岡田哲也『わが山川草木』(書肆山田、2009年10月10日発行)
「灰の世直(ゆの)り記」の「9」の部分。
「濁ッテイル」「混ザッテイル」。そう認識する力は濁ってもいない。また、そこに何かが混じっているわけでもない。逆に透明である。ここに岡田哲也の「矛盾」がある。つまり、岡田の詩と思想がある。
混濁のなかにすべてがあると見通す視力。思考力。それを私は「透明」と呼んでしまったかが、ほんとうは、透明を超越して、「分析する力」と言ってもいいかもしれない。しかし、「分析する力」では、岡田の思想とは少し違ってしまう。「分析する力」ではなく、ゆるやかに解きほぐし、何かを育てる力と言った方がいい。「分析」するだけなら、岡田よりも強い視力をもった詩人、あるいは著述家がいるだろう。ことばの使い手がいるだろう。岡田の特徴は、分析するだけではなく、育てる力にあると言うべきなのだろう。
濁り。混ざり。混濁--それは、一般的に否定的な意味を持っている。だが、その混濁のなかにも、混濁で終わってしまわない「いのち」がある。それをそっと混濁のなかから導き出し、それを育てる。そこから育っていくものは、混濁がもっている矛盾をエネルギーにして輝く新しいいのちである。岡田は、そういうものの「産婆」をめざしてている。
「温モリモアル」「深ミモアル」の「モ」。ここに岡田の特徴がある。「温モリガアル」「深ミガアル」ではなく、あくまで、「も、ある」なのだ。
あることがらを断定してしまうのではなく、「も」をつかって、幅を広げる。
この詩に登場する「温もり」「深み」(ちょっと面倒なので、ひらがなに書き換えてしまうが)ということばそのものもそうだが、その温もり、深みというのは絶対的なもの、限定的なもの(何度、とか、何メートルとデジタル化できるもの)ではない。最初からある程度の「幅」をもっている。
この「幅」を岡田は、「間」と呼んでいる。「間合い」と呼んでいる。「6」の部分に出てくる。
この「間」は「あいだ」ではなく、むしろ存在をつつみこむ「ひろがり」である。「矛盾」全体をつつみこむ--包容力である。
その包容力のひろがりのなかに、たとえば「人肌」とか、たとえば「黒潮」とか、岡田の暮らしになじんだものが入ってくる。いや、そういうものまでもつつみこむところまで、そこにあるものを育てていくいのちの力が岡田のことばにはある。
「五月のうた」は詩集のなかで私がもっとも好きな作品だ。そこには小野篁というような歴史上の人物や又留さん、末彦さんというような、誰だかわからない人がいっしょに登場する。同等の人格で登場する。すべての人間を対等につつみこむ力、そのなかから育つものは育てる、という「産婆」術。そういうことがていねいに書かれた詩である。
長いので、目の悪い私には引用している余裕がない。ぜひ、詩集を買って、読んでください。
「灰の世直(ゆの)り記」の「9」の部分。
ソノ白ハ
純白ヨリ スコシ 濁ッテイル
ダケド ソコニ 人肌ノヨウナ
温モリモアル
ソノ黒モ
真ッ黒に ナニカガ 混ザッテイル
ダケド ソコニ 黒潮ノヨウナ
深ミモアル
「濁ッテイル」「混ザッテイル」。そう認識する力は濁ってもいない。また、そこに何かが混じっているわけでもない。逆に透明である。ここに岡田哲也の「矛盾」がある。つまり、岡田の詩と思想がある。
混濁のなかにすべてがあると見通す視力。思考力。それを私は「透明」と呼んでしまったかが、ほんとうは、透明を超越して、「分析する力」と言ってもいいかもしれない。しかし、「分析する力」では、岡田の思想とは少し違ってしまう。「分析する力」ではなく、ゆるやかに解きほぐし、何かを育てる力と言った方がいい。「分析」するだけなら、岡田よりも強い視力をもった詩人、あるいは著述家がいるだろう。ことばの使い手がいるだろう。岡田の特徴は、分析するだけではなく、育てる力にあると言うべきなのだろう。
濁り。混ざり。混濁--それは、一般的に否定的な意味を持っている。だが、その混濁のなかにも、混濁で終わってしまわない「いのち」がある。それをそっと混濁のなかから導き出し、それを育てる。そこから育っていくものは、混濁がもっている矛盾をエネルギーにして輝く新しいいのちである。岡田は、そういうものの「産婆」をめざしてている。
「温モリモアル」「深ミモアル」の「モ」。ここに岡田の特徴がある。「温モリガアル」「深ミガアル」ではなく、あくまで、「も、ある」なのだ。
あることがらを断定してしまうのではなく、「も」をつかって、幅を広げる。
この詩に登場する「温もり」「深み」(ちょっと面倒なので、ひらがなに書き換えてしまうが)ということばそのものもそうだが、その温もり、深みというのは絶対的なもの、限定的なもの(何度、とか、何メートルとデジタル化できるもの)ではない。最初からある程度の「幅」をもっている。
この「幅」を岡田は、「間」と呼んでいる。「間合い」と呼んでいる。「6」の部分に出てくる。
灰はイエスかノーじゃない
まあまあの まさに間(ま)
きみと俺 きみとこの世の間合いなんだよ
この「間」は「あいだ」ではなく、むしろ存在をつつみこむ「ひろがり」である。「矛盾」全体をつつみこむ--包容力である。
その包容力のひろがりのなかに、たとえば「人肌」とか、たとえば「黒潮」とか、岡田の暮らしになじんだものが入ってくる。いや、そういうものまでもつつみこむところまで、そこにあるものを育てていくいのちの力が岡田のことばにはある。
「五月のうた」は詩集のなかで私がもっとも好きな作品だ。そこには小野篁というような歴史上の人物や又留さん、末彦さんというような、誰だかわからない人がいっしょに登場する。同等の人格で登場する。すべての人間を対等につつみこむ力、そのなかから育つものは育てる、という「産婆」術。そういうことがていねいに書かれた詩である。
長いので、目の悪い私には引用している余裕がない。ぜひ、詩集を買って、読んでください。