監督 クリント・イーストウッド 出演 クリント・イーストウッド、ビー・バン、アーニー・ハー
すばらしいシーンがいくつもある。私がいちばん感情を揺さぶられたのは、イーストウッドが病院で診察を受け帰宅し、息子に電話をかけるシーンである。頑固一徹で気弱なところをみせたことのない男が、ふいに寂しさに襲われ、息子に電話をする。息子はそれに気がつかない。仕事が忙しくて、会社だけではなく、自宅でも仕事をしているのだと、そそくさと電話を切り上げようとする。それに対して、どうしていいかわからない。
このとき、イーストウッドは、自分自身の寂しさ、悲しみだけではなく、それまで息子が感じてきた寂しさを実感している。寂しいのに、その寂しさを察してくれないつらさ--それは、いままで息子たちが感じてきたこころだったのである。そして、その寂しさ、つらさが蓄積して、いまは、父は頑固一徹、わからずやだ、という「壁」になってしまっている。
電話で、死期が近いのだといってしまえば、状況はかわるかもしれない。けれど、もう、それはできない。とりかえしがつかない。とりかえしのつかない罪を、父-息子という関係のなかで犯してきてしまった。後悔だけが、イーストウッドをおそう。
このこと、この後悔は、懺悔のなかでもことばとして描かれているが、そのことばは神父には通じなかった。ことばで聞いても、え、そんなことが告白すべきこと? 神父の怪訝な反応が印象的である。実際、そんなことはことばで聞いても、なんのことかわからない。そのことばでは伝わらないものを、イーストウッドが一瞬の演技で納得させる。イーストウッドの演技のなかで、もっともいい演技だと思う。(これまでのすべての映画を含めて、という意味である。)
ひとは知らずに罪を犯す。それは、たとえば、イーストウッドの父-子という関係だけではない。
イーストウッドは過去に戦場で敵を殺している。それは敵であるとはいえ、忘れられない後悔である。死んでいった少年たちの顔が忘れられない。敵だから、というのは理由にならない。そのうえ、その殺害は「命令」ではなかった。イーストウッド自身の判断だった。--そういうことが、映画のなかで語られる。それは、犯してから、はじめて気がつく罪である。ひとはいつでも、罪を犯してから、それに気がつく。
そして、そのことは、絶対に忘れることができない。
これはイーストウッド自身(映画の主役の老人自身)の「思想」であるが、イーストウッドはそれを彼個人の「思想」ではなく、人間全体の「思想」であると感じている。人間はだれでも、知らずに犯した罪の重さを忘れることができない。一生後悔しつづける。人間とは、そういう「ナイーブ」な存在である。それを信じている。
そのことが端的にあらわれているのがクライマックスのシーンだ。
イーストウッドは、隣人の少年、その姉に危害をくわえた少年ギャングたちに復讐にゆく。誰もが(神父までもが)、イーストウッドは銃を持っていくと信じている。少年も、もちろんそう思っている。いっしょに銃で復讐に行くつもりでいた。迎え撃つギャングももちろんそう思っている。ところが、イーストウッドは銃を持っていかない。指をピストルの形にして撃つマネはするけれど、銃は持っていない。ただたばこを吸うためにライターを取り出そうとする。その動作を銃を取り出すと勘違いし、ギャングは一斉にイーストウッドを撃つ。
無防備の人間を銃で撃つ。殺す。その罪をイーストウッドは朝鮮半島で犯してしまったが、いま、少年ギャング団は同じことをしている。
この罪の後悔--それは永遠に消えない。イーストウッドは、それを信じている。人間の後悔する力を信じている。人間には、罪を意識する力、罪を犯したことを悔やむ力があると信じている。
これは、とてもすばらしい。
イーストウッドが無残に死んでゆく。それはとても悲しいことである。悲しいことであるけれど、死をかけて伝えるメッセージ(もちろん、映画ではことばでは説明していない)があまりにもナイーブなので、悲しいのに、さわやかである。メッセージなのに、おしつけがましさがない。
このシーンに、思わず涙が流れるが、それは感情を激しく揺さぶられてというより、感情をそっと励まされてという感じに近い。後悔するとは、とても美しい感情なのだと思う。後悔は人間を美しくする感情であるといえばいいのかもしれない。後悔する力を持ちなさい、とそっと背中を押されたような感じである。その背中を押す、背中にあてられた手の温みを感じる--そのときの美しさ。
*
イーストウッドの基本的な姿勢(思想)として、人間を信じるということがあると思う。それは映画のなかの人物、あるいは俳優、カメラマンなどのスタッフだけではなく、そこには観客も含まれる。
イーストウッドの映画は、どの映画でも、スクリーンを感情で埋めてしまわない。感情の頂点(?)が10だとすると、その感情が8くらいまでに達すると、そこでそのシーンをおわってしまう。(ハリウッドの映画は10を通り越して12、13くらいにまで感情をあおる。)8くらいまで表現すると、残りの2は自然に観客のなかで育っていく。その育っていく、あるいは感情を育てる過程で、その感情が、観客自身のものとなる。イーストウッドが押しつける感情、あるいは思想ではなく、観客が自分で感じ、育てる思想になる。
この映画で、私は、イーストウッドは後悔する力を信じていると感じた。少年ギャング団にもその後悔する力はあると信じ、イーストウッドは自分のいのちを投げ出したと感じたが、そういうことはこの映画では誰もことばにしていない。たとえば神父が「彼がしたことはこれこれの意味である」とは言わない。そこが、10を8で抑えるという部分である。神父は「彼のしたことはこれこれの意味である」と言わないばかりか、「彼は、私のことを27の童貞男といった」というような、ほとんど無意味なこと(無意味だけれど、真実であること)を言う。言わせる。そこに、この映画の美しさ、この映画にかぎらずイーストウッドの映画に共通する美しさがある。
真実は(思想は)すべてを言わなくても、どこからでも姿をあらわす。それを観客は自分自身で発見する力を持っている--ということを信じている。それがイーストウッドだ。
*
この映画には、すばらしいおまけがついている。イーストウッドが歌を歌っている。「センチメンタル・アドベンチャー」でもイーストウッドは歌っていたが、今回は歌手という役ではなく、最後のテーマミュージックを歌っている。しみじみと胸に響いてくる。
すばらしいシーンがいくつもある。私がいちばん感情を揺さぶられたのは、イーストウッドが病院で診察を受け帰宅し、息子に電話をかけるシーンである。頑固一徹で気弱なところをみせたことのない男が、ふいに寂しさに襲われ、息子に電話をする。息子はそれに気がつかない。仕事が忙しくて、会社だけではなく、自宅でも仕事をしているのだと、そそくさと電話を切り上げようとする。それに対して、どうしていいかわからない。
このとき、イーストウッドは、自分自身の寂しさ、悲しみだけではなく、それまで息子が感じてきた寂しさを実感している。寂しいのに、その寂しさを察してくれないつらさ--それは、いままで息子たちが感じてきたこころだったのである。そして、その寂しさ、つらさが蓄積して、いまは、父は頑固一徹、わからずやだ、という「壁」になってしまっている。
電話で、死期が近いのだといってしまえば、状況はかわるかもしれない。けれど、もう、それはできない。とりかえしがつかない。とりかえしのつかない罪を、父-息子という関係のなかで犯してきてしまった。後悔だけが、イーストウッドをおそう。
このこと、この後悔は、懺悔のなかでもことばとして描かれているが、そのことばは神父には通じなかった。ことばで聞いても、え、そんなことが告白すべきこと? 神父の怪訝な反応が印象的である。実際、そんなことはことばで聞いても、なんのことかわからない。そのことばでは伝わらないものを、イーストウッドが一瞬の演技で納得させる。イーストウッドの演技のなかで、もっともいい演技だと思う。(これまでのすべての映画を含めて、という意味である。)
ひとは知らずに罪を犯す。それは、たとえば、イーストウッドの父-子という関係だけではない。
イーストウッドは過去に戦場で敵を殺している。それは敵であるとはいえ、忘れられない後悔である。死んでいった少年たちの顔が忘れられない。敵だから、というのは理由にならない。そのうえ、その殺害は「命令」ではなかった。イーストウッド自身の判断だった。--そういうことが、映画のなかで語られる。それは、犯してから、はじめて気がつく罪である。ひとはいつでも、罪を犯してから、それに気がつく。
そして、そのことは、絶対に忘れることができない。
これはイーストウッド自身(映画の主役の老人自身)の「思想」であるが、イーストウッドはそれを彼個人の「思想」ではなく、人間全体の「思想」であると感じている。人間はだれでも、知らずに犯した罪の重さを忘れることができない。一生後悔しつづける。人間とは、そういう「ナイーブ」な存在である。それを信じている。
そのことが端的にあらわれているのがクライマックスのシーンだ。
イーストウッドは、隣人の少年、その姉に危害をくわえた少年ギャングたちに復讐にゆく。誰もが(神父までもが)、イーストウッドは銃を持っていくと信じている。少年も、もちろんそう思っている。いっしょに銃で復讐に行くつもりでいた。迎え撃つギャングももちろんそう思っている。ところが、イーストウッドは銃を持っていかない。指をピストルの形にして撃つマネはするけれど、銃は持っていない。ただたばこを吸うためにライターを取り出そうとする。その動作を銃を取り出すと勘違いし、ギャングは一斉にイーストウッドを撃つ。
無防備の人間を銃で撃つ。殺す。その罪をイーストウッドは朝鮮半島で犯してしまったが、いま、少年ギャング団は同じことをしている。
この罪の後悔--それは永遠に消えない。イーストウッドは、それを信じている。人間の後悔する力を信じている。人間には、罪を意識する力、罪を犯したことを悔やむ力があると信じている。
これは、とてもすばらしい。
イーストウッドが無残に死んでゆく。それはとても悲しいことである。悲しいことであるけれど、死をかけて伝えるメッセージ(もちろん、映画ではことばでは説明していない)があまりにもナイーブなので、悲しいのに、さわやかである。メッセージなのに、おしつけがましさがない。
このシーンに、思わず涙が流れるが、それは感情を激しく揺さぶられてというより、感情をそっと励まされてという感じに近い。後悔するとは、とても美しい感情なのだと思う。後悔は人間を美しくする感情であるといえばいいのかもしれない。後悔する力を持ちなさい、とそっと背中を押されたような感じである。その背中を押す、背中にあてられた手の温みを感じる--そのときの美しさ。
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イーストウッドの基本的な姿勢(思想)として、人間を信じるということがあると思う。それは映画のなかの人物、あるいは俳優、カメラマンなどのスタッフだけではなく、そこには観客も含まれる。
イーストウッドの映画は、どの映画でも、スクリーンを感情で埋めてしまわない。感情の頂点(?)が10だとすると、その感情が8くらいまでに達すると、そこでそのシーンをおわってしまう。(ハリウッドの映画は10を通り越して12、13くらいにまで感情をあおる。)8くらいまで表現すると、残りの2は自然に観客のなかで育っていく。その育っていく、あるいは感情を育てる過程で、その感情が、観客自身のものとなる。イーストウッドが押しつける感情、あるいは思想ではなく、観客が自分で感じ、育てる思想になる。
この映画で、私は、イーストウッドは後悔する力を信じていると感じた。少年ギャング団にもその後悔する力はあると信じ、イーストウッドは自分のいのちを投げ出したと感じたが、そういうことはこの映画では誰もことばにしていない。たとえば神父が「彼がしたことはこれこれの意味である」とは言わない。そこが、10を8で抑えるという部分である。神父は「彼のしたことはこれこれの意味である」と言わないばかりか、「彼は、私のことを27の童貞男といった」というような、ほとんど無意味なこと(無意味だけれど、真実であること)を言う。言わせる。そこに、この映画の美しさ、この映画にかぎらずイーストウッドの映画に共通する美しさがある。
真実は(思想は)すべてを言わなくても、どこからでも姿をあらわす。それを観客は自分自身で発見する力を持っている--ということを信じている。それがイーストウッドだ。
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この映画には、すばらしいおまけがついている。イーストウッドが歌を歌っている。「センチメンタル・アドベンチャー」でもイーストウッドは歌っていたが、今回は歌手という役ではなく、最後のテーマミュージックを歌っている。しみじみと胸に響いてくる。
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