山本純子『句集 カヌー干す』(ふらんす堂、2009年09月20日発行)
柴田千晶『句集 赤き毛皮』(金雀枝舎、2009年09月20日発行)
私は俳句をほとんど知らない。門外漢である。山本純子も柴田千晶も私にとっては詩人だが、ふたりとも俳句を書いている。ふたりとも句集を出している。
私には、山本純子の句の方が俳句に感じられる。呼吸が俳句っぽい。印象に残った句と感想。
またぐ方もまたがれる方も、その乱暴を許している。そういう開放的な感じがいい。潮風のゆったりした動きを感じる。
雪だるまをつくる。楽しいけれど、体が冷える。缶コーヒーを両手でもって、ああ、あったかい。手を温めてから、おもむろにコーヒーをすする。その感じ。
ふーん。塩ひとつかみ、 100㌘か。よくわからないけれど、「春場所」の「春」が生きていると感じる。初場所や夏場所では、塩の印象も、 100㌘という感じも違ってくるだろうなあ。初場所と春場所では1音違うだけだけれど、印象がかなり違う。初場所だと、なんだか清めの塩みたいだ。相撲の塩はもちろん清めの塩だろうけれど、初場所だとそれが強調されすぎて、 100㌘のおかしさが消える。
春という季節の、なんとなく、ふわふわと開放的な感じが生きていると思う。
「オーイ」と「ヘイ」のかけあい(?)のような感じが春っぽい。声のなかにほんわかした春の温かさがある。
山本の俳句に「呼吸」を感じるのは、こういう印象があるからだろう。ことばを「意味」ではなく、「声」をとおしてつかみとっている感じがあるからだろう。
確かにバナナは三回にわけて皮を剥くなあ。何でもないことだけれど、ふいにバナナの「肉体」がみえる。みえたことをことばにするって、おかしい。
句集のタイトルにもなっている「カヌー干すカレーは次の日もうまい」は坪内稔典がていねいに感想を書いている。それ以上、言うことはない。とてもいい句だと私も思う。
*
柴田千晶の句。柴田の句は、ことばが多い。俳句だから「5・7・5」の音節を守っているけれど、とてもことばが多い。「意味」が過剰である。それが山本の句と違って、呼吸を苦しくしている。声に出してつくった句ではなく、目で詠んだ句という印象がある。「現代詩」に近いのかもしれない。
これは、俳句というより、私には「現代詩」である。女性の性をどのように詠むか--そのときのことばの選択、それと向き合わせる(とりあわせる)季語をどう選択するか。その「呼吸」が、柴田の場合、とても厳しい。「声」になるまえに、「頭」のなかで文字が炸裂する。その輝き。それが、私の印象で言うと、俳句のもっている響きを破壊しているように感じられる。
そこにあるのは、意味の過剰により、重くなった輝きである。
そんななかにあって、
この句がいちばん好き。山本の句の場合「いちばん好き」というのを選ぶのがむずかしいけれど、柴田の場合は、これがいちばんいい。「土偶」はもっとやわらかいことば、たとえば「はにわ」のような音のことばの方が「ほと」というやわらかな音と響きあうとおもうけれど、「あたたかや」と「ほと」の「一本線」が、なんともいえず気持ちがいい。素朴なものがもつあたたかさ、その強さが「あたたかや」の「や」の切れ字と、きちんと向き合っているという感じがする。
父の介護をしていたときの句なのだろう。その一連の作品には、現実のしっかりした手触り、肉体の美しさがある。
詩は、どこにでもある。現実をみつめ、それをていねいにことばにするとき、詩はいつでも、そのことばのなかにやってきてくれる。
「明るくて」「輝けり」と、明るい光がみえるのは、もしかすると、偶然ではないのかもしれない。現実はいつでも人間に明るい光を運んできてくれるものなのかもしれない。病気の人の介護をするという苦しい時間のなかにも。
あ、いいなあ。深夜の静かさ。それを「匂い」が浮き立たせる。音でも光でもなく、「匂い」が夜を実感させる。そのときの、「肉体」の感じ、感覚の融合。こういう作品こそ、私は俳句だと思う。
こういう句も好きである。単なる偶然を描いているのかもしれないけれど、その偶然に出会い、それをことばにするということ--そのなかに必然があるかもしれない。ことばは、その現実といっしょになりたがっている。だから、そういう現実を呼び寄せた。そんなことさえ感じる。
柴田千晶『句集 赤き毛皮』(金雀枝舎、2009年09月20日発行)
私は俳句をほとんど知らない。門外漢である。山本純子も柴田千晶も私にとっては詩人だが、ふたりとも俳句を書いている。ふたりとも句集を出している。
私には、山本純子の句の方が俳句に感じられる。呼吸が俳句っぽい。印象に残った句と感想。
なにもかもまたいで歩く海の家
またぐ方もまたがれる方も、その乱暴を許している。そういう開放的な感じがいい。潮風のゆったりした動きを感じる。
雪だるまでいた一日缶コーヒー
雪だるまをつくる。楽しいけれど、体が冷える。缶コーヒーを両手でもって、ああ、あったかい。手を温めてから、おもむろにコーヒーをすする。その感じ。
春場所は塩をだいたい100g
ふーん。塩ひとつかみ、 100㌘か。よくわからないけれど、「春場所」の「春」が生きていると感じる。初場所や夏場所では、塩の印象も、 100㌘という感じも違ってくるだろうなあ。初場所と春場所では1音違うだけだけれど、印象がかなり違う。初場所だと、なんだか清めの塩みたいだ。相撲の塩はもちろん清めの塩だろうけれど、初場所だとそれが強調されすぎて、 100㌘のおかしさが消える。
春という季節の、なんとなく、ふわふわと開放的な感じが生きていると思う。
オーイとかヘイとか言った?春の虹
「オーイ」と「ヘイ」のかけあい(?)のような感じが春っぽい。声のなかにほんわかした春の温かさがある。
山本の俳句に「呼吸」を感じるのは、こういう印象があるからだろう。ことばを「意味」ではなく、「声」をとおしてつかみとっている感じがあるからだろう。
昼休み三方向へバナナ剥く
確かにバナナは三回にわけて皮を剥くなあ。何でもないことだけれど、ふいにバナナの「肉体」がみえる。みえたことをことばにするって、おかしい。
句集のタイトルにもなっている「カヌー干すカレーは次の日もうまい」は坪内稔典がていねいに感想を書いている。それ以上、言うことはない。とてもいい句だと私も思う。
*
柴田千晶の句。柴田の句は、ことばが多い。俳句だから「5・7・5」の音節を守っているけれど、とてもことばが多い。「意味」が過剰である。それが山本の句と違って、呼吸を苦しくしている。声に出してつくった句ではなく、目で詠んだ句という印象がある。「現代詩」に近いのかもしれない。
単純な穴になりたし曼珠沙華
これは、俳句というより、私には「現代詩」である。女性の性をどのように詠むか--そのときのことばの選択、それと向き合わせる(とりあわせる)季語をどう選択するか。その「呼吸」が、柴田の場合、とても厳しい。「声」になるまえに、「頭」のなかで文字が炸裂する。その輝き。それが、私の印象で言うと、俳句のもっている響きを破壊しているように感じられる。
そこにあるのは、意味の過剰により、重くなった輝きである。
そんななかにあって、
あたたかや土偶の陰(ほと)は一本線
この句がいちばん好き。山本の句の場合「いちばん好き」というのを選ぶのがむずかしいけれど、柴田の場合は、これがいちばんいい。「土偶」はもっとやわらかいことば、たとえば「はにわ」のような音のことばの方が「ほと」というやわらかな音と響きあうとおもうけれど、「あたたかや」と「ほと」の「一本線」が、なんともいえず気持ちがいい。素朴なものがもつあたたかさ、その強さが「あたたかや」の「や」の切れ字と、きちんと向き合っているという感じがする。
父の介護をしていたときの句なのだろう。その一連の作品には、現実のしっかりした手触り、肉体の美しさがある。
溲瓶洗ふ雪降る窓の明るくて
冬の日に薬臭の尿輝けり
詩は、どこにでもある。現実をみつめ、それをていねいにことばにするとき、詩はいつでも、そのことばのなかにやってきてくれる。
「明るくて」「輝けり」と、明るい光がみえるのは、もしかすると、偶然ではないのかもしれない。現実はいつでも人間に明るい光を運んできてくれるものなのかもしれない。病気の人の介護をするという苦しい時間のなかにも。
セーターの雨の匂ひや深夜バス
あ、いいなあ。深夜の静かさ。それを「匂い」が浮き立たせる。音でも光でもなく、「匂い」が夜を実感させる。そのときの、「肉体」の感じ、感覚の融合。こういう作品こそ、私は俳句だと思う。
短日や妊婦ばかりのエレベーター
こういう句も好きである。単なる偶然を描いているのかもしれないけれど、その偶然に出会い、それをことばにするということ--そのなかに必然があるかもしれない。ことばは、その現実といっしょになりたがっている。だから、そういう現実を呼び寄せた。そんなことさえ感じる。
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