中村鐵太郎「わくらばにレダ。とふひとあらば。すまの浦に」、たなかあきみつ「鹿の角--pour un trompe-l'oeil 」(「庭園詩華集二〇〇九」2009年04月05日)
ことばはことばを誘い合う。ことばには、それぞれ「出自」というか、過去がある。ことばがことばを誘うということは、ことばがべつのことばの「過去」を呼び寄せることである。そして、それが積み重なって、イメージのゲシュタルトが完成する。そういうことに敏感な人と鈍感な人がいる。
中村鐵太郎「わくらばにレダ。とふひとあらば。すまの浦に」は、ことばの誘い合いに敏感な人の作品である。
「影を窓に縫いとめ」るということは、現実にはできない。けれど、「針」「縫う」「女」、「夕暮れ」「影」「窓」とことばが誘い合えば、そこに現実にはありえないことが、ことばそのものの運動として幻想(イメージ)を作り上げてしまう。針は影を窓に縫いとめなければならない。布に、ではなく、窓に、というのは、「夕暮れ」は窓から入ってくるからである。そして、布に、というのでは、布と縫うが近すぎて、嘘--影を縫いとめるという嘘が浮き立ってしまう。窓、という絶対に不可能なものが存在することで、影を縫いとめるという幻が完成する。嘘と嘘がぶつかりあって、幻を真実にかえてしまう。ことばだかが自律運動でつくりあげる世界を真実にしてしまう。
ことばが何を誘い合っているか--そのことばの声に敏感に耳を澄ますことができる詩人が到達する世界がここにある。
針で影を縫いとめる--そのとき、省略された布。それは、ひそかに反逆しはじめる。その部分の、ことばの誘い合いもとてもおもしろい。
布はどこにも書かれていない。書かれていないから、布が見える。「喉元」から「胸の桃」へ、「口元」から「へそ」へ。そのとき、ほかの部分に布があるかどうか。つまり、女は裸かあるいは半裸か。布を書かないことによって、布が肌を隠し、見えるものと見えないものが入り乱れ、見えないものこそが見えてくる。布に隠されている肌を想像力が見る時、その布が不在なら、そのときの想像力も無効になるという関係のなかにある布。布はひそかに「私の存在なしでは想像力は存在しない」と反逆しているのである。その、入り組んだ反逆までが、ことばの自律運動である。ことばの誘いあいである。
中村は、こうしたことばの誘いあいを、「レダ」と結びつけている。「鶴の恩返し」の「鶴」ではなく、「レダ」。その、一種の断絶のようなもの、「日本語」本来の対象ではないものを一種の刺激にして、ことばがいったい何を誘いあえるかを探している。「異質」なものが、ことばを新しく動かす--そのときうまれることばの自律運動のたのしさ。
ことばに敏感な詩人の、企みに満ちたたのしさである。
*
たなかあきみつ「鹿の角--pour un trompe-l'oeil 」もまたことばに敏感である。ことばがことばを誘い合うそのときの音楽に敏感である。
中村が、古典といっていいような、日本の美意識、エロチシズム、「縫いとめる」ということばが象徴的な、連続性のいのちに触れることばを誘いあわせるのに対し、たなかは、「縫いとめ」ることをこばむもの、拒絶、断絶を誘い合わせる。
不協和音ということばがある。中村のことばが和音なら、たなかのことばは不協和音である。
不協和音といっても、この音楽用語自体、一種の自己矛盾のようなものであって、音が重なればそれはいつでも「和音」である。それをどう感じるかの違いがあるだけである。不協和音のなかにある新しさ--そういうもの、そういうことばの誘いあいを、たなかはことばの運動からひきだしている。「ひきつれ」ということばが象徴するような、一種の「負」のことばの誘い合い、その負と負がぶつかるときの、暗い輝き。
それは、深い深い断絶があってこそ、誘い込むような魅力になる。連続ではなく、断絶。それを強調するためにつかわれる漢語(漢字熟語)。文字もまた、ことばの運動として誘い合う。文字であるからには、そこに外国語が入ってくる必然もある。異国のことばが日本語を切断する。そのときの、短い不協和音。不協和音によって活性化する音楽。これもまた、とてもたのしい。そして、美しい。
中村は「レダ」という異質によってつながりあう(団結する)音楽を鳴り響かせた。一方、たなかは、異質によって、いっそう遺失へと疾走する音楽、断絶のきらめきを無数に輝かせる音楽を鳴り響かせている。
ことばはことばを誘い合う。ことばには、それぞれ「出自」というか、過去がある。ことばがことばを誘うということは、ことばがべつのことばの「過去」を呼び寄せることである。そして、それが積み重なって、イメージのゲシュタルトが完成する。そういうことに敏感な人と鈍感な人がいる。
中村鐵太郎「わくらばにレダ。とふひとあらば。すまの浦に」は、ことばの誘い合いに敏感な人の作品である。
べつの日は夕暮れに針を使う女が
じぶんの影を窓に縫いとめている。
「影を窓に縫いとめ」るということは、現実にはできない。けれど、「針」「縫う」「女」、「夕暮れ」「影」「窓」とことばが誘い合えば、そこに現実にはありえないことが、ことばそのものの運動として幻想(イメージ)を作り上げてしまう。針は影を窓に縫いとめなければならない。布に、ではなく、窓に、というのは、「夕暮れ」は窓から入ってくるからである。そして、布に、というのでは、布と縫うが近すぎて、嘘--影を縫いとめるという嘘が浮き立ってしまう。窓、という絶対に不可能なものが存在することで、影を縫いとめるという幻が完成する。嘘と嘘がぶつかりあって、幻を真実にかえてしまう。ことばだかが自律運動でつくりあげる世界を真実にしてしまう。
ことばが何を誘い合っているか--そのことばの声に敏感に耳を澄ますことができる詩人が到達する世界がここにある。
針で影を縫いとめる--そのとき、省略された布。それは、ひそかに反逆しはじめる。その部分の、ことばの誘い合いもとてもおもしろい。
皓くそりかえる喉元が
あああと息を漏らすのもみえる。
男にうしろから抱かれて、胸の桃もつぶれる。
からだがねじれ、腰もがつくり、
口元にむらさめがふりかかり流れ星がへそに赤らむ。
前の草地を梳きながら入れ替わり、
男神はすこし離れ股間をつかんで、女をだきなおす。
翼に朝霧が奥まで覗いていた。
布はどこにも書かれていない。書かれていないから、布が見える。「喉元」から「胸の桃」へ、「口元」から「へそ」へ。そのとき、ほかの部分に布があるかどうか。つまり、女は裸かあるいは半裸か。布を書かないことによって、布が肌を隠し、見えるものと見えないものが入り乱れ、見えないものこそが見えてくる。布に隠されている肌を想像力が見る時、その布が不在なら、そのときの想像力も無効になるという関係のなかにある布。布はひそかに「私の存在なしでは想像力は存在しない」と反逆しているのである。その、入り組んだ反逆までが、ことばの自律運動である。ことばの誘いあいである。
中村は、こうしたことばの誘いあいを、「レダ」と結びつけている。「鶴の恩返し」の「鶴」ではなく、「レダ」。その、一種の断絶のようなもの、「日本語」本来の対象ではないものを一種の刺激にして、ことばがいったい何を誘いあえるかを探している。「異質」なものが、ことばを新しく動かす--そのときうまれることばの自律運動のたのしさ。
ことばに敏感な詩人の、企みに満ちたたのしさである。
*
たなかあきみつ「鹿の角--pour un trompe-l'oeil 」もまたことばに敏感である。ことばがことばを誘い合うそのときの音楽に敏感である。
中村が、古典といっていいような、日本の美意識、エロチシズム、「縫いとめる」ということばが象徴的な、連続性のいのちに触れることばを誘いあわせるのに対し、たなかは、「縫いとめ」ることをこばむもの、拒絶、断絶を誘い合わせる。
発吃者はときには傲慢にみえるだろうが
その実ひきつれがいくども彼の喉を
唾が石化するほど締めつける。
地上へ墜落した死鳥の群れは豊穣な唖だから
石洗いの合い言葉mutoは発語されない。
不協和音ということばがある。中村のことばが和音なら、たなかのことばは不協和音である。
不協和音といっても、この音楽用語自体、一種の自己矛盾のようなものであって、音が重なればそれはいつでも「和音」である。それをどう感じるかの違いがあるだけである。不協和音のなかにある新しさ--そういうもの、そういうことばの誘いあいを、たなかはことばの運動からひきだしている。「ひきつれ」ということばが象徴するような、一種の「負」のことばの誘い合い、その負と負がぶつかるときの、暗い輝き。
それは、深い深い断絶があってこそ、誘い込むような魅力になる。連続ではなく、断絶。それを強調するためにつかわれる漢語(漢字熟語)。文字もまた、ことばの運動として誘い合う。文字であるからには、そこに外国語が入ってくる必然もある。異国のことばが日本語を切断する。そのときの、短い不協和音。不協和音によって活性化する音楽。これもまた、とてもたのしい。そして、美しい。
中村は「レダ」という異質によってつながりあう(団結する)音楽を鳴り響かせた。一方、たなかは、異質によって、いっそう遺失へと疾走する音楽、断絶のきらめきを無数に輝かせる音楽を鳴り響かせている。
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