飯田保文『人間インフレ』(思潮社、2009年03月20日発行)
飯田保文『人間インフレ』のことばは、突然、逸脱する。それは、どう読んでいいかわからない。たとえば「言葉なき歌」。そのなかほど。
「言葉かぎょう」は「言葉稼業」だろうか。2 行目の「あら」は「あら、びっくり」というときの「あら」だろうか。「ぎょうもがく」は何が「もがいく」のだろうか。「稼業」、それとも、50音図の「か行」。いや、2行目、3行目にはことばのわたりがあり、「あら/ぎょう」は「荒行」であり、「もがく」の主語は、「私」、あるいは「言葉」なのだ。「でいねい」は「泥濘」かなあ。それとも、「で(格助詞)+いねい」。「いねい」って、何? 「否(いな)」の活用形? 「わたくし」は「私」だろうなあ。まさか、「わっ、タクシー」や「綿+櫛」ではないだろう。「蚊とんぼう」は「蚊とんぼ」? 「プィーン」は蚊蜻蛉の羽音? だから「うるせーぜ」と叫んでいる?
なんだか、わからないが、「気がつきゃ」「煩せーぜ」と、叫んでいることだけはわかる。いや、わかった気持ちになっている。論理的なことはわからないが、感情的なことはわかる。いや、わかった気持ちになる。
この「わからなさ」と「わかる」(ほんとうは「わかった気持ちになる」)のあいだを飯田のことばは駆け抜ける。そして、ときどき、その疾走に、私は「幻」を見る。それはもしかしたら現実かもしれないが、確証がないので、とりあえずは「幻」と呼んでおく。
それは、引用した部分でいえば、「でいねい」である。「もがく」ということばに引きずられ、私は「泥濘」を想像するが、泥濘というのは、まあ、ほとんどの場合、否定的な意味合いを帯びている。その否定的な意味合いに引きずられて(もがく、と複合して)、「でいねい」のなかから「否」ということばがふっと浮かんでくる。それが「見える」。ほかの人には見えないかもしれない。飯田もそういうものを見せようとして書いているのではないかもしれない。しかし、私には「見える」。くっきりと「見える」。
そして、その「否」は、あらゆることばに対して、発せられた飯田の「肉体」の深い深い部分の声という気がする。
「言葉かぎょう」。その「ことば」に対して「否」と叫んでいる。否が強すぎるので「言葉稼業」が「言葉稼業」にならずに、「言葉かぎょう」に破壊されてしまっているのだ。そして、その破壊の過程で、「稼業」は「○○+業」「○○+行」に「分節」されて、その破片が遠く離れたもの、あるいは一番身近なものと結合し、新たなことばをつくりあげる。
ここでは、破壊と再創造、再生が同時におこなわれているのである。破壊と再生という矛盾するものが同時進行しているから、それは何がなんだかわからない。再生の気配(?)が実感できた時(錯覚できた時)、そこに書かれていることが「わかる」、「わかった気持ちになる」。
ことばは、破壊され、分節され、あらたに組み立てられ直す。その瞬間、ことばの気まぐれな自由が輝く。--ことばをかえていえば、そういうことになる。その気まぐれな自由が「かっこいい」と感じた時、私はそれを「わかる」(わかったような気持ちになる」と、とりあえずいうのである。
次の2行では、ことばは、しりとりのように動く。
「きがつきゃプィーンは/うるせーぜ」と同じように、ここでも最後は「アナログ一瞬デジタル」と破壊しきれずにことばが浮いてしまうのが残念(?)なのだけれど、それまでの、どこにでもくっついてしまう自由さはたのしい。
先のしり取り(行のわたりを含む)の要素があったが、飯田は、しり取りのとき「動詞」が省かれ、名詞が「音」に分節され、音だけが利用されるという運動をいつでも利用する。
音の運動は「意味」の運動よりも早く、また「肉体」に深くからみついている。
そのため「頭」でつくりあげる論理の正確さには追い付けないが、イージーな「肉体」の誤読を先走りするようにつかみとってしまう。「わかるもの」「わかった気持ちになれるもの」を、特に頭の悪い私は、かってにつかみとってしまう。そして、どんどん誤読を重ねていく。
飯田は、不完全な(?)ことばの運動によって、自由を表現する--というより、不完全さを前面に出すことで、読者の、無意識の文法を破壊し、読者がことばにどれだけ束縛されているかを知らせようとしているのかもしれない。いや、これは、私だけが勝手にする誤読かもしれないのだけれど。
「あなたの名を知った」の書き出し。
「買2935がって」が何のことかさっぱりわからないのだが、そのさっぱりわからないという感じが強いだけに、次の「皆 しにすれば」が、「皆殺しにすれば」と読めてしまう。読んでしまう。飯田のことばは、ときどき助詞を省略するから「皆愛し」ということばも成り立つはずなのに、「皆殺し」と私は読んでしまう。
「原爆」ということばに引きずられるからかもしれない。
そして、これこそが、つまり、読者が(私が)、飯田のことばを、たくさん書いていることばのどのことばに引きずられて全体を読んでいるかということを、知らせている。私は、無意識に(何の前提もなしに)飯田のことばを読みはじめる。そして、何の前提もないはずなのに、あることばには厳しく反応し、別のことばにはまったく反応できない。そういうことが起きる。その反応の変化というのは、私自身のことばに対する向き合いかたを教えてくれるものである。私が、どんなことば(流通言語)にしばられているかを教えてくれる。
あ、飯田は、あらゆることばから自由になれ、と叫んでいるのだと、そのとき、気がつく。流通言語からの自由--それこそ、詩の、現代詩のいちばん存在理由だ。
飯田保文『人間インフレ』のことばは、突然、逸脱する。それは、どう読んでいいかわからない。たとえば「言葉なき歌」。そのなかほど。
言葉かぎょう
は分節あら
ぎょうもがく
でいねい
わたくし
蚊とんぼう
きがつきゃプィーンは
うるせーぜ
「言葉かぎょう」は「言葉稼業」だろうか。2 行目の「あら」は「あら、びっくり」というときの「あら」だろうか。「ぎょうもがく」は何が「もがいく」のだろうか。「稼業」、それとも、50音図の「か行」。いや、2行目、3行目にはことばのわたりがあり、「あら/ぎょう」は「荒行」であり、「もがく」の主語は、「私」、あるいは「言葉」なのだ。「でいねい」は「泥濘」かなあ。それとも、「で(格助詞)+いねい」。「いねい」って、何? 「否(いな)」の活用形? 「わたくし」は「私」だろうなあ。まさか、「わっ、タクシー」や「綿+櫛」ではないだろう。「蚊とんぼう」は「蚊とんぼ」? 「プィーン」は蚊蜻蛉の羽音? だから「うるせーぜ」と叫んでいる?
なんだか、わからないが、「気がつきゃ」「煩せーぜ」と、叫んでいることだけはわかる。いや、わかった気持ちになっている。論理的なことはわからないが、感情的なことはわかる。いや、わかった気持ちになる。
この「わからなさ」と「わかる」(ほんとうは「わかった気持ちになる」)のあいだを飯田のことばは駆け抜ける。そして、ときどき、その疾走に、私は「幻」を見る。それはもしかしたら現実かもしれないが、確証がないので、とりあえずは「幻」と呼んでおく。
それは、引用した部分でいえば、「でいねい」である。「もがく」ということばに引きずられ、私は「泥濘」を想像するが、泥濘というのは、まあ、ほとんどの場合、否定的な意味合いを帯びている。その否定的な意味合いに引きずられて(もがく、と複合して)、「でいねい」のなかから「否」ということばがふっと浮かんでくる。それが「見える」。ほかの人には見えないかもしれない。飯田もそういうものを見せようとして書いているのではないかもしれない。しかし、私には「見える」。くっきりと「見える」。
そして、その「否」は、あらゆることばに対して、発せられた飯田の「肉体」の深い深い部分の声という気がする。
「言葉かぎょう」。その「ことば」に対して「否」と叫んでいる。否が強すぎるので「言葉稼業」が「言葉稼業」にならずに、「言葉かぎょう」に破壊されてしまっているのだ。そして、その破壊の過程で、「稼業」は「○○+業」「○○+行」に「分節」されて、その破片が遠く離れたもの、あるいは一番身近なものと結合し、新たなことばをつくりあげる。
ここでは、破壊と再創造、再生が同時におこなわれているのである。破壊と再生という矛盾するものが同時進行しているから、それは何がなんだかわからない。再生の気配(?)が実感できた時(錯覚できた時)、そこに書かれていることが「わかる」、「わかった気持ちになる」。
ことばは、破壊され、分節され、あらたに組み立てられ直す。その瞬間、ことばの気まぐれな自由が輝く。--ことばをかえていえば、そういうことになる。その気まぐれな自由が「かっこいい」と感じた時、私はそれを「わかる」(わかったような気持ちになる」と、とりあえずいうのである。
次の2行では、ことばは、しりとりのように動く。
ぬすみまくれまくわうりまくらかすめろかすみそうあしたあしは
らにあしもつあなたあなろぐいっしゅんでじたる
「きがつきゃプィーンは/うるせーぜ」と同じように、ここでも最後は「アナログ一瞬デジタル」と破壊しきれずにことばが浮いてしまうのが残念(?)なのだけれど、それまでの、どこにでもくっついてしまう自由さはたのしい。
先のしり取り(行のわたりを含む)の要素があったが、飯田は、しり取りのとき「動詞」が省かれ、名詞が「音」に分節され、音だけが利用されるという運動をいつでも利用する。
音の運動は「意味」の運動よりも早く、また「肉体」に深くからみついている。
そのため「頭」でつくりあげる論理の正確さには追い付けないが、イージーな「肉体」の誤読を先走りするようにつかみとってしまう。「わかるもの」「わかった気持ちになれるもの」を、特に頭の悪い私は、かってにつかみとってしまう。そして、どんどん誤読を重ねていく。
飯田は、不完全な(?)ことばの運動によって、自由を表現する--というより、不完全さを前面に出すことで、読者の、無意識の文法を破壊し、読者がことばにどれだけ束縛されているかを知らせようとしているのかもしれない。いや、これは、私だけが勝手にする誤読かもしれないのだけれど。
「あなたの名を知った」の書き出し。
脳の中であなたにあった
ピアノを弾く手をやすめてやさしく微笑む
夢の列車の向かい席で微笑んだ同じ微笑みを原爆がする
脳のニューオーリンズシアトルではれつする
草も生えない2メートル蟻の行き交う淡い人影が焼き付いたコンクリート脳
後ろめたさと優越感しろいブタが皇居を買2935がって
皆 しにすれば良かったんだ
「買2935がって」が何のことかさっぱりわからないのだが、そのさっぱりわからないという感じが強いだけに、次の「皆 しにすれば」が、「皆殺しにすれば」と読めてしまう。読んでしまう。飯田のことばは、ときどき助詞を省略するから「皆愛し」ということばも成り立つはずなのに、「皆殺し」と私は読んでしまう。
「原爆」ということばに引きずられるからかもしれない。
そして、これこそが、つまり、読者が(私が)、飯田のことばを、たくさん書いていることばのどのことばに引きずられて全体を読んでいるかということを、知らせている。私は、無意識に(何の前提もなしに)飯田のことばを読みはじめる。そして、何の前提もないはずなのに、あることばには厳しく反応し、別のことばにはまったく反応できない。そういうことが起きる。その反応の変化というのは、私自身のことばに対する向き合いかたを教えてくれるものである。私が、どんなことば(流通言語)にしばられているかを教えてくれる。
あ、飯田は、あらゆることばから自由になれ、と叫んでいるのだと、そのとき、気がつく。流通言語からの自由--それこそ、詩の、現代詩のいちばん存在理由だ。
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