詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

クリント・イーストウッド監督「グラン・トリノ」(★★★★★)

2009-04-28 01:50:22 | 映画
監督 クリント・イーストウッド 出演 クリント・イーストウッド、ビー・バン、アーニー・ハー

 すばらしいシーンがいくつもある。私がいちばん感情を揺さぶられたのは、イーストウッドが病院で診察を受け帰宅し、息子に電話をかけるシーンである。頑固一徹で気弱なところをみせたことのない男が、ふいに寂しさに襲われ、息子に電話をする。息子はそれに気がつかない。仕事が忙しくて、会社だけではなく、自宅でも仕事をしているのだと、そそくさと電話を切り上げようとする。それに対して、どうしていいかわからない。
 このとき、イーストウッドは、自分自身の寂しさ、悲しみだけではなく、それまで息子が感じてきた寂しさを実感している。寂しいのに、その寂しさを察してくれないつらさ--それは、いままで息子たちが感じてきたこころだったのである。そして、その寂しさ、つらさが蓄積して、いまは、父は頑固一徹、わからずやだ、という「壁」になってしまっている。
 電話で、死期が近いのだといってしまえば、状況はかわるかもしれない。けれど、もう、それはできない。とりかえしがつかない。とりかえしのつかない罪を、父-息子という関係のなかで犯してきてしまった。後悔だけが、イーストウッドをおそう。
 このこと、この後悔は、懺悔のなかでもことばとして描かれているが、そのことばは神父には通じなかった。ことばで聞いても、え、そんなことが告白すべきこと? 神父の怪訝な反応が印象的である。実際、そんなことはことばで聞いても、なんのことかわからない。そのことばでは伝わらないものを、イーストウッドが一瞬の演技で納得させる。イーストウッドの演技のなかで、もっともいい演技だと思う。(これまでのすべての映画を含めて、という意味である。)

 ひとは知らずに罪を犯す。それは、たとえば、イーストウッドの父-子という関係だけではない。
 イーストウッドは過去に戦場で敵を殺している。それは敵であるとはいえ、忘れられない後悔である。死んでいった少年たちの顔が忘れられない。敵だから、というのは理由にならない。そのうえ、その殺害は「命令」ではなかった。イーストウッド自身の判断だった。--そういうことが、映画のなかで語られる。それは、犯してから、はじめて気がつく罪である。ひとはいつでも、罪を犯してから、それに気がつく。
 そして、そのことは、絶対に忘れることができない。
 これはイーストウッド自身(映画の主役の老人自身)の「思想」であるが、イーストウッドはそれを彼個人の「思想」ではなく、人間全体の「思想」であると感じている。人間はだれでも、知らずに犯した罪の重さを忘れることができない。一生後悔しつづける。人間とは、そういう「ナイーブ」な存在である。それを信じている。
 そのことが端的にあらわれているのがクライマックスのシーンだ。
 イーストウッドは、隣人の少年、その姉に危害をくわえた少年ギャングたちに復讐にゆく。誰もが(神父までもが)、イーストウッドは銃を持っていくと信じている。少年も、もちろんそう思っている。いっしょに銃で復讐に行くつもりでいた。迎え撃つギャングももちろんそう思っている。ところが、イーストウッドは銃を持っていかない。指をピストルの形にして撃つマネはするけれど、銃は持っていない。ただたばこを吸うためにライターを取り出そうとする。その動作を銃を取り出すと勘違いし、ギャングは一斉にイーストウッドを撃つ。
 無防備の人間を銃で撃つ。殺す。その罪をイーストウッドは朝鮮半島で犯してしまったが、いま、少年ギャング団は同じことをしている。
 この罪の後悔--それは永遠に消えない。イーストウッドは、それを信じている。人間の後悔する力を信じている。人間には、罪を意識する力、罪を犯したことを悔やむ力があると信じている。

 これは、とてもすばらしい。

 イーストウッドが無残に死んでゆく。それはとても悲しいことである。悲しいことであるけれど、死をかけて伝えるメッセージ(もちろん、映画ではことばでは説明していない)があまりにもナイーブなので、悲しいのに、さわやかである。メッセージなのに、おしつけがましさがない。
 このシーンに、思わず涙が流れるが、それは感情を激しく揺さぶられてというより、感情をそっと励まされてという感じに近い。後悔するとは、とても美しい感情なのだと思う。後悔は人間を美しくする感情であるといえばいいのかもしれない。後悔する力を持ちなさい、とそっと背中を押されたような感じである。その背中を押す、背中にあてられた手の温みを感じる--そのときの美しさ。



 イーストウッドの基本的な姿勢(思想)として、人間を信じるということがあると思う。それは映画のなかの人物、あるいは俳優、カメラマンなどのスタッフだけではなく、そこには観客も含まれる。
 イーストウッドの映画は、どの映画でも、スクリーンを感情で埋めてしまわない。感情の頂点(?)が10だとすると、その感情が8くらいまでに達すると、そこでそのシーンをおわってしまう。(ハリウッドの映画は10を通り越して12、13くらいにまで感情をあおる。)8くらいまで表現すると、残りの2は自然に観客のなかで育っていく。その育っていく、あるいは感情を育てる過程で、その感情が、観客自身のものとなる。イーストウッドが押しつける感情、あるいは思想ではなく、観客が自分で感じ、育てる思想になる。
 この映画で、私は、イーストウッドは後悔する力を信じていると感じた。少年ギャング団にもその後悔する力はあると信じ、イーストウッドは自分のいのちを投げ出したと感じたが、そういうことはこの映画では誰もことばにしていない。たとえば神父が「彼がしたことはこれこれの意味である」とは言わない。そこが、10を8で抑えるという部分である。神父は「彼のしたことはこれこれの意味である」と言わないばかりか、「彼は、私のことを27の童貞男といった」というような、ほとんど無意味なこと(無意味だけれど、真実であること)を言う。言わせる。そこに、この映画の美しさ、この映画にかぎらずイーストウッドの映画に共通する美しさがある。
 真実は(思想は)すべてを言わなくても、どこからでも姿をあらわす。それを観客は自分自身で発見する力を持っている--ということを信じている。それがイーストウッドだ。



 この映画には、すばらしいおまけがついている。イーストウッドが歌を歌っている。「センチメンタル・アドベンチャー」でもイーストウッドは歌っていたが、今回は歌手という役ではなく、最後のテーマミュージックを歌っている。しみじみと胸に響いてくる。



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『田村隆一全詩集』を読む(68)

2009-04-28 00:00:32 | 田村隆一

 「砂上にて」の書き出し。

まず白紙をひろげる
そして言葉があらわれるのを待つ

言葉があるから詩が生まれるのではない
言葉を探す旅が詩だとしたら

 詩とは、ことばを探すことなのだ。そして、ことばは、「他人」と出会わないかぎりみつからない。「自分」のままでは、知っていることばだけで納得してしまうからである。「他人」に出会い、「他人」のなかの「時間」に触れ、自分の「時間」との「間」を発見する。そのとき、ことばは動きはじめる。ことばは、ことばを探しはじめる。詩人がことばを探すのではなく、ことばがことばを探しはじめる。
 そして、このことばがことばを探すというのは、ことばが「現実」を、つまり「もの」を探すのと同じことである。
 きのう読んだ「亀が淵ブルース」には、六十男の語る村のエピソード、六十男のことばがそのまま引用されていた。そのことばを、田村は、鎌倉の裏山の草原で確かめている。草原を見ながら、いま、そこにはない六十男の、四十年前の「現実」をみている。(きのうの引用には含まれていないので、「全詩集」の959 -961 ページを参照してください。)ことばのとおりに、「いま」「ここ」に、目で見えるものを裏切って、「肉眼」が何かを見るなら、そのことばは詩なのである。
 ことばを探すというのは、ことばが「もの」を探しあてる、「肉眼」で、「肉耳」でしかとらえられない「もの」を探すことである。

 「美しい断崖」は、「他人」の「肉眼」が探し当てた「もの」を、実際に探すことからはじまっている。

どこにいても星空を見ることはできる
これは美しい断崖だ。

フランスの哲学者アランの「プロポ」に出てくる言葉だが
その星空を眺めたさに
逗子マリーナのレストランに行ったら

 田村はアランのことばに詩を感じた。「星空」を「断崖」と呼ぶことばの運動に、詩を感じた。感じたけれど、まだ、その実体には触れていない。その「星空」を「肉眼」は予感する。けれど、まだ、それを見ていない。ことばが誘っているが、まだ「もの」には出会っていない。だから、それを探しに小さな「旅」をはじめるのだ。
 この小さな「旅」に、田村の特徴がとてもよくでていると思う。田村は「星空の断崖」を探している。あるいは「断崖の星空」かもしれないけれど……。それは、どこにあるか、わからない。とりあえず「外」へ出る。
 そして、そのあと。
 田村は「断崖の星空」を探すことに固執しない。ことばに誘われて外出したのだが、そのことばにとらわれない。つまり、ことばを中心に据えて、「もの」を探すということはしない。本来の目的(?)は目的として、それにこだわって現実をゆがめてしまうようなことはしない。つまり、目的にあわせて、それにつづくことばを選びとるわけではない。
 目的(到達点)が「星空の断崖」であっても、「旅」にでたなら、そのときは、その「過程」そのものと充分に向き合う。どこをとおれば「星空の断崖」に近づけるかということは考えない。「旅」にでる前の自分を振り捨てることだけを心がける。
 ことばを探す、とは、それまでもっていたことばを捨てるということと同じなのである。ことばを捨てきって、そのあとどんなことばが「空白」にあらわれるか。それを実践するのがことばを探すということなのだ。拾うのではなく、自分のなかのことばを捨てる。そのあと、ことばは、やってくる。

フランスの哲学者アランの「プロポ」に出てくる言葉だが
その星空を眺めたさに
逗子マリーナのレストランに行ったら
ケイ・石田の
ボサノバのコンサートをやっていて
彼女のヴォーカルには
ブラジルの土と太陽と水の匂いがする
女性の肉体
という楽器から
血のリズムが音のリズムに転化する
南半球の
暗い部分と明るい部分
影と光が声の転調によって
リズムに乗って
そのリズムを軸にして
セミ・ヌードのブラジル娘たちが踊りまくり
踊りながら無重力の空間を遊泳すると

ぼくは北半球の下にいながら
南半球の軽快で悲しい恋の歌
明るくて暗い海の微風を全身で聞く

 この部分は、この部分として、完全に詩になっているが、書き出しの部分にある「目的」からすると逸脱している。「星空の断崖」はどこ?
 ここに、田村の「正直さ」、特徴がある。
 「目的」に現実をあわせない。現実にただ向き合う。そして、「目的」がどこへ消えようとと気にしないで(気にしているのかもしれないけれど、私には、気にしていないようにしか見えない)、そこにある「もの」に触れる。「他人」に触れる。そして、最終的に、知らずに、「目的地」にたどりつく。
 それは、「目的」から見つめなおせば、「目的」に辿り着く前に、すべてを捨てる、捨てることで身軽になって、身軽になった時、その身軽さの中に、ふいに「目的地」がやってくるということになる。田村が「目的地」へ向かうのではなく、「目的地」がむこうから田村の方へ向かってやってくるのである。
 空白、白紙に、ことばがやってくるように。

 捨てる、ことばを捨てるといっても、何を捨てていいか、ということなど、わかりはしない。ただ、そこにあるものと向き合い、ものにことばをぶつける。ケイ・石田の歌声は「星空の断崖」ではない。だから、「星空の断崖」ではないもの見るために、いま見ているものを捨てるのだ。捨てることが「肉眼」になることだから。
 「肉眼」は作り上げるものではなく、ただ「目」で見えるものを捨てる、「目」がみるときのことばを捨てる。破壊する。

全身で聞く

 引用した最後の行にあるが、「全身」を捨てる。そうしないと、「肉眼」にはたどりつけない。

 そうやって、自分自身を捨てることばが、詩であるのは、どうしてなのか。「星空の断崖」が詩である。その「星空の断崖」にむかっての「旅」の過程で捨てることば、それが詩であるのはなぜなのか。
 ケイ・石田のボサノバを描写した田村のことばが美しく響くのはなぜなのか。捨てることば、不要のことばなら、それは詩とは対極にある「つまらないことば」なのではない。しかし、田村のことばは「つまらないことば」ではない。美しい。なぜなのか。
 詩とは、そういものである、としかいいようがない。
 詩とは矛盾である。特に、田村の詩は矛盾である。破壊し、ことばがつくりだすものから自由になるのが、田村の詩である。すでにあることばを捨てる、叩き壊す--その過程こそが詩なのである。もし、田村が「星空の断崖」にむかう過程で捨てることばが「つまらない」としたら、それは田村が充分に自分のことばを捨てていないからだ、ということになる。そのこことばが美しければ美しいほど、そのことばが読者に印象的であればあるほど、田村は、自分のことばを捨てて、まだ見ぬ「他人」へと生まれ変わろうとしているということになる。

 詩の最後。

家に帰ったら猫がいなくて
彼専用の小さなソファーだけあって
三人でウイスキーを飲んでいるうちに
ぼくの脳髄のなかには
星空がひろがりはじめ 猫の
ソファーには背もたれがついていないのを
すっかり忘れてしまって ぼくは

哄笑したとたんにソファーから投げ出されて
「これは美しい断崖だ」

 ちょっと「おとし話」のような感じになる。「星空の断崖」は脳髄のなかの「星空」と、田村が転げ落ちた小さな「断崖」に収斂するのだが、その過程の、

すっかり忘れてしまって

 この1行が、「星空の断崖」に完全に一体になっている。完全に一体になってしまったため、そこにたどりついたと思ったら、そこからとびだしてしまったのだ。「星空の断崖」はとてつもなく広い、そして同時に広がりがない「場」である。すべてを捨てて、放心する一瞬、世界と田村の肉体が一致する。その瞬間にだけ、突然あらわれる「場」である。
 すっかり忘れて--この放心こそ、すべてを捨てるという一瞬である。

 そして、この「放心」という視点から、もう一度この詩を読み返すと、気がつくことがある。
 ケイ・石田のボサノバの描写が美しいのはなぜか。それは田村が「星空の断崖」を探すという「目的」を忘れて、つまり、放心して、言い換えれば「目的意識」をなくして、「肉体」そのものになって、ケイ・石田と向き合っているからである。なんらかの「意識」で「他人」に向き合うとき、ことばはすべての自由を失い、失速する。けれども、「目的」が消えるとき、ことばは、ことば自身のために自在に動き回る。そして、詩をプレゼントしてくれるのである。



ぼくの草競馬 (集英社文庫)
田村 隆一
集英社

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