詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

The 39 STEPS (The Helen Hayes Theater)

2009-11-25 12:37:36 | その他(音楽、小説etc)
The 39 STEPS (The Helen Hayes Theater)

出演 Jeffrey Kuhn, Arnie Burton, Sean Mahon, Jill Paice

 ニューヨークで芝居を見た。私は英語がわからない。英語がわからないのに、大丈夫かと聞かれたが、私はあまりことばというものを重視していないので、まあ、大丈夫だと感じている。日本語の芝居でも、見終わった後、台詞なんてほとんど覚えていない。芝居にとって、ことばそのものは、どうでもいいものだと私は感じている。問題は、役者の「声」と「姿」、「声の調子」と「肉体の動き」だと思う。そして、それを引き立てる演出が大事なのだと思う。
 
 「The 39 STEPS」は4人の役者が、 100人以上の役を演じ分ける。といっても実質は、2人の男がその大半を演じ分けるのだが、芝居とは何かについて考えさせてくれる刺戟に富んだコメディーである。
 とても想像力を刺戟する芝居だ。「想像力」について考えさせてくれる。

 冒頭、見知らぬ女がスパイされている、助けて、と男のところへやってくる。窓の下、街灯のところで男が2人見張っている、という。男は驚いて、カーテンのところへ行き、そっと外をのぞいてみる。
 そのとき。
 舞台の左手から男がふたり、街灯をもってあらわれる。そのふたりは、男が部屋のなかから見ているふたりということになる。男があわててカーテンを閉じるとふたりは街灯をもって舞台のわきへ消える。もう一度のぞくと、またあらわれる。そして、消える。またのぞこうとして、気持ちが変わって、窓から引き返すと、舞台に登場しようとした(いつもの位置につこうとした)ふたりがあわててわきに下がる。
 同じ場所ではないもの、アパートの何階かと路上を、おなじ舞台の板の上で表現してしまう。そして、それが「矛盾」に感じない。同じ場所(板の上)なのに、一方はアパート、そして一方は路上と、見ている観客は感じてしまう。
 あ、芝居とは、結局、観客がどう感じるか、どう認識するかということが問題なのだ。観客の想像力、認識を引き込めばそれでいいのである。芝居とはもともと「うそ」である。その「うそ」を観客が信じれば、それで芝居は成り立つのである。
 だから、舞台装置は簡潔である。ほとんど何もない。机、椅子、ドア、窓くらいである。それも、独立して存在する。つまり、壁とドア、窓がつながっていなくて、ただドア、窓があるという具合である。

 傑作は列車の場面である。助けをもとめに来た女は男の部屋で殺され、男に殺人容疑がかかる。男はその容疑から逃げながら(「逃亡者」みたいにね)、犯人を探すのだが、その最初の逃走のシーン。舞台には箱がいくつか並んでいる。それはまず「椅子」になる。男は客と同じボックスに乗り合わせる。ガタン、ゴトンのゆれを「肉体」で表現する。箱は揺れないけれど、役者が上下に動くので、あ、列車が揺れているのだと感じる。
 男は身分(殺人者)であることがばれ、逃げる。列車のなかで逃げるといえば、ほかのコンポートか列車の上である。列車の屋根の上は、さっきまで男が腰かけていた箱である。箱が屋根になる。そして、屋根の上なら、人間はどうなるか。服はどうなるか。風にあおられ、ぱたぱたとなびく。これを、役者が自分でコートをぱたぱたさせて演じる。思わず笑いだしてしまう。
 このとき、私は何を笑っているのだろうか。
 役者の演技ではない。役者の演技には感心してしまう。そんなふうにコートをぱたぱたさせて列車の屋根の上を逃げていると感じさせることに感心してしまう。私が笑ったのは、私自身の「想像力」に対してなのである。「想像力」は、そこで演じられていることを「ほんもの」と感じてしまう。男が列車の屋根の上を逃げていると感じてしまうことに対して、私は笑ったのだ。「うそ」をつかれたのに、そしてそれが「うそ」とわかっているのに、それでもそれを「ほんもの」と感じてしまうその瞬間に対して笑ったのだ。
 最初に紹介した冒頭の街灯のスパイに対しても同じである。それは男と女のいるアパートのフロアとは別のところにいる。それは、アパートの室内とは同時に見ることはできない。そういうことはわかっているが、舞台から街灯を抱えてふたりがあらわれたとき、あ、あれは路上のふたりだと感じてしまう、その「想像力」に対してわらったのだ。窓の外をのぞこうとして、途中でひきかえす--その動きにあわせてふたりの男がでたりひっこんだり、おおあわてをする。そのとき笑うのも、ふたりの動きがおかいしのはもちろんだが、それが「想像力」の動きと重なる、重なってしまうから、おかしいのだ。自分の思い描いていることが、思い描いてしまうことが、おかしいのだ。

 この芝居は、その「想像力」に対して働きかけてくる「間」が絶妙でもある。「間」がずれると、たぶん、私は笑わない。一生懸命役者が「肉体」を動かす。その「動き」が何をあわらしているか、それがわかった瞬間、とてもおかしいのだ。何をしているかわかるまでの「間」が長いと、なぞときになってしまって、笑うことはできない。
 笑わないシーンでも、その「間」はとても重要だ。
 たとえば、男が、殺人事件のなぞを知っている博士を訪ねていく。部屋へ案内される。舞台背中の中央にドアがぽつんとある。男はドアに向かっていく。ドアをあける。そして、ドアをくぐって、向こう側へ行き、ドアの隣から観客席に向かって歩いてくる。同時にドアがひっくりかえる。(裏返る。)そして、その瞬間、舞台は、博士のいる室内になる。その場面の切り返しがとてもスピーディだ。見ていて、あ、さっきは部屋の外だったが、いまは部屋のなかだとわかる。
 この瞬間、私は、街灯のふたりや、列車の屋根の上の逃走のように大声で笑ったりはしないが、やはり、笑いを感じている。あ、また、だまされた、と感じて。
 このドアのつかい方、そして、それに類似した窓のつかい方もスピーディでおかしい。男は逃走途中、山の中の家へゆく。その家に(女に)かくまわれる。ところが、主人が「犯人がいる」と告げ口(?)をしたため、警官がやってくる。逃げなければ。どうやって? 女が「窓から」と言う。「窓、まどって、どこ?」。すると、女が四角い木枠をとりだす。その瞬間、それが「窓」になる。男は、それをくぐり、まだき(?)、まあ、あれこれして、窓の外へ出て、逃げていく。
 列車のシーンで箱が椅子になり、屋根になったように、単なる木の枠が窓になる。そのおかしさ。それがおかしいのも、実は、そんな「うそ」を「うそ」と承知しながら「窓」だと信じ込む私自身の「想像力」がおかしいのである。

 この「想像力」のおかしさは、ひとりでも楽しい。けれど、大勢の見知らぬ人間があつまり、同じようにばかげた(? あるいは、まっとうな?)「想像力」を共有して、笑いころげるといっそう楽しい。観客がわらっているのを見ながら、どうだ、おもしろいだろうとは役者が真剣に肉体を動かすのを見ていると、ほんとうに楽しい。

 芝居にことばはいらない。肉体が動くのを見ていれば、それにあわせて見ている観客の肉体が動く。肉体のなかにある想像力が動き回る。そして、その動きを自由に、自在にするためには、「間」が重要なのだ。「間」がずれると、もたもたとして、笑いの瞬間がやってこない。
 スピード感あふれる舞台を見ながら、そんなことを考えた。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

大橋政人「空」

2009-11-25 00:00:00 | 詩(雑誌・同人誌)
大橋政人「空」(「ガーネット」59、2009年11月01日発行)

 私はわけのわからないことが好きである。なんでもいいが、わけのわからないものに出会うと、何それっ、と近づいて行きたくなる。そして、いちばんわけがわからないものは、人間の「考え」だと思っている。
 大橋政人の「空」は、そんなことを思い出させてくれた。

毎日
空ガアルノデ
毎日
空ヲミル

毎日
空ヲミルノデ
毎日
空ヲカンガエル

私ガアルノト
空ガアルノトハ
何カ関係ガアルヨウナキガスル

 ここに書かれていることは、わけがわからない。いや、書かれていることはわかるが、それがわかってしまうということが、実は、わけがわからない。

毎日
空ガアルノデ

 まず、この書き出しがわからない。おーい、大橋さん、なんで、そんなこと書くの? あたり前でしょ? 「毎日」と書かなければならないのは、それがほんとうは「毎日」ではないときだけでしょ? たとえば、私は「毎日」朝7時に起きる--と書いたとすれば、それはほんとうは「毎日」ではないから。ときどきは7時ではなくなるから。
 いや、そんなことはない。「毎日」陽が昇り、陽が沈む、というのはあたりまえのことだけれど、「毎日」ということばは不可欠である。--そういう反論があるかもしれない。
 あ、そうですね。それは重要なポイントですね。
 実は、その反論を待っていたのです。
 という具合に、私も、まあ、他人から見れば、なんでそんなことをわざわざ書くの? というようなことをついつい書いてしまうのだけれど……。

 そうなんだなあ。「毎日」陽が昇り、陽が沈むというようなことは「毎日」ということば抜きには書けない事実である。「毎日/空ガアル」だって、事実を書いているだけだから、それがわけがわからないということにはならない。
 あ、でも……。
 「毎日」陽が昇り、陽が沈む--と書くのは、実は、その「毎日」において陽が昇り、陽が沈むということが普遍にある一方で、何か、そこでは違ったことが起きるからこそじゃないのかな? 違ったことが起きるということを浮き彫りにするために、「毎日」陽が昇り、陽が沈む、ととりあえず、普遍のことがらを書いているのじゃないのかな?
 たぶん、そうなんだ。
 そして、もし、そうだとすると、大橋が「毎日/空ガアルノデ」と書きはじめたのも、実は、何かしら違ったことを書くための補助線のようなものだな。

 では、その違ったものとは?

毎日
空ガアルノデ
毎日
空ヲミル

毎日
空ヲミルノデ
毎日
空ヲカンガエル

 どこが違う? 「違う」ものというのは、たいてい、わけのわからないことだけれど、ここに書かれていることばはとても単純で、書かれていることがらは「わかる」。だれも知らないようなこと、特別なことは何一つ書かれていないように見える。
 見えるけれど、そのように見えるということが、実は、「わけがわからない」。こんなばかなこと、こんな変なこと、と言えない。その言えないということが、「わけがわからない」。

私ガアルノト
空ガアルノトハ
何カ関係ガアルヨウナキガスル

 この3連目が、絶妙だ。「何カ関係ガアル」と言い切らずに「ヨウナキガスル」とあいまいに「ずれ」てゆく。それまではすべて断定だったのに、ここでは断定をさせ「ような気がする」と二重にぼやかしている。「ような」と「気がする」に二回、断定をさけている。
 「わけのわからないこと」を断定せずに、「ような気がする」と二回、あいまいにすることで「わけのわからない」という状態のまま、そこに存在させてしまう。
 何を存在させてしまうかって?
 「気」だ。「気」だけではなく「気がする」の「する」を存在させてしまう。

 「気がする」というのはとても変な表現である。気が存在するのではない。「気」というのは名詞のはずだが、それが物質のようにそこに「ある」のではなく、「する」という運動とともにそこで動いている。「する」があるから「気」がそこにある。「する」によって、「気」ではなかったものが「気」に「なる」のだ。
 「する」のなかには、「なる」が隠れている。

 同じように、実は、それまでの連のなかにも「なる」が隠れているのだ。

毎日
空ガアルノデ
毎日
空ヲミル
(ことになる)

毎日
空ヲミルノデ
毎日
空ヲカンガエル
(ことになる)

 「ミル」「カンガエル」は、実は、それまで「見なかった」「考えなかった」けれど、「見るようになった」「考えるようになった」ということを、言い換えたことばだ。
 
 やっと。
 「毎日」と書かなければならない「理由」がやっと、でてきたね。「毎日」と書いているのは、それは「毎日」ではなかったのだ。いま書かれている「毎日」は、それまでの「毎日」と違ったことがあるからこそ、そして、それをはっきりさせるためにこそ書かれたのだ。

 「わけのわからないもの」。それは、考え。そしてそれがなぜわけがわからないかといえば、それは「なる」ものだからである。定まったものではなく、「なる」。変化する。変化するものは、とらえどころがない。変化をただ追いかけて、なんだこれは、といいつづけるしかないものなのかもしれない。一瞬一瞬は「わかる」。そして「運動」そのものも「わかる」ような気がする。けれど、何か微妙に違う。その違いは、違うということ以外には「わからない」。--って、いったい、何を書いているの?

 自分でも、よくわからない。よくわからないけれど、あるいは、よくわからないからこそ、こんなふうにことばを動かしてみるのが、私はとても好きだ。こんなふうに、わけのわからない気持ちにさせてくれることばが大好きだ。
 でも、それじゃあ、きりかない? どうやって「考え」を終わらせればいい? 大橋は、笑いのなかで終わらせる。その「手つき」もいいなあ。軽くていいなあ。考えには重い考え(という表現)と軽い考え(という表現)がある。実際に測ったことがないので、ほんとうに「重い」「軽い」があるかどうかわからない。大した差はないのかもしれない。大橋のことばを読んでいると、そう思えてくるから楽しい。

空ヲ考エルト
切リガナクナル

空ニ
切リガ
ナイカラダロウカ

 最後の2連の、その連を構成している1行あき。これもまた絶妙である。1連目、2連目のことばをつかえば、そこに当然「ノデ」ということばに通い合うことば「ノハ」があっていいはずなのだが、それが、ない。
 大橋の笑いの軽さ、考えの軽さにみせかけた「重さ」(重要さ)は、この「ノハ」の省略にある--ということを、ふと思いついたが、ああ、長くなるなあ。まあ、そう思いついたと書いておけば、いいだろう。
 ほんとうは思考をひきずっているのだが、それを断ち切って、(1行あきで)、飛んでしまう。この飛んでしまうときの「体力」(筋肉の力、肉体)が、大橋のことばの「いのち」かもしれない、とまた、余分なことを書いてしまう。



十秒間の友だち―大橋政人詩集 (詩を読もう!)
大橋 政人
大日本図書

このアイテムの詳細を見る
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする