詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

高良勉『ガマ』

2009-04-16 11:36:26 | 詩集
高良勉『ガマ』(思潮社、2009年02月26日発行)

 巻頭の「ガマ(洞窟)」が高良勉の思想を力強くあらわしている。

隆起珊瑚礁から生まれた島々を
数万年もの間 雨水や炭酸ガスが溶かし
地底の奥深くまで 鍾乳洞が拡がっている
恥毛のような草むらの中に
紡錘形の口を開き
島の腹部は ガマ(洞窟)だらけ
ああ 聖なるかな 島の子宮よ

 沖縄戦のとき、島民が避難し、そして亡くなった洞窟、ガマと呼ばれる洞窟。そのガマを高良は「子宮」と呼んでいる。「子宮」であるかぎり、その入り口に「恥毛」があるのは当然のことである。当然のことであるけれど、「子宮」呼んだ「ガマ」の入り口の「草むら」、その茂みを「恥毛」と呼ぶことによって、その「子宮」は「観念」ではなく「肉体」になった。
 そして「子宮」が「肉体」であるということは、このとき高良は「男」であることを超越して、「女」になったということである。

大空洞の彼方 に拡がる闇
ホッ ホーイッ と呼びかけても
こだまは返ってこない
その闇の中 数えきれぬ人間たちが
うごめいている わめいている
艦砲射撃で左肩をやられ
目と耳を失った 父がうなっている
看病をしているのは戦友か 母か

もう ガマの中の陸軍病院は撤退し
地上からは 米軍の手榴弾や
ガソリン爆弾が 投げ込まれてくる
ガマの奥深く 逃げていく
「従軍慰安婦」たち 戦争は何年続いたか

地中の暗闇から 真夏の青空へ
やがて父や母たちが 捕虜となって
はい上がってくる ノミやシラミ
ウジ虫に喰われた 身体を引きずって

その母の子宮の中 小さな
私の命が宿っている
ガマから生まれた 戦後の命が

 最後の連は、高良がそのとき母の胎内にいたということを語るだけではない。
 高良のすべて、高良だけではなく、沖縄の「戦後の命」がすべてが「ガマ」によって育てられているということを語っている。
 悲惨な犠牲があって、その犠牲をきちんと見つめ、その犠牲に答えるために何をすればよいか--そういうことのすべての「原点」が「ガマ」にある。
 高良の「いのち」の原点が、「ガマ」のなかの母、その母のなかの「子宮」--そこに生きていると書くとき、高良のことばそのものが「子宮」になっている。高良のことばが、沖縄の思想の「子宮」になっている。「子宮」になることで、沖縄の思想を宿している。
 ことばが「子宮」となっているかぎりは、高良もまた「女の肉体」をもっているということである。
 「胎児」として「子宮」を見つめているだけではない。また1連目に「恥毛」ということばがあったが、男として、つまり、自分のセックスの対象として「子宮」を見ているわけではない。自分の遺伝子を後世に遺すための「場」として「子宮」を見ているわけではない。「子宮」になるために、ことばを鍛えているのである。より頑強な「女の肉体」そのものになるために、男を超越しようとしている。
 男であることを超越して、「女の肉体」になる--ということは、自分自身を超越して「沖縄」になるということでもある。沖縄戦の苦悩が凝縮している「ガマ」を常に自分の肉体の中に取り込むことは、必然的に「沖縄」そのものとして生まれ変わる、「沖縄の人間」であるけれど、あらためて「沖縄の人間」として生まれ変わることでもある。「戦後」ということばを高良はつかっているが、その「戦後」というのは「戦争中」と深くつながっていて、切り離すことはできない。したがって、「沖縄の人間」として生まれ変わるということは、「戦後」の人間として生まれ変わるということではなく、「戦中」のにんげんとして生まれ変わるということである。男を超越して「女」になるように、「いま」を(あるいは戦後を)超越して、「戦中」に生まれ変わる。「戦中」の血を引き継ぐために生まれ変わるということである。

目と耳を失った 父がうなっている

 この、「現在形」。

やがて父や母たちが 捕虜となって
はい上がってくる

 この、「現在形」。
 「過去」の時間を「過去」ではなく、「いま」として引き継ぐ。「過去」を「過去」にしてしまうのではなく、「いま」として生きるために生まれ変わる。そのために、ことばを書く。ことばを書くことで、「いま」を超越する。

 そして沖縄にはまた、高良同じように、自分自身という存在を超越して、「沖縄」なろうとした先人・仲間たちがいる。高良は、そういう先人たちに敬意をこめて追悼の詩を書いている。幸喜孤洋を追悼した「巻き貝」。

巻き貝の好きな
詩人がいた
その作品からは
アンモナイトが連想された
古生代の海底をはいずり廻り
浮上してくる薄紅色のアンモナイトよ

 「古生代の海底をはいずり廻り/浮上してくる」ということばは、「ガマ」の奥深くを生き延び、そこからふたたび地上に出てくる「沖縄の人間」と重なる。「アンモナイト」もまた「ガマ」なのである。「生きかた」、つまり思想が「ガマ」なのである。

 ひとは誰でも、そのひと自身である。それはとても大事なことである。けれども、同時に、ひとは自分自身であることをやめる、自分自身を超越するとき、ほんとうにそのひとになる。つまり「固有名詞」で呼ばれる人間になる。
 高良は「ガマ」となることで高良そのものになる。

ガマ
高良 勉
思潮社

このアイテムの詳細を見る


絶対零度の近く
高良 勉
思潮社

このアイテムの詳細を見る
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『田村隆一全詩集』を読む(56)

2009-04-16 00:47:43 | 田村隆一

 「川」という作品には西脇順三郎のような、誰もが知っているひとは出てこない。そのかわりに複数の人が出てくる。
 「コンピューター屋さん」「煙草屋のおばさん」「養老院裏の老絵描き」「マムシ沢の作曲家」「詩人」「大学教師」。田村と親しい読者なら、それぞれの人物は誰それのことである、とわかるかもしれない。私は、それが誰を指しているのかわからないので、そのことばのままに受け止めておく。
 その複数の人間が登場する作品の 3連目。

どんな人の心の中にも川は流れている
その川上には
きっと養豚場があって
何匹かの豚が脱走するかもしれない
脱走に成功した豚もいるかもしれない
失敗して屠場送りになった美しい豚もいるかもしれない
人は
心の中を流れている川に
どんな名前をつけるのだろう
夜半に目ざめてその川音を耳にしたとき
さかさ川
極楽寺川
二階堂川

自分の耳にささやきかけるのか

 この「川」が私には「時間」のように思える。ひとは、それぞれの「時間」を生きている。「心の中を流れる川」は、私には「時間」のように思える。
 それは田村と出会って、それぞれに「川音」をたてる。つまり、田村と出会うことで、「いま」「ここ」ではない「源」(川上)で起きたことを「いま」「ここ」に呼び出し、田村に語る。語るのは、いつでも「過去」のことである。体験したこと、つまりそれぞれのひとの「肉体」(肉眼・肉耳)が体験したことである。エピソードということばが体験の代わりにつかわれているが、それはそれぞれの「肉体」が「肉声」で田村に語ってくれたことである。
 このことばは、西脇の「カマキューラ」とは違うけれど、やはり独特の「音楽」である。つまり、それぞれの人間の「肉体」によって、変化したもの、その「肉体」が消化することによって、いくぶんか脚色されているかもしれない。
 そういう乱れ(差異--と、いえば現代フランス思想的になるかも……)を、田村は「名前」と呼んでいる。 

心の中を流れている川に
どんな名前をつけるのだろう

 「鎌倉」ではなく「カマキューラ」と名付けたように(呼んだように--呼ぶことは、他人から見れば、それに対する新しい「名付け」でもある)、不思議な音そのものの変化ではないけれど、それはやはり「音楽」なのだ。
 「名付け」を動かしているのは、一方に「意味」があるかもしれないが、もう一方には「音」そのものの美しさ、「音楽」がある。嫌いな音でひとはものに「名前」をつけたりはしいない。
 「川」の流れに「音」がある、「音楽」があるように、「名付け」の「音」にも「音楽」がある。そしてそれは「川」の流れのように、やはり「時間」をもっている。
 「自分の耳にささやきかける」という一行があるが、「音」は「肉耳」に働きかけるのである。「音」のなかで、ひとは、「いま」とは違う何かに触れる。そこにきっと「時間」がある。

 私の書いていることは飛躍が多すぎるかもしれない。論理的ではないかもしれない。飛躍したついでに、もう一度、飛躍してみよう。論理を吹っ飛ばして、ただ感じていることを書いてみよう。

 最終連。

ある大学教師がその最終講義でしずかに語ったそうだ
「私の夢は
煙草屋のおやじになって
ウツラウツラしていることだったのに
自動販売機ができてしまっては
もうどうしようもありません」

 私には、ここにも「時間」が書かれているように感じる。店頭でたばこを直接手渡しで売るという時代から自動販売機で売るという「時代」の流れ。そういう「一般的な時間(?)」とは別の、もうひとつの「時間」の「夢」がここには描かれている。

ウツラウツラしていること

 意識がぼんやりしている。ほとんど無意識。放心。そのとき「時間」は、何時何分という「時間」と消えてしまって、ただ「とき」そのものになっている。どこへでもつながる。どこへもつながらない。そういう宙ぶらりんの、ゆらぎ。
 --たぶん、というのは、またまた、大きな論理の飛躍になってしまうのだが、その「無・時間」の大きなウツラウツラとしたゆらぎは、この詩に登場する無名のひとたちとの接触の瞬間に似ている。
 「コンピューター屋さん」「煙草屋のおばさん」らとふれあう時、田村は、詩人や文化人と会う時の「時間」(文化的教養、その蓄積がつくりだす広がり)の構造、枠というものを、そのまま持ち込むことはできない。そういうものを捨て去って、無防備になって、彼らのことばを聞く。そして、そのことばの流れてきた「時間」を思いやる。彼らには、田村が触れ合っている文化人とは違う「時間」の流れがあって、その流れと田村は無防備で出会う。
 そうすると、そこに「音楽」がはじまる。
 「音」はそのとき「意味」にもなる。
 ジャズのセッションを私は思い浮かべるのである。「コンピューター屋さん」「煙草屋のおばさん」らはひとりひとり違った楽器をもっている。それは「鎌倉」とピアノが音を出すとすれば、それぞれの楽器はたとえば「キャマクーラ」という音を出すのに似ている。同じ主題を語っても「音」そのものが違い、そこから「音」を重ね合わせる楽しみが広がり、自然な運動になる。主旋律が変奏され、変奏されることで、いままで気がつかなかった旋律の奥にあるものが突然輝きだし、疾走する。そういう疾走を「意味」と呼ぶなら、「音」は出会うことで「意味」へと燃焼し、消えていく
 その運動の間、「時間」が、「無・時間」がそこに存在する。

 「川」を読みながら私が考えたことは、そういうことである。




誤解―田村隆一詩集 (1978年)
田村 隆一
集英社

このアイテムの詳細を見る
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする