見は、まぶたをとじて、黄金の雫が、まぶたの奥を流れていくのを感じる。せせらいでいるのを感じている。
 それは、雪洞のようにあたたかな光を抱いている。無数の、ゆれる光。
 鶴見は、それを「静寂」のなかで見ている。「静寂」のなか、というのは、全身が誕生したばかりの「目」になって、その光を見ているからである。聴覚は、そのとき、鶴見の肉体から身を引いている。

 私は何度も何度もこの日記で、感覚の融合の美しさ、不思議さに肉体を感じると書いてきた。そういうものが感じられないと、そのことばが信じられないと書いてきた。鶴見のことばは、そういう働きとはまったく逆の肉体があることを教えてくれる。

 あらゆる感覚が、たったひとつの感覚に統合されて、純粋に、その感覚自体になる。聴覚も、触覚も、味覚も消える。いま、鶴見は、純粋視覚になって花を見ている。あたらしく誕生した鶴見という嬰児が、まだだれもみたことのない花を見る視力そのものになっている。もし、そのとき音楽が聞こえたとしても、そしてそのとき鶴見が何かに触り、その感触をたとえばやわらかいとか、あたたかいとか感じたとしても、それは聴覚や触覚の仕事ではなく、彼の視覚の仕事だ。鶴見は、目で、音楽を見ている。小鳥の囀りを聞いている。目で、桜の花に触っている。目ですべてをとらえているので、そこにどんな音が存在しても「静寂」がみなぎっているとしか、言いようがない。書きようがない。
 そういう「肉体」の一瞬があるのだ。

 桜を見に行こう。いや、桜をなめに行こう。食べに行こう。今年の桜は開花がはやく、もうだいぶ散っているけれど、まだ間に合う。鶴見が味わった「黄金の雫」は私にはどんなふうに感じられるだろうか。


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『田村隆一全詩集』を読む(43)

2009-04-03 00:31:19 | 田村隆一

 『5分前』(1982年)の巻頭の「暁の死線」。書き出しの2連がとても好きだ。

どんな夜明けの五分前
どんな日暮れの五分前

午睡からさめて
時計をみたら いつまでも五分前にはならないのだ

 なぜ「五分前」? それがわからない。だから、この詩が好きである。あるひとつの何か、その手前、そういう感覚。
 たどりつく前のある一点(ある時間)。そこにたどりつけば、その先が、たどりつくべきものが見えるのか。見えるかもしれない。けれども、そのある一点(ある時間)にもたどりつかない。
 ここは、どこ? いつ? それがわからないときでも、その先の先に、たとえば「夜明け」あるいは「日暮れ」というものがあるとわかる感じ。
 この、おしひろげられた「間」の不思議さ。ここには、ことばにならない何かがある。
 この詩は「顔のない女」→「幻の女」→「暁の死線」と、連想が動いていく。そして、田村は、ウィアム・アイリッシュのDead lone の訳に悩んだ、と告白している。そのあと、

それでは そのままgoといういことになって
Dead lone は「死線」になった
死線の線には
泉があるから

夜明けなのか
日暮れなのか

ひっそりと
告げてくれると ぼくは
思う

 おしひろげられた「間」--そこに、「泉」が浮かび上がる。「死線の線には/泉があるから」というのは、漢字「線」を「糸」と「泉」にわけて、そういっているだけなのだが、その「糸」と「泉」にわけるときの、そのとき生じる「間」が、「五分前にならないのだ」の感覚に、不思議と重なって感じられる。
 そこから浮かんでくる「泉」、その「間」に見えてくる「泉」。それをなんと読んでいいのかわからない。私が、いま書いているのは、感想にもなっていいない、たんなることばなのかもしれない。私は、私の感じていることをうまくいえない。
 だが、なんといえばいいのだろう。
 私には「泉」がみえる。私の見ている「泉」は遠くにあって、うっすらとその水面が光っている。その輝きはたしかに、「いま」が「夜明け」なのか「日暮れ」なのか、告げてくれるような感じがする。--というか、そういう「泉」を、ふっと見てしまうとき、それはたしかに「死」とつながっているような気がするのだ。
 不思議な予兆。予感。

 いままで、私が書いてきたことばでは語れない何かが、この詩にはあって、それを私は美しいと感じる。


泉を求めて―田村隆一対話集 (1974年)
田村 隆一
毎日新聞社

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