文月悠光『適切な世界の適切ならざる私』(2)(思潮社、2009年10月25日発行)
「なる」ということばが何度か出てくる。「私は、なる」というタイトルの詩もある。
引用部分の2か所の「私は私」には傍点がある。(引用では省略した。表記の方法を知らないので。)
いま、ここにいる「私」。それをだれもが「私」というけれど、私は、その限定された「私」ではない存在を「私」のなかに感じている。その「私」を「私」はなんとか、目に見える(?)ものにしたいと感じている。「私」は、だれもが「私」と認めている(断定している?)「私」を超えて、「私」自身が感じている「私」に「なりたい」。
それは、たとえていえば、「水になりたい!」と叫んだときの「水」に仮託された何かである。このときの「なりたい」(なる)は、きのう日記に書いたことばをつかって言いなおせば「むり」「背伸び」である。「私」は「水」そのものではない。だから「水」にはなれない。「水」そのものにはなれない。けれど、「水」ということばをつかうとき、感情の中で、精神の中で動いている何か--それをはっきりとさせることはできる。感情・精神のなかで「水」になる。そういう「なり方」というものがある。そういう自己超越の仕方というものがある。文月のことばは、そういう「なり方」の軌跡を清潔に描いている。この清潔さの中に、その透明な「息」のなかに、口臭のない「呼吸」のなかに、私は、彼女の特質を感じている。
そして、常に、「むり」「背伸び」をして、「私」であることを超えながら、「私は、私になる」ということを繰り返す。そうすることが、「私が私である」ということなのだと感じている。
「なる」ことと「あること」。生成と存在。その「つなぎめ」を文月は探している。
この、「なる」と「ある」は、日本語では別のことばのようであるけれど、英語ではひとつのことばで言い表されることがある。ハムレットの、
生きるべきか、死すべきか。為すべきか、為さざるべきか、成るべきか、成らざるべきか。
「なす」と「生す」とも書くから、「生すべきか、生さざるべきか」から、「生きるべきか、死すべきか」ということばが発生してくる。「生きる」とは「生す」をつづけ、何かに「成る」こと、何かを「生む」こと、「生まれかわること」でもある。
文月は、そうした「哲学」のもとに、ことばを統一している。制御している。その力が、文月のことばを強いものにしている。
「なる」ということばに関して言えば、いま感想を書いた「私は、なる」に、その「思想・哲学」が直接的に刻印されている。ちょっと、刻印の仕方が「なまなましい」。生硬な感じがしないでもない。
「私は、なる」に生硬さを感じたせいかもしれないが、反動のようにして、「下校」に出てくる「なる」に私は、こころが震えた。美しいと感じた。「私は、なる」よりも、ふと書かれた「なる」に、文月特有の透明さ、オードリー・ヘップバーンを見たときに感じる透明な美しさ、どこにも存在しない「少年」の美しさを感じた。そして、オードリーを超える、文月だけの美しさを見たと思った。
「成らば成らねと開きはじめる」は「成らねば成らぬ」の誤植だろうと思って読んだ。(再販のときは、直してくださいね。)「成らぬ」はほんらい「ならぬ」と書くのが学校文法だとも思うのだが、思わず「成らぬ」と書いてしまうのは、「なる」ということに対する強い思い入れがあるからだろう。
それはさておき。
ふと、通学路で見た双葉。その葉っぱに「濃い緑にならねばならぬ」(あえて、ひらがなに書き直しておく)という「意欲」(こころの動き)を感じ取る。そして、そのこころの動きの間から(文月は、正確には「二枚の葉の間から」と書いているが)、「黒いもの」を垣間見ている。
「黒いもの」。何?
そのとき見えたものを「頭」と感じ取る力。そして、その「頭」を拒絶するように、駆け出す文月。
ここに、美しい美しい美しい(何度重ねても足りないくらいの)美しさがある。
双葉に、「濃い緑にならねばならぬと開きはじめる」動きを感じ、それと共鳴するまではオードリーの美しさ。「むり」「背伸び」のなかにある強い生命力の美しさ。純粋な美しさ。
そして、そういう「むり」「背伸び」というものは、精神・こころだけではなく、「頭」でも、実は可能である。けれど、「むり」「背伸び」に「頭」が入ってきたら(頭で意識して「むり」「背伸び」をしたら)、それは「透明」ではなく、「黒」になる。
この直感。
「頭」を「透明」ではなく、「黒」と感じ、「瞬時に鞄を投げ捨て、駆け出した。」その肉体の反応。これがオードリーを超越する部分だ。文月の特権的な美しさだ。
「鞄」は「頭」の別称。鞄につまっている「本」(教科書)は「頭」の別称。そして、「投げ出す」は拒絶のひとつの形。「駆け出した」は、単に拒絶するだけではなく、それから遠ざかる強い意志のあらわれ--そんなふうに読むと、既成のものを捨て去って、自分の「肉体」だけを信じて、「私」に「なろう」、「私」で「ありつづけよう」とする文月が見えてくる。
「なる」ことは、「いま」への異議申し立て。「いま」の「ある」への拒絶。しかし、その拒絶の方法として「頭」(いま、ここに確立されている方法--教科書)はつかわない。それを拒絶して「投げ出す」という「肉体」、「いま」「ある」ものから「駆け出す」という「肉体」、そのとき、その「肉体」を駆け抜けているのは、「透明」な「息」、みずみずしい(水水しい、と思わず書きたくなってしまう)「呼吸」なのだ。
その、輝きを感じた。
「なる」ということばが何度か出てくる。「私は、なる」というタイトルの詩もある。
「誰かが、私は私だと決めつけるの」
彼女の瞳から目を離すことができない。もう一つのピアノがその瞳の中に立ち
上がる。発想記号を脱ぎすて、放課後に乱立していく。
「私は私じゃないかもしれないのに、どうして」
引用部分の2か所の「私は私」には傍点がある。(引用では省略した。表記の方法を知らないので。)
いま、ここにいる「私」。それをだれもが「私」というけれど、私は、その限定された「私」ではない存在を「私」のなかに感じている。その「私」を「私」はなんとか、目に見える(?)ものにしたいと感じている。「私」は、だれもが「私」と認めている(断定している?)「私」を超えて、「私」自身が感じている「私」に「なりたい」。
それは、たとえていえば、「水になりたい!」と叫んだときの「水」に仮託された何かである。このときの「なりたい」(なる)は、きのう日記に書いたことばをつかって言いなおせば「むり」「背伸び」である。「私」は「水」そのものではない。だから「水」にはなれない。「水」そのものにはなれない。けれど、「水」ということばをつかうとき、感情の中で、精神の中で動いている何か--それをはっきりとさせることはできる。感情・精神のなかで「水」になる。そういう「なり方」というものがある。そういう自己超越の仕方というものがある。文月のことばは、そういう「なり方」の軌跡を清潔に描いている。この清潔さの中に、その透明な「息」のなかに、口臭のない「呼吸」のなかに、私は、彼女の特質を感じている。
そして、常に、「むり」「背伸び」をして、「私」であることを超えながら、「私は、私になる」ということを繰り返す。そうすることが、「私が私である」ということなのだと感じている。
「なる」ことと「あること」。生成と存在。その「つなぎめ」を文月は探している。
この、「なる」と「ある」は、日本語では別のことばのようであるけれど、英語ではひとつのことばで言い表されることがある。ハムレットの、
to be, or not to be
生きるべきか、死すべきか。為すべきか、為さざるべきか、成るべきか、成らざるべきか。
「なす」と「生す」とも書くから、「生すべきか、生さざるべきか」から、「生きるべきか、死すべきか」ということばが発生してくる。「生きる」とは「生す」をつづけ、何かに「成る」こと、何かを「生む」こと、「生まれかわること」でもある。
文月は、そうした「哲学」のもとに、ことばを統一している。制御している。その力が、文月のことばを強いものにしている。
「なる」ということばに関して言えば、いま感想を書いた「私は、なる」に、その「思想・哲学」が直接的に刻印されている。ちょっと、刻印の仕方が「なまなましい」。生硬な感じがしないでもない。
「私は、なる」に生硬さを感じたせいかもしれないが、反動のようにして、「下校」に出てくる「なる」に私は、こころが震えた。美しいと感じた。「私は、なる」よりも、ふと書かれた「なる」に、文月特有の透明さ、オードリー・ヘップバーンを見たときに感じる透明な美しさ、どこにも存在しない「少年」の美しさを感じた。そして、オードリーを超える、文月だけの美しさを見たと思った。
ふたばは、濃い緑に成らば成らねと開きはじめる。その二枚の葉の間から、黒
いものが垣間見えた。それは、小さなつむじ頭のようだ。私は瞬時に鞄を投げ
捨て、駆け出した。
「成らば成らねと開きはじめる」は「成らねば成らぬ」の誤植だろうと思って読んだ。(再販のときは、直してくださいね。)「成らぬ」はほんらい「ならぬ」と書くのが学校文法だとも思うのだが、思わず「成らぬ」と書いてしまうのは、「なる」ということに対する強い思い入れがあるからだろう。
それはさておき。
ふと、通学路で見た双葉。その葉っぱに「濃い緑にならねばならぬ」(あえて、ひらがなに書き直しておく)という「意欲」(こころの動き)を感じ取る。そして、そのこころの動きの間から(文月は、正確には「二枚の葉の間から」と書いているが)、「黒いもの」を垣間見ている。
「黒いもの」。何?
小さなつむじ頭のようだ
そのとき見えたものを「頭」と感じ取る力。そして、その「頭」を拒絶するように、駆け出す文月。
ここに、美しい美しい美しい(何度重ねても足りないくらいの)美しさがある。
双葉に、「濃い緑にならねばならぬと開きはじめる」動きを感じ、それと共鳴するまではオードリーの美しさ。「むり」「背伸び」のなかにある強い生命力の美しさ。純粋な美しさ。
そして、そういう「むり」「背伸び」というものは、精神・こころだけではなく、「頭」でも、実は可能である。けれど、「むり」「背伸び」に「頭」が入ってきたら(頭で意識して「むり」「背伸び」をしたら)、それは「透明」ではなく、「黒」になる。
この直感。
「頭」を「透明」ではなく、「黒」と感じ、「瞬時に鞄を投げ捨て、駆け出した。」その肉体の反応。これがオードリーを超越する部分だ。文月の特権的な美しさだ。
「鞄」は「頭」の別称。鞄につまっている「本」(教科書)は「頭」の別称。そして、「投げ出す」は拒絶のひとつの形。「駆け出した」は、単に拒絶するだけではなく、それから遠ざかる強い意志のあらわれ--そんなふうに読むと、既成のものを捨て去って、自分の「肉体」だけを信じて、「私」に「なろう」、「私」で「ありつづけよう」とする文月が見えてくる。
「なる」ことは、「いま」への異議申し立て。「いま」の「ある」への拒絶。しかし、その拒絶の方法として「頭」(いま、ここに確立されている方法--教科書)はつかわない。それを拒絶して「投げ出す」という「肉体」、「いま」「ある」ものから「駆け出す」という「肉体」、そのとき、その「肉体」を駆け抜けているのは、「透明」な「息」、みずみずしい(水水しい、と思わず書きたくなってしまう)「呼吸」なのだ。
その、輝きを感じた。
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