詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

篠原資明『空うみのあいだ』

2009-11-16 00:00:00 | 詩集
篠原資明『空うみのあいだ』(思潮社、2009年10月25日発行)

 引用しにくい詩である。5・5・5の音節の1行はページの上からはじまり、たの行はページの下に寄せられている。5・5・5の行が滝で、下の方の行は滝壺、宙に浮いているのは飛沫ということになるのだろうか。構成は、とても図形的だ。けれど、それに反して(?)、ことばは「音」と「意味」がたがいをはぐらかしている。意味が「脱臼」し、「音」が一瞬、自由になる。あるいは、音が「脱臼」し、「意味」が自由になるのか。
 まあ、それこそ、読者次第ということになるのだろう。
 私は、こういう作品が苦手だ。「音」を別の「意味」に置き換える、「意味」を別の「意味」の「音」として置き換える、ということがとても苦手だ。学校時代、歴史の年号を覚えたり、数学のルートの数字を覚えたりするのに、それに似たことをやるひとがいた。私は、なぜ、ひとつのことを覚えるのにふたつのことを覚えなければいけないのか、その非合理性が納得できず、それが理由で歴史が大嫌いになったくらいである。(数学は、そういうものを覚える必然性を感じなかった。)だいたい、ものを覚えるということが嫌いなので、覚えるために何かをするということが、どうにも納得できないのである。

 「オウィディウスに」という作品。

嵐より、詩のおちて、ことば散る
             あら                    詩

 「嵐」が「あら」「詩」にわかれる。その「驚き」というものが、私にはぴんとこないのである。
 私は、たぶん、分解された音よりも、音の中に別の音が紛れ込んでくるときに、音楽を感じるのだ。音が分解されても音楽を感じない。音が分解されて、そこに別の音がある、と指摘されても、なんとも感じない。
 意味の場合も同じで、意味が分解されても何も感じない。意味に、別の意味が殴り込んできて、もとの意味をのっとる、融合して、いままでとは違った意味が世界を動かしはじめる、という瞬間が好きなのだ。
 すぐに思い出せる例は少ないのだが、たとえば音楽なら

雨のピアノが奏でるチヤバイビコボフブスブキイビの黒い無言歌 (那珂太郎「アメリイの雨」)
 
 雨の、しかも濁音のバシャバシャという雨音と、チャイコフスキーが出会い、豊かな音楽がはじまる。音楽というと、たとえば透明な音楽というような「耳ざわり」のいい旋律などを想像してしまうが(特に、ピアノ、となれば華麗な旋律の疾走を想像してしまうが)、那珂太郎は、濁音の豊かさ、その響きの楽しさを引き込み、それにさらに「黒い無言歌」という重力を加えている。あ、こういう音楽があるのか、と衝撃と笑いがあふれる。もし、那珂太郎の1行が、最初に、「チヤバイビコボフブスブキイビ」という音があり、それがチャイコフスキーとバシャバシャという雨音に分解されたのなら、私はそんなには興奮しない。混じり合って、融合するとき、楽しみが生まれる。
 ことばというのは、どこかセックスに似たところがある。別々のものが出会い、交じり合い、いままで知らなかった何かになる--それが楽しい。ひとつのものを分解していったら、実は別々なものでした--というのは、なんだか、「わかれ」のようで、音楽としてはさびしい。

 いや、篠原は、ことばの分解ではなく、ことばのなかに「音」の出会い、衝突を見ているのだ。ことばのなかで、どんなものが出会いうるか、それを探している。耳をすまして、音と意味を引き合わせているのだ。
 そんなふうに、読むべきなのかもしれない。
 「プラトンの教え」。プラトン、プランクトン、イグアノドン、プルードン、ブルトン、オートマトン、ハイドン、パイドンと音が変遷する。その最後の方。

               それではとハイドンは稽古に告別の曲を書いた
               それでもパイドンは師の稽古を続けたのだった

哲学の、滝涸れて、アカデミア

               π                  どん

 「イグアノドン」が出てくるのは楽しいけれど、「π」はどこから? 「アカデミア」から? なんだか「意味」に汚染されているなあ、と感じてしまう。「音楽」とは違うなあ、と感じてしまう。知らなかった「意味」と「音」が出会っている。そこに、新しい「音楽」がある--とは、私の「耳」は感じてはくれない。
 「耳」が音を受け入れて楽しむ前に、「π」は「パイ」と読む--という、ぎょっとするような「頭」の動きがある。「頭」が「音」と「意味」を出会わせている、と感じてしまう。
 「肉体」になれないのだ。

雨のピアノが奏でるチヤバイビコボフブスブキイビの黒い無言歌

 では、カタカナ難読症の私でさえ、わっ、声に出して読んでみたいという衝動にかられるくらい、音が耳に飛び込んでくる。目に文字が飛び込んでくると同時に、音が耳の中で鳴り響き、私の声帯を、喉を、口蓋を、舌を、歯を、唇を刺戟する。肉体が一斉に動き、その動きのなかに、いままで私が知らなかった何か(黒いもの? 黒のあざやかさ? ピアノの黒鍵と白鍵の交錯する動き)が輝くのだ。

 「母音はいし、色彩の、ひびきたつ」という「滝」ではじまる「ランボーとウンガレッティ」の最後は、次の2行。

                        茫然自失した言葉が残った
              乱                   ぼう

 「ランボー」と「乱」「ぼう」では、私の肉体は騒いではくれない。それまでのことばの破壊者、詩の破壊者、「乱暴者」としてのランボーは「乱」「ぼう」(茫然の「ぼう」)では、なんだか弱々しい。乱暴のことばの特権的肉体に触れた感じがしない。
 「睡蓮へ、沈む日も、燃える絵も」という「滝」をもつ「ヴェネツィアにて」には、モネ(睡蓮の画家ですね、言わずもがなのことだけれど)が登場するが、その最後。

                               お日さまの
              喪                    ね

 うーん、「モネ」が「喪」と「ね」に分解されても、そして、そこに出会いがあると言われても……。モネの色合いは、私の好みではなく、そこに一種の「喪失」を感じるは感じるのだけれど。

 きっと、音、音楽に触れているように見えるけれど、ほんとうは、耳ではなく、篠原の詩には「目」が働いているのだろうなあ。耳はどうでもよくて、目で文字を認識すること、目で意味を理解することが基本になっているのだろうなあ。(モネの「喪 ね」にも、モネの絵を見たときの、視覚の印象がしのびこんでくるからさねえ。)
 「π どん」「乱 ぼう」「喪 ね」。これらのことばは、朗読では何も伝えることができない。篠原が書いていることを聴衆につたえることはできない。私は詩を朗読しない。声に出して読むことはない。いつも黙読である。けれども、そういうとき、黙読するときでも、耳は動いているし、喉も舌も動いている。そういう自然な(無意識な?)耳や喉の動きが、篠原の作品では、私は否定されているように感じる。耳と喉を封印して、まず目でことばを読む--そのことが求められているように感じる。
 これが、わたしにはつらい。

 私は、文字を読む。
 けれど、ことばは、まず耳が基本だと感じている。耳と発声器官を楽しくさせてくれるのがことばだと感じている。言ってみたい。真似してみたい。そう感じるのは、「目」ではなく、耳であり、喉であり、唇であり、舌なのだ。

 視力の強いひと向きの詩である。詩集であると思った。

空うみのあいだ
篠原 資明
思潮社

このアイテムの詳細を見る
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする