詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

田原『石の記憶』(3)

2009-11-12 00:00:00 | 詩集
田原『石の記憶』(3)(思潮社、2009年10月25日発行)

 田原の詩は「文字」が美しい。その「文字」を追いかけてきて、ふいに「音」に出会う。「晩鐘」。

その飛行する音と落下する音は
滝が天から流れ落ちるように激越で
柳絮が舞い上がるようにしなやかである
雲に触れて 雲は音の花を咲かせ
田に落ちて 大地は天外の星のように落下する

 この美しい行では、私はまだ「文字」に魅せられている。「柳絮が舞い上がるようにしなやかである」では「しなやか」というひらがなの美しさにうっとりしてしまう。柳絮が「しなやか」という筆順(?)で動いているようだ。
 「雲は音の花を咲かせ」と「音」はでてくるが、私は「音」を聞いていない。私は「花」という「文字」「咲く」という「文字」のなかに、開いていく(?)「音」を見ている。
 私が「音」を感じたのは、次の行だ。

鐘の音は六朝五府を響いてくる

 「六朝五府」。私は「りくちょうごふ」と読んだが、中国語では、どう発音するのだろうか。わからない。そして、その「わからない」ということが「音」を響かせるのである。私の知らない「音」がそこにはあるのだ。私の聞いたことのない「音」がそこにはあるのだ。
 田原は「六朝五府」という文字を書くとき、日本語で発音していたのか。あるいは中国語で発音していたのか。日本語で発音したとき、田原の「肉耳」のなかで、その中国語(? たぶん、中国語といっていいのだと思う。日本の歴史家が「六朝五府」と言いはじめたわけではないだろうから)はどんな音を響かせていたのか。

 私は、猛烈に、激烈に、その「音」を知りたい。田原が「六朝五府」と書いていたときに、田原の「肉体」のなかに響いていた「音」を聞きたい。
 その「音」が聞こえたとき、次の魅力的な行の「音」、そこに書かれている「音」が何かもわかる。わかるはずだと、思う。

私は鐘の音のなかの暴動と一揆を思い出す
鐘の音のなかの陰謀と計略も思い出す
暗い歳月において 鐘の音は鐘の音である
明るい日々において 鐘の音はやはり鐘の音である
時間はその音質を変えられないが
それはかって時間と日々を変えてゆく

 この連のおわりの2行。そこに書かれている「音質」。あ、それを知りたい。その「文字」は私にどんな「音」をも響かせてくれない。その「文字」は私の耳には聞こえない。聞こえない「音」がある。田原は私の知らない「音」を聞いている。そして、その「音」とともに、とても重要な「哲学」(思想)を書いている。
 私はそれを「論理」「概念」として追いかけることはできる。この行に共感したと書くこともできる。けれど、それは、書けば嘘になるのだ。私は田原の聞いている「音」を聞いていないからである。
 日本語で書かれているから、私は田原の詩を日本語として読む。日本語の音をあてて読む。(黙読だけれど、耳のなかには日本語の音が響いているし、口蓋、舌、喉、鼻腔、歯にも日本語の音が触れている。)けれど、そこには、その「文字」の奥には、私の知らない「音」があるのだ。
 「六朝五府」。「文字」で書いてしまえば、「意味」は日本人と(日本語を読める人間と)中国人で共有される。そして「意味」を共有すると何かがわかったつもりになるが、肝心なことはわからない。その「文字」を発音するとき、舌や喉、口蓋、鼻腔、歯などとともにある感覚--その肉体の奥深いものがわからない。
 田原が「音質」と読んでいるような、変えようもないもの(変わらないもの)がわからない。その変えようのないものがあるから、「時間と日々を変えてゆく」と書かれたことばを追うとき、そこで「理解」したものは、単に「頭」で「理解」しただけの「空想」になる。

 ああ、悔しい。「音」が聞こえないことが、こんなに悔しいとは思いもしなかった。「文字」でさんざんひきつけておいて、「音」を沈黙よりもさらに遠いところにかくしているなんて……。ああ、その「音」は中国人なら聞きとれるのに、私が日本人であるばっかりに(?)、まったく聞こえないなんて。「音」がないから「沈黙」なのではなく、「音」があるのに、それに反応しようがないのだ。

 こうした「音」に触れた後では、「沈黙」ということばも違って響いてくる。「内田宗二に捧げる挽歌」。

沈黙は肉体の中に化石になり
泉のような熱い涙は余計なものになってしまう

 「意味」(論理)としては、「沈黙」は「黙っている」こと、(「黙って祈りたい」のだまっていること)なのだが、その「黙る」ことで封じた「音」は、私がたとえば内田宗二を知っていて黙祷するときの「音」と田原では違うのである。「黙祷する」という行為は同じでも、そのときの肉体のなかの「音」が違う。したがって、「化石」も違うのである。
 ここには、私のたどりつけない何かが書かれている。たどりつけない。だからこそ、それを知りたい。それを「肉体」として受け止めたい--そういう気持ちに襲われる。

 中国と日本。漢字。漢字から派生したカタカナ、ひらがな。「文字」の底を流れている何か。それをじっと見つめるとき「文字」にこめられた「祈り」のようなもの、あるいは変わることのない「いのち」のようなものを感じる。田原の「文字」はそういうものを静かに伝えてくる。
 けれど、「音」は伝えて来ない。
 「文字」にも「音」はあるのに、私の、日本人の耳は、その「文字」から日本語の「音」しか聞きとれない。
 目では中国に触れるのに、耳では中国に触れることができないのだ。

 絶望しながら、けれどというか、絶望するからこそかも知れないが、田原のことばは私を引きつける。その「文字」の世界に、ぐいぐいひきこまれる。

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