詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

伊藤芳博『誰もやってこない』

2009-11-03 00:00:01 | 詩集
伊藤芳博『誰もやってこない』(ふたば工房、2009年10月15日発行)

 「夜の学校」という作品がおもしろい。「夜の学校」にはいろいろな表情、現実があるはずだ。そのいくつもある顔、表情から何を選びとり、何を描くか。そこに「個性」というものがあらわれる。
 伊藤芳博のことばは、何かを選ぶ、というより、伊藤自身を塗り込めていく。

「おとうさんは夜の学校です」
娘は幼稚園の先生に言ったとか

この主述の文法によると
私のなかに
暗い階段があって
二階に上がる踊り場で影が揺れていて
木造ではないのに軋む廊下を進むと
三年一組のプレートが逆さまに掛かっていて
その教室には誰もいないのに
私の頭をチョークで叩いているような音が響いていることになる

 「娘」の言ったことは、「私のおとうさんの仕事は、夜の学校の仕事、夜の学校の先生です」という意味だが、伊藤はあえて、それを「おとうさん」=「夜の学校」という形にして、学校そのものを描写してみようとする。けれど、そういうものは実際には描写できなくて、どうしてもそこに伊藤の「現実」、伊藤の「夜の学校」での姿が塗り込められてしまう。伊藤は「夜の学校」を描写するのではなく、どうしても、「夜の学校」での自分の姿を書いてしまう。伊藤の意志、あるいは意図に反して、伊藤は「娘」のことばが省略している部分を補ってしまっている。
 わたしたちは結局自分の現実以外は書くことができないのだ。
 これは悪い意味で言っているのではない。
 ひとは何を書いても、自分の現実しか書けない。他人の現実など書けない。だからこそ、自分自身の現実を書かなければならない。ここに、伊藤のことば、伊藤の詩の存在意義がある。重要性がある。

 しかし、実際に自分の現実を書くというのはむずかしい。だから伊藤はしばしば映画やテレビで見聞きしたことを題材にする。他人の現実を、外から見つめて、それをことばにする。ことばは、そういうときでも、やはり動く。しかし、そのことばは、伊藤自身の現実を描いたことばのようにはいきいきとしていない。残念なことだけれど。
 映画を題材にしたものでは、唯一、『山の郵便配達』がおもしろかった。最後の方の数行。

「    」
左前の方にハンカチで目を押さえている若い女性
「    」
右前の方の禿げた頭は動かない
一人ひとりみんな今を感じている

 ことばが書かれていない。思いは、まだことばになっていない。そのことを伊藤は正確に書いている。空白のカギカッコのなかにはいることばは、「若い女性」「禿げた頭」のことばであると同時に伊藤のことばである。なにかが重なり合っている。重なり合っているけれど、それがまだことばにならない。「若い女性」「禿げた頭」がことばにできないだけではなく、伊藤もできないのだ。
 こんなふうに、正直にはっせられたことばは美しい。そこに塗り込められた伊藤のこころは正直だ。こういうことばが出て来ると映画やテレビを題材にしていても、とてもおもしろいと思う。
 この詩には、実は、このあと2行付け足しがあるが、その部分は、私は嫌いだ。せっかくの、ことばにならないことばという、その切実な美しさを汚してしまっていると思うからである。だから引用しなかった。省略した。

 「娘がいないことがわからない」は、小学6年生の娘を殺害された父親がもらしたことばである。そのことばに反応する形で、伊藤は「娘がいないことがわからない」という詩を書いている。
 そのなかに、とても美しい部分がある。
 67ページの「わたしの なかの むすめの なかの しずくを」で始まる13行。全部ひらがなのわかちがき。私は今、目の状態がよくないので、引用すればきっと誤植だらけのものになる。ぜひ、詩集で読んでみてください。

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池井昌樹小詩集「とこしえに」(2)

2009-11-03 00:00:00 | 詩(雑誌・同人誌)
池井昌樹小詩集「とこしえに」(2)(「現代詩手帖」2009年11月号)

 再び「月の光」について。きのう書いたことの繰り返しになるかもしれない。けれども、もう一度書いておきたい。

わたしはけだものかもしれない
くらいめをしてかんがえながら
おんなやさけをおもっている
しにたくないとねがっている
わたしはけだものかもしれない
いそじもなかばすぎこしてきた
ひとのかおしてすましていても
はなさきにえさぶらさげれば
たちまちしっぽがおきてくる
べんかいしようとしたこえが
きいきいめすをもとめている
わたしはけだものかもしれない
くらいめをしてかんがえこむと
みみもとで
だれかささやきかけるこえ
それはこえだかかささやきだか
かぜのおとかもしれないけれど
それはあんまりやさしくて
あんまりあんまりくるしくて
たえられなくて
おおごえで
だれかよびつづけていたような
それはだれだかだれのかげだか
つきのひかりかもしれないけれど

 私がこの詩にひかれるのは「しにたくないとねがっている」という行と、「それはあんまりやさしくて/あんまりあんまりくるしくて」という行である。
 「だれか」が見つめている、「だれか」に見守られている--というのは池井の詩に頻繁に登場する感覚である。その「だれか」は簡単にいってしまえば「詩の神」である。そして、その「だれか」はいままで「やさしく」見守ってくれていた、というのが私の印象である。
 池井は、この詩では「くるしくて」という感覚に出会っている。

 「やさしさ」と「くるしさ」。この二つにはとても大きな違いがある。
 「やさしさ」は池井をつつんでくる。「やさしさ」に触れるとき、池井は「神」につつまれる。至福である。
 「くるしさ」とどうか。まず、池井をつつみこみはしない。
 他人の苦しみは自分の苦しみとは違う。

 人間はたいへんわがままな生き物である。他人にやさしくされると(他人のやさしさに触れると)とてもいい気持ちになる。自分が「やさしい」のではなく、他人が私に対してやさしい。そのことが、ふしぎなことに(?)、幸せな気持ちにさせる。私が「やさしく」なるわけではないのだが、きもちがやわらぐ。自分が受け入れられていると感じ、安心するのかもしれない。
 ところが、「くるしさ」の場合は別である。「痛さ」も同じである。
 だれかがどれだけ苦しんでいようと、あるいは痛みを訴えていようと、私自身は苦しくはない。痛くはない。
 けれども、またまた、ふしぎなことに、他人の苦しみ、痛みというものを、それが自分の苦しみや、痛みではないにもかかわらず、「くるしい」「いたい」と感じ取ることが人間にはできる。
 ことばで訴えられたときはもちろんわかるが、そうではなく、ことばを発することもできずに、道ばたでうずくまっている人間がいるとする。そういう人間をみると、あ、このひとは「苦しんでいる」「痛み」にうめいている、と理解することができる。
 自分に、苦しんだり、痛みを感じた経験があるからかもしれないが、この、自分のものではない苦しみ、痛みを感じる力というのは不思議なものだと私は思う。
 人間には、くるしみやいたみに対し、共感し、反応する力があるのだ。

 自分では体験しないのに、他人とおして知る何か。
 その最大(?)のものは死である。
 人間は死ぬ。そのことを私たちはだれもが知っている。けれども、だれひとりとして自分自身の死を知らない。他人の死を目撃し、死とはこういうものだとかってに考えているだけだ。
 自分の外にあるもの--死。それが、やがて自分にもやってくるかもしれない、かならずやってくる、と感じ(知って)、私たちは生きているだけである。
 この死に対する感覚(認識)と、池井がこの詩で書いている「くるしみ」がどこかで通じているように私には感じられるのである。

 他人のなかにある「くるしみ」。それをとおして、池井は自分のなかにも、それにつながるものがある、と感じている。そして、その「つながり」の「道」は「けだもの」なのだ。

 「やさしさ」のように池井をつつみこむことはない。

 池井から離れていて、なおかつ、池井の「にくたい」の奥へささやきかける。「にくたい」の奥を揺さぶる。
 「くるしみ」というものがあるのだ。
 ひとりひとりの「くるしみ」はけっして他人に共有されるようなものではない。だれかの代わりに池井がくるしむというようなことは、ことばの上では可能だが、実際は、そういう代替は不可能である。池井がくるしめば、そのぶんだれかのくるしみが消えるわけではない。池井の肉体が痛めば、だれかの痛みが消えるわけではない。
 それでも、感じてしまう。共感(?)してしまう。

 ほんとうは自分では体験していないくるしみ。いたみ。そういうものがあり、そして、そういうものは「にくたい」の奥を揺さぶる。そのゆさぶりのなかで、池井は、死を知るように(死を感じるように)、くるしみを感じるのだ。
 それは、池井を超越している何かだ。

 池井は、いままで、自分を超越する「やさしさ」について書いて来た。けれども、いま、これから、自分を超越する「くるしさ」について書こうとしている。
 それは、いわば、死を書くことなのだ。
 自分で体験してしまったら絶対書くことができないもの。
 それを書こうとしている。

 「死」を中心にして書き直そう。
 死を書くためには死を体験しなければならない。けれども、死んでしまったら、人間は自分の体験を書くことはできない。
 これは大きな矛盾である。
 けれども、池井は、そういう矛盾を書きたいのである。だからこそ「しにたくない」と書かざるを得ない。

 だれだって、くるしみたくない。痛みなど、それがどんなものであれ、経験したくない。
 けれど、なにかが、だれかが、池井に、そういう「くるしみ」を書かせようとしている。「詩の神様」が書かせようとしている。そして、その「くるしみ」を書くために、「けだもの」の道を歩け、と言っている。けだものになって、くるしんで、それだけでは不十分で、池井の体験を超越した「くるしみ」に触れろ、と「詩の神様」が命令している。
 その声に脅えながら、同時に、酔いしれながら、池井は「しにたくない」と書いている。
 私が感じたことは、そういことである。

 いままで、私は池井の詩は嫌いだ、大嫌いだ、ぜんぜんおもしろくないと言い続けてきた。そういうふうに言うことができたのは、私がどんなに嫌いだ、つまらない、ぜんぜんだめだと否定しても、その詩は壊れないとわかっているからだ。嫌いだ、嫌いだ、嫌いだ、と私が言い張っても、最後に、でも好きだよと言えば、すぐに「和解」できると知っているからだ。
 ようするに、私は、池井の詩に甘えて感想を書いていた。こどもが母親に甘えるようにして、甘えて感想を書いていた。
 けれど、これからはどうなるだろう。
 私は、いままでと違って、池井の詩はすごい。すばらしい。傑作だ、といいつづけることになるのだと思う。そして、そういいながら、どこかで「困った、池井の詩に触れると苦しくて苦しくてしようがない。なぜ嫌いと言ってしまえないのだろう、関係ないと言ってしまえないのだろう」と悩みつづけることになるのだと思う。

 池井の書こうとしている「けだもの」の「くるしみ」。そして、その「くるしみ」のなかにある「血」のあたたかさ。それに対して、関係ない、とは絶対に言えないことはわかっている。死が、人間にとって関係ない、と言えないのと同じことだ。

 どうすれば、いいのだろう。

 きっと、これからは、池井が、私にとってたったひとりの詩人になるのだろう。これまでも私にとって詩人といえば池井しかいなかったが、これからは、その存在の仕方がもっと全体的になる。
 そんなことを感じた。

現代詩手帖 2009年 10月号 [雑誌]

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