詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

飯田保文『人間インフレ』

2009-04-21 13:25:10 | 詩集
飯田保文『人間インフレ』(思潮社、2009年03月20日発行)

 飯田保文『人間インフレ』のことばは、突然、逸脱する。それは、どう読んでいいかわからない。たとえば「言葉なき歌」。そのなかほど。

言葉かぎょう
は分節あら
ぎょうもがく
でいねい
わたくし
蚊とんぼう
きがつきゃプィーンは
うるせーぜ

 「言葉かぎょう」は「言葉稼業」だろうか。2 行目の「あら」は「あら、びっくり」というときの「あら」だろうか。「ぎょうもがく」は何が「もがいく」のだろうか。「稼業」、それとも、50音図の「か行」。いや、2行目、3行目にはことばのわたりがあり、「あら/ぎょう」は「荒行」であり、「もがく」の主語は、「私」、あるいは「言葉」なのだ。「でいねい」は「泥濘」かなあ。それとも、「で(格助詞)+いねい」。「いねい」って、何? 「否(いな)」の活用形? 「わたくし」は「私」だろうなあ。まさか、「わっ、タクシー」や「綿+櫛」ではないだろう。「蚊とんぼう」は「蚊とんぼ」? 「プィーン」は蚊蜻蛉の羽音? だから「うるせーぜ」と叫んでいる?
 なんだか、わからないが、「気がつきゃ」「煩せーぜ」と、叫んでいることだけはわかる。いや、わかった気持ちになっている。論理的なことはわからないが、感情的なことはわかる。いや、わかった気持ちになる。
 この「わからなさ」と「わかる」(ほんとうは「わかった気持ちになる」)のあいだを飯田のことばは駆け抜ける。そして、ときどき、その疾走に、私は「幻」を見る。それはもしかしたら現実かもしれないが、確証がないので、とりあえずは「幻」と呼んでおく。
 それは、引用した部分でいえば、「でいねい」である。「もがく」ということばに引きずられ、私は「泥濘」を想像するが、泥濘というのは、まあ、ほとんどの場合、否定的な意味合いを帯びている。その否定的な意味合いに引きずられて(もがく、と複合して)、「でいねい」のなかから「否」ということばがふっと浮かんでくる。それが「見える」。ほかの人には見えないかもしれない。飯田もそういうものを見せようとして書いているのではないかもしれない。しかし、私には「見える」。くっきりと「見える」。
 そして、その「否」は、あらゆることばに対して、発せられた飯田の「肉体」の深い深い部分の声という気がする。
 「言葉かぎょう」。その「ことば」に対して「否」と叫んでいる。否が強すぎるので「言葉稼業」が「言葉稼業」にならずに、「言葉かぎょう」に破壊されてしまっているのだ。そして、その破壊の過程で、「稼業」は「○○+業」「○○+行」に「分節」されて、その破片が遠く離れたもの、あるいは一番身近なものと結合し、新たなことばをつくりあげる。
 ここでは、破壊と再創造、再生が同時におこなわれているのである。破壊と再生という矛盾するものが同時進行しているから、それは何がなんだかわからない。再生の気配(?)が実感できた時(錯覚できた時)、そこに書かれていることが「わかる」、「わかった気持ちになる」。

 ことばは、破壊され、分節され、あらたに組み立てられ直す。その瞬間、ことばの気まぐれな自由が輝く。--ことばをかえていえば、そういうことになる。その気まぐれな自由が「かっこいい」と感じた時、私はそれを「わかる」(わかったような気持ちになる」と、とりあえずいうのである。
 次の2行では、ことばは、しりとりのように動く。

ぬすみまくれまくわうりまくらかすめろかすみそうあしたあしは
らにあしもつあなたあなろぐいっしゅんでじたる

 「きがつきゃプィーンは/うるせーぜ」と同じように、ここでも最後は「アナログ一瞬デジタル」と破壊しきれずにことばが浮いてしまうのが残念(?)なのだけれど、それまでの、どこにでもくっついてしまう自由さはたのしい。
 先のしり取り(行のわたりを含む)の要素があったが、飯田は、しり取りのとき「動詞」が省かれ、名詞が「音」に分節され、音だけが利用されるという運動をいつでも利用する。
 音の運動は「意味」の運動よりも早く、また「肉体」に深くからみついている。
 そのため「頭」でつくりあげる論理の正確さには追い付けないが、イージーな「肉体」の誤読を先走りするようにつかみとってしまう。「わかるもの」「わかった気持ちになれるもの」を、特に頭の悪い私は、かってにつかみとってしまう。そして、どんどん誤読を重ねていく。

 飯田は、不完全な(?)ことばの運動によって、自由を表現する--というより、不完全さを前面に出すことで、読者の、無意識の文法を破壊し、読者がことばにどれだけ束縛されているかを知らせようとしているのかもしれない。いや、これは、私だけが勝手にする誤読かもしれないのだけれど。
 「あなたの名を知った」の書き出し。

脳の中であなたにあった
ピアノを弾く手をやすめてやさしく微笑む
夢の列車の向かい席で微笑んだ同じ微笑みを原爆がする
脳のニューオーリンズシアトルではれつする
草も生えない2メートル蟻の行き交う淡い人影が焼き付いたコンクリート脳
後ろめたさと優越感しろいブタが皇居を買2935がって
皆 しにすれば良かったんだ

 「買2935がって」が何のことかさっぱりわからないのだが、そのさっぱりわからないという感じが強いだけに、次の「皆 しにすれば」が、「皆殺しにすれば」と読めてしまう。読んでしまう。飯田のことばは、ときどき助詞を省略するから「皆愛し」ということばも成り立つはずなのに、「皆殺し」と私は読んでしまう。
 「原爆」ということばに引きずられるからかもしれない。
 そして、これこそが、つまり、読者が(私が)、飯田のことばを、たくさん書いていることばのどのことばに引きずられて全体を読んでいるかということを、知らせている。私は、無意識に(何の前提もなしに)飯田のことばを読みはじめる。そして、何の前提もないはずなのに、あることばには厳しく反応し、別のことばにはまったく反応できない。そういうことが起きる。その反応の変化というのは、私自身のことばに対する向き合いかたを教えてくれるものである。私が、どんなことば(流通言語)にしばられているかを教えてくれる。

 あ、飯田は、あらゆることばから自由になれ、と叫んでいるのだと、そのとき、気がつく。流通言語からの自由--それこそ、詩の、現代詩のいちばん存在理由だ。




人間インフレ
飯田 保文
思潮社

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『田村隆一全詩集』を読む(61)

2009-04-21 01:03:42 | 田村隆一

 「間」をとは何か。「光りと痛み」のなかでも、田村のことばは「間」を追いかけている。「時間」を「時・間」ととらえて、「間」を見つめている。

月の光りだと
地球にとどくまで一・三秒しかかかならない
すると月光によって
詩に駆りたてられる人間は一・三秒の誤差があるわけだ
太陽の光りは八分十六秒六もかかる
詩人よりも農夫のほうが光りの誤差に耐えなければならないな
誤差の力学から考えると 詩よりも草木のほうが詩的だということになる

 「誤差」とは「間」の大きさのことでもある。そして、田村は、この「間」が大きい方が「詩的」だという。「誤差」こそが「詩的」だということになる。
 「誤差」「間」を求める。そこに田村の思想がある。
 何度か弁証法について書いた。矛盾→止揚→発展。この運動にあっては「誤差」は許されない。別なことばで言うと、この運動にあっては「間」、あるいは「飛躍」というものはあってはならない。それは「連続」したつながりでなければならない。しっかりしたつながりで、発展という方向へ運動を組織していくのが弁証法の哲学である。「矛盾」というものには必ず「間」がある。対立するものの間には、互いを拒絶する何かがあって、それが「間」をつくりだす。その「間」を少しずつ取り除き、ぴったり重ね合わせてしまうことが止揚であり、その止揚の結果、「間」を、つまり矛盾をつくりだしていたものは、発展的に別の存在になる。別の存在ではあるけれど、そこには緊密な運動が確立されている。矛盾→止揚→発展という運動の「確立」が弁証法である。
 田村の運動はまったく逆である。矛盾が矛盾として認識されるのは、それが対立するだけではなく、なんらかのつながりを要求するから矛盾になるのである。つながりを(連続を)もとめないかぎり、それは別個に存在するだけで矛盾にはならない。水と火は、離れて存在するかぎり、互いを否定はしない。矛盾した存在ではない。
 世界というのは、ある意味では、離れているものが連続する形にととえようとする運動でもある。人間は、あらゆるものをひとつの連続体系のなかに組織的にとらえようとする。どんな連続形式として世界を描写できるか--を科学は求めている。それを追究するのが「発展」でもある。
 田村のことばは逆である。連続を求めるものを叩ききることにある。水と火は矛盾した存在である。それはそのままの形で結びつけようとするから矛盾なのである。結びつける運動を解体してしまえば矛盾しなくなる。水と火を遠く隔てて結びつかないものにまで解体してしまう。水を、たとえばH2Oにしてしまう。さらには、HとO、水素と酸素にしてしまう。それは、火を消しはしない。逆に燃えあがらせる。あらゆる存在は、解体しつづければ、どこかで矛盾しなくなる。
 それは、どの段階まで?
 原子? 分子? 陽子? 中性子? 素粒子?
 それは、もしかすると、矛盾を消す解体であるだけではなく、副作用として原子爆弾のような破壊、あるいはブラックホール、ビッグバンという制御できない運動を引き起こすかもしれない。
 それがどういうものであれ、田村が求めているのは、そういうものである。
 素粒子ついでにいえば(?)、素粒子は見えない。それを見るためには、論理によって、原子の、あるいは分子の構造に「間」を導入しなければならない。分子の世界を宇宙的規模に拡大しないと、つまり巨大な「間」を導入しないと、それは見えて来ない。
 田村が詩でやろうとしていることは、大げさに言えば、そういうことである。
 世界の結びつきを解体する。存在そのものを解体する。存在をエネルギーの基本的な形にまで解体し、それが自由に動き回れるようにする。それが、詩だ。詩のことばの夢だ。「間」を、巨大な「間」をつくりだすことが、世界を自由にうごかす出発点なのである。
 「間」のなかで見えるもの--それは、現実そのものとは違って見える。素粒子の運動は、たとえば私たちの現実とは重ならない。その重なりを目で、耳で、手でつかみ取ることはできない。つまり現実と素粒子の運動の間には、巨大な「誤差」がある。そして、「誤差」が大きいほど、それは「真実」というか「真理」というか、存在の「自由」に触れているのである。

 そういうものを、どうやってことばは見えるようにすることができるか。「肉眼」で見えるようにできるか。
 その答えは、わからない。
 わかるのは、何がそういうものを妨害しているか、ということである。
 田村は「魂」をやり玉に挙げている。

それにしても ゴッホは耳を切るべきではなかった えぐるなら両の眼だ
じゃ詩人は?
魂という腐敗性物質さ
 不定形のくせに形式があり
 光りよりも
 もっと遅れてきては
 痛みをかきたてるからね

 「魂」。「形式」をもった腐敗した存在。「形式」というのは、連続性のなかにある。田村は、連続するもの、連続して形を描き出そうとするものを「腐敗している」と考える。腐敗していないもの、健康なものは、連続を解体し、自由に動くものだけである。常に、連続するものを解体しつづける力だけが「自由」の名に値するのだろう。
 解体する。関係を解体する。「間」をつくりだす。ことばすら解体し、ことばとことばの「間」を拡大する。「意味」を拒絶する。「意味」を破壊し、否定する。

 「現代詩」は難解だという。あたりまえである。現代詩は「発展」をめざしていない。ことばの「解体」を通して、別なことばで言えば、ことばを批評することで、ことばに自由を持ち込もうとしているからである。それは「日常」の連続性ではとらえることができない。逆に言えば、難解でなければ詩ではない、ということになる。


腐敗性物質 (講談社文芸文庫)
田村 隆一
講談社

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