詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

Billy Elliot

2009-11-26 11:41:06 | その他(音楽、小説etc)
Billy Elliot(Imperial Theater)

 映画「リトル・ダンサー」をミュージカル化した作品。音楽はエルトン・ジョン。主演は4人が交代で演じていて、私が見たのはDavid Alvarez 。
 音楽、ダンスが楽しく、演出がスピーディーで、とても楽しい。2幕の冒頭には、映画にはなかったシーンがある。「白鳥の湖」を少年と青年が踊る。少年は将来こんなふうになるのだ、と想像させるファンタジックなシーンだ。(「リトル・ダンサー」のもどるになった青年は実際に「白鳥の湖」に主演している。)
 最初はふたりが同じ振り付けで踊り、そのうち一体になって少年が宙を舞う。湖で優雅に泳ぐ--グレイス・ケリー主演の映画「白鳥」では、白鳥は優雅に見えるけれど、水面下で足を必死に動かしている、というせりふがあるが、優雅に泳ぐだけではなく、白鳥は飛びもするのだと実感させてくれるとても美しいダンスだ。
 幻想ではなく、リアルな(?)ダンスシーンでは、椅子をつかったダンスがすばらしい。床ではなく、椅子の上で回転する--という練習のための椅子なのだが、それを片手でまわしながら(椅子をパートナーとして)踊る。人間だけではなく、椅子さえも、このミュージカルでは踊るのだ。
 装置もまた「演技」をするのだ、と実感した。

 小道具だけにはかぎらない。
 舞台は、あるときは少年の家、あるときはバレエ教室、あるときは炭鉱の街の路上にもなる。せり上がり式の少年の部屋が効果的だし、椅子やテーブルの小道具で場所を激変させる演出も美しい。せり上がり式の少年の部屋は、クライマックスの少年がロイヤル・バレエからの手紙を読むシーンでは、特に美しい。回転し、せり上がっていく部屋を追うようにして、父親たち家族が舞台を回る。少年に注ぐ視線がくっきりと浮かび上がる。視線などというものは無色・透明でほんとうは見えないのに、その視線がまぎれもなく見える。そして、視線が「愛」だと実感できる。とてもすばらしい。
 「The 39 STEPS」のときも感じたが、舞台で演じられるのは「うそ」である。「装置」は「うそ」であって、ほんものではない。ほんものは舞台にあるのではなく、観客の「想像力」のなかにある。その想像力を刺戟しつづける演出、そのために装置にさえも演技をさせてしまう手腕がすばらしい。父親がスト破りをするときの、フェンス、バリケードの動きは、「The 39 STEPS」の「扉」と同じ種類のものだが、緊張感がゆるまず、ただただ感心する。

 カーテンコールも楽しい。芝居の楽しみは、芝居そのものにもあるが、カーテンコールも楽しいものである。演技を離れた顔、役者の一瞬の地顔(でもないのかもしれないけれど)のやわらかさが私は大好きだ。このミュージカルでは、最後に全員がチュチュをつけて登場する。父親までもチュチュをつけて一緒に踊るし、認知症のおばあさんも踊るのだ。こういう幸福感はいいなあ、芝居ならではだなあ、と思う。



 ロングラン記録更新中の「The Phanton of the Opera」(Majestic Theatre)も見たが、「Billy Elliot」の後では、あ、古い、と感じてしまった。劇的な音楽の魅力はかわらないが、演出のスピード感が、いまとは少し違っている。スピードを期待してはいけないミュージカルなのだとはわかるけれど、何か古びてしまったという印象がぬぐえない。地下の水路、舟のシーンなど、もっと水を感じさせてくれないとなあ、などと思いながら見てしまった。あ、すごい、ではなく、余分なことを考えてしまうというのは演出にむだがあるということだろう。

Billy Elliot [Original Cast Recording]
Steve Pearce,Elton John,Martin Koch,Ralph Salmins,Adam Goldsmith,Laurence Davies,Richard Ashton,Tim Jones,Stephen Henderson,David Hartley,Chris Dean,Pete Beachill,Simon Harpham,Tracy Holloway,Derek Watkins,John Barclay,Mike Lovatt,Simon Gardner,Tom Rees-Roberts,Bruce White
Decca

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吉野令子「漂流」ほか

2009-11-26 00:00:00 | 詩(雑誌・同人誌)
吉野令子「漂流」ほか(「第二次ERA」3、2009年10月30日発行)

 吉野令子「漂流」もまた、わけのわからないことを書いている。ただし、きのう読んだ大橋政人とはまったく違った「わけのわからなさ」である。
 「漂流」。

そして、ここもいつのまにか円形の内なのを知り決意して枠から出たとききみはずっとまえに喪失した無い手が薄い硝子の破片を大切にたずさえていることに気づいたのだった そして 失った手が-伸びてゆく木々の緑の枝のために-ただ木々の枝が健やかであるために-眩い朝の光を期待すること-そのことは肯定してもいいとおもうのだった だが とはいえと息を継ぐ その手はけっして散乱し喪失したあの手の再生ではないこと 不連続にまったくふいに新たに生誕してきたのであること そう そしていまそのことをおもうことはいまなおそのことをおもうことはゆるされるのだろうかという問い そして きみは 熟考ののちにおもうのだった

 ことばが繰り返される。「そしていまそのことをおもうことはいまなおそのことをおもうことはゆるされるのだろうかという問い そして きみは 熟考ののちにおもうのだった」--この「おもう」の繰り返しは何だろう。わけがわからない。わけがわからないけれど、まあ、人間の考えは、何かのまわりをぐるぐるまわっているだけだから、そのうち重なる部分がでてきて、それを「わかった」と言い換えてしまうんだろうなあ、と思うと、この繰り返しは、おもしろい。簡単に言えること、「ちゃんとした日本語」で書こうとすればちゃんと書けることを、くだくだと書く。そのくだくだのなかにある「ちゃんとしないもの」--からはみだすものこそ、吉野が書きたいものだとわかる。
 わかったような気持ちになる。
 吉野が書きたいのは、私が感じていることとは違うかもしれないけれど、まあ、そんなことは、読者である私には関係がない。無責任なようだけれど、ほんとうに関係がない。吉野が書きたいものをくみ取って読むのではなく、私は私が読みたいものを読むだけである。
 「わけのわからないもの」が好き--というのは、その「わけのわからないもの」が、私のなかの未整理なことばを「濾過」してくれる、あるいは結晶させてくれるからかもしれない。

 吉野のこの作品の文体--その「肉体」でいちばんおもしろいのは、「だが とはいえと息を継ぐ」である。ここに吉野の「思想」がある。
 「おもう」を繰り返す。その繰り返しのなかにあるのは単純な繰り返しではない。同じことを繰り返しているのではない。あることを思い、そしてすぐに「だが……であるとはいえ」、「と」いったん「息を継ぐ」。そして、別な視点からいま書いてきたことばをとらえなおす。ことばにしてきた「事実」を言いなおす。そのとき「息」を意識している。そこに「思想」がある。
 「息継ぎ」とは「間」である。
 「間」は「隙間」に通じる。「隙間」は「ずれ」にも「断絶」にも通じる。
 「息」を継ぐと、そのたびに「間」が生まれる。「間」が生まれて、最初の「息」とともにあることばから、どんどん「ずれ」てゆく。そのことを吉野は「だが とはいえと息を継ぐ」ということばで肯定している。「ずれ」てゆくほうに、ことばを動かしていく。「息」を整え、いま書いてきたことばを整理しなおすのではなく、「息」を「継」いで、その先へ行ってしまう。
 どこまで行ってしまえるかわからないけれど、ともかく「息を継ぎ」、ことばを動かすのだ。そのときの動き--だんだん苦しくなって乱れることば、その乱れのなかに「肉体」が、吉野の思想がある。ことばはつないでゆけば必ず乱れる、という、美しい思想がある。その乱れを肯定する美しい思想がある。
 書き出しの「そして」の後の読点「、」以後の、長い長い一息のことば。そして、そのあとの「そして」「きみは」「失った手が-」という息継ぎだらけのことばのつながり方。こんな苦しい息継ぎをするなら、最初の長い文章を整理すればいいのに、といいたくなるくらいだが、この一息の長い文章と、その後の息継ぎの乱れ、乱れながらも先へことばを発しつづける体力。そこにこそ、詩の「いのち」がある。そのことを知っていて、吉野はことばを動かしている。
 わけがわからないけれど、こういう「いのち」のあり方が、私は好きだ。

 わけのわからなさ--ということでいえば、瀬崎祐の「骨切り屋の女」という詩は、「骨切り屋」という商売がわからない。そのわけのわからない店の女と鍾乳洞(?)のなかを進む話(?)を書いているのだが、これはわけのわからなさが「骨切り屋」だけで終わっている。それを超えるわけのわからなさがないために、詩ではなく「お話」になってしまっているような感じがする。

 岡野絵里子「永遠のカーヴ」の書き出し。

 歩道から出て手を挙げれば 屋根にランプを乗せた車は停まる

 ここでは「タクシー」が「屋根にランプを乗せた車」とはぐらかされている。わざとわからないように、そして、わかるように書かれている。それが「比喩」というか「言い換え」に終わっているので、ほんとうの「わけのわからなさ」へはたどりつけずに、「わけのわかった」ところへ落ち着いてしまう。「永遠」ということばがおわりの方に出てくるが、あ、そんな終わり方をしたら、すべてが「わけのわかったもの」になってしまう。それでは、ことばをうごかすかいがないような気がする。



 清岳こうは、わけのわからないことを書かない。自分のわかっていることだけを書く。わかっていることを書きながら、そのわかっていることで、どこまでたどりつくことができるかしっかりみきわめる。「世の中」(世界)とはわけのわからないものである、ということを認識している。常に、わけのわからないものが、わけのわからないことを利用して何かしようとしている。それをみきわめるために、わけのわかることを積み重ねてゆくのだ、という強い決意のようなものが、文体を清潔に鍛え上げている。
 私は、こういう作品も、とても好きだ。
 「追われ逃れて」の書き出しの4行。

陳君は春秋戦国時代の王族の血をひく品行方正・学業優秀の学生だった
陳君はほの暗い大講義室の演壇中央で江青女史の映画制作方針を批判した
娯楽映画こそが人民の心をゆさぶり人民の心を育てる
記録・政治・宣伝フィルム一辺倒は人民を愚弄するだけだ と

 むだがなく、強く、その文体に感動させられる。



その冬闇のなかのウェーブの細肩の雪片
吉野 令子
思潮社

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