監督・原案・脚本 ポン・ジュノ 出演 キム・ヘジャ、ウォンビン
知的障害のある息子に殺人容疑がかかる。その容疑を晴らし、真犯人を捕まえようとする母親の姿を描いている。強く、そして弱い人間をリアルに描き出している。キム・ヘジャが名演としかいいようのない演技で母親像をスクリーンに刻みつける。傑作である。
ただし、問題点がある。「間」の処理が、一か所、とても「ずるい」。「推理」を含むからしようがない--といってしまえばそれまでだが、「間」がほんとうに「ずるい」。
「間」にはいろいろな種類がある。
「イングロリアス・バスターズ」では、「章」仕立ての「間」は「場面」の切り替えとしてつかわれていた。「場」がかわるというのは、次のシーンでは「時間」もかわる、ということである。そして、そこには「省略」がある。「飛躍」がある。「間」によって、観客は、画面の切り替えと同時に、それまでの場所と時間を超えて、別の場所、時間へ移動する。これは一種の約束事である。
「あの日、欲望の大地で」では、「間」は人と人との関係を象徴するものとして描かれていた。そういう「間」は、場面、時間がどんなにかわっても「同じ」である。この場合の「間」とは「思想」のようなものである。かわらない。そして、かわらないことが、ドラマをつくりだしていく。かわらないはずの「間」が、あるときかわらざるをえなくなる。どうやって、かえていくか。どうやって、その変化を乗り切るか。そこに「人間性」というものがでてくる。
「母なる証明」では、キム・ヘジャの演じる母は、「あの日、欲望の大地で」のシャーリーズ・セロンに似ている。「間」のありかたか、シャーリーズ・セロンに似ている。息子にべったりと密着していた「間」。それが、あるときから揺らぐ。殺人容疑がかかることで、強制的に密着できない「間」ができる。息子は拘束されている。会えない。その強制的な「間」。それを解消するために、母親は奔走する。
そして、その奔走の過程で、何度か「間」に変化が生じる。「犯人」の手がかりがみつかったとき、母親には「間」が縮まったという錯覚が生まれる。しかし、その「錯覚」はつづかず、逆に、母と子の間に、亀裂が入ることもある。
一度目。息子は「5歳のとき、母に殺されそうになった」と昔のことを思い出し、母を拒絶する。拒絶されて、さらに母は息子との「間」を埋めるために、容疑を晴らそうとする。
二度目。息子が過失で少女を殺したことを知ってしまう。殺人ではなく、過失致死というのが正確なところなのだろうけれど、その事実は、母と息子を完全に切り離してしまう。「間」は絶対的な隔たりとなる。それを、母は、しかし受け入れることができない。そのために、弱い人間になってしまう。
それはそれでいい。それでいい、というのも変な表現だが、これは映画なのだから、そういうふうにして人間を描くことに問題はない。むしろ人間の深層をえぐりだした傑作ということになる。
問題は、そういう「人間」、「人」の「間」ではなく、別の「間」である。
「イングロリアス・バスターズ」で「場」と「時間」に「間」がある、と書いた。
この映画でも「時間」に「間」がある。どんな映画でも、何日ものことを2時間くらいの時間でみせてしまうのだから、そこには「省略」という時間の「間」がある。しかし、その「間」は、たいてい「場」の「間」と同じようにして描かれる。場所がかわる。だから時間が変わる。それが一種の鉄則である。場所が変わらないときは、「○年後」というような「字幕」で説明したりする。
この映画は、そのいちばんの基本で「うそ」をついているところがある。「間」をごまかしているところがある。
殺される少女。その少女が息子の前を歩いている。廃屋に入っていく。その廃屋から、大きな石が道に投げ出される。息子は、ぎょっとする。石を投げ返す。何も起きない。そして、息子は立ち去る。その一連のシーンのなかに問題の「間」がある。
石を投げ返す。そして、息子が立ち去る。そのあいだに、実は「間」がある。スクリーンでは一瞬だが、ほんとうは長い長い「時間」がある。その「長い間」をこの映画は、一瞬に縮めてしまっていて、最後に、種明かしのように、実は「長い間」があったのです--という。
これは、詐欺である。
たしかに、息子が立ち去るときの表情--そこには「違和感」がある。見た瞬間、あれ、何かが変わったと思う。けれど、それは石が投げ出され、放りかえしたのに反応がないことへの不気味さに対する反応に見えてしまう。それでは詐欺だとしかいいようがない。「違和感」を感じさせる息子の演技は絶品だけれど、絶品ゆえに問題が大きすぎる。
映画の傷として、あまりにも大きすぎる。
「間」を詐欺に利用してはいけない。
*
その「間」を別にすれば、この映画は冒頭のキム・ヘジャの荒地のダンス、そしてラストのバスのなかのダンスシーンがとてつもなくすばらしい。特に、太陽の光がバスの窓から入ってきて、逆光のなかで踊るシーンが美しい。悲しい。バスのなかのシーンなのに、そのバスのなかの空気が、バスの窓を越えて客席にひろがってくる。
ああ、だからこそ、たったひとつの「間」の処理の詐欺が許せない、と思うのだ。
知的障害のある息子に殺人容疑がかかる。その容疑を晴らし、真犯人を捕まえようとする母親の姿を描いている。強く、そして弱い人間をリアルに描き出している。キム・ヘジャが名演としかいいようのない演技で母親像をスクリーンに刻みつける。傑作である。
ただし、問題点がある。「間」の処理が、一か所、とても「ずるい」。「推理」を含むからしようがない--といってしまえばそれまでだが、「間」がほんとうに「ずるい」。
「間」にはいろいろな種類がある。
「イングロリアス・バスターズ」では、「章」仕立ての「間」は「場面」の切り替えとしてつかわれていた。「場」がかわるというのは、次のシーンでは「時間」もかわる、ということである。そして、そこには「省略」がある。「飛躍」がある。「間」によって、観客は、画面の切り替えと同時に、それまでの場所と時間を超えて、別の場所、時間へ移動する。これは一種の約束事である。
「あの日、欲望の大地で」では、「間」は人と人との関係を象徴するものとして描かれていた。そういう「間」は、場面、時間がどんなにかわっても「同じ」である。この場合の「間」とは「思想」のようなものである。かわらない。そして、かわらないことが、ドラマをつくりだしていく。かわらないはずの「間」が、あるときかわらざるをえなくなる。どうやって、かえていくか。どうやって、その変化を乗り切るか。そこに「人間性」というものがでてくる。
「母なる証明」では、キム・ヘジャの演じる母は、「あの日、欲望の大地で」のシャーリーズ・セロンに似ている。「間」のありかたか、シャーリーズ・セロンに似ている。息子にべったりと密着していた「間」。それが、あるときから揺らぐ。殺人容疑がかかることで、強制的に密着できない「間」ができる。息子は拘束されている。会えない。その強制的な「間」。それを解消するために、母親は奔走する。
そして、その奔走の過程で、何度か「間」に変化が生じる。「犯人」の手がかりがみつかったとき、母親には「間」が縮まったという錯覚が生まれる。しかし、その「錯覚」はつづかず、逆に、母と子の間に、亀裂が入ることもある。
一度目。息子は「5歳のとき、母に殺されそうになった」と昔のことを思い出し、母を拒絶する。拒絶されて、さらに母は息子との「間」を埋めるために、容疑を晴らそうとする。
二度目。息子が過失で少女を殺したことを知ってしまう。殺人ではなく、過失致死というのが正確なところなのだろうけれど、その事実は、母と息子を完全に切り離してしまう。「間」は絶対的な隔たりとなる。それを、母は、しかし受け入れることができない。そのために、弱い人間になってしまう。
それはそれでいい。それでいい、というのも変な表現だが、これは映画なのだから、そういうふうにして人間を描くことに問題はない。むしろ人間の深層をえぐりだした傑作ということになる。
問題は、そういう「人間」、「人」の「間」ではなく、別の「間」である。
「イングロリアス・バスターズ」で「場」と「時間」に「間」がある、と書いた。
この映画でも「時間」に「間」がある。どんな映画でも、何日ものことを2時間くらいの時間でみせてしまうのだから、そこには「省略」という時間の「間」がある。しかし、その「間」は、たいてい「場」の「間」と同じようにして描かれる。場所がかわる。だから時間が変わる。それが一種の鉄則である。場所が変わらないときは、「○年後」というような「字幕」で説明したりする。
この映画は、そのいちばんの基本で「うそ」をついているところがある。「間」をごまかしているところがある。
殺される少女。その少女が息子の前を歩いている。廃屋に入っていく。その廃屋から、大きな石が道に投げ出される。息子は、ぎょっとする。石を投げ返す。何も起きない。そして、息子は立ち去る。その一連のシーンのなかに問題の「間」がある。
石を投げ返す。そして、息子が立ち去る。そのあいだに、実は「間」がある。スクリーンでは一瞬だが、ほんとうは長い長い「時間」がある。その「長い間」をこの映画は、一瞬に縮めてしまっていて、最後に、種明かしのように、実は「長い間」があったのです--という。
これは、詐欺である。
たしかに、息子が立ち去るときの表情--そこには「違和感」がある。見た瞬間、あれ、何かが変わったと思う。けれど、それは石が投げ出され、放りかえしたのに反応がないことへの不気味さに対する反応に見えてしまう。それでは詐欺だとしかいいようがない。「違和感」を感じさせる息子の演技は絶品だけれど、絶品ゆえに問題が大きすぎる。
映画の傷として、あまりにも大きすぎる。
「間」を詐欺に利用してはいけない。
*
その「間」を別にすれば、この映画は冒頭のキム・ヘジャの荒地のダンス、そしてラストのバスのなかのダンスシーンがとてつもなくすばらしい。特に、太陽の光がバスの窓から入ってきて、逆光のなかで踊るシーンが美しい。悲しい。バスのなかのシーンなのに、そのバスのなかの空気が、バスの窓を越えて客席にひろがってくる。
ああ、だからこそ、たったひとつの「間」の処理の詐欺が許せない、と思うのだ。
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