詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

時里二郎「甕--「島嶼論」より」

2009-04-30 13:41:40 | 詩(雑誌・同人誌)
時里二郎「甕--「島嶼論」より」(「イリプスⅡnd」3、2009年04月20日発行)

 時里二郎「甕--「島嶼論」より」には時里の嗜好(?)がくっきりと出ている。時里語とでもいうべきことばが次々にからみあい、どれがキーワードがわからなくなるくらいである。

島にはさまざまな井戸がある
穴井とよばれる井戸がなかでも古い様式のものである
それゆえに女は水よりほかのものを汲むことになる

水汲みから帰る道は
わざとじぐざぐにくねる順路をとる
まるで言えのぐらい隅で待つ大甕を焦らすように
女の運ぶ甕からしたたる水が
女をぬらしている

汲んできた水を溜める甕が
飲食(おんじき)の用途に利用されるばかりではない。
甕の底は穴井への通路でもある

水は飲食のために減るのではなく
見えない径路を穴井へと還るのだと島の人は言う
穴井と甕は女を通して還流している


 1連目。「それゆえ」。これが時里語のひとつ。この「それゆえ」は「非論理的」である。「それゆえ」自体は、前に掲げた事実を土台にして、推論するときにつかう論理的なことばだが、その「論理性」を利用して「非論理」を描き出す。時里はいつでも「論理」を偽装する。「論理」というものはいつでも「精緻」なものである。時里は「精緻」をつみかさねることで、それが「非論理」であるにもかかわらず、それを「論理」に偽装する。
 (この作品の「精緻」は、時里がこれまで書いてきた「散文詩」という形式ではなく、「行分け詩」という形式のためか、「精緻」というよりも、何か違ったもの--ふくよかな匂いを身にまとっているが……。)
 時里の論理が非論理であるというのは、1連目の「水より他のもの」ということばからだけでも明らかである。「水より他のもの」というだけであって、それが何かは言わない。(言えない)いまは、「他のもの」としか言えない、と逃げる(?)。
 論理を装う非論理は、その、一種の「逃走」の形で動いていく。
 けっして「他のもの」が解明されることはない、と分かっているのに、そのことばを私は追ってしまう。ことばが「精緻」、「正確」だからである。この「正確」というのは「事実」をきちんと指し示すというのではなく、ことばの運動として「正確」である、ということである。

 2連目。「わざと」。時里のことばはすべて「わざと」である。これは、あらゆる文学(詩)が「わざと」であるから、ほんとうは「わざと」ではない。
 わざわざ書かなくていいことを書く。「わざと」ということばにひきずられて見逃しそうになるが、この「わざと」は、それこそ「わざと」書かれている。「わざと」を「わざと」書くことで、「わざと」を隠している。時里は、ことばを、何かをあらわすために書くと同時に隠すために書く。
 1連目の「水より他のもの」も同じである。「水より他のもの」と書きながら、それは実際には何なのか--それを隠している。
 こういう動きを「じぐざぐ」と形容することができる。「じぐざぐ」は辞書の説明では、何かを隠すとは書いていないが、時里にあっては、何かを隠すことだ。ある方向へ曲がる。ある目的地へ近づく--と見せかけて反対側へ方向転換する、方向転換したと思ったらまた最初の方向へ向かう。それは目的地を「ふたつ」(複数)用意しておいて、どちらがほんとうの目的地とは特定しないでおいて、動くにひとしい。Aという目的地、Bという目的地が互いに相手を隠しながら、その実、AでもBでもなく、Cへたどりつく。それが「じぐざぐ」である。
 時里はこういう「順路」を常に意識している。
 時里が描いているのは、いつでも「順路」なのである。そして、この「順路」は「それゆえ」につながる。時里の「それゆえ」は「じぐざぐ」の「順路」である。
 その「じぐざぐ順路」をたどりながら、わたしたちは「焦れる」(焦らされる)。この「焦れる」というのは、とても重要なことである。「焦れる」とどうなるか。感情がかってに育っていくのである。「待つ」という行為そのものは「感情」をもたない。それは「行為」にすぎない。しかし、そこに「焦れる」が加わると、もう「待っている」のか「焦れている」のかわからない。そこでは感情が--つまり、ことばが増幅される。「焦れる」は増幅作用を引き起こす「罠」である。

女の運ぶ甕からしたたる水が
女をぬらしている

 これは、私には、時里のことばの新しい動きにみえる。3、4連目への感想を書けば、その「新しさ」が浮き彫りにできるかもしれないが、この2行は、これまでの時里語を逸脱している。「したたる水が/女をぬらしている」。これは、直接的には「外部」の描写である。
 論理、順路というのは「内部」の動きが形になってあらわれたものである。この2行には、「内部」がない。それが、非常に、つやっぽい。突然、「他人」にあったときのような、どきまぎするような「存在」の出現である。

 時里語にもどる。3連目。「通路」。これは「順路」に似ている。「それゆえ」にも似ている。
 この3連目は、その「通路」だけが目立つが、とても不思議な3行である。

汲んできた水を溜める甕が
飲食の用途に利用されるばかりではない。
甕の底は穴井への通路でもある

 はじめて句点「。」がつかわれている。2行目と3行目の間には、この詩のどの行にもなかった「強い断絶」がある。そして、2行目と3行目には、実は、その強い断絶の導入によって省略されたことばがある。
 「それゆえ」である。
 句点「。」が「それゆえ」を飲み込んでしまっている。
 そして、じっくりと読むと、「それゆえ」の省略にそれに先だつ2行が、不思議な文章であることもわかる。 
 「汲んできた水を溜める甕が/飲食の用途に利用されるばかりではない。」は、多々しくは(?)、

汲んできて甕に溜めてある水が
飲食の用途に利用されるばかりではない。

 ではないのか。
 飲食の用途に利用されるのは「水」であって、「甕」が飲食に利用されることはないだろう。
 だから4連目の書き出しも「水は飲食のために減るのではなく」と、「水」を主語にして書かれている。
 3連目で、「わざと」時里は文法に乱れを導入している。そして、その乱れをいったん句点「。」で断ち切って、なおかつ「それゆえに」を句点「。」のなかに封じ込めて、非論理へと飛躍していることになる。

 4連目の時里語。「径路」。これは「順路」「通路」に通じる。重要なのは「見えない」である。「見えない」は目には見えない、という意味である。目には見えないけれど、「他のもの」なら見える。「他のもの」とは何か。論理である。目には見えないけれど、ことばでなら、その存在をあきらかにできるものがある。
 ここに時里が詩をかく理由が集約されている。
 目には見えない。けれど、そこに存在する「論理」をことばで明らかにする。さらにいえば、論理よりも非論理の方がもっと見えない、見えにくい。だから、「世界」に存在する「非論理」を「論理」のように見える形でことばにする。
 いうならば、「じぐざぐ」の「順路」をとおって時里はA、B、Cのどこかへゆくわけではない。目的地は「じぐざぐ」そのものにある。目的地があるのではなく、「順路」(通路、径路)がある。「順路」そのものが、時里の、最終目的なのである。
 だからこそ。
 最終行。「還流」(その前には、「還る」があるが)なのである。ぐるぐるまわる。どこへもゆかない。どこへも行かず、まわることで、「いま」「ここ」という「場」そのものを深めていく。この深めるは「立体化」と言い換えても同じである。そして、この立体化にはもちろん「空間」だけではなく、「時間」も含まれる。

 私が引用、感想を書いたのは実は全体の3分の1である。3つの部分から構成されている作品の最初の部分だけである。あと、どんな具合になるか。それは雑誌で読んでください。
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『田村隆一全詩集』を読む(70)

2009-04-30 01:36:03 | 田村隆一
 「必需品」という作品がある。「屋根 壁 窓 ベッド/パン 水 トイレット」ではじまる。生きていくのに必要なものをリストアップしている。「裸体の若い女性には興味があるが/裸体の思想はワイセツだ」というおもしろい2行があるが、その2行につづく部分も興味深い。

人が通りすぎる
人が街角で消える

そんな瞬間 ぼくは死んだ人間に出会う
ぼくは不定型の人間になる

 視界から人影が消えた瞬間、死んだ人を思い出す。そのあと。「ぼくは不定形の人間になる」。この「不定型」ということば。これは「不定・型」ではなく、「不・定型」だろう。定まらない型(形)ではなく、「定型」になっていない型(形)。
 ふいに、英語を思い出すのである。私は。不定型を「定型動詞」を思い浮かべるのである。英語の動詞は、主語、時制によってはじめて「型」が定まる。主語、時制に関係していない(?)状態、原型(形)に対して、「定型」がある。ここで田村が「不定型」といっているのは、原形のことである。動詞の原形。
 田村は人間を動詞としてとらえている。
 動詞の原形である、田村は、動詞となって、ある特別な主語に従い、そしてそのときの時制をしたがい、形を変える。変形する。
 「変身」についてすでに書いてきたが、この「変身」とは、実は「動詞」のありようなのである。「動詞」は主語、時制によって形を変えてもなにも不思議はない。当然のことである。「変身」は、田村にとっては、特別なことではなく、ごくふつうのことなのである。

 「必需品」にからめて。
 詩人にとって何が「必需品」であるか。外国語である。日本語と外国語では、ことばの動きが違う。違う動きをしながら、それでも「人間」を描写する。同じ人間を描く。そのことばの運動に触れることで、無意識に動かしている「日本語」の動きに敏感になる。「日本語」の動きを鍛える。
 そして、「日本語」を「外国語」としてつかうとき、そこに詩が姿をあらわす。

 「外国語」というのは「他国語」でもある。「外」は「他」、「他人」の「他」。
 「他人」と出会って、ことばが動きはじめる。いままでのことばを捨てて、「他人」と向き合うために、ことばを変形させる。そのとき、ことばは変形させられるのではなく、「変身」するのだ。





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田村 隆一
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