詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

ポン・ジュノ監督「母なる証明」(★★★★★)

2009-11-24 11:57:06 | 映画
監督・原案・脚本 ポン・ジュノ 出演 キム・ヘジャ、ウォンビン

 知的障害のある息子に殺人容疑がかかる。その容疑を晴らし、真犯人を捕まえようとする母親の姿を描いている。強く、そして弱い人間をリアルに描き出している。キム・ヘジャが名演としかいいようのない演技で母親像をスクリーンに刻みつける。傑作である。
 ただし、問題点がある。「間」の処理が、一か所、とても「ずるい」。「推理」を含むからしようがない--といってしまえばそれまでだが、「間」がほんとうに「ずるい」。
 「間」にはいろいろな種類がある。
 「イングロリアス・バスターズ」では、「章」仕立ての「間」は「場面」の切り替えとしてつかわれていた。「場」がかわるというのは、次のシーンでは「時間」もかわる、ということである。そして、そこには「省略」がある。「飛躍」がある。「間」によって、観客は、画面の切り替えと同時に、それまでの場所と時間を超えて、別の場所、時間へ移動する。これは一種の約束事である。
 「あの日、欲望の大地で」では、「間」は人と人との関係を象徴するものとして描かれていた。そういう「間」は、場面、時間がどんなにかわっても「同じ」である。この場合の「間」とは「思想」のようなものである。かわらない。そして、かわらないことが、ドラマをつくりだしていく。かわらないはずの「間」が、あるときかわらざるをえなくなる。どうやって、かえていくか。どうやって、その変化を乗り切るか。そこに「人間性」というものがでてくる。

 「母なる証明」では、キム・ヘジャの演じる母は、「あの日、欲望の大地で」のシャーリーズ・セロンに似ている。「間」のありかたか、シャーリーズ・セロンに似ている。息子にべったりと密着していた「間」。それが、あるときから揺らぐ。殺人容疑がかかることで、強制的に密着できない「間」ができる。息子は拘束されている。会えない。その強制的な「間」。それを解消するために、母親は奔走する。
 そして、その奔走の過程で、何度か「間」に変化が生じる。「犯人」の手がかりがみつかったとき、母親には「間」が縮まったという錯覚が生まれる。しかし、その「錯覚」はつづかず、逆に、母と子の間に、亀裂が入ることもある。
 一度目。息子は「5歳のとき、母に殺されそうになった」と昔のことを思い出し、母を拒絶する。拒絶されて、さらに母は息子との「間」を埋めるために、容疑を晴らそうとする。
 二度目。息子が過失で少女を殺したことを知ってしまう。殺人ではなく、過失致死というのが正確なところなのだろうけれど、その事実は、母と息子を完全に切り離してしまう。「間」は絶対的な隔たりとなる。それを、母は、しかし受け入れることができない。そのために、弱い人間になってしまう。
 それはそれでいい。それでいい、というのも変な表現だが、これは映画なのだから、そういうふうにして人間を描くことに問題はない。むしろ人間の深層をえぐりだした傑作ということになる。
 問題は、そういう「人間」、「人」の「間」ではなく、別の「間」である。

 「イングロリアス・バスターズ」で「場」と「時間」に「間」がある、と書いた。
 この映画でも「時間」に「間」がある。どんな映画でも、何日ものことを2時間くらいの時間でみせてしまうのだから、そこには「省略」という時間の「間」がある。しかし、その「間」は、たいてい「場」の「間」と同じようにして描かれる。場所がかわる。だから時間が変わる。それが一種の鉄則である。場所が変わらないときは、「○年後」というような「字幕」で説明したりする。
 この映画は、そのいちばんの基本で「うそ」をついているところがある。「間」をごまかしているところがある。
 殺される少女。その少女が息子の前を歩いている。廃屋に入っていく。その廃屋から、大きな石が道に投げ出される。息子は、ぎょっとする。石を投げ返す。何も起きない。そして、息子は立ち去る。その一連のシーンのなかに問題の「間」がある。
 石を投げ返す。そして、息子が立ち去る。そのあいだに、実は「間」がある。スクリーンでは一瞬だが、ほんとうは長い長い「時間」がある。その「長い間」をこの映画は、一瞬に縮めてしまっていて、最後に、種明かしのように、実は「長い間」があったのです--という。
 これは、詐欺である。
 たしかに、息子が立ち去るときの表情--そこには「違和感」がある。見た瞬間、あれ、何かが変わったと思う。けれど、それは石が投げ出され、放りかえしたのに反応がないことへの不気味さに対する反応に見えてしまう。それでは詐欺だとしかいいようがない。「違和感」を感じさせる息子の演技は絶品だけれど、絶品ゆえに問題が大きすぎる。
 映画の傷として、あまりにも大きすぎる。
 「間」を詐欺に利用してはいけない。



 その「間」を別にすれば、この映画は冒頭のキム・ヘジャの荒地のダンス、そしてラストのバスのなかのダンスシーンがとてつもなくすばらしい。特に、太陽の光がバスの窓から入ってきて、逆光のなかで踊るシーンが美しい。悲しい。バスのなかのシーンなのに、そのバスのなかの空気が、バスの窓を越えて客席にひろがってくる。
 ああ、だからこそ、たったひとつの「間」の処理の詐欺が許せない、と思うのだ。



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三井喬子『青天の向こうがわ』

2009-11-24 00:00:00 | 詩集
三井喬子『青天の向こうがわ』(思潮社、2009年09月30日発行)

 「アンブレラ」という作品がある。書き出しはとても快調である。

お忙しいところ申し訳ありませんがアンブレラ
降ってます降ってますアンブレラ
天使さんが降ってますアンブレラ。
白い小さな形だけれど
当たると痛いアンブレラ

 「アンブレラ」が何なのかわからない。わからないけれど、私はこの書き出しはとても気に入っている。リズムがいい。こんなふうにリズムがいいと「アンブレラ」が何かの比喩である--ということは、考えなくてすむ。実際にアンブレラが降ってくるのが見える。
 そしてそれは「傘」あるいは「雨傘」ではない。「傘」あるいは「雨傘」から具体的な形を消し去った、変なものである。一瞬「傘」のように見えるけれど、その形はすぐに消えて、「アンブレラ」という「音」になっている。
 「音」が「音」のまま、降っている。
 それで、どうしたの、と言われるとちょっと困るが、その「降ってくる」という唐突さがいいのだ。
 雨だって、雪だって、降ってくるときは「唐突」である。--つまり、「私」に対して、いまから降っていいですか?というようなことは聞かずに、勝手に降ってくる、という意味で「唐突」である。雨が降ってくること、雪が降ってくることを、どうにかするということはできない。そういうものがある。
 「アンブレラ」もそういうものである。そういうものが、何かわからないから、ともかく「音」として降ってくるのである。
 そのことに共感できなかったら、まあ、この詩は、その人にとって詩ではない、ということになる。

 ということを私は書きたいのではない。実は。
 この詩の書き出しは、とてもおもしろい。けれど、最後がとてもつまらない。

どちらへ行きますかアンブレラ。
重たい後悔を載せたまま
手すりを越える
まだ張り出しがあるアンブレラ
アンブレラアンブレラ
天使さんはもう消えちゃった。
踏み出せば
たった一歩ですぞアンブレラ。
定められていることではありますが
落ちてみますかアンブレラ
青鈍色の
その世界の 底に。

 あらら。「アンブレラ」はどうもほんもののアンブレラみたい。歩道橋(たぶん)から投身した人のもっていたもの。自殺した人はそこにはもういないけれど、アンブレラが取り残されている。あるいは、その「投身自殺」は幻(空想)でもいいのだけれど、その死んでしまった人から取り残されたアンブレラから刺戟を(インスピレーション)を受けて書いたのが、この詩、ということになる。
 三井はことばの運動の「種明かし」をしている。
 それが、とてもつまらない。
 「青鈍色の/その世界の 底に。」の「青鈍色」というのは「車道」のアスファルトの色である。そういうものを最後に出してしまうと、ことばの自由な運動は、自由ではなくなってしまう。「比喩」に落ちていってしまう。詩は比喩の言い換えではない。

 ちょっと違った言い方をしてみる。違った部分から三井の詩に近づいてみる。
 誰にでも「キイワード」というものがある。私が「キイワード」と呼んでいるのは、その作者の「肉体」にしみついてしまって、作者から切り離すことのできない「思想」のことである。そして、私が問題にする「キイワード」はたいがいごくごく「平凡」なことばである。現代思想のキイワードのようにかっこいいことばではなく、書いた人さえ書いたことを忘れるような(つまり、深い意味をこめずに書いてしまう)ことばである。
 三井のキイワードは何か。
 「秋」という作品に出てくる。この「秋」も書き出しはとてもおもしろい。

仰臥するわたしの
上を 大きな足が通りすぎて行く
こんな夜更けに
草を刈り
野を広げ。
さまざまな足が過ぎて行く
足裏から血を流し
早かったり 遅かったりしながら。
理不尽の足の裏
不可知の足の裏
と 言うべきか
裸足の 偏平足の
重く また軽い足どりが過ぎて行く
ときに踊るように。

 書き出しがおもしろいと書いたが、実は、その書き出しに、「つまらない」ものがある。「と 言うべきか」という1行である。そして、これが三井の「キイワード」(肉体としての思想)である。
 「と 言うべきか」という1行はなくても、この書き出し、1連目は成立する。というよりも、ない方がスピード感があっていい。「と 言うべきか」という1行がことばのスピード、自由さを奪っている。
 それまでに登場する「足」は特権的に「足」であった。「足」以外の何ものでもない。説明を拒否して、ただ「足」だった。わからなければわからなくていい。「足」が見える人にだけ「足」が見えればいい--という足だった。
 そのあとも、そういう「足」にかわりはない、と三井は言うかもしれないが「と 言うべきか」という説明、補足が、実はその「足」には三井の思いがこもっていると告げてしまうのだ。そして、その「思い」が、重くするのだ。ことばを。

 三井の詩には、いつでも「と 言うべきか」が隠れている。存在している。もし、三井の詩の展開(ことばの運動)が見えにくくなったら、そこに「と 言うべきか」という1行を補ってみると、私の書いていることがわかりやすくなるかもしれない。
 
落ちてみますかアンブレラ
青鈍色の
その世界の 底に。
と 言うべきか
歩道橋の下の道に。

 快調なことば運びのときは、「と 言うべきか」が省略されている。ところが、ことばを動かしている内に、三井は、ときどき不安になるのだと思う。どこかで説明しなくてはいけないのではないだろうか。ことばは「論理」(説明)を省略したまま、勝手にどこまでも暴走してしまっていいのだろうか。そいういう不安にかられて、思わず「と 言うべきか」と書いてしまう。書かないまでも、それを「意識」のなかで動かしてしまう。その瞬間に、ことばが失速する。詩が詩ではなくなる。

 こんな感想は、詩集の紹介としては不向きなものなのかもしれない。三井の詩の魅力をつたえるということとは、まったく逆のことを書いているのだから。しかし、どうしてもそう書かずにいられなくなった。
 三井は、私がいま書いたような「癖」をもっている一方で、とても魅力的なことばも書いている。たとえば、「生誕」の次の2行。

路上電車の軌道の左右に
二つに分かれようとして繋がっている 一人の子供。

 わ、すごい。夢に見てしまいそうだ。「生誕」というタイトルなのだけれど、そこには「死」の影があって、そしてその「死」によって「いのち」がいっそう輝くような矛盾した運動。こういう自由なことばと一緒に走っている人は「と 言うべきか」などという「思想」でそのスピードを殺してはいけない。もっともっと、ただただ走って、そのスピードにことばが悔しくなって、(ライバル心を燃やして)、ことばが自分自身の力で、思わず三井を追い越してしまうくらいになると、詩がとっても楽しくなると思う。
 詩人は、詩のことばを説明してはいけないのだ。



青天の向こうがわ
三井 喬子
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