詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

中村鐵太郎「わくらばにレダ。とふひとあらば。すまの浦に」、たなかあきみつ「鹿の角 」

2009-04-19 13:49:06 | 詩集
中村鐵太郎「わくらばにレダ。とふひとあらば。すまの浦に」、たなかあきみつ「鹿の角--pour un trompe-l'oeil 」(「庭園詩華集二〇〇九」2009年04月05日)

 ことばはことばを誘い合う。ことばには、それぞれ「出自」というか、過去がある。ことばがことばを誘うということは、ことばがべつのことばの「過去」を呼び寄せることである。そして、それが積み重なって、イメージのゲシュタルトが完成する。そういうことに敏感な人と鈍感な人がいる。
 中村鐵太郎「わくらばにレダ。とふひとあらば。すまの浦に」は、ことばの誘い合いに敏感な人の作品である。

べつの日は夕暮れに針を使う女が
じぶんの影を窓に縫いとめている。

 「影を窓に縫いとめ」るということは、現実にはできない。けれど、「針」「縫う」「女」、「夕暮れ」「影」「窓」とことばが誘い合えば、そこに現実にはありえないことが、ことばそのものの運動として幻想(イメージ)を作り上げてしまう。針は影を窓に縫いとめなければならない。布に、ではなく、窓に、というのは、「夕暮れ」は窓から入ってくるからである。そして、布に、というのでは、布と縫うが近すぎて、嘘--影を縫いとめるという嘘が浮き立ってしまう。窓、という絶対に不可能なものが存在することで、影を縫いとめるという幻が完成する。嘘と嘘がぶつかりあって、幻を真実にかえてしまう。ことばだかが自律運動でつくりあげる世界を真実にしてしまう。
 ことばが何を誘い合っているか--そのことばの声に敏感に耳を澄ますことができる詩人が到達する世界がここにある。

 針で影を縫いとめる--そのとき、省略された布。それは、ひそかに反逆しはじめる。その部分の、ことばの誘い合いもとてもおもしろい。

皓くそりかえる喉元が
あああと息を漏らすのもみえる。
男にうしろから抱かれて、胸の桃もつぶれる。
からだがねじれ、腰もがつくり、
口元にむらさめがふりかかり流れ星がへそに赤らむ。
前の草地を梳きながら入れ替わり、
男神はすこし離れ股間をつかんで、女をだきなおす。
翼に朝霧が奥まで覗いていた。 

 布はどこにも書かれていない。書かれていないから、布が見える。「喉元」から「胸の桃」へ、「口元」から「へそ」へ。そのとき、ほかの部分に布があるかどうか。つまり、女は裸かあるいは半裸か。布を書かないことによって、布が肌を隠し、見えるものと見えないものが入り乱れ、見えないものこそが見えてくる。布に隠されている肌を想像力が見る時、その布が不在なら、そのときの想像力も無効になるという関係のなかにある布。布はひそかに「私の存在なしでは想像力は存在しない」と反逆しているのである。その、入り組んだ反逆までが、ことばの自律運動である。ことばの誘いあいである。
 中村は、こうしたことばの誘いあいを、「レダ」と結びつけている。「鶴の恩返し」の「鶴」ではなく、「レダ」。その、一種の断絶のようなもの、「日本語」本来の対象ではないものを一種の刺激にして、ことばがいったい何を誘いあえるかを探している。「異質」なものが、ことばを新しく動かす--そのときうまれることばの自律運動のたのしさ。
 ことばに敏感な詩人の、企みに満ちたたのしさである。



 たなかあきみつ「鹿の角--pour un trompe-l'oeil 」もまたことばに敏感である。ことばがことばを誘い合うそのときの音楽に敏感である。
 中村が、古典といっていいような、日本の美意識、エロチシズム、「縫いとめる」ということばが象徴的な、連続性のいのちに触れることばを誘いあわせるのに対し、たなかは、「縫いとめ」ることをこばむもの、拒絶、断絶を誘い合わせる。

発吃者はときには傲慢にみえるだろうが
その実ひきつれがいくども彼の喉を
唾が石化するほど締めつける。
地上へ墜落した死鳥の群れは豊穣な唖だから
石洗いの合い言葉mutoは発語されない。

 不協和音ということばがある。中村のことばが和音なら、たなかのことばは不協和音である。
 不協和音といっても、この音楽用語自体、一種の自己矛盾のようなものであって、音が重なればそれはいつでも「和音」である。それをどう感じるかの違いがあるだけである。不協和音のなかにある新しさ--そういうもの、そういうことばの誘いあいを、たなかはことばの運動からひきだしている。「ひきつれ」ということばが象徴するような、一種の「負」のことばの誘い合い、その負と負がぶつかるときの、暗い輝き。
 それは、深い深い断絶があってこそ、誘い込むような魅力になる。連続ではなく、断絶。それを強調するためにつかわれる漢語(漢字熟語)。文字もまた、ことばの運動として誘い合う。文字であるからには、そこに外国語が入ってくる必然もある。異国のことばが日本語を切断する。そのときの、短い不協和音。不協和音によって活性化する音楽。これもまた、とてもたのしい。そして、美しい。

 中村は「レダ」という異質によってつながりあう(団結する)音楽を鳴り響かせた。一方、たなかは、異質によって、いっそう遺失へと疾走する音楽、断絶のきらめきを無数に輝かせる音楽を鳴り響かせている。

ピッツィカーレ―たなかあきみつ詩集
たなか あきみつ
ふらんす堂

このアイテムの詳細を見る
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ユー・リクウァイ監督「プラスティック・シティ」(★★★★)

2009-04-19 02:08:09 | 映画

監督 ユー・リクウァイ 出演 オダギリジョー、アンソニー・ウォン、チェン・チャオロン

 驚くほど鮮やかな緑。しかも圧倒的な自然というよりは(圧倒的ではあるのだが)、人間になじんだ緑である。暮らしのなかで見える緑、暮らしの手垢で磨かれた(?)緑なのである。つまり、暮らしが緑に侵食している。日本に(アジアに?)ひきつけて言えば、山の田んぼ、そのあぜ道から始まる山の緑という感じなのである。ブラジルでは、田んぼ(農村)ではなく都市である。本来、融合するはずのないものが、この映画では融合し、その融合によって、緑が鮮やかになる。補色が隣り合わせ緑なのである。実際、緑なのに赤を意識してしまう緑である。(これは最後に重要な意味を持つ。)
なぜ、こんなことが起きるのか。監督が、あのジャ・ジャンクー監督「長江哀歌」のカメラマンであるせいなのか。それも確かにある。アジア人の見た緑である。だが、同時に、この映画がアジア的人間関係を描いているせいもある。ストーリーにぴったり合致しているのだ。アジア的生活をすれば、目もアジア的になり、緑もアジア的に見えてくるのだ。それがたとえカメラを通したものであっても。
父と子、親分と子分、一種の「家族」感覚というのはどの民族にもあるものだけれど、民族によって何かが微妙に違う。アジアの場合、「個人主義」が弱い。そして儒教的なものが強い。「孝」の匂いがする。人間と緑の関係も、どこかに「孝」のようなものを含んでいて、それが「暮らし」(暮らし方)を感じさせる。「ひととひとのつながり」を優先するように、自然とも、対立ではなく、共存を大切にする。そのまなざしが、街の風景をとらえるとき、暮らしが滲んだ風景になる。(「長江哀歌」に通じる。)そして、「共存」、共存するための丁寧な関係の積み上げという暮らしを通じて、自然の緑と、街の暮らしが通い合う。
ここに、「共存」をよしとしない人間が割り込んできて、この映画の暮らしが崩れていく。その破壊のメカニズムは、ちょっと断片的すぎて分かりにくいが、それはその崩壊をあくまで主人公父子の関係を描くことで描ききろうとするからである。破壊する側の動きは最小限しか描かない、父子から見えるものしか描かないからである。闇社会の裏の動きを、実はこんな動きがあります、と説明しないからである。
説明の省略という「野心」を含んだ、あくまで映像にこだわった、映画のための映画なのである。
この映画の最後は、森へ、緑へ帰っていく。
その場所は、かつての生活の場であった。そこでの生活は金掘り、ゴールドラッシュにかけた人間の生活である。争いがあり、殺しもある。血が流された歴史がある。暮らしには、そういう暗部もある。いま、父としていきている男は、実は息子の本当の父を殺しているのだ。そのことを子は突然、フラッシュバックのように思い出す。その記憶、血の赤さが補色として、ふいによみがえる。偽りの父子の血の流れをたたき切って、本当の血が結びつく。噴出する。ギリシャ悲劇のように。
そのとき、緑が一変する。補色に向き合う鮮やかな緑を通り越して、ぶきみに深い深い緑になる。その瞬間がすごい。



長江哀歌 (ちょうこうエレジー) [DVD]

バンダイビジュアル

このアイテムの詳細を見る
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『田村隆一全詩集』を読む(59)

2009-04-19 01:18:27 | 田村隆一

 詩は、いつでも「矛盾」の形でしか書けない。そして矛盾のなかにこそ、詩がある。
 「大火災」の「矛盾」は「時制」が逆転することろに現われている。

明日 ぼくは枯れ葉のベッドで産れる
今日 ぼくは地下鉄のなかで恋をする
昨日 ぼくは罪の意識もなくあっけなく死ぬ

もう一度、田村は繰り返す。

<明日>は過去形
<昨日>は未来形
<今日>はいつまでたっても現在形

 このことを、田村は、さらに言い換える。

いつまでたっても現在形
というのは
じつに不愉快である
<昨日>の新聞はすこしも面白くないが
三十年前の新聞なら読物になる
世界はいつも危機の情報にあふれていて
危機がなくなれば世界は消滅するだろう
何人かの皇帝と独裁者が亡命し
共和国ができたかと思うとたちまち内戦になり
飢えと肥満が競合しあって
かろうじて地球の生態系をたもっている
五千年まえとまったくおなじ生活様式を生きている遊牧民もあれば
一円の為替差損で自殺する優雅な人間もいる
つまり
この世に<明日>はないということだ
過去形でしか<明日>は表現できない
人間の言語構造そのものが倒立しているのだから
<あの世>から<この世>を見なければならない

 これは簡単に図式化(?)していえば、<明日>起きるだろうことは、すでに<昨日>つまり、過去に起きていることばかりである、ということになる。厳密にいえば過去と同じことが起きるわけではないが、同じ運動が繰り返されているということである。過去に起きなかったことなど、未来に起きるはずがないのである。私たちの「時間」は、それほどたくさんの「過去」をもっている。起きなかったことなど、もうすでにない。それは語られなかったことなど、もうない、ということに等しい。
 <明日>へ進むことは<昨日>をもう一度生きることなのである。
 「温故知新」ということばがあるが、ここに書かれていること自体、「温故知新」ということばが語っているように、すでに書かれてしまっている。そっくりではないが、類似のことが書かれている。「未来」へ進むためには「過去」をていねいに掘り進まなければならない--というのは、すでに語られていることである。
 それでも、そうするしかない。

 こんなことは、どう書いてみても、はじまらない。田村のことばの特徴をみつめることにはならない。

 田村は、他のひとたちと、どこが違うのか。同じこと(類似したこと)を書きながら、どこが違うのか。

<今日>はいつまでたっても現在形

 この行のなかにある「いつまでたっても」が田村のことばを動かしている。「過去」は掘り進めば「未来」になる。「未来」はそこに突入してしまえば、たちまち「過去」になる。過去も未来も、そんなふうにして変化する。しかし、<現在>だけは、かわらない。いつまでたっても「現在」という時制を生きている。
 だが、ほんとうか。
 「未来」という時間など、ほんとうはない。「現在」が「過去」になりつづける。その運動の結果、まぼろしのように、私たちは「未来」を思い描くだけであって、だれも「未来」を体験したものはいない。「現在」しか体験できず、体験した「いま」が「過去」にななりつづけるだけである。
 <明日><今日><昨日>というもの、未来・現在・過去という時制は、私たちの意識がつくりだした「方便」のようなもの、「肉体」がかかえこむ錯乱である。

いつまでたっても現在形
というのは
じつに不愉快である

 と田村は書いているが、この「不愉快」が田村の「思想」である。「いつまでも・不愉快」。それをなんとかしたい。だから、「過去」へではなく、「いま」を耕すのである。わかったように、「温故知新」とはいわない。(方便として、私は、田村は、そういうことを書いていると説明してしまったが……)。
 「温故知新」のような、語り尽くされた「哲学」は放り出して、田村は「いま」をただ耕す。次のように。

そこで
ぼくは 散歩に出る
秋の午後二時というとひとはいない

 そして、酒屋を見つけ、ビールを飲む。ビールを飲みながら、あちこちで飲んだアルコールのことを思い出す。語り尽くされた哲学を捨てるために、ただビールを飲み、過去の記憶を次々に捨てるようにして、ことばをまき散らす。どこまで捨てても、ことばは、しかし次々にあふれてくる。捨てきれない。
 その矛盾。その不愉快。

 もし、詩が、そして思想があるとすれば、その「肉体」の「不愉快」である。田村は「不愉快」の詩人である。
 --と書いてみたが、その「不愉快」の実体をきちんと浮かび上がらせるのは、とても難しい……。

田村隆一ミステリーの料理事典―探偵小説を楽しむガイドブック (Sun lexica (12))
田村 隆一
三省堂

このアイテムの詳細を見る
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする