監督 ジム・ジャームッシュ 出演 イザック・ド・バンコレ、アレックス・デスカス、ジャン=フランソワ・ステヴナン、ルイス・トサル
ジム・ジャームッシュの映画は「間」がとてもいい。「間」と映像の美しさでひきつける。
「殺人」(暗殺?)を依頼された男が、標的を探して(?)スペインをさまよう。その過程に、怪しげな男、女があらわれる。それだけの映画である。
街がかわれば、男のスーツの色が変わる。(街の色にあわせている。)いろいろな男と女が「情報」を提供するために男に近づく。そのあいだに、「想像力」を鍛えなおす(インスピレーションを得るために?)、ソフィア美術館(マドリード)で絵を見る。そういう構造になっている。
同じことが繰り返されるのだから、そこに繰り返しの「間」が生まれ、登場人物が変わることによって「間」が変わるはずだが、この映画では「間」が変わらない。そこがおもしろい。状況が変わる、街が変わる、風景が変わるのに、「間」が変わらない。別な言い方をすると、男と他の登場人物の「関係」が変わらない。
いちばんわかりやすい例でいうと、女が近づいてきてセックスするよう誘いをかける。けれど、男は女とはセックスをしない。女が裸になって横に眠っていても、それは単に眠っているだけ。服を着ている、裸である--というだけで、そこには「間」の違いがあるはずである。男と女の肌と肌のあいだにある「邪魔者」がない。(ブルック・シールズはかつてカルバン・クラインのジーンズの宣伝で「私とカルバン・クラインのあいだには何もない(つまり、パンティーを履いていない)」というコマーシャルで評判になったことがあるけれど、あいだに何もない、何かあるというのは、「間」、つまり「関係」を邪魔するものがあるかないかということなのだが……)それなのに、男は、その「邪魔する存在」が不在にもかかわらず、「間」を以前のまま維持しつづける。
起きてしかるべき(?)ことが起きない、というのは、「間」がいつまでたっても変わらないということである。それは、とても滑稽なことである。笑いを誘うことである。この笑いは、ドタバタとは違って、なんというか、精神がくすぐられるような、軽い笑いである。この笑いが最後まで一貫してつづく。
人間が登場するのに、そしてその人間と交渉するのに、その人間との「間」が変わらない--それは、まるで、この男が「現実」を「映画」かなにか、いわば架空の世界と見ているというようなことになるのかもしれない。
象徴的なのが、銀髪の、アンブレラをもった女。彼女はとても目立つ格好で男に近づいてきて、男と映画の話をしたりする。その女が、その女の姿のまま、街の映画のポスターのなかにいる。それを男がしばらくながめているシーンがある。
その瞬間、現実と架空が交錯するのだが、それでも男の「間」が変わらない。いま起きていることが、現実か、夢か、などとは考えない。
また、男は、この映画では眠らない。そのことは、映画で起きていることは、ほんとうは夢かもしれないという「謎解き」に誘い込むけれど、ジム・ジャームッシュの演出は、その「謎解き」を前面に押し出すことがない。あくまで、たんたんと「同じ間」を繰り返す。「間」こそが「世界」なのだというように、強固にそれを守る。
なかなかの力業である。演出力がすごい、と思う。美しすぎる、とも思う。これは、ふつうの映画がエンターテインメント小説だとすると、純文学、それもただ「ことば」を「ことば」そのものとして存在させる「詩」に似ている。ジム・ジャームッシュは映像をただ映像としてそこに存在させ、映像と映像との「間」を守りつづけて一篇の作品に仕上げたのだ。現代詩の詩人が「ことば」と「ことば」の「間」をただひたすらいっかんして同じにすることで、「ことば」だけの世界をつくるように。そして、そのとき詩人が読ませたいと思っているのは「ことば」よりも「間」なのだ。「ことば」はどれも辞書に載っている。ところが「間」は辞書には載っていない。
どんな映像も、だれもが同じように撮影できるが、そのときの「間」はけっして同じにはならない。--そう思ってみると、きっと、この映画の美しさがわかるはずである。美しすぎて、夢のようであること--それが欠点であるのか美点なのかは、ちょっとわからないけれど。
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