The 39 STEPS (The Helen Hayes Theater)
出演 Jeffrey Kuhn, Arnie Burton, Sean Mahon, Jill Paice
ニューヨークで芝居を見た。私は英語がわからない。英語がわからないのに、大丈夫かと聞かれたが、私はあまりことばというものを重視していないので、まあ、大丈夫だと感じている。日本語の芝居でも、見終わった後、台詞なんてほとんど覚えていない。芝居にとって、ことばそのものは、どうでもいいものだと私は感じている。問題は、役者の「声」と「姿」、「声の調子」と「肉体の動き」だと思う。そして、それを引き立てる演出が大事なのだと思う。
「The 39 STEPS」は4人の役者が、 100人以上の役を演じ分ける。といっても実質は、2人の男がその大半を演じ分けるのだが、芝居とは何かについて考えさせてくれる刺戟に富んだコメディーである。
とても想像力を刺戟する芝居だ。「想像力」について考えさせてくれる。
冒頭、見知らぬ女がスパイされている、助けて、と男のところへやってくる。窓の下、街灯のところで男が2人見張っている、という。男は驚いて、カーテンのところへ行き、そっと外をのぞいてみる。
そのとき。
舞台の左手から男がふたり、街灯をもってあらわれる。そのふたりは、男が部屋のなかから見ているふたりということになる。男があわててカーテンを閉じるとふたりは街灯をもって舞台のわきへ消える。もう一度のぞくと、またあらわれる。そして、消える。またのぞこうとして、気持ちが変わって、窓から引き返すと、舞台に登場しようとした(いつもの位置につこうとした)ふたりがあわててわきに下がる。
同じ場所ではないもの、アパートの何階かと路上を、おなじ舞台の板の上で表現してしまう。そして、それが「矛盾」に感じない。同じ場所(板の上)なのに、一方はアパート、そして一方は路上と、見ている観客は感じてしまう。
あ、芝居とは、結局、観客がどう感じるか、どう認識するかということが問題なのだ。観客の想像力、認識を引き込めばそれでいいのである。芝居とはもともと「うそ」である。その「うそ」を観客が信じれば、それで芝居は成り立つのである。
だから、舞台装置は簡潔である。ほとんど何もない。机、椅子、ドア、窓くらいである。それも、独立して存在する。つまり、壁とドア、窓がつながっていなくて、ただドア、窓があるという具合である。
傑作は列車の場面である。助けをもとめに来た女は男の部屋で殺され、男に殺人容疑がかかる。男はその容疑から逃げながら(「逃亡者」みたいにね)、犯人を探すのだが、その最初の逃走のシーン。舞台には箱がいくつか並んでいる。それはまず「椅子」になる。男は客と同じボックスに乗り合わせる。ガタン、ゴトンのゆれを「肉体」で表現する。箱は揺れないけれど、役者が上下に動くので、あ、列車が揺れているのだと感じる。
男は身分(殺人者)であることがばれ、逃げる。列車のなかで逃げるといえば、ほかのコンポートか列車の上である。列車の屋根の上は、さっきまで男が腰かけていた箱である。箱が屋根になる。そして、屋根の上なら、人間はどうなるか。服はどうなるか。風にあおられ、ぱたぱたとなびく。これを、役者が自分でコートをぱたぱたさせて演じる。思わず笑いだしてしまう。
このとき、私は何を笑っているのだろうか。
役者の演技ではない。役者の演技には感心してしまう。そんなふうにコートをぱたぱたさせて列車の屋根の上を逃げていると感じさせることに感心してしまう。私が笑ったのは、私自身の「想像力」に対してなのである。「想像力」は、そこで演じられていることを「ほんもの」と感じてしまう。男が列車の屋根の上を逃げていると感じてしまうことに対して、私は笑ったのだ。「うそ」をつかれたのに、そしてそれが「うそ」とわかっているのに、それでもそれを「ほんもの」と感じてしまうその瞬間に対して笑ったのだ。
最初に紹介した冒頭の街灯のスパイに対しても同じである。それは男と女のいるアパートのフロアとは別のところにいる。それは、アパートの室内とは同時に見ることはできない。そういうことはわかっているが、舞台から街灯を抱えてふたりがあらわれたとき、あ、あれは路上のふたりだと感じてしまう、その「想像力」に対してわらったのだ。窓の外をのぞこうとして、途中でひきかえす--その動きにあわせてふたりの男がでたりひっこんだり、おおあわてをする。そのとき笑うのも、ふたりの動きがおかいしのはもちろんだが、それが「想像力」の動きと重なる、重なってしまうから、おかしいのだ。自分の思い描いていることが、思い描いてしまうことが、おかしいのだ。
この芝居は、その「想像力」に対して働きかけてくる「間」が絶妙でもある。「間」がずれると、たぶん、私は笑わない。一生懸命役者が「肉体」を動かす。その「動き」が何をあわらしているか、それがわかった瞬間、とてもおかしいのだ。何をしているかわかるまでの「間」が長いと、なぞときになってしまって、笑うことはできない。
笑わないシーンでも、その「間」はとても重要だ。
たとえば、男が、殺人事件のなぞを知っている博士を訪ねていく。部屋へ案内される。舞台背中の中央にドアがぽつんとある。男はドアに向かっていく。ドアをあける。そして、ドアをくぐって、向こう側へ行き、ドアの隣から観客席に向かって歩いてくる。同時にドアがひっくりかえる。(裏返る。)そして、その瞬間、舞台は、博士のいる室内になる。その場面の切り返しがとてもスピーディだ。見ていて、あ、さっきは部屋の外だったが、いまは部屋のなかだとわかる。
この瞬間、私は、街灯のふたりや、列車の屋根の上の逃走のように大声で笑ったりはしないが、やはり、笑いを感じている。あ、また、だまされた、と感じて。
このドアのつかい方、そして、それに類似した窓のつかい方もスピーディでおかしい。男は逃走途中、山の中の家へゆく。その家に(女に)かくまわれる。ところが、主人が「犯人がいる」と告げ口(?)をしたため、警官がやってくる。逃げなければ。どうやって? 女が「窓から」と言う。「窓、まどって、どこ?」。すると、女が四角い木枠をとりだす。その瞬間、それが「窓」になる。男は、それをくぐり、まだき(?)、まあ、あれこれして、窓の外へ出て、逃げていく。
列車のシーンで箱が椅子になり、屋根になったように、単なる木の枠が窓になる。そのおかしさ。それがおかしいのも、実は、そんな「うそ」を「うそ」と承知しながら「窓」だと信じ込む私自身の「想像力」がおかしいのである。
この「想像力」のおかしさは、ひとりでも楽しい。けれど、大勢の見知らぬ人間があつまり、同じようにばかげた(? あるいは、まっとうな?)「想像力」を共有して、笑いころげるといっそう楽しい。観客がわらっているのを見ながら、どうだ、おもしろいだろうとは役者が真剣に肉体を動かすのを見ていると、ほんとうに楽しい。
芝居にことばはいらない。肉体が動くのを見ていれば、それにあわせて見ている観客の肉体が動く。肉体のなかにある想像力が動き回る。そして、その動きを自由に、自在にするためには、「間」が重要なのだ。「間」がずれると、もたもたとして、笑いの瞬間がやってこない。
スピード感あふれる舞台を見ながら、そんなことを考えた。
出演 Jeffrey Kuhn, Arnie Burton, Sean Mahon, Jill Paice
ニューヨークで芝居を見た。私は英語がわからない。英語がわからないのに、大丈夫かと聞かれたが、私はあまりことばというものを重視していないので、まあ、大丈夫だと感じている。日本語の芝居でも、見終わった後、台詞なんてほとんど覚えていない。芝居にとって、ことばそのものは、どうでもいいものだと私は感じている。問題は、役者の「声」と「姿」、「声の調子」と「肉体の動き」だと思う。そして、それを引き立てる演出が大事なのだと思う。
「The 39 STEPS」は4人の役者が、 100人以上の役を演じ分ける。といっても実質は、2人の男がその大半を演じ分けるのだが、芝居とは何かについて考えさせてくれる刺戟に富んだコメディーである。
とても想像力を刺戟する芝居だ。「想像力」について考えさせてくれる。
冒頭、見知らぬ女がスパイされている、助けて、と男のところへやってくる。窓の下、街灯のところで男が2人見張っている、という。男は驚いて、カーテンのところへ行き、そっと外をのぞいてみる。
そのとき。
舞台の左手から男がふたり、街灯をもってあらわれる。そのふたりは、男が部屋のなかから見ているふたりということになる。男があわててカーテンを閉じるとふたりは街灯をもって舞台のわきへ消える。もう一度のぞくと、またあらわれる。そして、消える。またのぞこうとして、気持ちが変わって、窓から引き返すと、舞台に登場しようとした(いつもの位置につこうとした)ふたりがあわててわきに下がる。
同じ場所ではないもの、アパートの何階かと路上を、おなじ舞台の板の上で表現してしまう。そして、それが「矛盾」に感じない。同じ場所(板の上)なのに、一方はアパート、そして一方は路上と、見ている観客は感じてしまう。
あ、芝居とは、結局、観客がどう感じるか、どう認識するかということが問題なのだ。観客の想像力、認識を引き込めばそれでいいのである。芝居とはもともと「うそ」である。その「うそ」を観客が信じれば、それで芝居は成り立つのである。
だから、舞台装置は簡潔である。ほとんど何もない。机、椅子、ドア、窓くらいである。それも、独立して存在する。つまり、壁とドア、窓がつながっていなくて、ただドア、窓があるという具合である。
傑作は列車の場面である。助けをもとめに来た女は男の部屋で殺され、男に殺人容疑がかかる。男はその容疑から逃げながら(「逃亡者」みたいにね)、犯人を探すのだが、その最初の逃走のシーン。舞台には箱がいくつか並んでいる。それはまず「椅子」になる。男は客と同じボックスに乗り合わせる。ガタン、ゴトンのゆれを「肉体」で表現する。箱は揺れないけれど、役者が上下に動くので、あ、列車が揺れているのだと感じる。
男は身分(殺人者)であることがばれ、逃げる。列車のなかで逃げるといえば、ほかのコンポートか列車の上である。列車の屋根の上は、さっきまで男が腰かけていた箱である。箱が屋根になる。そして、屋根の上なら、人間はどうなるか。服はどうなるか。風にあおられ、ぱたぱたとなびく。これを、役者が自分でコートをぱたぱたさせて演じる。思わず笑いだしてしまう。
このとき、私は何を笑っているのだろうか。
役者の演技ではない。役者の演技には感心してしまう。そんなふうにコートをぱたぱたさせて列車の屋根の上を逃げていると感じさせることに感心してしまう。私が笑ったのは、私自身の「想像力」に対してなのである。「想像力」は、そこで演じられていることを「ほんもの」と感じてしまう。男が列車の屋根の上を逃げていると感じてしまうことに対して、私は笑ったのだ。「うそ」をつかれたのに、そしてそれが「うそ」とわかっているのに、それでもそれを「ほんもの」と感じてしまうその瞬間に対して笑ったのだ。
最初に紹介した冒頭の街灯のスパイに対しても同じである。それは男と女のいるアパートのフロアとは別のところにいる。それは、アパートの室内とは同時に見ることはできない。そういうことはわかっているが、舞台から街灯を抱えてふたりがあらわれたとき、あ、あれは路上のふたりだと感じてしまう、その「想像力」に対してわらったのだ。窓の外をのぞこうとして、途中でひきかえす--その動きにあわせてふたりの男がでたりひっこんだり、おおあわてをする。そのとき笑うのも、ふたりの動きがおかいしのはもちろんだが、それが「想像力」の動きと重なる、重なってしまうから、おかしいのだ。自分の思い描いていることが、思い描いてしまうことが、おかしいのだ。
この芝居は、その「想像力」に対して働きかけてくる「間」が絶妙でもある。「間」がずれると、たぶん、私は笑わない。一生懸命役者が「肉体」を動かす。その「動き」が何をあわらしているか、それがわかった瞬間、とてもおかしいのだ。何をしているかわかるまでの「間」が長いと、なぞときになってしまって、笑うことはできない。
笑わないシーンでも、その「間」はとても重要だ。
たとえば、男が、殺人事件のなぞを知っている博士を訪ねていく。部屋へ案内される。舞台背中の中央にドアがぽつんとある。男はドアに向かっていく。ドアをあける。そして、ドアをくぐって、向こう側へ行き、ドアの隣から観客席に向かって歩いてくる。同時にドアがひっくりかえる。(裏返る。)そして、その瞬間、舞台は、博士のいる室内になる。その場面の切り返しがとてもスピーディだ。見ていて、あ、さっきは部屋の外だったが、いまは部屋のなかだとわかる。
この瞬間、私は、街灯のふたりや、列車の屋根の上の逃走のように大声で笑ったりはしないが、やはり、笑いを感じている。あ、また、だまされた、と感じて。
このドアのつかい方、そして、それに類似した窓のつかい方もスピーディでおかしい。男は逃走途中、山の中の家へゆく。その家に(女に)かくまわれる。ところが、主人が「犯人がいる」と告げ口(?)をしたため、警官がやってくる。逃げなければ。どうやって? 女が「窓から」と言う。「窓、まどって、どこ?」。すると、女が四角い木枠をとりだす。その瞬間、それが「窓」になる。男は、それをくぐり、まだき(?)、まあ、あれこれして、窓の外へ出て、逃げていく。
列車のシーンで箱が椅子になり、屋根になったように、単なる木の枠が窓になる。そのおかしさ。それがおかしいのも、実は、そんな「うそ」を「うそ」と承知しながら「窓」だと信じ込む私自身の「想像力」がおかしいのである。
この「想像力」のおかしさは、ひとりでも楽しい。けれど、大勢の見知らぬ人間があつまり、同じようにばかげた(? あるいは、まっとうな?)「想像力」を共有して、笑いころげるといっそう楽しい。観客がわらっているのを見ながら、どうだ、おもしろいだろうとは役者が真剣に肉体を動かすのを見ていると、ほんとうに楽しい。
芝居にことばはいらない。肉体が動くのを見ていれば、それにあわせて見ている観客の肉体が動く。肉体のなかにある想像力が動き回る。そして、その動きを自由に、自在にするためには、「間」が重要なのだ。「間」がずれると、もたもたとして、笑いの瞬間がやってこない。
スピード感あふれる舞台を見ながら、そんなことを考えた。