伊藤芳博『誰もやってこない』(ふたば工房、2009年10月15日発行)
「夜の学校」という作品がおもしろい。「夜の学校」にはいろいろな表情、現実があるはずだ。そのいくつもある顔、表情から何を選びとり、何を描くか。そこに「個性」というものがあらわれる。
伊藤芳博のことばは、何かを選ぶ、というより、伊藤自身を塗り込めていく。
「おとうさんは夜の学校です」
娘は幼稚園の先生に言ったとか
この主述の文法によると
私のなかに
暗い階段があって
二階に上がる踊り場で影が揺れていて
木造ではないのに軋む廊下を進むと
三年一組のプレートが逆さまに掛かっていて
その教室には誰もいないのに
私の頭をチョークで叩いているような音が響いていることになる
「娘」の言ったことは、「私のおとうさんの仕事は、夜の学校の仕事、夜の学校の先生です」という意味だが、伊藤はあえて、それを「おとうさん」=「夜の学校」という形にして、学校そのものを描写してみようとする。けれど、そういうものは実際には描写できなくて、どうしてもそこに伊藤の「現実」、伊藤の「夜の学校」での姿が塗り込められてしまう。伊藤は「夜の学校」を描写するのではなく、どうしても、「夜の学校」での自分の姿を書いてしまう。伊藤の意志、あるいは意図に反して、伊藤は「娘」のことばが省略している部分を補ってしまっている。
わたしたちは結局自分の現実以外は書くことができないのだ。
これは悪い意味で言っているのではない。
ひとは何を書いても、自分の現実しか書けない。他人の現実など書けない。だからこそ、自分自身の現実を書かなければならない。ここに、伊藤のことば、伊藤の詩の存在意義がある。重要性がある。
しかし、実際に自分の現実を書くというのはむずかしい。だから伊藤はしばしば映画やテレビで見聞きしたことを題材にする。他人の現実を、外から見つめて、それをことばにする。ことばは、そういうときでも、やはり動く。しかし、そのことばは、伊藤自身の現実を描いたことばのようにはいきいきとしていない。残念なことだけれど。
映画を題材にしたものでは、唯一、『山の郵便配達』がおもしろかった。最後の方の数行。
「 」
左前の方にハンカチで目を押さえている若い女性
「 」
右前の方の禿げた頭は動かない
一人ひとりみんな今を感じている
ことばが書かれていない。思いは、まだことばになっていない。そのことを伊藤は正確に書いている。空白のカギカッコのなかにはいることばは、「若い女性」「禿げた頭」のことばであると同時に伊藤のことばである。なにかが重なり合っている。重なり合っているけれど、それがまだことばにならない。「若い女性」「禿げた頭」がことばにできないだけではなく、伊藤もできないのだ。
こんなふうに、正直にはっせられたことばは美しい。そこに塗り込められた伊藤のこころは正直だ。こういうことばが出て来ると映画やテレビを題材にしていても、とてもおもしろいと思う。
この詩には、実は、このあと2行付け足しがあるが、その部分は、私は嫌いだ。せっかくの、ことばにならないことばという、その切実な美しさを汚してしまっていると思うからである。だから引用しなかった。省略した。
「娘がいないことがわからない」は、小学6年生の娘を殺害された父親がもらしたことばである。そのことばに反応する形で、伊藤は「娘がいないことがわからない」という詩を書いている。
そのなかに、とても美しい部分がある。
67ページの「わたしの なかの むすめの なかの しずくを」で始まる13行。全部ひらがなのわかちがき。私は今、目の状態がよくないので、引用すればきっと誤植だらけのものになる。ぜひ、詩集で読んでみてください。
「夜の学校」という作品がおもしろい。「夜の学校」にはいろいろな表情、現実があるはずだ。そのいくつもある顔、表情から何を選びとり、何を描くか。そこに「個性」というものがあらわれる。
伊藤芳博のことばは、何かを選ぶ、というより、伊藤自身を塗り込めていく。
「おとうさんは夜の学校です」
娘は幼稚園の先生に言ったとか
この主述の文法によると
私のなかに
暗い階段があって
二階に上がる踊り場で影が揺れていて
木造ではないのに軋む廊下を進むと
三年一組のプレートが逆さまに掛かっていて
その教室には誰もいないのに
私の頭をチョークで叩いているような音が響いていることになる
「娘」の言ったことは、「私のおとうさんの仕事は、夜の学校の仕事、夜の学校の先生です」という意味だが、伊藤はあえて、それを「おとうさん」=「夜の学校」という形にして、学校そのものを描写してみようとする。けれど、そういうものは実際には描写できなくて、どうしてもそこに伊藤の「現実」、伊藤の「夜の学校」での姿が塗り込められてしまう。伊藤は「夜の学校」を描写するのではなく、どうしても、「夜の学校」での自分の姿を書いてしまう。伊藤の意志、あるいは意図に反して、伊藤は「娘」のことばが省略している部分を補ってしまっている。
わたしたちは結局自分の現実以外は書くことができないのだ。
これは悪い意味で言っているのではない。
ひとは何を書いても、自分の現実しか書けない。他人の現実など書けない。だからこそ、自分自身の現実を書かなければならない。ここに、伊藤のことば、伊藤の詩の存在意義がある。重要性がある。
しかし、実際に自分の現実を書くというのはむずかしい。だから伊藤はしばしば映画やテレビで見聞きしたことを題材にする。他人の現実を、外から見つめて、それをことばにする。ことばは、そういうときでも、やはり動く。しかし、そのことばは、伊藤自身の現実を描いたことばのようにはいきいきとしていない。残念なことだけれど。
映画を題材にしたものでは、唯一、『山の郵便配達』がおもしろかった。最後の方の数行。
「 」
左前の方にハンカチで目を押さえている若い女性
「 」
右前の方の禿げた頭は動かない
一人ひとりみんな今を感じている
ことばが書かれていない。思いは、まだことばになっていない。そのことを伊藤は正確に書いている。空白のカギカッコのなかにはいることばは、「若い女性」「禿げた頭」のことばであると同時に伊藤のことばである。なにかが重なり合っている。重なり合っているけれど、それがまだことばにならない。「若い女性」「禿げた頭」がことばにできないだけではなく、伊藤もできないのだ。
こんなふうに、正直にはっせられたことばは美しい。そこに塗り込められた伊藤のこころは正直だ。こういうことばが出て来ると映画やテレビを題材にしていても、とてもおもしろいと思う。
この詩には、実は、このあと2行付け足しがあるが、その部分は、私は嫌いだ。せっかくの、ことばにならないことばという、その切実な美しさを汚してしまっていると思うからである。だから引用しなかった。省略した。
「娘がいないことがわからない」は、小学6年生の娘を殺害された父親がもらしたことばである。そのことばに反応する形で、伊藤は「娘がいないことがわからない」という詩を書いている。
そのなかに、とても美しい部分がある。
67ページの「わたしの なかの むすめの なかの しずくを」で始まる13行。全部ひらがなのわかちがき。私は今、目の状態がよくないので、引用すればきっと誤植だらけのものになる。ぜひ、詩集で読んでみてください。