詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

和合亮一『黄金少年 ゴールデン・ボーイ』

2009-11-18 00:00:00 | 詩集
和合亮一『黄金少年 ゴールデン・ボーイ』(思潮社、2009年10月25日発行)

 「大問一 次の詩を読んで次の問いに答えなさい」という作品にある次の部分。

問二 傍線部②「私たちから全ての絶望を奪う」について、どうして絶望は奪われるのでしょうか。
 
 ア 生と死の境目において絶望もまた死ぬから、あるいは詩人が、筆の勢いで書いただけだから。
 イ 生と死の境目において絶望もまた死なないから、または詩人が筆の勢いで書いただけだから。
 ウ 生と生の境目において絶望もまた死なないから、または詩人が筆の勢いで書いただけだから。
 エ 死と死の境目において絶望もまた死ぬから、あるいは詩人が、筆の勢いで書いただけだから。

 この部分には、いくつも奇妙なところがある。まず、「傍線部②」というものが、先行する部分にない。つまり、この「問い」は問いとして成立していない。次に、ア、イ、ウ、エと選択肢が4つあるが、「問二」にはいずれかを選べとは書いていない。つまり、ここでは「問い」は成立していない。
 この「問い」の不成立は、あらゆるところに存在する。「思うところを述べなくても良い。」「五十字以内で六十字書きなさい。」など。
 和合にとっては、この「不成立」--論理の「不成立」こそが「詩」なのである。論理がなくてもことばは動く。ただ動くだけではなく、その動きが読者を刺戟する。(もちろん、書いている本人をも刺戟する。)その刺戟--刺戟を感じることが詩なのである。
 ことばが論理をもってしまうと、「刺戟」は論理のなかにのみこまれて、論理になってしまう。その瞬間に詩は存在しなくなる。

筆の勢いで書いただけだから。

 と、何度も同じことばが繰り返されるが、そこに書かれている「勢い」--それこそが詩である。「筆の勢い」は書き手の言い分。読み手からすれば、それは「ことばの勢い」ということになるだろう。
 --と、書いたことのなかに、実は、とても大きな矛盾がある。矛盾という言い方が変なら、和合がほんとうに乗り越えなければならない大問題がある。
 ひとは、大切だと思っていること(重要だと思っていること)を、どうしても繰り返して書いてしまう。繰り返すと、その繰り返しのなかに、「論理」が生まれてきてしまう。「論理」つもりはなくても、そこに他人(読者)はなんらかの「意味」を感じてしまう。あ、和合は、何かを言おうとしていると感じてしまう。
 だが、和合の詩は、何かを言おうとしている、ことばに論理があると感じさせることの「否定」をめざしている。論理、意味の不成立をめざしている。(破壊、というより、不成立なのだと、私は感じている。)
 だから、もし、ことばに論理や意味が生まれそうになると、次々にそれを否定していかなければならない。
 この詩は「大問一」というタイトルの後、「問一」「問二」……とつづいていくが、それは「問」(小問)そのものが論理、意味をもつことを否定するためである。そして、その小問は「九」までいったあと、「一〇」にはならず「問」そのものになる。
 この「一〇」を欠くということのなかに、たとえば、「問」が純粋な問そのものに昇華したなんていう「論理」を組み込むこともできるが、そういう論理を誘うことが、とんでもなく大問題なのだ。

 ことばは和合を裏切るのだ。

 そこまで和合が諒解しているかどうか、私は和合の熱心なファンではないのでよくわからないが、この、ことばの裏切りをどう超えていくか--と考えれば,そこにどうしても論理や意味が入ってくるという矛盾がまた生まれる。 

 しようがない。「筆の勢い」で書きつづけるしかない。それはそれで、いさぎのいいことだと思う。

 ちょっと、別な言い方をしてみると……。
 詩集のなかでは、私は冒頭の「黄河が来た」がいちばん好きだ。この作品については、いぜん感想を書いた気がするが、また書いておこう。(以前書いたこととそっくり同じかもしれないし、まったく違うことを書くかもしれない。--私は、そのときそのときで、感想が変わってしまうことを気にしていない。感想などというものは、そのときそのときで変わるに決まっている。)

来た 黄河が来た
天井や床下や手のひらに来た
驚くほどの水が流れてきた 生命が
大空と大海とを またぎ越して来た
こうなると茶の間に
僕は寝ころぶしかない
このままでは当然ながら我が家は洪水
どうしたら良いものか
黄色い土は砂を噛むしかない

 「来た」と「主語」を欠いたままはじまる運動。ここに「勢い」がある。「勢い」がまずやってくる。そして、その「勢い」にふさわしいもの、耐えられるものが「主語」として選ばれる。「黄河」。この、逆転の運動--まず主語があって、次に動詞が来るのではなく、動詞が先に存在し、それから主語を選ぶということどはの運動--それが、和合の「勢い」の詩の特徴である。
 そして、そのあとに、もっと和合らしい特徴があらわれる。和合が乗り越えなければならない問題が、和合の内部から噴出してくる。
 「こうなると」「このままでは」。
 論理を超越すべきはずのことばが、論理の運動を展開する。「こうなると……になる」「このままでは……になる」。そこには運動の必然が「形」となってあらわれてきてしまう。
 「どうしたら良いものか」と自問してみても、それは「……するべきだ」あるいは「……するしかない」ということばの論理を、「肉体」から滲み出させてしまう。

 そのことを、私は、けれど悪いことだとは思わない。ひとは、どんなにあがいてみても自分の「肉体」からはのがれられない。
 和合はたしか教師を仕事としていたと思うが、和合の「論理好き」は、教師の職業病(?)のようなものである。人に何かを教えるとなれば、どうしても「論理」的に教えるしかない。非論理的に何かをつたえようとすれば、そしてそのことを「共有」させようとすれば、必ず「非論理的」という批判が返ってきてしまう。

 教師が詩を書くというのは矛盾しているのである。(こういうい意味で、プラトンは絶対的に正しい。詩を否定せずに、「師」であることは矛盾を生きることである。)
 でも、和合は、詩を書きたい。書いていることばを詩にしたい。
 だから、「勢い」で書く。書きつづけるしかない。
 こういうとき、どれだけ「長く」書きつづけられるかが、また問題になるのかもしれないけれど、私は、長い作品よりも「黄河が来た」くらいの短い作品の方が「勢い」を「勢い」のまま感じ取ることができて好きだ。
 1連目には「こうなると」「このままでは」というような、論理のうるささがあったが、最後はふっきれている。そして、そのふっきれた瞬間、論理的には「来る」はずものない「黄河」があらわれる。
 歌のように。

本日の黄河も絶好調だ
三人家族で漂流する幸福が来た
皮膚が変わる午後が来た
また生まれる角質が来た
お父さん 来た
お母さん 来た
来た
ぼくの足の裏にも
黄色が来た

 1連目に「僕」と書いていて、最終連では「ぼく」と書く。荒川洋治なら「統一しなさい」と叱るかもしれないが、私は、こういう変化、勢いにのって、前に書いたことを忘れてしまうというのは大好きだなあ。
 あ、ほんとうに勢いだけで書いている、偉い!と感じるのだ。かっいいじゃないか、と思うのだ。

黄金少年ゴールデン・ボーイ
和合 亮一
思潮社

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