詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

坂東里美『変奏曲』、森ミキエ『沿線植物』

2009-11-20 00:00:00 | 詩集
坂東里美『変奏曲』(あざみ書房、2009年10月01日発行)
森ミキエ『沿線植物』(七月堂、2009年07月07日発行)

 坂東里美『変奏曲』は「目次」を読むと、なんだか詩を読んでしまったような気分になるタイトルが並んでいる。「粘菌生活」「朗詠問題」「三鱗帽」。すべてがそういう調子ではなく、実は、それはほんの一部なのだが……。
 想像力を「歪めてみる力」と定義したのはバシュラールだったと思う。(私は、想像力の定義では、このバシュラールの定義がいちばん好きだ。)
 バシュラールは、その定義を解説(?)するエピソードとして、地球に春夏秋冬がある理由を質問したら、ある学生が「地球は楕円軌道を回っているからだ」と答えた例を引いている。楕円には長径と短径がある。長径のとき、つまり太陽から遠いときが冬。そして短径のとき、太陽に近いときが夏。もっともらしい。こんなふうに、もっともらしく事実をねじまげて論理(?)にしてしまう力--それが想像力。
 坂東は、こういう「想像力」を「年金生活」の「年金」を「粘菌」に置き換えることについやしている。うーん。「粘菌」をつかわず、「年金生活」そのものを描きながら、読者に、あれっ、これって「年金生活」をしている人のことではなく、もしかしたら「粘菌」が主役のエピソード?と思わせないと、想像力とは呼べないのではないか。
 坂東が「間違った答え」を最初に書いてしまっては、読者は、あれっ、何か変と思う暇がない。変だけれど、信じたいと思わせてくれない。
 バシュラールの例にもどると、あれっ、もし、長径のとき冬、短径のときが夏だとしたら、北半球が冬のとき、南半球が夏なのはなぜ? 成り立たないなあ。でも、「長径のとき冬、短径のときが夏」っていいなあ、わかりやすいなあ。へんだけれど、きっと正しい。宇宙の論理はいつでもシンプルなんだから。--そんなふうに信じ込ませてくれてこそ「想像力」だと思う。

 「落脳日和」の「落脳」は何の置き換えなのか私にはわからない。私は「酪農」くらいしか思いつかない。で、何の置き換えでもないと信じて読むのだが、この作品は、安直な(?)置き換えがないので、ちょっとおもしろい。「事実」を歪めてことばを動かす楽しさがある。

脳が落ちていた
微かに紅い灰白色の まるで頭上の桜の色を
映した かのような それは 卵ほどの 大
きさで こんなにも ぼんやりと 長い間
土手に座っていたのに 今になって気づいた
どこから いつ こぼれ落ちたのか すでに
からからに干からびていて 手のひらに乗せ
ると 思いのほか軽い 私の脳に違いなかっ
た 試みに 頭を指ではじくと ぐぼん と
空虚な音がする

 手のひらに乗せ、重さを測る。頭を指ではじく。まるで西瓜の味を調べるように。そういう「肉体」の動きが、想像力の「歪み」を、実際に存在するものとして定着させる。「肉体」は想像力の定着液なのである。「肉体」で、ことばを追いかけると、それは「事実」になる。そして、読者を引き込む。
 こういうことばの運動をもっと書いていけば楽しいのに、と思った。



 森ミキエ『沿線植物』。森の「想像力」は坂東の想像力のように「文字」に頼ることはない。
 「るすばん」の書き出し。

スリッパがのびる
スリッパが縮む

 スリッパは、伸び縮みしない素材でつくられているから、実際にのびたり縮んだりはしない。ここに書かれている「のび・縮み」は実際の生活のなかで「流通」していることばとは違っている。そして、違っていることを承知で森はことばを動かしつづける。
 そこから「想像力」は動きはじめる。
 2連目は、

交差点で信号をまっている
風が強い
向かいには歯科医院があって
(そこはかつてコンビニエンス・ストアだったから)
ガラスの壁には曇りのシートが貼られている
めくれば 通りに面して並ぶ治療台が見えるはず

 「見えないもの」を、存在を隠しているものをめくって見る。物理的にではなく、ことばの力で。そして、見える「はず」と断定する。
 森のことばは、そのあと、どんどん移動していってしまう。移動しながら、なんとかスリッパにもどろうとする。その過程に、森の「肉体」が出てくる。具体的にいうと、歯科医院で治療を受けたときの器具(機械)とか、それに通じるスプーン、お菓子の味とか、診察台の上で動けないときの感じとか……。
 そして、診察台のシートの上で、唯一(?)動かせる足を動かしている。そうすると、スリッパが動く。のびたり、縮んだり。つまり、足先が遠くにのびたり、手前に近づいて、目と先端との距離が縮んだり……という具合。
 何でもないことなのかもしれないけれど、ここでは「肉体」がきちんと「事実」を定着させている。「想像力」と「現実」をつなぎとめて定着させている。
 だから。(だから、というのは、ほんとうは正しい接続詞のつかいかたではないのだが。)歯医者について書いた次の1行。

安心する場所なのにこわばっている

 これが、とても愉快だ。とてもうれしい。
 歯医者というのはちゃんと歯を治療し、健康になり、そうすることで歯の悩みが消え、「安心する」ための場所なのだが、意識ではわかっていても、「肉体」は治療のときの記憶、これからはじまることを予想して(想像力で歪めて)、「こわばっている」。「意識」と「肉体」の齟齬(?)にまで踏み込んで、ことばにしてしまっている。
 あ、いいなあ。
 ことばは、このとき、いったい「意識」の味方? 「肉体」の味方? わからないですねえ。ことばは、「意識」も「肉体」も無視して、自律的に動いてしまうのかもしれない。
 この自律的な動きに、私は、実は詩があると感じている。
 作者を(詩人を)、その「想像力」も「肉体」も裏切って、自分の力で動けるところへ動いていってしまうことば。そこに「自由」を感じる。
コメント
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