詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

根岸吉太郎監督「ヴィヨンの妻~桜桃とタンポポ~」(★★★★)

2009-11-30 12:00:22 | 映画
監督 根岸吉太郎 出演 松たか子、浅野忠信、室井滋、伊武雅刀

 根岸吉太郎の映像はとても美しい。そこには「生活」がある。そこに生きている「人間の時間」がある。だれか他人が見る風景(第三者が見る風景--観光の風景)ではない確かさがある。
 主人公夫婦が暮らす家は貧しい。その家のなかはしたがって豪華ではない。貧乏くさい。けれども、そこに二人が生きている「時間」があふれているので、美しく見える。引き込まれてしまう。松たか子が働くことになる小料理屋も同じである。その店を切り盛りする夫婦がいて、そこへやってくる人間がいて、その交流がつくりだす時間が、カウンターやテーブルや引き戸を磨く。時間によって磨かれた空間を根岸吉太郎はきちんと表現する。
 そして、その「時間」、その「場」に蓄積された「時間」こそが、根岸吉太郎にとっては表現すべき「間」なのだろう。
 この「間」は、存在はもちろんだが、人間そのものもかかえこんでいる。映画は、その人間がかかえこんでいる「間」をていねいに描く。
 浅野忠信は、私からみると、顔の表情が乏しい。表情は眼にしかあらわれないが、それがこの映画ではとても効果的である。太宰がかかえこんでいる「時間」(間)は、いつでも噴出するわけではない。ほとんど、浅野の無表情の奥に隠れている。けれど、ときどき噴出してきて、いま、そこにある「間」を揺さぶる。別なものにしてしまう。そして、その瞬間、そこにいた人は、新しくできた「間」に引き込まれてしまう。別次元の「間」に入り込んで太宰から抜け出せなくなる。
 あ、まるで、浅野忠信をつかった「太宰治論」ではないか。そんなことを考えさせる映画である。
 太宰がつくりだす「間」は「魔」である--といえば、たぶん、もっと正確になるのかもしれない。
 ほんとうはそんなふうには生きられないのだけれど、そういうふうな命があることにひかれてしまう。太宰のつくりだす「間」のなかでは、いのちが別の輝き方をする。それがこわいけれど、それがうれしい。こういうこわさとうれしさは矛盾しているのだけれど、その矛盾が人間を美しくする。

 たぶん、そういうことが意図されているのだと思うが、浅野忠信と松たか子の演技は対照的である。浅野は積極的に表に出ない。引いている。松は、感情を押し出している。引いた「場」へ、松から感情があふれ、それが揺れ動く。
 これは松だけではない。他の登場人物のばあいも同じである。浅野はほんの少ししか動かない。ほんの少ししか動かないのだけれど、その動きがつくりだす隙間(?)のようなことろをめざして、他の人の感情が、肉体が動く。そして、その場がいままでよりも充実する。その充実に引き込まれる。その充実の揺るぎなさ(緊密さ)がスクリーン全体を美しくしている。
 画面全体の色調もとても美しかった。その色調の統一があるおかげで、「間」がくっきりと浮かび上がった。そして、唐突に書き加えておくけれど、統一された古い色調のおかげで、松と浅野の肌の美しさがとても印象に残った。
 --と書いて、あ、もしかすると、この松と浅野の肌の美しさという印象から書きはじめた方が、もっとおもしろい感想が書けたのではないかという気持ちになった。温かい松の肌の美しさ、冷たい浅野の肌の美しさ--その温と冷の出会いが、前線のように人間の「気象」(これは、もしかすると気性に通じるかも)を乱すのだ。そして、そこに雨が降り、風が吹きというようなドラマがうまれる……と書くべきだったかなあ。思い返すと、浅野の演技は、とてもよかったのだ。浅野がいて、その冷たい肌と、ふいに動く目があって、はじめて成り立った映画かもしれないとも思うのだ。






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渡会やよひ『途上』

2009-11-30 00:00:00 | 詩集
渡会やよひ『途上』(思潮社、2009年10月31日発行)

 「類従」はたいへんおもしろい詩だ。動物園で、「盛り砂」を見かける。それは「獣舎を離れた虎」のように見える。その後半。

 砂 とら
 虎 すな
晩秋の汗をたらすケヤキではなく
薄目をあける小暗い小屋ではなく
砂の無数の微小な眼窩から
あの果てしなく極まる二つの眼に
金色にかがようさみしい尾に
つながることができるだろうか

 この「つてがる」ということばに、とても強くひかれた。何と何がつながるというのだろうか。砂と虎がつながるのか。しかし、それは「自然」にはつながらない。砂と虎をつなげるのは「私」(渡会)である。
 それは「私」が砂とつながり、また「私」が虎とつながり、つまり、「私」が「私以外のもの」とつながることではじまる世界であり、それは「私」が何かのつながりのなかに組み込まれることである。あるいは、「私」を何かのつながりのなかに組み込むことである。
 「世界」とは「私」と「私以外のもの」のつながりであり、そのつながりというもののなかには「私」が組み込まれる。
 作品の最後の5行。

 砂 とら
  虎 すな
見知らぬものにただ類従を願い
この結界を
はみだしてゆく

 「結界」というのは、「比喩」であり、辞書どおりの意味ではないだろうと思う。「結ばれた世界」、何かの約束事で封印された世界、くらいの意味だろうと私は読んだ。
 私がとても興味を覚えるのは、最後の「はみだしてゆく」ということばである。その「封印された世界」をはみだしてゆくものがある。
 「類従を願う」とは、砂と虎という別なものが、つながりをもったものとして、ひとつのものとして分類されることを願う--というくらいの意味だろうか。「結界」とおなじく、渡辺は独特のつかい方をしている。
 おもしろいのは、その「つながる」ことが、「つながる」という意味(?)に反して「はみだしてゆく」ことになる。
 この矛盾--そこに、渡会の「肉体」(思想)を感じる。

 「光の条」には、「つながる」ことと「はみだだしてゆく」ことが、渡会の「肉体」の運動であることを語った行がある。

滑りやすい階段を降り
岩のざらつきを確かめながら
忘れられた湯場の
くらい湯面に身をしずませると
かつて何ものかであった自分が
象られた記憶を求めて
浮き上がろうとするのだが

 温泉(?)に身を沈める。「肉体」を湯にまかせる。湯としっかりとつながる。そうすると、そのつながりによって、何かがほどかれ(結界の逆、解界--というようなことばなど、きっとないだろうけれど、何かがほどかれ)、そこから「かつて何ものかであった自分が」あらわれようとする。
 あ、そうなのだ。
 なにかと「つながる」ということは、いまの「自分」ではなく、「かつて何ものかであって自分」が、その何かと「つながる」ことを、「つながる」力を利用して、「浮き上がる」--現実に姿をあらわそうとすることなのだ。

 こういう運動は、あらゆる瞬間にあらわれる。「途上」という作品のおわりの方。

またある夜更けには
鉄橋の肥田野アパートの明かりに灯った窓の中に
始まりも終わりもやすやすと超えて
わたしから分かれたわたしが
もう会うこともないない人と住んでいる

 「始まりも終わりもやすやすと超えて」とは「つながり」「はみだし」という意識された世界を超えて、というくらいの意味だろう。
 私のなかには、私と意識できなかった私(かつて何ものかであった自分)というものがあり、それは、私を超えて、あるとき、あるところに突然出現する。何かを見て、そのことをふいに感じる。私とはなんの関係もないアパートの一室の、だれかとだれか。それは「わたし」と「わたしが会うはずだっただれか」というふうに、ことばで「つながる」。そして、そのとき「わたし」のなかから、「わたしから分かたれたわたし」がはみだしてゆく。--いや、この運動は、そんなふうに明確に区別できるものではなく、どちらが先であっても同じなのだが……。

 「類従」に戻ろう。
 砂を虎と見間違う。あるいは虎を砂と見間違う。どちらでもいいが、その「見間違い」、ふいの「つながり」は、いまここにいる自分ではなく、かつて何ものかであった自分が引き起こす「現象」である。そして、その「現象」の奥には、かつて自分であった何ものかが、いま、ここにあらわれて来ようとする運動がある。
 渡会が書いているのは、そういう運動である。

 ことば--それは、何かと結びつき、その結びつきによって、これまでの結びつき(結界)を解体し、その奥にあるものを「はみださせる」運動、新しい世界を「誕生」させる運動のためにある。
 渡会の特徴は、この運動を、少しさびしい音楽とともに書き留めるところにある。
 「むすびつくこと」「はみだしてゆくこと」。それは、こころをちょっとさびしくさせる。それは、たぶん、渡会の場合、ことばのなかだけでおこなわれる運動であって、現実には、渡会自身が世界をかえていくということにつながらないと知っているからである。 「途上」の最終連。

けれど
どんなときも
わたしは通り過ぎていく
親しい人が残していった分身を
幸せを願う女となった見知らぬわたしを
行き先のない電車に乗って
激しい速さで通り過ぎていく

 ふいに見えた「世界」は、渡会にことばを残して、通り過ぎていくのだ。自分のものにはならない。ことば以外は自分のものにはならない。だから、せめてことばを書く、詩を書くのかもしれないが、そこに、さびしさがある。




途上
渡会 やよひ
思潮社

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